2009年11月24日

BUSY

 昨日は10時からアルトフォニックでミックスダウン、17時に終え、ギターを入れに来させたA美嬢を本町まで送って、日本橋へ。TUTORを2時間、模試の解説に使って、トンボ帰りでTODO O MUNDOへ。新曲をユウミちゃんへプレゼン

 売れてないプロデューサーの売れっ子プロデューサーのような一日。

 しかし、店での酒は旨かった。久しぶりに。変な客が色々来てたのもまた良し・だった。客二名に店の者三名での営業ってしかし、ねえ。

 世の中チビしいのだった。

 ミックスはあと10曲、先は長いがやらねばならぬ。

 あちらのほうもやらねばならぬ。気は非常に重く、試験前になってしまった。なにゆえ、こう重なるのか。

 手を付けてなかった・というか途中で放ったらかしにしていた自分が悪いのだった。

 いろんなヒトの罪を被って犯罪者でした・とカミングアウトするような心境だったりする。「うーん・もうっ!!!」である。

 しかし、しばらくはそれにかからないと。

 さて、期末テスト。今日から、12/11までの長丁場だ。二学期の期末テストが終わる頃にはもう年末のあれこれを考える時期になる。複数の人生を多重人格化して過ごさないといけないので、カレンダーにあれこれ色分けして書き込むわけである。まあしかし、忙しくなっている方が気も紛れるし、モノゴトははかどる。

 おれのようなアホでも何かに役に立っているのかもしれない。もしそうであればしみじみと嬉しい。

BAILER LA BAMBA LA BAMBA
posted by 浪速のCAETANO at 13:42| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月21日

治療

 手の痺れ治療にやっと行けた。

 針と電気とカイロとSOTのミクスチュア治療なのだけど、最後の数分間で痺れは消えた。チャリだったのだが、今帰ってきてまた痺れ始めているが、それは随分マシ・だ。

 科学で割り切れる部分は科学で割り切ってもいいのだね。まだその先にはエンドレスな迷宮があるのがわかっていれば・ね。

 先生は一ヶ月で30%をメドに・と言っていた。ただ震源はおれが思った通り背中肩甲骨の筋だった。最近秘密の施設行ってなかったからなあ。

 人間関係が変化すると、行動範囲もまた変化するというわけだった。

 別の人間関係構築後、また行きたい・秘密の施設。

 本日行きは「小春日和」と言ってもよく、しかし,帰りは「木枯らし吹いて」だった。でも心斎橋ぐらいだと一人力・充分なのね。

 最近・堂島川周辺がなんとなく感じがいい。セーヌの左岸・右岸というニュアンスを感じなくもない。褒め過ぎかもしらんが、そのようにいいように展開されていけばいいのに・と希望もコミで思っている。あんまり力まずにさ。

 川は大小色々あれど、文明の発生地と同義である。水の存在が大きかったのだろうね。飲み水・灌漑用水・ウンコ流すのにも水は要る。そして川からの幸。豊かさの源が身近にあれば、それは強い偶然性に依るのだが、ヒトはぎすぎすしないと思われる。

 対して砂漠。ぎすぎすしそうである。単純に。突き詰めんでいいとこまでモノゴトを突き詰めそうである。鷹揚さに欠けそうである。AかBか・なんてことになりそうである。こわいこわい・である。

 なんだか、日本人、特に女子。「AかBか症候群」に陥っちゃいないだろうか。「オンナって昔からそーなのよ」と言われれば、そーですか・としか言いようはない。

 本当にそうなのでしょーか?

 (A+B)÷2とか、AでもBでもなく・{C)とかではなんでいかんのか? と思い・主張する一人だ。その主張はことごとく「却下」ながら。

 しかし、地道に訴えていこう・と思う。それが認知されないってことは「ほんとに豊か」とか「みんなも幸せ」とかがやっぱり遠いお話・という気がするからだ。

 世間は連休前の週末らしい。おれは試験前だし、TODO O MUNDOは月曜開けてます。

 TOMORROW IS AN OTHER DAY、気を取り直す際にいう言葉

 
posted by 浪速のCAETANO at 16:11| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

古典に教えられる

 やんなきゃいかんことがなかなか手に付かず、延ばし延ばしにしていた。ちょっとやり過ぎで、またまた危機がやってくる。

 この日常的危機はまだまだ高原状態で続くのだが、誰に相談するというわけにもいかず、そうこうしているうちにその高原状態から上向きに突出する時期が来る。今がそれ・なのだが、そんな時は行動をやっとその緊迫が後押しすることになる・はず。

 まあ・がんばろう。

 昔の日本の物語、すばらしく重層的ですばらしく近代小説的であるなあ・と感嘆した。

 去年の今頃、宇治を何度か訪れたことを思い起こした。まあ他になにもすることがないからとは言え、「優雅にヤル」ことばかりを考えているなんてのは、ここなんとなくよくわかるところで、つい最近まで自分もまあそんな感じで、ただ、やはり、攻め・ばかりでは守りに入った時に、そのノウハウの蓄積がなく、もろくも崩れさるのもしょうがないなあ・しかも貴族でもなし・など思う。

 しかし、その対象となるオンナたち、とは、そういうオトコにはかなくも翻弄されていくに連れて、いつか、ものすごく逞しい精神にもなり、あるいは、最後の手段・出家も辞さず・とその煩悩の断ち方には畏れ入る。そんな実感はものすごくあるのである。いつだって「知らん間に」オトコはオンナに追い越されている。

 因果応報と言ってしまっていいのかどうか・少し迷うところだが、幸運と災難とはやはり「イーヴン」であるのかもしれない・という気もする。

 「死」が身近だった時代である。寿命だって短く、病気に対する抵抗力も高くない。庶民はほんと「すぐに」死んでいったろう・と思われる。「死」を深く考え、向き合う機会にもなる。

 どうにもならないことは古今やはり多く存在する。それが、科学・技術・医療の発達がおれたちの目を眩ませているだけなのだろう。貴族の「欲望」は現代ではほぼみんなの「欲望」となっている。その欲望をなんらかの理由で相対化出来た時に「仏教の教え」が立ち上がってくるのを感じる。まだ欲望成就に未練があるうちは、そこまではなかなか見えんだろうなあ。

 例えば、高野山から熊野へはもう何度も行っているが、当時はまだ自分が元気だったこともあり、オンナ連れだったこともあり、高野龍神スカイラインのもたらす快感も楽しみのひとつだったこともあり、本質を掴むにもうひとつ煩悩の処理がヘタクソだったはずである。

 大日如来の支配するエリアで一晩過ごすこと・家都美御子大神のおわしますエリアで一晩過ごすこと、おれは体質的に伊勢は「合わない」から、二度と行くことはないと思うが、しかし、その高野と熊野の意味は何度も考えてみないといかんなあと思うのだった。元気なくなりかけの今こそ。

 なんとなくわかりかけているのだ。ただ、なんとなくなのだけど。言葉にすることもできるのだが、何か足らんのね。

 末法思想がある意味「流行り」になり、終末感漂う平安〜鎌倉という時代は今の世にカブるのだが、その精神的豊かさに関してはなにかちょっと違う。

 仏教と言うと「抹香臭い」イメージが付き過ぎ・なのかもしれないが、それと現代とがクロスするポイントはあるはずなのだと思う。

 多分あれらの大作家になくて、ちょっと年上だった「あの」大作家にあるのがそれ・のような気がしている。

 not in love こんなことを言うてる時代はまだコドモっちゅうことか。
 


 
 
posted by 浪速のCAETANO at 18:40| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月19日

投げ銭やや不発ながら

 アンプラグド・と言えば聞こえは良い。

 難聴の方にはややきついか。

 カオリーニョ藤原の投げ銭ライヴ@TODO O MUNDO・numero2。

 カオリーニョ藤原を中心に、キングちゃんと浪速のカエターノが時にチャチャ入れる・というスタイルも二回目で定着したのかな。背後からセメる・ってのもコミで。

 高校時代のヒトんちでスタジオ入る前の練習みたいな・そんな雰囲気もあるが、ヤッテル内容が高校生ではない。プラグドならそのまま録音して、ライヴ音源にもなり得るほどのクオリティなんだからさ。

 ただもうちょっとお客さん来て欲しかった。ひとりひとりに投げ銭の負担がかかるよね、少ないと。匿名性が低くなって。でも来て「投げて」くれた方ありがとう。パートのおばちゃんは・残念。

 でも毎週やるとそりゃしんどいか。特に来る側が。

 でもまた突発的にやりましょう。

 でもやっぱ、値打ちを感じていただかないことにはどうしようもない。感じて。

 ノエル・ホウザ
posted by 浪速のCAETANO at 18:23| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月18日

投げ銭 VIVO Numero2

 昨日は冷たい雨。一番嫌いな天候ゆえ、外に出ず。

 今日はまだマシっぽい。しかし寒さが身に沁みた。ということで元気はなかったのである。

 そんな元気のない一日の後・つまり本日はカオリーニョ藤原が来店です@TODO O MUNDO。またもや投げ銭ライヴです。20:00より。

 デフレ・だ。ということは値打ちの上がるお金・ということだ。値打ちの下がるモノ・という意味でもある。インフレは多々人類は経験しているがデフレの経験はほぼ・ない。
そう宣言されるまでもなくモノの価格は「崩壊」しつつある。付加価値のないモノの値段は限りなく「ゼロ」へと近づく。その付加価値のハードルは結構高い。メディアが騒ぐことによっても作られるが、それは「消費」という意味が強く、舞い上がった後バックドロップみたいな喜んでるうちに悲しんでるみたいなことも多い。

 誰かか最初に騒がないとこんなことにはならんのだけど、やっぱり、その騒いでるのをアンプリファイしないことには、身内の盛り上がりで終わる。それもいいのだが、それが・いいのだが、情報発信の「格差」は、ネット時代とは言え、やはりマス・メディアのチカラには負けるのかな・存在する。その一方通行にはややムカつくこともある。

 まあそれでも、身近で感じると、ものすごく感じれることもあって、「ライヴ」などもそんなことの一つ。日本ではギグのことをライヴと言ってしまってるが、よくCNNなんかで左上に出てる「Live」のスペル・まあ生中継という意味だが、その現場感のイムパクトがなによりである・と思う。日本の音楽は「盛り上がらなきゃいかん」みたいなことになっているが、それは間違いで、ビートに乗ってわーわー騒ぐ・何かの発散のような形態が唯一とはいかがなものかと思う一人だ。もっとじんわりとカラダとココロに染み通っていき、深い思いを持たせ、何かに感心し、そしてその情報量が聞き手の臨界点を超えた、そこが感動とかいう地点だと思うが、そんな現場は聞き手の方がペイシェンスに欠けることで台無しにしていることが多い。

 まあ・かおるちゃんにやっていただこう。キングちゃんも来るし。おれもいます。



 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 09:40| 大阪 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月13日

これは知恵・なのかどうか

 少しひんやりしている。立冬過ぎたしな。

 オバマがやってきた。TVとか見てないから何時に来たのかわからんが、とにかく今日本(東京)にいるわけだ。

 メディアと自民党が頻繁に、「アメリカの言うこと聞かないとえらいことなんでー」と言っている。そうだろうか。政権が替わったのに、芸がないなあ・と思う。

 メディアと自民党はビビり過ぎだ。アンタッチャブルなアメリカだ。なんとなくそれは「宗教」に近い。「アメリカ崇拝教」だ。ま・いいけど。信教の自由は憲法で保証されているし。

 多極化を模索する時代である。アメリカ国内にも「ウィー アー ザ チャンピオン」と口では言いながらも、多極化を模索している人々も多い。「隠れ多極化主義者」。

 この2DECADESは、当たり前だがその前の2DECADESより変化が速い。1969〜1989と1989〜2009の変化を考えてみるならわかる。変化が大きかったのは前の2DECADESだが変化が速いのはこの2DECADESだ。69〜89は時間軸をX軸、変化の大きさをY軸とするならその関数は無理関数の曲線を描く。それに対して89〜09は時間軸をX軸、速度の大きさをY軸とするならその関数は二次関数になる。この2DECADESは速度は大きいが変化は少ない・なんでまた?

 なんでまた? なのだが、それはかつての一つの変化であったものを限りなく細分化してそれをぐいーっと横に伸ばし、かつての一つほどのことにしちゃってるからだ。これまた・なんでまた? なのだけど、そうすることによって、ゴールに達っさずに済むからだ。これは永遠に続いていくと言っていい。しかし、その変化自体の絶対値は限りなく小さくなっていく。

 つまり、ダイナミズムに欠ける・ということになる。そしてそのイムパクトはゲインは大きいがサステインが限りなく小さい。一瞬で消える花火のようなものだったりする。

 おれたちは今、差異が極端に小さく、ただ所得はものすごい格差はあるんだけど、ちょっと遠目に見るなら、のっぺりした荒野の中にその精神を住まわせしている。おもしろくないのはあったり前だよね。変化がイコール進歩だった時代はもう過去のモノとなってる。

 パンク=ニューウェイヴの頃は楽しかったなあ・と想い出に耽ってみたりするわけである。そのパンク=ニューウェイヴが資本に取り込まれて以来音楽は死んだ。ワールドミュージック(と言う言葉は好きじゃないが)の衝撃はひとつあったのだが、それ以来、なんなんだろうね、なぁんにも大きな一歩というのはないんだもんね。どんどん暗い目になっていくわけ。

 消費されないいい曲・というのがずっと曲作りのテーマだったりする。アレンジが曲作りと混同され始めてもうはや幾年・って感じだけど、そこ・勘違いしてるバカも多い。過激・の意味を勘違いしてるバカも多い。かつてのロックの衝撃を知らず、それを想像して同じような衝撃を今求める。しかし、社会が根本的に違う。そこは確かにジレンマではある。早くにやったもん勝ちという残酷な面もある。

 そうは簡単に消費されない音楽・これしかなかろうて。それは過去のニッポンにもあったし、今もきっとおっちゃんは作れると思う。ストックの量が違うから。

 ほんとに今の音楽の底の浅さに辟易としてる身としてはそこんとこなんとかしたいわけである。

 なが〜い自民党政権とその構造がすべての業界のプロトタイプになって、キタナラシサの極致と化しているから、戦況はムチャ不利なのだけど、民主党により変わる「何か」が外部に伝播するといいな・と思う。民主党ですべてオッケーなんてノー天気でもないんだけどね。

 オバマの共同記者会見のナマの言葉はイマイチ切れが悪かった。彼はちょっと声を張ってアジテーション気味に喋るのがいいよね。ものすごく内省的なワカモノのような感じだった。まあ・内容が内容だしな。しかし、ブッシュからオバマへと変わったことは世界は絶対的ではないかもしれないが、相対的にはものすごく変わったということなのだ。日本の民主党もそれは同様。

 それが「そんなに」と思えるかも知らん理由は、モノゴトの限りない細分化じゃないか・と思っている。だっておれたちのボトムの生活って今70'Sみたいなニュアンスでやってるもんね。記憶があるってやや厄介な気もするのだ。


 ヘイ・ドクター、ジャカモンフィナンディ、ドンストトントンストトントン、イッツ ニューオーリンズビートであった。
posted by 浪速のCAETANO at 21:56| 大阪 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月12日

いろいろあった日

 ナマで歌うと喉痛い。そしてちょっと心配になる。

 昨日来ていただいた方々ありがとう。よー考えてみたら自分の曲なぁんにもしなかったですね。それもよし・ってことで。昨日という日はなかなかビミョーな日で、そっち方面のモチヴェイションがなかったのね。

 なぜかしかし、ギタリストと称するヤンガー・ガイが2名入ってきて、それはその予定外の展開もあって、それはおもしろかった。

 ワン・ヤンガー・ガイは酔っぱらい過ぎでぶっ倒れて寝てしまい、ディ・アザー・ヤンガー・ガイからパンツ内に大量の氷を入れられ、股間が急速冷凍したはずだった。

 初めて来たその日に寝るヤツ。不届き者である。素性がわからんから、トリセツがないし、やや困惑するのである。そんなやつもう1名いたが(いるが)こやつのトリセツは・ある。甘えん坊である。

 しかし、不届き者たちよ、また来たらいいのだ。待っとるよ。

 かように関係者および客にいたるまで全員アホの店の夜は過ぎていくのだった。

 ま・いいぢゃん・等思う。

 モノゴトには裏表というか、モノゴトは見る立場によって異なる表情を見せる。市橋くんがかつて医大を目指したカシコイ子だったように、オバマのノーベル賞が、もうこれでイランを攻撃出来なくするためのアメリカの隠れ多極主義者による足かせであるように。

 アホの店も見方を変えるなら、自由に溢れたパラディソにも思えてくる。

 心斎橋のクリニックから昨日、次の行き先はミーツだったから、肥後橋までは電車に乗ると乗り換えがかったるく、結局歩かねばならん・と思えば、邪魔臭くなり、ええいもう全部歩いちゃえ・な心境になり、とは言え、時間を2.5時間ほど潰さねばならず、久しぶりに喫茶店に入った。本町からちょいと上ったところのビルの2階にある・シブ目の喫茶店だった。

 これが居心地良かった。結局2時間ほど長居したのだけど、2杯目のコーヒーは100円であるとか、なかなか長居を奨励してくれる配慮もあり、ナイスだな・と思っていたら、そこはほら、おっちゃんらの憩いの場は確実に減っていることの証明か、どんどんお客が入れ替わり立ち替わりやってくる。おっちゃんばかり。年季入ったおっちゃんから、最近入会したて・みたいなキャリアの浅いおっちゃんまで、どんどんやってくる。

 おれも本を読んだり、詩を手直ししたり、すごく得した気分で、その後気持ちよく肥後橋までの道のりの後半を歩けた。コーヒーもおいしかった。神戸の萩原コーヒーって言ってたな。

 いいね、喫茶店。また行こうと思う。


 みなさん公務員のスーパーバンド。
 おれが行った的な喫茶店のようなところにたむろっているはずである。

 
posted by 浪速のCAETANO at 18:46| 大阪 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月10日

2 decades

 初期老化。

 こないだ整骨院で言われて、まあ自分でもウケたのだけども、初期老化。

 本日も、タッパーを冷蔵庫から取り出す時にその下に置いてあったガラス容器を落としてしまって床に内容物もろとも粉砕。その後、コードに引っ掛かりつんのめり、しかし、粘って、しかし粘ったのが悪く足の指ぐりぃっ・と。中二男子に「大丈夫っすか?」と言われるも、なんとなくそこに老人に対するいたわりとあざけりのニュアンス・のようなものをやや感じ、ややヘコむわけだった。

 ある一点、それもやや遠い点を凝視した際に、近くがまったく見えないというか、注意散漫になるのね。その情けなさに対する憤慨を誤解されて、エラい目に遭ったこともあった。

 頸椎ヘルニアの治療も明日から始める。治るかなあ。治って欲しーなー。大体察しはついていて、親指側が痺れているから首の上部の頸椎であることはわかってる。カラダって不思議だ。でもよく考えると、神経にせよ・血管にせよ、カラダ中至る所まで張り巡らされているのね・と思えば、それが没個性であったところで、その方が良かったりするわけだった。機能・という意味に於いては、良好に機能することが当然・なんて思い上がりがあるわけで、その当たり前に動く・なんてことがそうでなくなって、あいたたた・と思うその事から、いろんな人に対するまなざしが生じてくる。「フツー」って色々だし・ということもわかってくる。ホントにヒトは(というかおれは)アホだった/である。

 ヒトの愚かさ・って凄まじいものがある。ここ数日の、顔変えて逃げてる彼とかも、これはかなりの、小説を超える現実だったりするが、後先考えない・なりふり構わない行動には驚く。ヘタな風に退路断っちゃってもなんかもひとつ・であるといういい例かも(捕まっちゃったね・@南港だって)。思うに、亀井ちゃんが御手洗に文句言ったこととはここ数日で明らかになってきた事件の数々・なんかを例に出すべきだったのだろう。「欲望の暴走」それは市場原理主義の行き過ぎをベースにしたものだろう。

 思えば「ベルリンの壁の崩壊」から丸20年。すべてはそこから始まったのだが、その火種は85年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任した時にある。ベルリンの壁の前にソ連が崩壊し、冷戦はそこに終わった。

 そこから、共産主義が闘わずして敗北しちゃったことにより、資本主義陣営の反省なきチョーシ乗りが始まったわけだが、それは「自由」の勝利とも言っても良かったと思うのだけど、その「自由」本来の意味と「自由に金儲け」の自由主義とのズレに対して、あまりにもみんなが無頓着であったがために、今のこの新たな悲惨が生まれたという気がしている。この20年・結局人類は、より多くの自覚的な人々がより強欲になっただけ・だった。そして、不幸にもそうすることを促すかのような環境整備がされてしまった・ということだった。

 つまり資本主義の成り立つ条件である・そこに参加する人々の内的モラル・あるいは、内的モラルに期待できないのであるなら、規制、それもグローバル化においてはグローバルな規制が不可欠であるのだが、それが存在しなかったことが悲惨をより押し進めたのだろう。

 戦争はもちろん悲惨の極みであるのだけど、戦争しなくても人類はやはり相対的にカルい悲惨を目指してしまう・などということは、やっぱり「バカ」ってことだったね。

 サイクルというのはほんとに長く続かない。その後のアメリカ一人勝ちの時代ももう終わりを告げる。奢る平家は久しからず。その前のジャパン アズ ナンバーワンもはかなく消えた。あれは幻だったのだろうか。

 おれはディヴィッド・ボウイやルー・リードの悲惨を東西冷戦の終結時に思ったなあ。
かれらの歌は壁の向こう側が存在して初めて成り立つ・ということだったから。ルー・リードの「ベルリン」ディヴィッド・ボウイの「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」なんて共産圏が壁の向こうにあったからこそ出来た作品だと思うからだ。ルーはニューヨーカーだが、ボウイはブリティッシュであるし、ヨーロッパはEU統合されたことを考えてもわかるように、その活動範囲を考えると、決して他所の地域ではない。

 その三部作がボウイの中では最も輝いているとおれは思うが、ある意味政治的なそれらの歌は正に壁がそこにあったことから生まれていたのだった。そこから見事に絵に描いたようにボウイは失速していく。正直に言うならその時おれは幻滅した。彼は当時ロック・スターで希有なアーティストだったのだが、今のというかその後のボウイは単なるロックスターだ。確かにカッコ良すぎるおっさんだが、リアルタイムに興奮し,リアルタイムに失望したおれたちの世代には、もひとつなんというか、後輩達のように今のボウイに騒げない。

 おれの感覚が「ホント」なんだよ、と気色ばったところで、またそれは今の環境と馴染まないからなあ。

 しかし、ベルリンの壁あっての「一日だけなら英雄になれる」だから。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 22:50| 大阪 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

骸骨

 また月曜日がやって来て、新しい週だ。

 期待感と憂鬱に同時に包まれる・とかが一般的か・と思いますが、どうでしょう。おれの思う一般的はあまり一般的でない・のが定説になってはいますが・・・

 これからちょっとX線を撮りにいって来よう・と思ってて、というのは、まあ色々調べた挙げ句、まず間違いないと思うのだが、「頸椎ヘルニア」だと思うからだ。

 症状がここ数ヶ月・というか、もう一年になるかなあ、ほんとにグッド・タイミングなことに精神にも肉体にもというダブル・タメージを受けてたな・と自分でも思う。精神のダメージがあるところまでは優先するのだけど、やや冷静になってくるとある点からは肉体のダメージがそれを追い越しちゃう。追い越されて数ヶ月・って感じ。

 左手に痺れがあって、最初どーもいやーな感じがしてて、ギターを持つと特に痺れっ放しであって、ヘタなギターがよりヘタになる・という「あ〜あ」な状態だ。

 整骨院から指示された放射線科へと行ってきた。

 で、自分の骸骨を見てた。レントゲン写真・自分で持って行かなきゃいかんのだ。自分の骸骨は、まあよく知ってる「他人の骸骨」とさほど変わらず、フツーの骸骨だった。変な気になるね。まあ頸椎のどこか・インでる部分はあるにせよ、なんとも無個性な骸骨である。これがおれ? そういうことだった。

 あまりそうじっくり・というわけにもいかない何か・がある。認めたくない何か・と言ってもよかろうか。崇高さの欠片すらそこにはない。人格さえない。

 なんとなく、自信なくす感じである。

 それでもまあ見る人が見るならその骸骨にも「個性」なんてのがあるのだろうが、おれにはわからないし、やや混乱もする。ただ、そこんとこに「平等」があるのか・もしかして。

 医者の立場ってそう考えるとヘヴィだな・と思う。「○×さん」と「クランケ」という2種類の見方が必要だからね。一般の商売・仕事ならお客の人格とお客である事実がわりと簡単に混じっちゃうと思うが、医者のバヤイ、そこの混同はユルされないような気がした。

 そして骸骨はナンバーを打たれ、クランケとしての意味しかなく、ナースにこちらがエロを感じるその気持ちは延々すれ違うわけだった・って話変わってる?


 その骸骨に肉を付け,血を通わせ、皮膚で覆った「浪速のカエターノ」のライヴが11/11(水)TODO O MUNDOであります。気分は骸骨・になってしまえば、できない。その場合・レスザンゼロに助けてもらいましょう。レスザンゼロはラフレシアン・コムプレックスのオーディションも兼ねています。骸骨に審査が出来るのか・それは無理。ですので、この二日の間に「脱・骸骨化」が必要です。20:00頃から始めます。背後からセメます。チャージ等今回は骸骨ゆえ要りません。


 人はオノレがストレンジャーの時にストレンジに見える・とジム・モリソンは言うが。骸骨同士ならそんなこともなかろう。嬉しくもあり寂しくもあり。
posted by 浪速のCAETANO at 19:40| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月06日

SPELL

 久しぶりの「レッカー移動」を心斎橋で喰らう。油断大敵だ。

 ごますり豚カツに萌えている場合じゃなかった。しかも2分差だった。タバコ一本余計目に吸っちゃったわけ。

 あいたたた・な出費。一泊旅行行けたよね。かように人生は無駄およびすれ違いだらけです。

 人生・無駄&すれ違い。実感である。それがフツーなのかもしらんな・とは近年の実感だったりする。

 笑うのは・笑っちゃいかんのだが、昔で言う三面記事の中でオンナの人が大活躍する昨今なのである。そこに見え隠れするのは、おっちゃんらが女子になんらかの「癒しと期待」を、それもかなり強く持っている・という事柄だ。もすこしよく考えるなら、合法的な商売の発想が立ち上がってきそうな気配だけれど、今、経済的にも精神的にも「安定」がムヅかしいこの世の中で、経済的にはまあ安定を見たおっちゃんらが精神の安定あるいは盛り上がりを求めて、おばちゃんとねえちゃんの中間ぐらいの女子に手玉に取られているわけだった。

 女子がオノレの精神という小宇宙の中で臨界点を超える時、それはある意味「革命的」なことだけども、まあそこには「言うても聞かん」というオトコから見た際の無力感も伴い、さらにそれは、過去のオトコの側の無節操・無軌道などへのカウンターという意味もあり、先攻のあとの後攻として、「やや悪かった」などこちらは思って、その批判の矛先鈍るなんてこともあるのだが、でも最近の様子はやや異なり、もう主体は女子であり、オトコは脇役というかもっというなら「小道具」みたいな存在になっている。

 用がなくなったら「めんどくさいから死んでいただく」なんてのが何人もいたりして、「モノ」扱いである。真性Mの方なら、究極のヨロコビ・かもしれない。しかし全員「真性M」なんてことは有り得ないので、ヨロコバず、くそー・と死んでいったおっちゃんもいたことだろう。

 興味深い。

 何かは「満たされている」が何かを「求めている」というのは今や「つけこまれる」ポイントであったりする。それは、あらいやだ・マーケティングの手法であったりする。欲望の開発・喚起によって「市場」はできちゃう。その呪縛(SPELL)から逃れる/が解かれる(BROKEN)ためには、如何なる手段によることがいいのか・と考えざるを得ない。

 経済的にも精神的にもボロボロ・ってのもそうなると悪くない気もしてくる。喰うことに必死になるということも悪くなかろうなんて思うわけである。

 そのことと経済合理性しか生きるバイブルはない・ってことは繋がって居るようで、また別のハナシだと思う。


呪縛が溶ける時

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:00| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月04日

やられたってやり返さない(理想)

 よく悪口を言われたり書かれたりするのだけど、まあいちいち気にもしていられないが、「あんまりよく知らんくせに言ったり書いたりしないで欲しい」。それも決め打ち・みたいな一言で。悪意を感じちゃうなあ。おれがなんかキミの不利益に貢献したか? ん?

 まあ、ほんとに「ワキは大アマ」であるから、ツッコミどころはいつだって満載にしてあげてるのだけど、それをいいことに言われ放題というのもいかがなものか・と思う。レヴィ=ストロースが亡くなったというのにいかがなものか。

 文章に「品性」がでる。どんなに取り繕ったところで、出る。もひとついうなら「歌」にも出る。残念ながら。

 面と向かった時と、そんなに態度が違って、「羞恥心」はないのか・と言っておきたい。つまらんやつやのう。まあ・すぐに忘れるんだけどさ。

 同様のことを以前にもブログに書かれた。元ミーツ編集部員に。その人もおれのことはよく知らなかった。自分の見たいように人を見、そしてそれが満たされないとわかると、ようそんだけ出るな・というほどの罵詈雑言をブログで撒き散らしていた。

 しかし、なんというか、マナーがなっとらんと思う。姑息で卑劣なことは結局オノレにブーメランなのだけど、そこまでハートがインでしまう根拠を考えてしまうわけである。

 で、最終的に思うところ、そこには「喚起された欲望とその充足のインバランス」があると思う。ゲス・な部分は誰だって持っている。ただね、そのゲス・との内的な葛藤は必要だろうと思うのね。ゲス・と面と向かってゲスなエネルギーをまあそのう少しでもましなヴェクトルにスキューさせていくことは必要だろ。

 ゲス・をブログで全開するのは「やっぱりマナー違反」かな。オノレのハートのエグさを曝け出してるようなもんだが、それって。いや・あのね、おれもそんなに最近「溢れ出すリビドー」に自分でも手・焼いてるなんて事もないのよ。いや・まぢで。もう少し穏やかな人生を送っているのよ。だから、ホンマによく知らんくせに公の場で実名挙げて物申すのはヤメてよね。オノレのキタナラシサ、そこまでフォーカスせんでええよ。誰も見たないし・そんなもん。

 「喚起されてしまった」欲望、ここである、問題は。「草食男子」と呼ばれるワカモノはそこからのエスケイプを無意識が選択した結果だと思うが、そうでもしない限り「おれは犯罪者になっちゃうかも」なんてネガティヴな妄想に囚われることだって考えられるし。要は容赦なく自己増殖的に進行する資本主義に対抗するためのオノレを守る方法論の一つだろうと思う。それもやや寂しいことながら。「キンタマ元気」によるさまざまなある時期のバカ話・おれは大好きなんだけれど、なんとなくさ、みんな最近は狙い過ぎて、笑える部分がどんどん少なくなってきてる。みんなクレヴァーになってる。なり過ぎてる。ひとつひとつの出来事が笑って終われない・なんかそんな感じ。

 今・時間軸とともに収斂していくよりも、拡散や反復やつまりD.S.やD.C.に溢れた物語、小説よりも神話が必要なのだと思うし、同時に一度この息苦しさをチャラにしてしまいたいものだ・とも思う。


 ガルよりエラへ Ella Elle L'a

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 14:28| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月02日

BEYOND 教科書

 昨夜のダルヴィッシュ・素晴らしかったが、普段プロ野球は殆ど見ないのだけど、ダルヴィッシュVS巨人なら食指が動いた。

 で、ハートはホットでマインドがクールな23歳は、見事だった。変化球のキレがすごく、小笠原なんてあの三振20センチぐらい離れてたね。ダルヴィッシュのすごさは「動揺」がないことだけど、あれだけの自信を常に持つことの根拠はなんなのだろう・と興味がわく。ものすごく緻密に自分の実力と状態を認識しているとしか思えず、それだったらすごいことだと思う。

 もう一回投げて欲しい。また見たいものだ。

 スポーツと言えば、オールブラックスVSワラビーズ・見たかったな。オンエアあったのだろうか? ないといかんと思うのだけど、あったのだろうか? その日は新聞チェックしていなかった・残念。2019のW杯も決まってることだし、きっとあったはずよな・ざぁんねん。平尾くん録ってませんか?

 スポーツ選手ですごいと思うのは、高められた「独自」のカラダの動きだ。そのヒトにしかできないカラダの動き。すべてのバッターのスウィングが異なるように、すべてのフリー・キッカーの弾道が異なるように、すべてのレスラーのジャーマンスープレックスホールドのブリッジが異なるように・だ。王さんがわかりやすいが、あの一本足打法のフラミンゴ状態の美しさは個別のものだ。長嶋だってスウィングの寸前にふっとバットが沈む。長州力の垂直落下式バックドロップ。シュテフィ・グラフの逆クロスの際のカラダを右にひねる動き。

 独自のカラダの動きとともにそのプレイヤーの記憶は残る。で、よくよく考えたら、記憶に残る動きをもったプレイヤー・アスリート達は、その動きが「個性的」だということだ。時には「基本」と言われるものと相反するカラダの動きがそこにはあったりする。記憶に残る・とは超一流と言っていいと思うし、となると、彼らは「教科書を超えている」ことになる。教科書通りでは面白くも何ともない。しかし、すべては、特に最近はマニュアル化はどの分野でも進行している。あんまり面白い世界ではない気もする。しかし、指導者がどんなに型に嵌めようとしても、過剰な個性はそこに収まらない。そんなとこにしかブレイクスルーはないのだな。

 そんな中、ダルヴィッシュの存在はなんだか嬉しいと思った。個性的であることはどこかトリッキーでもある。トリッキーでありながら教科書を超える。そこんとこがいい。

 そんな時に冷や水を浴びせるような出来事が、起こる?起こらない? IT'S JUST A JOKE?

 ブッシュが第三戦の始球式をしに来ると言う話。なんでまた?

 そんなおかしなハナシはないと思うのだが、どうもホントらしい。バカも休み休みでないといかんと思ってる。

 東京ドームの観客はどのような反応をするのだろうか?

 「ブーイング」が正しいと思うが、どうなのだろうか? 日本人の見識が問われる出来事かも知らんね。時々日本人(つってもおれもそうなのだけど)なんかよくわからんことがあるでしょう。しかし、なぜそんなことをするのだろう?

 昨日はもわ〜だったくせに本日いきなりの「西高東低」だし。明日は最低気温7℃だという。すっとんきょうな日々である。

 新庄ってやっぱり「宇宙人」だった。


 STARMAN

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 19:37| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月01日

締まった言葉

 なんだか「もわ〜」としている。いや〜な感じの気候だ。

 ぼーっとしていて気にしてなかったのだが、ここ数日妙に温暖だった。もう11月というのにね。そう言えば数年前にもこんな年あったなあ。今日は夏日のところ多い。

 毎年この季節になるとダマールの肌着を出すのだが、今年はダマール着るとまだ暑い。しかし、11月はもう晩秋のニュアンスであるから、調子狂うわけだった。季節感はやっぱりしっかりあっていただければ・と思うひとりだ。これから年末へ向かうわけだけれど、やんなきゃあかんことがやや重たい。明日からやろ。

 一昨日飲み過ぎて、昨夜はややダウン。録りだめのVTRを見ていた。金子兜太氏の100年インタヴューがもっとも刺激的だった。金子兜太というと前衛(という言葉も今や死後だけど)俳句の大御所で、今も彼の作るものは妙な落ち着きや説教臭さがなく、いつも新鮮なのだけど、彼が日銀時代に神戸支店へと転勤になった頃、うちの母親たちのやっていたパンク俳句がかなり刺激になった・と語っていた。母親の師匠は堀内薫といい、その師匠が橋本多佳子だった。その当時のことは、まあはっきりは母親からは聞いていず、それはなんとなくおれが自分の身内がやっていることのすごさを客観視できなかったというよくあるファミリーアフェア的な事情による。

 当時はちょうどおれが生まれる前、おふくろが高校生だった時分で、同じく青森の高校生だった寺山修司などと連絡を取り合いながら、「牧羊神」を立ち上げ、全国高校生俳句大会で、おふくろは全国で七位だったという。一位は寺山。その選者が金子兜太氏だったというわけだ。金子さんがトラック島の戦時体験の悲惨さの個人的反省から俳句を辞めようと思われ、そんな中、関西へ転勤になり、そこで出会った「熱」によって、俳句を再開して、今に至るというから、その当時の無鉄砲なパワーみたいなものはなんだか大したものだと思う。というのは金子さんはロックでいうならフランク・ザッパのような人で、ロックにせよなんにせよ、その後の権力に取り込まれていく経緯を考えると、お行儀のいいものだけではいけないからだ。その一瞬、その作品がある種の完成度を高めたとしても、それが、結局,管理を導くようなひとつのプロトタイプになることがよくある。どんな芸術においてもだ。だから金子兜太=フランク・ザッパの存在が要るというわけだ。なにかを完成に近づけることより、常にその枠内から出ようとするエネルギー(それを金子さんは野性・という言葉で表しておられたが)の方が大切であるとおれも思うからだ。もとよりそれには過剰さが要る。その過剰さは野性から来る・と。そしてまた別の角度からいうなら、その野性というのは、人間がすべての動植物と同類であるとする・生きもの感覚にも由来するとおっしゃっていた。

 かなり「含むもの」は大きく、よく考えないといけないのだけど、金子さんはそれを一茶から学んだとおっしゃっていた。52歳で結婚し、突然のエロおやじと化した一茶である。時代が変わろうが人の普遍性は時間軸とは無縁のものがあるみたい。ちょっと見えにくくなっていたものが見えたような気もしたわけだった。そして五・七・五の定型への確信。わたしが俳句である・とまでおっしゃっていた。

 うちのおふくろも、多佳子・堀内薫と続いた「七曜」という俳句結社の同人として復帰して、地元の人々と句会をやっている。おやじは今おふくろの弟子だったりする。

 あまりにも「俗」な人々が多い中、というか、「俗」しか知らないかわいそうな人々の多い中、いつまでもやれて、今自分が読んだり書いたり聞いたりする言葉を洗い出し考え出し、ブラッシュアップすることが日常というのは悪くないと思える。人のこころを「清潔」に保てるような気がするからだ。

 最近歌詞を考えていたから、余計に言葉の・贅肉を削ぎ落とした言葉のチカラや鋭さにおれもやや敏感になっていたから、余計にコラソン直撃だった。

 言葉は常に掘り起こそうという習慣から離れると、なかなか遠いものになるよね。締まった言葉が最近縁遠かった。それじゃいかん・ということで。


 締まった言葉・締まったギター(神業)、リアル・マスターだから。
posted by 浪速のCAETANO at 14:29| 大阪 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月30日

月末に

 月末だったから銀行へ行こうとスカイビルへと向かうがあまりの行列におえー・となり、チャリで福島区界隈を彷徨う。

 体内磁針の狂う街・だ。割と自信あったのだが、あっけなく磁針は狂う。自身の磁針に関する自信は地震のごとく崩壊・の巻だった。

 まあしかし、そんなときにはランドマークが役に立つ。なるほどね。やっぱりそれはスカイビルだったりする。スカイビルに向かうつもりがあ〜あ・でうろうろしてるうちに迷子になって、結局スカイビルを目指して帰ってくる。皮肉な気もするけどね。

 磁界を感じる能力なんてのをかつて人類は持っていたりするのだろうか。渡り鳥やゴキブリは持っているという。ということは、「ハイ、これからアナタたち迷子ですから、キミたちの能力でオウチへと辿り着いてください。背番号1・おれ、背番号2・ワタリドリくん、背番号3・ゴキブリくん」だった場合、ワタリドリくんはぴゅーと飛んでいくだろうから、おれとしては、ゴキブリくんの後をジミに付いていくしかないということになる。最後にラストスパートでゴキブリくんをかわしたとしても、なんとなくプライドは傷ついたまま・の気がする。実質ゴキブリくん未満であったってことにだ。

 最後のラストスパートでゴキブリくんを抜いて「勝負」に勝ったとしてもそんなの嬉しくない。世の中には「勝負」にこだわる方・多いが、おれは内容重視・だ。「試合に勝って勝負に負ける」タイプだと思う。「試合にも勝負にも負けること」もままあるが、それはまあ・なんというか、あきらめられる。あくまでも「勝負」にこだわるタイプはなんというか、苦手だ。まあ・いろんな方いらっしゃっていいんだけどさ。

 昨夜はちょっと「お試し」でアルトフォニック・スタジオで、カルく録音の真似事。ここ、いいスタジオですよ。エンジニアもアシスタントも素晴らしいから、音楽関係者の方々、是非ご贔屓にしていただければ、と思います。四ツ橋厚生年金ホテルの斜め向かいの「KSビル」8Fです。06-6586-9337と代理営業。

 実力があるのに、硬直化した業界がさらにダメージも受けて、ものすごくビューロィスティックになってしまっていることにより、冷遇されている人々がいる。困ったものだ。困ったものなのだけど、困ったものなのだ・と言ってるだけではなぁんにもならんわけだった。まあ・みなさん「ちぃちゃくちぃちゃくちぃちゃくなぁれ」に従ってるだけではいかんもんね。

 まあ・各自の持ち場でがんばなきゃいけない。人にがんばれ・は言えんがこっそり自分ががんばる〜はいいのかも・だ。

 国会が「がらり」と変わって、おもしろい。民主党は「新しい自民党」になるのだろうが、しかし、何かが変わる第一歩という見方をするのは悪いことでもなかろう。自分の言葉で語る各閣僚を見ていて、それですべて良しなんてことではなく、ただ、こないだまでの自民・公明政権の閣僚たちのあまりのバカ加減に改めて呆れる。いっぱい試行錯誤を短期間にやっちゃうべきなのだ。


 SO IT GOES.だ。
 

posted by 浪速のCAETANO at 15:04| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月27日

エコとか言うが

 クルマ「マルタニ塾」(お勉強マルタニ塾ではなく・ミーツ・リージョナル誌にクルマ三連発連載の三番目として今年の二月までやってた)の相棒の瀧村くんが店のHPのための撮影に来てくれて、その後、まあクルマ話をする。

 この東京モーターショーなどはかなり悲惨なムード漂う中、開催されたという。不況だ。

 そして、世の中は「ハイブリッド」「電気自動車」「まずは燃費最優先」とまあそんな感じである。おれも最近は何が何でも「クルマで行く」という感じではない。しかし、クルマには乗っているし、時々乗るクルマがアルファ・ロメオである・ということは「嬉しい」ことだったりする。時々乗るクルマがリーザ・チャチャ20年落ち・であったとしたら、加藤和彦氏の後を追ってるかもしれない。

 今、8vはケツを向けて駐まっている。クルマに乗ろうとする時にそのケツがまずは目に入ってくる。いや、オンナとクルマはケツでしょう。頬ずりしたくなるケツが、本日も第一印象である・ということはそれから始まる大したor大した事ないドライヴが「FUN」になるのでは・という予感を抱かせる。

 リーザ・チャチャではこうはいかない。

 オノレのワーキング・プア度がさらに胸に突き刺さる。そして加藤和彦氏の・・・。

 そんなこと、どーだっていいぢゃん、動けば、という意見もある。まあ、そんな意見がメジャーであったりする。リーザ・チャチャのオートマチック車。考えただけでも加藤氏の・・・・。

 今、エコ・がブームを通り越して「当然」という域に入ってきてる。化石燃料を使用する・燃やすことが、そんなに「悪」か・というほど、「悪」になりきってる感あり・だ。

 鳩山ちゃんは25%の削減を(条件付きだが)コミットした。さらにこの傾向は進むのだろう。ま・いいけど。

 しかし、流行語を通り越して「一人歩き」している「エコ」はまた、リアリティが薄くもなっている。一つの考え方・方向性・手段がまとわりつき、たまに鬱陶しかったりする。

 「エコ」にはお金がかかる。ここんとこだ、変な感じなのは。エコカー減税なんていう、自民党最末期の大衆迎合政策により、コドモ店長がTV画面で200000円割引してあげる・といくら言っても、おれは反応しない。あのコドモ店長、「泣かしたろか」などオトナゲない対応・な、おれだった。引っ越し屋のCMにおいても「キリンさんが好きです。でもゾウさんの方がもっと好きでーす」の女子児童にたいしても「泣かしたろか」が基本姿勢だ。同時期にオンエアされていた男子児童による「松本引っ越しセンターでしゅかーっ。松本引っ越しセンターでしゅかーっ」は何故かユルせる。なぜでしょう。

 飛んだが、でもさ、そのエコ・に関して、みなさんどこかしら「?」とか思ってたけれど、なんかツッコミどころがなくて、そのままにしておいたら、なんとなくその存在が「ビッグ」になってたアホタレントみたいなイメージってないかね。もひとついうなら「あまりに正し過ぎる」のだ、それって・ね。

 なんだか、ノセられてプリウスやインサイト(だっけ?)を買ったヒトってどれほどいるのだろう? エコカーに乗るのはエコかもしらんが、乗り換えたクルマはどーなるの? 中古車として売れたとしてみよう。世の中にはエコカーが一つ増えただけっちゅうことだ。排出CO2量は微増(エコカーの分)し、特に減ったというわけではない。もし、乗り換えたクルマが廃棄されたら、CO2の量は確かに減るが、廃車の分エントロピーが増すことになる。

 では、おれのようなアホはどうするか。

 15年落ちのアルファに乗り続ける。なぁんにも変化ないが、鉄の塊を増やすこともない。CO2量は変化なしだけど。

 モノは考えようだと思う。現に日本のメーカーの調査でも乗り換え・は少なくなっている。みなさん、今思ってることって、「じっとしとこう・しばらく」といういうことなのだと思う。

 これも・というかこれが意外にエコと言えばエコって気もしてくるわけよ。ジタバタせずに、乗る回数は確かに減ってるわけだからね。モノ買わなきゃエコじゃない・ってのは「敵の作戦」だからね。どうせ買うならエコなモノを・と敵は言う。しかし、買わずに「あるもんですます」これが一番エコ・って気もするわけです。

 旧車に乗ってらっしゃる方も多い。おれもそうだけど、メンテしながら、まあある意味フェティッシュでもあるけれど、オンナのいいケツを愛でるようにクルマのケツを見て「にやにや」しつつも、新御堂の上りではカル〜く一瞬5000回転ほど回してあげるなんてのも,精神的エコとも言えそうなのね・いや・まぢで。


 エコな音。根拠は薄弱だけど。そんな気がするのね。
posted by 浪速のCAETANO at 17:37| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | アルファロメオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月24日

資源がもったいない

 最近の、加藤さんの死でより明確になったと思うのだが、60〜70年代の「厚化粧していず、すっぴんの別嬪」のような歌を人が求めているというムードは単なるノスタルジアではないような気がしている。

 あまりに「無内容」な楽曲というのに人は疲れ、生活にも疲れ、疲れた挙げ句の生活水準の一部が「あら・あの時代とおんなじだわ」などという意識が底にはあると感じている。

 あまりに無内容な楽曲とは、自民党の無駄遣いと同じ病根を持ち、それはコイズミの登場とともに人が更にモノを考えなくなったこととパラレルでマイナスのピークを迎えたように思えてしょうがない。

 音楽産業は、例えば売れ上枚数や、いくら儲けたとか、なんだかオリンピックでもないのに、そーいった「数量」による評価がすべての評価みたいになってたから、コムロだとかアユだとかが値打ちみたいになっていたが、まさにそれって「幻」。まあ、そんな成功体験をもってる業界人多いと思うから、つまんないものをすごいものに言いくるめる手法ってすたれはしないと思うけれど、音楽を実は必要としていない人々の目先を変えるだけの小手先の方法ではもうちょっと厳しいだろう。

 進歩みたいに見えたものが実は時間軸が進むことに対応していただけの変化であり退行
だったことに気付いてももういいのでは。90・0年代とはほとんどゴミを作っていたに過ぎない。聞き手の(バカの)安易なセンチメントに訴えるだけの迎合の楽曲。それはゴミでなかったらなんなのですか? ゴミにも資源ゴミなんてのもあるが、リサイクルできんし、する必要もなく、敢えて言うなら「有害危険ゴミ」。

 亀井ちゃんに、「クソみたいな歌ばっか聞いてる」ってのも、「その」根拠のひとつだから・と進言したい。

 多くの4・5・60代の人々にとって、帰る時代は、あの時代しかやはりないし、これからそのような「時代」とは出現しないわけなのだ。残念ながら。

 「誰かのために」生きる。自分が自分がおれがおれがあたしがあたしが、なんて生き方が正しいとされてきたこの数十年の結論として、「誰かのために」生きるしか生へのモチヴェイションがなくなってしまったかのような印象がある。

 何かが間違っとったわけよね、やっぱし。決定的にだけど。他人に対して、どうして「保留」ができないのだろう・どうして、その関係をチャラにできるのだろう。そのヒトの代わりって「いっぱいいそうで実は誰もいない」。居ると思えるのは、資本主義的な発想だと思う。それも大企業のトップが工場のラインの人に対する感覚に酷似している。個性を受け入れるにはオノレのココロの余裕が要るが、そんなに余裕をなくして、一体何かがホントにできるのだろうか?

 イノチの軽さとは、資本主義の進行と決して無縁ではない。

 刺激によって人は変化する。その中でも人間からの刺激がなんつってもパワフルなんだけどね・と思ってる。もったいないことはもうしたくない。


 ガイジンがホントに値打ちがあったあの頃。 
エヴァと荒井注の絡みが忘れられん。「バカだから」「ハゲだから」「なんだ・ばかやろー」
posted by 浪速のCAETANO at 18:05| 大阪 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月23日

BOA NOITE!!!

 せっかくひさしぶりに創作意欲が湧き、「ええぞええぞ」という感じだったのが、法務局行って見事に萎む。

 くそー・である。

 ほんまにくそー・だ。

 病気になる。あーいうところに30分もいると。

 それにしても、昨夜は楽しかった。気合いも入りすぎず・抜けすぎず。どなたでも楽しめ、気も楽で、ナチュラルな盛り上がり。背後から客をセメる・という手法を編み出すカオリーニョ藤原エラい。狭い店ならではでした。キングちゃんもあれくらいの量のブルーズなら、ヘヴィでもなく、かつ・やった気にもなるよね。おれも燃え尽きず、軽く、アーティスト部分だけいい感じに刺激され、だから創造意欲が湧いてたのだ。それをあの大阪市法務局の・・・、

 まあ・ええわ・ユルしたる。

 最高のメロディが浮かんだ・と思えば、消えていき、テレコを取り出せば、やっぱり、記憶通り電池がなかった。そりゃそうだ・と思いヨドバシカメラICレコーダーでも買いに行こうと思い、じゃあついでに法務局も行っとくか・となったのが大間違いだった。

 今日は途中で大間違いの大失敗だったにも関わらす、昨夜はそのプロトタイプ作成の実験ライヴとしては大成功の「奇跡的にいい夜」だった。中津で初めて、曾根崎の「あの」感じが出た。こっちこじんまりだから、余計なんというか密接な感じもするわけよね。ゲラちゃんのような小型相撲取りぐらいのヤツが居ても何とかなりました。なんとかなるもんだね・なんとかしようと思えばね。

 今後はあの時間空間をできるだけ多くのみなさまに味わって欲しいものだ・と思いました。入れ替わり立ち替わりね。鉄板の部屋がヒト入りきれなくなって、真ん中の部屋に人だかりがして肩越しにこちらを見ながら聴いてる・という絵を幻視する。きっとそれは現実となることでしょう。

 できれば月イチでやりたいね。何かこれまで勢いがつきそうになると、ネコが死に、A美嬢がアバラを折り、Mタキが自分ジャーマンスープレックス投げっ放し・する・みたいなことばっかで、ほとほと「お祓いでもしてもらうべき・やっぱし」なんて思いかけてた。なんか付き合いきれんわ・という気分になっていた。

 これまで、いーっ・てなってたのはただの食い物屋とかバーとかなんでもいいのだが、そんな視点にばっかり晒されていて、そこにものすごく自分が「消耗」してたことがあった。いや、もちろん、そこは大事なところで、それが中心なのだけど、もちろんしっかりやっていただかねばならんのだけども、それだけ・という評価の視点はやっぱりややツラい。

 昨夜やってほんとに良かった。メゲることだらけで、もうどうしようか・などと思っていたところに一筋の光が一瞬見えた。そこは幻視ではないことを祈りたい。ていうか、今度また意識して見るし。


 しかしMCのヤツの服・派手過ぎではないのか。ボランはVo.G.共にグー。
 
posted by 浪速のCAETANO at 18:30| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月22日

カオリーニョ@TODO O MUNDO

 毎日陰鬱だった。だけど、やれることをやるしかなかったりする。

 というわけで本日は「カオリーニョ藤原」の投げ銭ライヴ@TODO O MUNDOです。

 なんと・かおるちゃんがあなたの耳元で演奏してくれます。完全生ライヴ。

 チャージとかありませんから、気軽に来て、そいで、「うーん」と唸って、「おおっ」と盛り上がって、時にしんみりなってジーンともきて、最後は「わっはっはー」で終わりたい。

 みんな・待ってるよー。

 人生の花・THIS IS 艶歌ボサ。
posted by 浪速のCAETANO at 10:06| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月21日

IRREPLACABLE

 病気で、または自ら命を絶って、ヒトって死んじゃうものだ。

 いずれ、死ぬのだから、早いか遅いかだけなのだが、どれくらい自分が大きかったのか(あるいはちっちゃかったのか)試しに死ぬわけにはいかなかったりする。死は一回性。生もまた一回性だった。

 加藤さんもこんなにある年代を中心に悲しまれる・なんてことがわかっていれば死なずに済んだのかもしれない。鬱病とはそんなものなのだろうか。自死に向かってあまりに用意周到で、そこまで気力が「モツ」ものなのだろうか。よくわからない。

 精神科医の北山さん・京都であった時になんとかしたってよ・とは誰もが思ったりしないかな。

 そういえば、かつて京都の「市」で加藤和彦・安井かずみ夫妻を見たことがあるのを思い出した。陶器を見ていた。なんか彼らのいるそこだけ非常にリファインドな空気があった。がさつさとは無縁の、公家的でかつ都会的といったそんな雰囲気。今をときめく・なんて表現はダサイがそんなこと。自意識がほとんど加藤さんには感じられなかった。

 遺書が密葬の場で公開されたみたいで、こう綴られていた。

「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」

 情況への批判とも受けとれる。まあ、そっち方向から見よう見ようとしているおれもいるのだが。誠実で才能のある音楽家に虚無感を覚えさせるようなこの環境。その評価が過去の過ちへの反省もなく歪んだカタチで固定化していくそんな環境。そこんとこ修正しようなんて気力も喪失してしまった惰性で動き続ける音楽業界。

 政治のやり方だけはちょいと変わるのかな・ぐらいのところまできているが、人はこと音楽なんてサブ・ストリームにあるものにはものすごく無批判で体制迎合的だったりする。
 
 人は毎日死んでいくが、若くても年老いていても、そのことは実は重たいなあ。

 より繊細ではなく、より強欲な人たちが生き残ることになってる・なんだか不思議だけど。何かに執着することは寿命を延ばすのかもしれない。厭な感じだけど。


 このセンスが今はもう存在しない。ものすごくコストがかかっていたのだ。

 彼のセンスって決して80年代以降のものじゃなく、60・70Sの原体験から日本とともに発展したもので、だから、その一回性ゆえに不世出であり、だから凡庸な音楽家でも彼に「関わっている」だけで、そのセンスに包まれたわけだ。音楽を作る上でのコアになるもの、それは理屈とかではなくなんだかもわーっとした、現実と非現実の間を行き来するエネルギー体なのだが、お金も時代性も想像力も才能も環境として必要で、そのまれなるものが彼には偶然あった。だから周囲は夢が見れた。これからは見れない。ダサイ人々が残っただけだ。
posted by 浪速のCAETANO at 14:24| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

考える

 なぜ、加藤和彦氏、死んじゃったんだろう・とずぅーっと考えている。

 いろんなことがTVからは流れてくるが、印税による収入だってあり、お金はたっぷりあったはずで、おれの年間2500円とはエラい違いだし、ほぼすべてのミュージシャンが彼のことを尊敬していたはずで、現在は最先端でなくとも(今って最先端は最先端ではなく、最先端なんてモノは存在しない)、これまで最先端が意味のある時代までは常に先頭走ってたのは事実で、ある時日本の最先端は「YMO」になってしまったが、そのYMO+αを起用して作った「パパ・ヘミングウェイ」から始まるあの金字塔とも言える三部作。

 安井かずみさんと共に作ったあの金字塔。安井かずみさんはまあなんというかトーキョーの先端人間で、加藤氏よりもいくつか年上で、彼を見事に素敵なオトナへと変えてくれた、そんなGURUでもあったと思う。そして、彼女にライフスタイルから何から影響を受けながら、極東の視点でヨーロッパの退廃まで表現してしまった・というのがあの三部作だった。当時の極東はかなりのものだった。ヨーロッパは黄昏れていたが、当時ニッポンはバブル。

 TVによると、誰もその三部作に言及しない。安井さんのことには触れたとしても。

 おらは死んじまったダー・か、いのーちーかけてとー、ばっかりだ。

 彼は作曲家である。作詞は北山修氏であり、安井かずみ氏である。彼の死後でさえ、それが代表作なんて言われるということは一般的に、彼が存命のときでも軽薄な人々はそう思っていたということだ。なんか不本意な感じがしてる。作曲家であってサウンド・プロデューサーな彼を語るのに「おらは死んじまったダー」で果たしていいのかどうか。日本人の軽薄度は等比級数的に増大している。

 あの三部作の歌詞は、びっくりしたことを覚えている。それは安井かずみ氏がこんな歌詞を書けるとは・という驚きで、あの歌詞にあのサウンドで、ヨーロッパの歴史が凝縮したわけだった。それほどの大作だ。書いたということは書けたのだ。「成熟と退廃」が見事に詰まっていた。

 オトコにとってオンナの人というのは大きいなあ・と思う。加藤さんはミカ氏とのサディスティック・ミカ・バンド木村カエラで代用が利いたけど、多分そんなのやってもやらなくてもどっちでも良かったんじゃないかな。「タイムマシンにお願い」や「スキスキスキ」もキャッチーな曲だが、まだあれはトノヴァンがオトナになる前の曲だし。

 それほど、その三部作の意義は大きいのだが「?」だ。誰も取り上げない。完全に無視されている。大衆社会ならでは・だと思う。東京の正にYMO周辺のミュージシャンならきっと同じ意見だと思う。あそこが一番すごかった・って。

 一番すごいとこを「素通り」されて、でもなんだかしらないけど先駆者だ・大御所だ・といわれるのなら内田裕也と変わらんじゃないか・と思う。永ちゃんとか。それ意味が違う。

 歌を歌ってるヤツ(いわゆるヴォーカル)のルックスだけで「かっこいい!!!」となる時代である。そこに「人間の凄さを見る」なんてバカなコメントが大手を振ってまかり通る時代だし。富澤一誠なんてバカが「大衆及び業界迎合コメント」を日経とかにいけしゃあしゃあと書いてなぁんもブーイング来ない時代だ。それほど音楽はシロートのためのものに成り下がってるのね。

 オトコにとってやっぱりオンナの存在は大きく、加藤さんにとっては安井かずみさんが限りなく大きかったのだと思う。そしてその二人で成し遂げたあのグレイトな作品群。それ以降は90年代以降の靄のなかに加藤さんもまた霞んでいた。90年代・それは「サルが作ってサルが聞く」という時代の始まりだった。

 そんな中で、あの三部作がベンチマークとなってしまってたとするなら、それは悲劇としかいいようがない。それを超えたいと思うのがアーティスト。しかし、「一人」では超えられない。しかも、それって一体なんですか?というのが業界とお客。

 大衆音楽の現代の難しさ・がそこには見えたりする。どんなにかっこいい音楽作っても売れなきゃしょうがない。そして,売れるか売れないかはヴォーカルのルックスが今的にグッドかどうか。業界の視線は「今だにメジャー視線」だ。オリコン一位が一万枚ちょいのこの時代に。加藤さんの言う「やりたいことがなくなった」は、今の業界・音楽情況では,という枕詞が付けばわかりやすい。

 思うのだけど、「誠実な音楽家」は90年代から生きにくくなったはずなのだ。バカが開き直っちゃったからだ。小金持ったバカが、開き直って、そこへ向かって、これまたバカな「音楽家」なんて言葉に値しないバカが、そこにものすごく安易な迎合を始めたからだ。もうギャグでしかないような音楽に溢れた90年代だった@ニッポン。

 なんだっけ、天皇のなんとかの会で「お歌を披露するのが前回がX-JAPANで今回がEXILE」なんでしょう。

 「不敬罪」だ。

 
 YOU'RE A LITTLE GIRL. いつもピニャ・コラーダ。

 

 


posted by 浪速のCAETANO at 20:54| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月17日

トノバンが・・・

 トノバンがなくなった。自殺だという。

 理由とかはまだよくわからない。だが、自殺は絶望の表現だからなあ・と暗い気持ちになる。

 日本人のミュージシャンでは尊敬出来る人だった。一番尊敬していた。

 「素晴らしい愛をもう一度」北山修・作詞、加藤和彦・作曲、も良かったが、なんと言っても安井かずみと夫婦だった時代の「パパ・ヘミングウェイ」からの三部作が素晴らし過ぎた。あの作品群を越える楽曲群・アルバムは未だ出ていない。安井さんの詩もすごかったけど、そのアルバムのコンセプトが、当時の日本の最高のミュージシャンたちとのコラボレイションにより奇蹟になった。奇蹟が三回続くと、それは奇蹟でもなんでもない。それが実力ということだ。

 多分、そっちはあんまり触れられることはなく「ヨッパライ」とか「イムジン河」とか「素晴らしい愛をもう一度」のことばかり取り上げられるのだろうが、そうではない。それだけではない。あの三部作は「明治から始まった日本の近代化の到達点」なのだった。

 ここんとこ大袈裟に聞こえるかもしれない。でも真実なのよ。ほんとにほんとに。

 ミカバンドの先見性も忘れちゃいけない。当時はキャロルみたいな、おれからするなら、かっこわりぃロックンロールバンドがメインの時代だ。70年代半ばのこと。YAZAWA氏は人としてはかっこいいけれど、音楽は大嫌い。

 当時、Tレックスやモット ザ フープルやティヴィッド・ボウイに加藤さんもいち早く反応していたのがわかってた。だから、カッコ良かった。

 音楽情況は90年代からもう「なし崩し」という言葉がぴったりの悲惨なことになってしまった。21世紀になってからは、何をか言わんや・だ。

 どの業界も同じだけど、マーケットを広げようと思えば、それまでの顧客以外のセグメントに訴求しないといけない。資本主義の宿命というなら、それもよし。しかし、そのことは、例えば音楽の業界・クルマの業界でいうなら、「売れるモノ」を勝手にトーナメントで何個かの「超売れるモノ」へ収斂させ、「カッコいい・値打ちのあるちょっと売れるモノ」を「売れないモノ」へと貶めてしまう。

 アホでも聞ける安易な音楽、サルでも乗れるイージーなクルマ。そういう辟易とするものだらけが氾濫する。業界人もホントにバカであるから、お金の匂いに引き寄せられる。ちょっとでも「売れそう」なものしかリリースしなくなる。その結果どんなことが起こっているか?

 結局、ワカモノには「?」かもしれないが、その音楽の質が急降下するわけ。コムロとかが偉大なアーティストみたいになっちゃってたことがその証拠なのだけど、やっぱつまんないのね、曲が、詩もだけど。それはも今現在のオリコンのトップ10とかで「1万枚」以上売れてる曲が2・3曲しかない・という現実を導いてしまう。たった「1万枚」も売れんわけよ。メジャーがよ。広告もできないよ・そんなじゃ。

 クルマにしてもそうだ。おばはんとかでも運転出来るクルマばっか、売るからさあ、軽やワンボックスの死ぬほど醜いクルマが日本の道路を占拠することになる。

 結局、今モノが売れない業界、そんなのばっかだが、それは業界人・つまりアンタらが、そうしちゃったのよね。目先の儲けに目が眩んで、そのマーケット自体を潰しちゃったわけよな。ホントにバカな人たちだ。

 資本主義の最終段階だからとも言えるだろう。が、しかし、彼らに気概がなかったことは確か。もう21世紀に入ってからなんて、悲惨の極み。

 加藤さんが絶望しても、しょうがないかな・と思う。ホントのとこはまだわかんないが、遺書があったというから、そのうち漏れ聞こえてくるだろう。

 ホントのとこはわからない。かつてジョイ・ディヴィジョンというあまりにもストイックなバンドのVO.だったイアン・カーティスが、やはり業界に絶望して自殺した。しかし、本当は彼女にフラれたことが原因だった・なんてこともある。ヒトの絶望の方角はそのヒトにしかわかんない。

 日本の音楽の質を劣化させた戦犯は、尾崎豊とブルーハーツだ。ブルーハーツは対バンもしたことあるから、よくわかってる。音楽的に,その後の世代になんのインスピレーションも与えない3コードの遅れてきたパンクの残りカスだ。もうそんときにゃあ、パンクは終わってた。尾崎もブルーハーツも日本人の貧しさをものすごく体現したシンガーとバンドだ。インスピレーションはなぁんにもないが、その後の世代はみんな影響を受けてしまってる。「悪影響」だ。そして、歴史は「もいっかい」ができない。資本主義の最終段階ともカブる。日本人の「喜劇に近い悲劇」だな。

 加藤さんの気持ちがわかるような気がする。最も敏感な精神がそんな目にあったりする。ご冥福を祈りたい。

 うたかたのオベラより。何でも等価・ってのはいかんよ。脱構築・がよくなかったのかもしれない。
posted by 浪速のCAETANO at 18:37| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月16日

おっさんのあれこれ

 ヤマが本日終わる。

 あとはおじいさんのおしっこだ。

 来週はいろんなことの処理にかかれる。そっちも考えただけで「ふう」なのだけど。そっちの方がヘヴィかな。まあしかし、ケツに火が付き火傷は厭だ。

 何かをしようと思えばセッティングが要る。そのセッティング、モノのメンテナンスだとか、使ったものをちゃんと元あったところに戻すとか、そういうのが極力苦手なのだ。そういうことができる人が仕事ができるっていうんだよね。仕事は延々続くものであり、反復するものであり、ある種その退屈さを何かをリニューアルすることで忘れないといけなかったりする。

 とっちらかる・というのが、わかりやすく欠点だったりする。「欠陥」かも。エントロピー内蔵。

 村上春樹の小説の主人公でいつも感心するのは、料理をちゃっちゃっと作れることではなく、必ずその後「食器を洗う」ことだ。料理を作ることが表の作業とするなら、食器を洗うことは裏の作業だ。その裏の作業をさも当たり前に、淡々とやれる主人公に今頃になって「なんだかすごいな」と思う。よく考えると「後片付け」を書く人もあんまりいないもん。

 陽の当たるところだけが、仕事ではない・と村上さんは言っているかのようだ。いや、作ること・後片付けをすることはひとつのルーティンの中にある・だからそこには感情のさざ波を立てることもないのだ・とそんなことを言っているような気がしている。

 しかし、ここがある種の人間にはムヅかしいところだったりもする。二元論的に考えちゃうと。サニーサイドとダークサイドだったら誰だってサニーサイドの方を好む。位相を変えて「ワイルド・サイド」なんて方面もあったりするが。

 料理を作る・食べる・食器を洗う、これが「一つの」流れなんだろう。強い精神力がいる気がする。だって、晩メシの際には大抵酔っぱらってしまってる自分を知っているからね。足腰の強さも感じる。マラソンランナーだしね。

 しかし、精神の強さ・というか竹のようなしなやかな強さ・これは必要なことなのでしょう。なんだか「原日本人」はそうだったのでは・とも思う。

 高度経済成長やバブルで勘違いしちゃったのかもしらんね。その勘違いはおっさん世代でないと指摘出来なかったりする。


 おっさん世代のかつてのトキメキ。

 
posted by 浪速のCAETANO at 18:49| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

テキにカツ

 TUTORの2日目がまあまあヤマだったのだが、それが終わってちょっと油断して飲み過ぎてしまった。三日目のTUTORに行って、アルコールチェッカーで計測すると0.35・と出た。びっくり。

 教えてるうちに0.10まで下がったが、本日はlogだったので、まあそんなにアタマの芯は使わずに済んだのだ。

 ダブルカツ丼の昨日、店から、ステーキ肉をもらっててはよ食べなアカンし、焼きに来いとのオーダーが入る。しゃーないし、行く。

 見ればいいサシの入った分厚いサーロインが4枚・いやーん・焼いてぇん・と白木の箱から訴えている。マディラ・ソースと山葵醤油で喰おう・ということになる。

 おれもA FEW PIECES喰ったが、さすがに昼間の乱暴者の余韻があって、それ以上喰えなかった。

 共同通信チームにも少しお裾分けし、T瀬とA美嬢・Mタキ中心に3枚わしわし喰い進む。昼間の乱暴狼藉をやや後悔するおれだった。

 しかし、「テキにカツ」だったのだが、「なんのために?」

 巡り合わせの妙である。

 本日でチャリ通3日目だが、体重がやや戻りかけていたのだがまたマイナスの回復をみた。明日もう一度行けば2KGほど落ちるだろう。乱暴狼藉にも関わらず。

 本町あたりを走っていたら「本町あたりにあなたがい〜る〜と」という歌詞が浮かんでくるほどおれのアタマは単純だ。しかし、この切なくも一途なオンナの行為、雨の御堂筋・は女子ストーカーの歌だった・今なら。

 過去にみなさんが喜んだ歌が今の環境ではニアリィ犯罪だなんてことをとっても現在の生きにくさ・息苦しさ・がわかろうというものだ。

 一途で狂おしいほどの「相手を求める気持ち」を行動に移すと「ぴっぴっぴ」とはなかなか複雑な心境にもなるが。そういうことはTOO MUCHとされるわけだが、愛情の発露・とはそんなもんだったりする。

 愛情自体・それは狂気と紙一重の精神の営みだ。大体、さらっと生きようなんて思わなければ、めんどくさいことだらけなのだ。仕事に追われ、「生活」を人質に取られながら仕事に囲い込まれ、人間の本来からどんどん遠ざけられているおれたちの姿がそこにはあって、なんだかあまりにもさらっと面白くもない人々が増え、その分、どろっとしためんどくささがある特定の人に集中して、それは女優だったり、犯罪者だったりするのだが、身代わりにそのテの振る舞いをしてくれるのを外野席から見て、その代理行為で満足した気になるという、あまりにもナサケない人生を送ってませんか・と言ってみたい。

 だからっつって犯罪をしましょうということではないのだけどね。キワキワの線てあるやん。

 なんといっても「テキにカツ」なので、とよくわからん終わり方。


 「青のルムバ」

 
posted by 浪速のCAETANO at 18:10| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月14日

小さくチャレンジ

 昨日・今日と中庸の気候で、サイクリングに最適!!!なので、TUTOR は「一人力」で行っている。

 最近やや運動不足でもあったのだ。おれのカマキリ型ハンドルの6速で日本橋まで35分くらい。

 本日は一時からだったので、本町あたりはリーマン・OLの昼メシ帰りと多数遭遇し、障害多しだった。堂島川を越えた辺り、まあ都市では建物が自然の役割を果たしているから、天気のいい本日昨日などは、すかっと抜けた空に余裕を持って屹立するビルはなかなか好感を持ったりする。

 ダイビルを掠めて、土佐堀を東進し、四ツ橋を南下、ミーツ前ぐらいから一本東の筋へ入り、南下して本町手前で東の筋へ移動する。美々卯本店の前を通って、大阪会館、相愛学園の裏、おお相愛は今年も新体操近畿大会優勝か・など思いながらさらに南下。中央大通りを横断し、依然ポルトガル語を習っていたオーガニックビルらへん・今をときめく街となっているが、おれがそのスクールをヤメた頃から発展しだしたよな・など思いながら、長堀通りに当たる。適当な信号「青」まで東進し、渡る。今日は日航の裏の通り。途中で御堂筋に出て更に南下。韓国領事館前には本日もおまわり2名である。昨日はだべっていたが本日は離れて前を向いている。道頓堀を越えて、千日前通りを渡り、高島屋のとこのロータリーをぐるーっと廻って日本橋へ。その時12:56分。メールが来て「ちょっと遅れます」という。「どんぐらい?」と訊けば「30分ぐらい」と返ってくる。「うーん・もうっ」となるが、アタマの中が、やや「サイクル・ハイ」になっていて、なんか惰性で進み続けたい・なんかそんな感じ。

 で、オタロードらへんをうろうろするが、特に、当然ながら、目当てのモノ・店ともにない。少し空腹なことに気付き、あ・そーだ、まる栄・行ってみようか・と突然思う。あの伝説の・勝手に伝説化しているだけなのだが、あの「カツ丼」にチャレンジしてみようか・と「魔がさす」
 
 8時過ぎまでメシ喰えないし、ちゃり往復だしな・と納得させる。30分あればちょうどいいぐらいだよな。

 で、まる栄にて「カツ丼」である。

 でどうだったか?

 たまげた。

 見た目は普通である。しかし、カツを一切れ喰おうと思って取り上げた時、「ん?」と思ったわけだった。カツの下はふつうご飯だよね。それがご飯の色ではないのね。カツの色してるのね。「あっ・これか、そーゆーことか」だった。カツの下にまたカツ。二段重ねのカツ。デジャヴュー・なカツ。

 で・たまげた。「なんじゃ・こりゃー」だった。

 ところで、最近一番笑ったこと、U字工事だっけ、あいつらが松田優作が栃木県人ならみたいなことで、そのなんじゃ・こりゃーをやったら「なんだ・こり」になるってやつなのだけど、笑いは個人的ですが、おれは・笑った!!!

 トンカツがさ・クロスにされて二重になってるカツ丼だった。だからカツを喰っても喰ってもまだカツがある。カツを喰っても喰ってもまだ「カツ丼」のまま。喰えるかな・とやや心配にもなったが、カツ丼喰ってカツ残す・はオトコじゃないわけで、いや別にオトコであることを日常のポリシーなんかにはしていないのだが、初めて行った店でそれはないだろう・やはり、だからとりあえず「オトコ」になろう・と思って、喰っても喰ってもカツ丼のままなのだが、がんばるのね。卵は上の列にしかとじられていないから、そうだ・下から喰おう・と思って、よっこらしょと下列のカツたちをほじくり出す。なんとか下のカツたち完食してやっとこさ、そこには「ノーマルなカツ丼」が出現したのだった。

 でもまあ気合いが入ってたから、それとご飯は普通の量だったから、もたれなかった。

 たまにチョーセンしてみたい。「何か」を確認するために。
 一体「何を」だろう?

 しかし、さすがに本日何も喰えん予感。


 なんだか「ガツン」と言う気分である。カツ丼だからか・それともおれが「そんなに」単純だからか・よーわからんのだよ・これが。
 
posted by 浪速のCAETANO at 20:07| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

AQUI ALI LA

 このところ暗い。

 社会も暗いが自分も暗い。住んでる街も暗かったりして困る。

 自分の家だけが救い・なんて、そんな人が居たら可愛そうと思う。引き蘢りの一歩手前であるが、行くべきところへは行っているが,それ以外のところへは気が乗らんというのがショーミだったりする。

 ブログのトーンも暗い・っていうか堅い。もっとアホで柔軟だったはずが、こんなことになってる。

 理由はわかっちゃいるのだが・というか、現在の根拠は過去にしかなく、その過去は取り戻せないから、その過去と過去の過ちとその結果である現在を受け入れるより他なく、やや苦しんでいる。

 自分が好きな「生活のトーン」というのがあって、散々そういった色で生きてきて、それがある日突然、さまざまな現実のハーシュネスだけを置いて、消え失せてしまう。そのトーンが消える際には、グラデーションというか、フェイドアウトというか、水が排水溝に吸い込まれるようにというか、ある意味の自然の法則みたいなものがあってしかるべきなのだが、それが画像が切り替わるような容赦ないカットアウトだったりするわけで、ここにも「赤ずきんちゃんガブリ」があった。

 友人の相次ぐ死や母親の事故やガン手術などで、心の中の最も敏感なパーツの外皮が溶けて粘膜がむき出しになっていた。それがあまりにも短い間に起こったことから、まあ・なんというか、「ひどい混乱」があったように思う。曾根崎の問題もあった。弁護士を雇ってもどうにもならない・そんな無力感は、その混乱を、夏の紫外線メラニン色素として肌に定着し、あとで厄介な問題の原因となるかもしれないように、心の中に沈殿させとりあえず収めた。

 そんな中ダメ押しのように起こった「生活・人生における雪崩のようなもの」が50年間の蓄積・それは決して整然とはしていず、なんだかいびつなカタチを持った何個かの頂のようなものだったのだが、それらを押し流して行くわけだった。いやー・いろんなことがあるよ・まじで。

 あんまり逆らう気力もないので、されるがままだけどね。ただ、馴染みのある・そして自分のこころを穏やかにしてくれる・あの「人生のトーン」は「I MISS YOU」だし「SAUDADE」だ。ほんとにもう、それだけ・でいい。

 それがあれば、またそこから「始まる」

 今年が「忍辱(にんにく)の年」になるな・それならそれでもいいな、とは思っているが、そうはいいながらももう10月

 この数年、いろんな人々の期待を裏切りながら、あっぷあっぷしながらやっていたのだが、それにはこんなことがあったんだよ・とちゃんと説明したいし、そのデッド・ラインはあと2ヶ月あまりだ。ほんとになんにも出来なかったし、解決したなら、もう一度「出来るヤツ」に戻りたいものだ。

 ここ・そこ・あそこに転がっているタネをちらっといらって放置しつづけている。ほんとに失礼こいておったのだった。

 SPEAK YOUR MIND、ほんとにそうなのだ。

 
posted by 浪速のCAETANO at 17:47| 大阪 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

from the BOTTOM

 広島長崎両市が2020年オリンピック招致に立候補するという。

 いいことではないか・と思った。象徴的に意味に於いても、現実的な意味に於いても。

 少なくとも、東京が招致するより100倍好ましいことだ。東京は意味がない。ただ、オリンピック景気よ・再び、ただそれだけ。あとはバカ知事のオノレの名誉のためだけだ。

 広島市長の、鳩山ちゃんよりもずっと滑らかな英語で語られたその中には「核なき平和な社会をCELEBRATEするために」という印象的なフレーズがあった。現実には2020年に核が世界からなくなるなんてことは有り得ない。しかし、それはフライング気味なオバマへのノーベル平和賞の決定と明らかに呼応して、「先」を見据えるチカラと、平和を希求する勢力が明らかに存在する・という意味で象徴的だ。

 まあ・ノーベル賞の根拠となったオバマのプラハでの演説は手放しで喜べないような内容ではあるけど、それはNATOの同盟の強化であるとか、自分の核は削減はするがおいといてー、イラン・北朝鮮の核開発への批判だけ、とか、アフガンへの異常な執着とかね、しかしそれがすれすれの「現実的」な物言いということなのだと思う。ただ、「唯一の核使用国としてのMORAL RESPONSIBILITY」という言葉は、そんなこと言ったアメリカ大統領がこれまで居なかったことを考えれば、明らかに一歩進んだわけで、それこそ小さな一歩なのだが、これまでは進む気配さえもなかったのであるから、アドヴァンスとしてのノーベル平和賞の意味もそこにあるのだろう。

 人格や発せられる言葉、オバマは世界にとってはヒーローである。アメリカ国内に於いては苦戦を強いられているが。アメリカ人が「懲りないアホやから」ということもそれには関係してる。

 それよりも広島長崎でのオリンピアードとなると、現在のこれみよがしの規模が拡大し続ける商業五輪に対するアンチ・テーゼの意味もありいいな・と思った。国体ぐらいの規模でもいいんじゃないの・とも思う。広島も長崎も大きな都市ではないし、特に長崎市なんて平地が少なく坂ばっかりの街だから、街の規模に合ったオリンピアードでよいのでは・と思う。

 ウンコにたかるハエのごときメディアの数も制限して、開会式は広島で、閉会式は長崎で、なんてことになればいいのにな・と思う。規模を絞れば出来るでしょう。絞れるかどうか・だけど。

 今試験前一週間で、塾とTUTORで忙しいが、どの学校も新型fluの欠席者がいる。そんな中バタバタしているわけだから、いつ罹ってもおかしくない。やや・腰が退けながらもなんとかやっている。罹るときは罹る時だとは思うが、なんとなく、気のせいだろうか、体調がよろしくない。酒も控えているし、まあソファで寝て、あ・しまった、はあるにせよ、なるべく睡眠を取るようにはしてるのだけど、もちろんVITAMIN Cは大量投与である。ちょっと変だな・と思えば葛根湯も飲むようにしている。

 よくよく考えれば、世間は危険が一杯だった。地震に台風に伝染病に交通事故に・・・・。普通に生きる・で生き延びる・ってことなのだなあ・と思えてくる。これ・実感である。それに加えてこの社会情況だ。もうこれまでのような・お金・が人を幸せにはしてくれない社会だし、そもそもそのお金がない社会でもある。

 どの飲み屋さんに行っても、この2・3ヶ月「異常だ」という話になる。これはもっと悪くなるし、その悪さからの脱出はもう難しい。無理・と言ってしまってもいい。えらい時代に滑り落ちてしまったものだ。社会の構造も変わってきているし、そもそも資本主義自体がこのままではもうモタない・という気がしている。

 今おれたちが生きている社会とは、ポスト歴史・な社会でもある。世紀末さえもが終わってしまった社会。なかなか想像が難しいのだけど、そこにいるから余計にそれが見えにくい。

 22世紀なんて、想像を遥かに超え、果たしてそんなものが「存在」するのかさえアヤシい。2020年ぐらいまでは、おれの貧しい想像力ながら予想は出来る。でもそれ以上はちょっと難しい。もう少し早く生まれたかったものだ。

 今の子どもたちを見ていて思うことは「喜び」の質・量ともに貧弱だ・ということだ。そして周りは「ニセモノ」だらけだったりする。かわいそうだ・と思うが、人は生まれてくる時代を選べないのだから、なんとも・だ。それに加えて、「新自由主義的なオトナ」の「こうすればおいしいよ・キミだけにこっそり教えてあげるけどね」という言葉に親子で騙されたがっているから、依然懲りない人々だらけだ。

 みんなの「底上げ」が大切なのだけど、意識は依然「新自由主義的」だったりする。自分だけが賢く・あるいはお金持ちになったとしても、周りと話が通じなかったり、一緒に同じ遊びができなかったりすると退屈しそうなんだけどね。

 亀井ちゃんの「極論」おれは最近ものすごく支持している。ウォールストリート人ほどではないにせよ、日本企業のトップなどもその精神は同様だからだ。

 他人のイノチが軽くなることは、オノレのイノチが軽くなっていることが理由で、それは職場で・学校でその尊厳が踏みにじられているからで、それを踏みにじるやつらの心の中には「新自由主義的精神」が蔓延しているからだ。そんなこともわからんのか御手洗。アホのフリはやめなさい。

 
 このヒト、最初から「身軽」だったのだね。その後の「発展」がよくわかる。
posted by 浪速のCAETANO at 13:54| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月07日

籠る日

 どえらい台風の接近に伴い、家籠りだ。

 タバコも3箱買ってきた。食糧もある。酒もあるし,コーヒーもある。多分明日は午前中は警報が出て、学校も休みになるだろう。

 風雨が怒涛化するのは今晩からだから、店を開けてもしょうがないかな・という気もする。

 何もしないのがいいだろう。で・家籠り。

 することはあるのだ・いろいろと。台風は明日の午後には近畿を離れるはずだから、外的活動はそこから。それまでは籠ってしか出来ない事もあるから。

 とは言ってもたいしたことではないが。誰にでもできることね。

 ただ、台風とは、そのもたらすであろう被害・のことはさておき、エネルギーのかったまり・という意味に於いては、その存在は一種の憧れを感じざるを得ないというそんなアンビヴァランな感情を持ったりしないだろうか。

 エルニーニョによる海水温度上昇が原因なのだろうか、そう言われているが証拠はないが、巨大台風は海上に居る間はどんどん熱い水蒸気を補充されるわけだから、海上温度の高いところでは発達もする。しかし、温帯までくるとやや弱り、上陸すると、補給を断たれて衰弱していく。そして熱帯低気圧になるのだけれど、あんなにいかつかったものがあっという間に衰弱していくのが、やや興ざめと言えばそれを否定できない。衰弱しなければ被害は甚大だから、それは喜ばしいことなのだけど・だ。

 しかし、平穏な生活・とは現代のもたらす幻想だと思えば、そんなことはまあ頻繁に起こってしかるべきなのだ。

 スムーズに事が運ぶ・なんてことに関しておれたちはあまりにもそれをあったりまえ・と思うことに慣れてしまった。多分80〜90'S半ば・に身に付いた習慣なのだと思うが、「たまたま」いろんなことが上手くいってたに過ぎない。それと高度経済成長時代のプラスの記憶が相まってどこまでも弛んでしまったおれたちなのだろう。「世間」が狭かった。世界が世間とするならば・である。

 家に籠るのもよいが、店に籠って新メニューの開発もいいなと思っている。


 台風のような方々である。インナーをアウターとして・ていうかパンツは「上着」。コペルニクス的転換にYES。
   


 
 

 
posted by 浪速のCAETANO at 14:10| 大阪 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月06日

弦を張る

 ニッパ・ワインディングナントカ(所謂くるくる)・チューナー・弦2セット。

 上記を準備して、弦を張り替える。

 にせギブソンのアコースティックギターとK・ヤイリのエレ・ガット・ギター。

 ギターの弦は常に張られていないと弾くことが出来ない。当たり前のことなのだが、その当たり前の状態の下支えという作業である。弦は消耗品であるから、自宅で弾いてる分には、その劣化は別に気にならず、却ってその劣化が初期のブルーズマンのような「アジ」な音という気がするときさえあるわけだが、時にはサラの手つかずの音が欲しくもなる。だからたまには弦を張り替える。

 張り替えそのものも、これは何か修行のような気がしないでもなく、適度な長さにカットして、スチール・ガット弦と張り替えて行く。スチール弦はそうでもないのだがガット弦がなかなか張るのがムヅかしい。仕様がまるで違うからだ。

 繊細さと強引さが必要で、その修行めいた作業を進めて行くうちに、あ・こうしたらもっとうまくいったのだ・なるほど、みたいな再認識もあったりして、弦の張り替えはさいしょはどうも億劫だったりするのだが、やり終えかけにはもう一本やってもいいな。なんて気になるから不思議だ。

 以前はユルフンが「喜んで」張り替えてくれていたこともあったし、まあおれもそんなに喜んでやっていただけるのならそれに甘えちゃおか・なんて虚弱さもあったのだが、やっぱりそれではいかんな・ってのが最近の感覚だ。

 自分の器材は自分で・これがいいかな。基本かな。基本ってすぐ見えなくなるものでもある。

 日曜は、楽市楽座の「金魚姫と蛇ダンディー」を見に行く。

 異化と同化がモザイク状に入り混じる、野外劇なのだけども、長山さん、やりたいことすべて注ぎ込んどるなあ・という感じだった。この時期に特設の池は少し寒かったんじゃないかな。まあしかし、それが演劇だったりする。門外漢の私見でした。しかし、いい曲書いてるよね、長山氏。

 最初は座布団に座って最前列で見ていたのだが、ちょうどおれたちのいる場所から見て関テレのビルの横を「見事な満月」が立ち上がってきて、急遽、第二幕からは俯瞰できる柵の外に移動して,持ってきたワインなど飲みながらの観劇となり、シチュエイションもこれ以上ない善き夜だった。

 月曜はレインドッグス階上での「ただライヴ

 ユルいながらも緊張感なきにしもあらずでカオリーニョ・ホストの采配により、いろんなヒトが歌う。

 ユウミちゃんの歌をちゃんと聴くことと、デュオを楽しみにしてた。まあ納得もしたかな。なんか作るドライヴにはなるかと思った。何事も経験だよね。

 自分が何をやったか、あんまり覚えていないのだが、

 きみの巻き毛の下で
 LUZ DO SOL
 葡萄
  Je suis venu te dire que je m'en vais
 casa portoguesa
 fina estampa
 deste que o samba e samba assim
 2001
 equatorial
 san vicente
 ヨーデル〜ポリシュカポーレ
 a hard days night
 mae preta
 dar agua na boca〜bom demais
 コンドル2

 こんなかんじかなあ・なんか抜けてるよな気もせんでもない。サントス楽しそうだった。

 すっぽんぽん'ズも初志貫徹。靖子ちゃんも来て手品師をやってくれた。ミタキもごり押しのねじ込み完了。

 月イチでお邪魔しようか・と思ってる。@藤の湯です。

 経済危機に地震に今度は巨大台風である。もうなんとかしてよ・だ。ヒトのチカラの相対的弱体化を最近感じるのだが、これって、おれたち今まで幻を見てただけなのかもしらんね。チョーシ乗ってたってことかもしれない。しかし、最近一気に人間の脆弱さが顕在化していると思う。何かに守られとったのだが、その守ってくれてた何かが溶けてなくなっているのだね。ひりひりするような情況である。

一つの曲をいろんなヒトで試す。そんな姿勢は良いのでは・と思う。
しかし、DUOってエロいな。よいな。


posted by 浪速のCAETANO at 15:44| 大阪 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月03日

masterpieceの塊

 ふとしたことから、このところ旧いラテンをよく聴いている。

 ものすごく曲として高度で引き込まれてしまう。ブラジルのみならずラテンアメリカ全般といってもいいと思う。

 おれは残念ながら音楽に関しては「消費者」ではないので、その曲を体内に溜め込むことになる。聞き流しの出来ない曲ばかりで金縛りみたいになる。体調悪し・だ。

 過去の音楽家(コムポーザー・プレイヤーシンガー)の熱に直接あてられる感じは悪くないのだがそれを受け止めるのにものすごく体力が要る。

 その音楽とは、現在のたとえばJPOPなんかとはジャンルの違う何か・何て言うのかよくわからんが、コアなマトリックスであって、ほぼ大衆音楽なのだけど、じゃその大衆はどんだけ音楽的にレヴェルが高いのだ・と今の情況からすると予想もつかないわけだった。

 どの曲も「屹立」しているのだった。

 世の中の流れ・といえば、はいそれまでよ・なのだが、「安易に論じ合える事柄」が多過ぎると思う。

 消費者が「どうモノゴトを消費するか」でしか、オノレを表現出来なくなってから久しいと思うが、そこんとこ、それこそ安易に受け入れてる人々多し・でげんなりなことがある。

 例えばフランス人との共通点がそれ・だったりするなら嬉しいとは思う。違う・ってとこがスタート地点だったりするからなのだが、なんだかなあ、みなさん「安易なシムパシー」に嬉しがり過ぎではないのか・と言っておきたい。

 そんなに自分に自信がなく、群れ・を志向したいのかな・と思えば、ココロが寒くもなるが、エエ年こくとヒトはもう変えられない。あ〜あ・である。

 あ〜あ・なのだが、周囲にガン飛ばしてもしゃあないから、オノレの内部を深めて行くことにする。最初からそれでよかったぢゃん・という身もフタもないが、一回りして落ち着くべきとこに落ち着く。


これTVドラマの主題歌なのかね。

 
posted by 浪速のCAETANO at 17:16| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月01日

告知など

 10月である。今年も3/4が終わってしまった。めまぐるしい。去年の10月にある事件があって、そこから本格的に足元が崩壊し始めた。正確に言うと崩壊に歯止めをかけることに費やすエネルギーがアホらしくなった。でもあれから1年。I'm still alive

 2010年である・来年って。キリがいい。2010年スペースオデッテイ。2010年の10月にはどうなっているのだろうか。

 先のことってもうほんとにわからないのであるが、予測をする気にもなれん。明日は明日の風が吹く・だったりする。そんなのが向いている。

 ちょっと2050年を想像してみる。何と92歳である。どうしよう。いるかいないか・でいうなら、いないだろう・と思われる。世界人口90〜100億。

 2040年を想像してみる。82歳。ビミョーだ。いるのはいいが、どんな居方かってことが重要で、そこんとこ、はなはだ心もとない。存在が半透明化してるようなイメージだったりする。世界人口80〜90億。

 2030年を想像してみる。72歳。一般的にはまだいるのかもしれない。日本人の平均寿命を考えるなら、充分いるはずだが、いる・に値する社会なのかどうか。ほとんど邪魔者だったりしないのか。世界人口80億。

 2020年。世界人口70〜75億。想像すんの厭になってきた。厭んなっちゃうけど、今から2020までが、そう考えると「キー」な時代かな・という気がする。それはCO2の問題だけに留まらないと思うけどね。人間の精神に関わる、今進行している重大な「変容」と、それを後押ししている「資本主義」にどうブレーキを掛けるか・という問題がそこにはある。テクノロジーの発達と人間の幸せの関数はズレ始めてから久しい。それに対するオルタナティヴだって考えなきゃいけない。

 最近、アーティスト風のやつらの、コンセプトの「大言壮語」と内容の「ショボさ」にイラっとくることが多い。例のトランス・レイヴ系の集まりにも思うことだが、「イっちゃう」ための重たいビートとケミカル(イっちゃうを「解放される」に格上げしても構わんが)、の使用ってとこにおれはいささか疑問を感じてて違和感持ってる一人だ。それは刺激慣れしてしまって想像力が蚤のハートほどに萎縮してしまった(より強い刺激を求めるジャンキーの精神ともよく似て)、変なアメリカ化の何かではないのか・と思う。レイヴの本場はEUだよ・としたり顔で言う方、まあ聞いて。より巨大な仕掛け・音・なんてのがアメリカの代表する「クレッシェンド」の相似形だ・と言ってるのね。暴発に向かって進む世界のカリカチュアにも見えて、まあ勝手にやればいいと思うが、それはアナタたち「アウト オヴ デイト」な気がしないのかね・と不思議だ。大層な空間とPAがいるところもなんか時代錯誤な気がしている。ただ、だ〜れもいないおそとで、ビートに「引っぱられ」カラダ動かして、クスリでぶっ飛びたいだけではないのか・と横目で見たくなる。なんだか、すべてが「受動態」であるところがおれは嫌い。

 考えてみると、これまで直線的に進んできたつもりの人類とその社会の「発展」が曲線的になり、加速度が「0」へと近づいていることが、サルにもわかる。今は完全に放物線の上にあり、上向きに発射された弾でもなんでもいいけど、その初速が重力加速度に浸食され、その一定の重力加速度が・というか・重力加速度だけがチカラとして作用する時期が来るのだなという予感が確信へと変わる時期が「今」ということになるだろう。で、それは物理的には「自然(当然)」なことなのね。

 では、おれぐらいの年の人間がこれから生きる「倫理」というと一体なに? という事になる。仕事で忙しければ、その中に埋没すると「紛れる」のだが、基本「ヒマ」で生きてきてる身といたしましては、そこんとこアホなアタマで考え込んじゃったりする。しかしそれは「遠い結論」だったりする。

 前フリ長っ! では告知です。

 
<<その1.>>

 長山現さん作・演出の「楽市楽座」の「金魚姫と蛇ダンディー」の大阪公演。
10月3日(土)、10月4日(日) 会場:扇町公園 特設野外円形劇場
すべて  開場17:30 開演18:30
(全席自由席/雨天決行・客席屋根なし)
料金
一般 前売・予約3,000円 当日3,200円
中高生 前売・予約2,000円 当日2,200円
小学生以下 前売・予約1,000円 当日1,200円

 長山さんは阪大時代の一つ先輩で当時は「幻視行」という劇団をやってらっしゃって、ハートビーツの朗さんも関わってました。軽音とはなんか仲良かった。公演後のテント上で劇団員女子と軽音周辺のやつが公開セックスするほど仲良かった。今回は違うみたいですが、前年までは「円形劇場ラフレシア」なんちって、偶然の一致などもあったりして。
おれは多分,日曜の部に行けるかと。

<<その2.>>


10/5(月)
梅田レインドッグスの上「ヘヴンズ ドア」にて
すっぽんぽん'ズ公開リハ・というのを行います。ライヴ・ではなく、公開リハ。新しい試みですね。
ん? と思われた方・運がいい。
すっぽんぽん'ズは「世界一ヘタなパンクバンド」としてWELL KNOWNですが、やり直ししたところで30分が限度だったりする。
ヘヴンズ ドア月曜日はかおるちゃん(カオリーニョ藤原)ナイトで、おれも行く(w/ギター)関西ボサ界のアイドル・ユウミちゃんも登場する予定、もちろんかおるちゃんもギター置いてる。後は推して知るべし・ということにしておきます。
「投げ銭制」です。トドムンドでこないだできなかったりすることってあるやん。
20:00ぐらいから。


<<その3.>>


辺境の地・中津で苦戦を続けるTODO O MUNDOですが、秋になってのTODO O MUNDOと言えば、アレ、「お初鍋」(ふつう/からい)を始めようと思います。前日までに予約していただいたら間に合います。最後の雑炊までついてお一人様2500円(2人前より)です。

パートタイムパンクス・ってコンセプトは好き。

posted by 浪速のCAETANO at 10:31| 大阪 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする