年賀状はもう何年も出していないのだが、オヤジとオフクロに手紙を書き、吹田の本局まで愛車(チャリ)を飛ばして、帰りに豚丼を喰ってしまった。このマヌケさが穏やかさを象徴するというものだ。
ミーツから今日次の号が送られてきて、思ったことだけど、締まってるぢゃん、おれのおかげで・と思ったが賛同の方きっと少ないのかな。でもね、あのようなアプローチしかリアルじゃないと思うのよ。読者を変な「躁状態」にすることの罪も考えなあかんわ。それでもちゃんと曾根崎のページには情報もあるし、いきたい店も満載である。それはそのお店が素晴らしいということなので、そこはおれの功績ではなく、だからだね・そんなにむやみにノリを作んなくてもいいエリアもあるっちゅーことよ。来たこともないヤツがわかんないくせにガタガタぬかすのはよろしくない・ということなのである。デッドエンドストリートに今から人が溢れるなんて考えたら違和感ありすぎるもん。できればみんなちゃんとちゃんと読んだ方がいいと思うよ。
マルタニカズが明日のライヴに出演するかどうか・のハナシ。
わからない。そんな義務はない。自分の店なのである。おれはコロコロ転ぶ大の気分屋さんでB型で魚座であって本日やっとおシゴトから解放され、その自由を今から満喫しようかなと思ってるぐらいのターニングポイントちょいと曲がったくらいの現実の中にいるに過ぎないから明日の夜・2006年の最終数分のことなんて「わからない」ということがおれにとっての「誠実」なのね。それを非難囂々されたとしても「屁」でもないのである・別に。なぜか? 自分の店だから。責任はおれが取るから。責任取れもしないヤツはいちいち確認が必要なのだ。なにもかもがカル〜いのだ。アタマも存在も認識もなにもかも。もう・いやんなっちゃうよ。ですから、今言えることはTODO O MUNDOの年末の空気を吸いにいらっしゃい・これだけ。でもこれはわざわざ来て五官に刻み付けて欲しいって思う。それだけの値打ちはきっとあると思います。まあ・おれとおれの店で飲もうよ。
今というものはすぐに過去となるが、人は過去の集合体であり、その免疫があるから未来を生きることができるのである。すべての今はすぐに過去になる。すべての未来さえもが過去になるのだ。だから曾根崎の偉人は「記憶とか思い出だとかなんの役にたたない・ってこともない」と言うわけだ。明日もすぐに過去になる。そして一年経てばああ・そう言えばあの辺りに「変な店」あったよな・となるのである。モノもヒトも(まあモノのほうが100倍ほど)はかないのだ。しかし、ヒトの思い・例えば芭蕉の句であるとかお初の言語化されないほどの狂おしい思い・はその後フェイズを変えてしまうのだ。おれがTODO O MUNDOを続けた思い・というのもその「効果」は今イチあがっとらんが・いまんとこ・しかし、わかんないよ、トドムンドがなくなった頃に「路地路地」ってばかの一つ覚え・あるいはサルのオナニーのようにヒトはその言葉に「安心」を感じ、唱え出すのである。きっとそうなるんだから。









