2010年03月29日

OTHER NEIGHBORS

 デニソワ人がシベリア南部で発見されて・というかデニソワ人の小指の骨が発見されたのだけど、4万年前というと、われわれ新人とネアンデルタール人の共存は確認されていたけども、さらにもう一種・遺伝的に異なる人類がそこにいた・というわけなので、それはとりもなおさず、地球上でそう言った捜索・発掘が為されていない地域もまだまだあるわけで、となると、そのヴァリエーションは「ドリフ」ぐらいあったのかもしれない。

 スマップほどのヴァリエーションでは同一人類内の更なるヴァリエーションという「差異の小ささ」の印象があり、やはりそこはチョーさんと仲本工事and/or高木ブーぐらいの隔たりが欲しい気がする。何を言っているのだろう。ドリフは充分同一人類だったのだけど。

 同時に存在はしていたとしても「共生」していたかとなるとそこは「?」と言わざるを得ない。何の証拠もないが、そこはオノレの胸に手を当てて考えてみるならなんとなくわかるような気もする。

 それはどんな眼差しをお互いに向け合っていたか、ということだ。お醤油の貸し借り的なことがその別系統の人類間で行われていた・とは思えない。同じようなカタチをした別の人類を見た時に新人は何を思ったのだろうか。距離を保って平行に共に歩くような存在か、または一つの獲物を取り合うライヴァルか、それとも獲物そのもの・か。

 そこはみんな口に出すのは躊躇われるが気になるところのはずだ。傍観か競争か殺戮かという話なのだけど、今おれたちが生き残っているからという根拠から、新人が他の人類に対して加害者であったとは限らない。彼らの「滅び」の原因は新人によって「駆逐」されたのではなく、適応の問題だからだ。ネアンデルタールは新人より食べ物の「好き嫌い」があったと言われている。または、適応プラス、新人は他の人類を食べていた・ということも全否定は出来ない。そういった宗教心・倫理観のようなものを他の人類がより高い次元でもっていたから、われわれは彼らを食べるが、彼らはわれわれを食物とは見なかったことによって、われわれだけが生き残った・ということだって「可能性」としてはあるかもしれない。それはわかんないのよね。

 過剰な資源は「食物」となり得る。ええーっ・じゃあお隣の13億人の国の人々は・・・・・・、なんてこともあり得る・と思う。公開での死刑執行の後の内蔵の奪い合いなんてことがつい最近まであったというハナシは「クボタ」のやつから聞いたことがある。もっとも、そんなことは西郷どんの時代の薩摩でもあったから、おれたちも紳士ヅラはできない。太平洋戦争の時だってね。人はいつだってカンニバリストとなり得る。かつての義理の父も戦争体験談の中で「食べた」と言うておりました。平時にそういうことすると・佐川先輩のように・事件となるが究極の情況では、勇気はそりゃ要るだろうが、事件性はない。

 そして4万年前と言いますと、まあ今もほんとはそうなのだが、「食糧の確保」こそが「第一義的な課題」なわけですから。おれはある人類が他の人類を「狩る」ことはあったと思う。そんな経験の中から倫理観の萌芽のようなものが生まれてきたのではないか・と思う。失敗と経験を重ねながら。「いかんこと」からしか学べないもんね。

 まあそのような「エグい現実」があったとしてもなかったとしても、結局われわれだけが生き残った・という事実だけがそこにはあって、地球に意思があるとするなら「えらいことしてもうた・あん時なあ・・・うわあ・・大失敗」と溜め息をついているのかもしれない。

 で、デニソワ人と言われる人類だけではなく、今のインドネシアのフローレス島にはかつてフローレス人という人類がいて、それがね、いや・これがさらにびっくりするんだけど、進化に逆行・というか時代に逆行はカオルちゃん(カオリーニョ藤原)だけど、進化に逆行する・かのような人類だったわけですよ。

 どのような人々だったかというと、おれたちは・というかわれわれは、アウストラロピテクスが「ちょっと立ってみた」時から、脳の容量を増やしてきて、それは卵か先か鶏が先か・なのだけど、それが結果的に進化のドライヴにもなった・とされている。アウストラロピテクスは400mlという小さな脳である。「お前みたいな小さな脳でそんなことわかるかー・ボケ!!」などの暴言の根拠(?)にもなるくらいに脳の大きさというか容量ね・それは猿人→旧人(ネアンデルタール)までは確実に増量している。増量=カシコくなる・でほぼ「間違いない」はずなのだが、そのフローレス人は・と言いますと、なんと脳の容量は400mlなのね。え・戻ってるやん・なのよ。

 さらにびっくり!!!なのは彼らはチン長が・ぢゃなくってぇ(しぃましぇん)身長が・1mなのだ。小学生の、ほとんど「ロリ」のヒトなら大喜び!!!ぐらいの大きさなのね。もうネオテニーそのものなのだが、で脳は400ml。

 なのによ、彼らは集団で狩りをしていた。そして1万2千年前ぐらいまでそこに存在していた。1万2千年前というと、今の東南アジアは氷河期を抜け、「スンダランド」がもう後退してして、一方「われわれ」モンゴロイドはユーラシア大陸からベーリング海峡を通ってアメリカ大陸まで徒歩で行きその後の南北ネイティヴになっているし、おれたちが今住んでいる列島では縄文時代が始まるか始まらないか、そんな時代なわけだが、そんな時期にフローレス島にはそのような人々が暮らしていたということなのでした。

 その人々とジャワ原人の関連はおれはわかんないが、しかし、同系統かもしれない。例えばオーストラリア大陸の有袋類のような特殊な適応と進化があったのかもしれない。ポイントは「隔離/交通がない」ことなのだけど、フローレス島は周りを速い潮流に囲まれ、他所との交流は長いことなかった。

 そこで「島嶼化(とうしょか)」という言葉が使われる。それはどういうことか・と言いますと:
「 ”島”という限られた生息域にある生物は、限られた資源・限られた捕食者、という特殊なバランスの中で、長い時間・世代を経るうちに
  ・小型の動物は大型化
  ・大型の動物は小型化
していく傾向がみられる」

 実際にフローレス島のゾウ(ステゴドン)はフローレス人と背の高さが変わらなかったりするぐらい小さいし(それを集団で狩っていた)、逆にトカゲは6mの大きさだったりとかね。

 ヒトはある時から、道具を使い出した時から、進化をそちらに任せて、だから形態の変容はそんなになくなった・ってのが定説だったりする。しかし、カラダだけならまだしも脳まで小型化する進化・とはいったいどゆこと・と普通はなるのである。例外ってあるのよね、いつも。特殊な環境がその一因なのは間違いないが、それでも説明が終わったことにはならんからね。

 今から1万〜3万年前なんていう時間の隔たりは、地球の歴史46億年とかとは違って、おれたちの寿命が80年だとすると、そして今西暦2010年だとすると、なんて事から考えてもそこに思いを馳せることは「可能」に思える。

 おれたちが住んでいる列島にも当時インドネシアから後の縄文人となる人々が黒潮に乗ってやって来て、彼らは列島全体に拡散したのであって、それはもちろん後に隼人とか蝦夷と呼ばれる人々になる。その呼び名はその後に大陸・半島方面から渡ってきた後の弥生人となる人々によってで、そして彼らは征服されることになるが、その被征服者たちこそ「原倭人」に他ならない。原倭人は原日本人よね。

 で話は飛ぶがアイヌの伝承にある「コロボックル」という小人たちのお話や、最近で言うならロード・オヴ・ザ・リングのホビットとかさ、そんな存在は一見お伽噺的ではあり、創作かもしれないが、全世界に拡散した人類の原記憶として残っているのではないかなと「ユング」してしまいたくなるわけである。

 いつもカオルちゃん見てるからってわけでもないのね。

 伝承とは人類の知恵の宝庫ではなかったか・と強く思い出している。おれたちはばかなので、仏教やキリスト教あるいは神道でもいいが、そのような洗練された考え方が何かの根っこみたいに思いがちだが、なんのなんの、まだ奥がある。それらから透けて見える「共通項」まで遡らないことには結局「内弁慶」のままで終わるんじゃないだろうか。


 唇と唇を重ねて、ベロを絡めることはかなり前からの愛情表現であろうね。こんなラテンのテキストを英語を借りてやるってのもなかなか官能ありだったりする。

 
 
posted by 浪速のCAETANO at 07:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月26日

春雨ながら寒いのだ

 午前中晴れていたので長堀までチャリ通だ・と颯爽と走っていたが、本町辺りに・はなたがいーるーと・じゃなかった、本町辺りで雨がぽつり・ぽつり・ぽつぽつ・ぽつんぽつん・たたたたたたた・だだだだだ・と降ってきやがって、けっこうなズブ濡れ。サングラスも水滴だらけ。ヘアもかなりウォリイアバウト。このまま目的地へ行くと、あまりに場違いな感は拭えんと判断し、心斎橋筋のアーケードに隠れ、ついでにロッテリアの暖房で服を乾かす。ホット・コーヒーで生き返った。

 週イチの小商いのケーヤクとなんちゃら会議なのだが、まあそのよーなフォーマルな場が極力苦手なので、早く終わんないかなー・と思っていたら、意外と早く終わる。小商いとは言うものの・なかなか困難な仕事である。まー・がんばってみましょう。本職にも関連してるし。

 トンボ帰って、本日は面接である。ちょっと片付けよう。新しいイスと机が来るからその配置も決めなきゃな。ソファ前の「サイド・テーブル」替わりの突然段ボール・どうしようか。おれはまるで突然変なとこプラグマティックになり、それで要が足せればそれで良いか・と満足してしまうので、「なんなん・それー!!!」など、特に女子よりの非難を浴びて「びっくり」なことがある。「あ・そんな風に映りますか」と初めて思うわけで、まあ・そのう、段ボール自体のイメージが、やはり野外生活者と分ち難くリンクしているところからその非難が生じとる・ってぇのはわかっとるつもりだが、改まってそう言われるとさ、「おれ」のイメージでもすこしええようにならんの? なあ、など勝手に思っていたが、最近はどうもそんな揚力は生まれんらしいわ。時間って残酷ね。

 と・言うわけで、掃除にかかる。どーしよっかなー・段ボール。


 突然段ボール・AGAIN.



 
posted by 浪速のCAETANO at 16:50| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月25日

桜のこと

 雨で寒いが桜の進展が遅れそうで嬉しい。おれたちの花見は4/4に予定しているから。

 昨日、千里中央まで行くシブい用事があって、豊津時代によく走ってた桜並木をチェックしてきたが、0〜2分咲きほどのもので、「よしよし」だった。おれは桜は豪快に散ってくれると嬉しくて、もう散ることを前提で咲く・という風情がよし・と思うひとりだ。桜とは最初っからその美しさの中に狂気を内在しているものであるから、そして、その狂気の臨界点とは満開の時なのであって、その圧倒的な壮観さとは息苦しさを伴う。そこが梅とは大きく異なり、それは「すっぴんのアヌーク・エーメ」に四方八方に立たれ、ドナティラ・ダミアーニの巨大な持ち上げられたおっぱいに顔を埋めてる・そんな至福の息苦しさを伴う。至福であっても息苦しさにはかなわないのね。順序がある。く・く・ぐ・ぐるじ〜・のね。おっぱいマニアではないが、そんな情況嫌いでもなく、しかし、いつも望むというわけではなく、言えば言うほどなんか墓穴掘ってる気もせんでもないが、ヴァリエイションとしては「悪くない」のだ。

 いや・だから、あのね、そんな状態からの「解放」が桜の散り出す瞬間にはある・ということだった。満開時が「鬱屈した狂気」なら散ってる桜は「狂気の全開」である。しかし、不思議なことに狂気とは全開すると、そない狂気に見えないと言うかさ、その先にはまた別の「宗教的至福」のようなものが、あったりする。そんな見ている側の精神にダイナミズムをもたらすとこが桜の値打ちである。

 
 桜の歌と言えば西行で、なんと230首も書いている。
 「たぐひなき 花をし枝に 咲かすれば
                  桜に並ぶ木ぞ なかりける」
 認めている。わたしは一番好きである・と。

 有名なところでは:
 「ねがはくは 花の下にて 春死なん 
               その如月の 望月のころ」
 おれもそう願う。しかし、タイミングが合うかどうか。

 「いざ今年 散れと桜を 語らはむ 
              中々さらば 風や惜しむと」あるいは、
 「花みれば そのいはれとは なけれども 
              心のうちぞ 苦しかりける」
 だよなあ。わけのわからん「苦しさ」そして、「哀惜」とでもいうべきか、桜を見ている人の心の中で事件が起こってる感じがしますね。

 心ん中の事件と言えばこんなのもある:
「春風の 花を散らすと 見る夢は
             さめても胸の さわぐなりけり」
 もううつつのみならず、夢の中でも「事件」が起こっている。そしてその事件は覚めても続いているのであって、もうそこにはその花の時期、翻弄される一人のオトコがそこにはいて、そのされるがままを受け入れている。人と自然の力関係というかナチュラルな上下関係に陶然となっている様があったりする。

 どうせだから、「ス」な気持ちでいい花見をしたいものですね。


 翻弄される・からの連想。あんまりカンケーないか・わかんなくなってきた。

 
posted by 浪速のCAETANO at 14:00| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

春分に

 不肖のばか弟子にそそのかされてTWITTERはじめたものの、まだピンと来ない。来ないまま、なんかそのままなのだが、まだ評価はよくわかんなくって、だから続けてみようと思ってる。

 ひとつ思うことは、多分その人々が特別そうなのであると思われるが、みなさんアクティヴなのである。ばりばり仕事なりそれにまつわる遊びであるとか、飲みであるとか、非常にアクティヴに日常生活を送っていらっしゃる。それに比べるとおれのやってる(書いてる)ことって見事なまでに「知恵遅れ」であって、こんなんでいいのか・とやや疑問および不安がよぎるが、そないみなさんチューモクということもないだろうと思い、末席を汚している。ま・いっか・である。基本的人権は一応みなさまに適用されるはず・であるし。

 昨日はすっぽんぽん'ズと次のライヴの打ち合わせ。すっぽんぽん'ズ&マルタニカズで京都へ乗り込むわけだから、いつものコムプレックスとは異なり、まあおれコケてもカオルちゃんやってくれるわ・なんてことがないので、それはすっぽんぽん'ズ2名にも言えることで、まあがんばれ〜・というより準備が要る・という当たり前のことを当たり前にするわけであった。

 昨日は暑かった。夕方のビールがおいしかったですね。共感出来る方多いと思うのだけど、特に仕事だった方は余計にそうかと思うし、おれも新聞屋を5件廻ってすっぽんぽん'ズの相手をし、長風呂の後、いこい・へと急いだ。安くて良心的な店はいつも流行っている。

 そして、初めてピエロハーバーへと侵入してしまった。サンホールの足立くんがライヴに出る・ということだったのだが、予想に違わず、奇妙な空間だった。「奇妙」としか言いようのない空気がそこにはあって、うーん、良いとも悪いとも言えないが、落ち着かなかった。ただっぴろ・が苦手ということもある。ただ、旧知の方と再会できたのは良かった。しかし、やはり・奇妙だったとしか言いようがない。

 来週はなんだか急に忙しい。良い事悪いこと・ここは両方で、あまりにだらけ・ふやけた一年がもう終わろうとしていて、これもまた慣れるとそれなりにいいのであって、それがなくなるのはちょっと悲しい気もする。ヒトって何でも慣れるよね。

 本日は春分であるが、昼夜がイーヴンというのは変な気もする。南北で何も太陽光線格差のない時節である。経済格差は埋まらんとしても太陽ぐらい・なあ、と言っておきたい。

 民主党がダメなら、ひどいことになるだろうという予測から、いろいろひいき目に見ようとしてきたが、うーん・どうかな。難しくなってきたね。半分は検察・半分は自滅。驕りもあったかな。しかし、どちらも非常に「狭い・小さい」官僚たちの保身(検察)と、官僚的へと変質してしまった態度の変化(民主党本体)が見て取れる。今って時間の流れが加速していてモノゴトはあっという間に変容してしまう。その速度も凄く速い。ファストフードの新製品が人気が出て、そうか!!ってことで定番となり、そして飽きられていく、そんなサイクルを政党もなぞっているかのような印象さえある。

 日曜はばか後輩たちが年に一回の定例会合の二次会に寄ってくれた。その後さらに飲んでいたら8:30になってしまった。予定が入っていたのだけど延期になって良かった。本日またまた使い物にならず、なのであるが、なぜ使い物にならんかというとわかった。他人とのコミュニケイションがないからなのだった。何かしら人を巻き込む/人に巻き込まれる出来事があれば、よれよれながらケナゲに起きて出て行くよな・と思う。今、そんな出来事がミニマムなのだった。内向きなのは実はおれぢゃん・など、はっと気付く。いい循環とは一旦廻り始めるまでは初動がなかなか大変なのであって、その1速の半クラッチが今なのだった。

 最近、権力の元に「組織」されてしまったカミのプロトタイプというか、組織される前の「カミ・のようなもの」に関する本を読んだのだけど、仏教や神道を貫き遡った先の古代の、ヒトとともにあり、ヒトが畏れ敬ったもの「カミ・のようなもの」の存在のことが気になって、そしてそれはおれたちが広義の「都市化」された社会に棲み続ける事によって失ってしまった野性の勘みたいなものの回復と一対になってる、と思い、それは自分の「伊勢神宮嫌い」と「熊野大社好き」と関連があるような気がしていて、そうなると、仏教の洗練がやや疎ましく感じてしまった。組織された神道もしかり。その前段階とは日本は無文字時代でもあり、そういう意味での記録はないのかもしれないが、まあなんというか、神道のもっと先に「透けて」見えたり見えなかったりする何か・が気になったりしてる。その本読む前にカオルちゃんの曲の歌詞に「精霊」という言葉をいみじくも使ったのだけど、そんな共時性もあって、ちっちゃなことだけど、そんなこと考えている。現代から見るとおおよそ、そのようなことは「相対的」にもちっちゃく見えるのだが、物理的な大きい小さいでは計量不可能な、つまり三次元的な計量ではその「真の大きさ」がわからない何かがそこにはあって、そこでまた熊野体験に戻ってしまうわけだった。あの暗く深い森の中でオノレの心の中に投影された「あの」感じ。言葉にしなきゃわかんないのだけど、なんだかもどかしいわけなのね。

 なんだか、今ここ・って自分には向いてないな・なんてことも最近よく思う。時代とフィットしてる方にはそれは「は?」な話だとは思うけども、ある程度検証もしたから多分間違いないように思う。向いてないと思えば、もう一度「妄想」の世界にも戻れるかもしらん・てものである。


 ジョー・コッカー シングズ リオン・ラッセル。ヴォーカリストって「もどかしい」のだよ。
posted by 浪速のCAETANO at 16:41| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月19日

梅の濃いピンクと黒髪と

 ちょっとオノレを「回復」させないと、と思い、いろいろやっている。いろんなことにイタんでしまったので、まあイタむのはその前楽しさばかりを追い求めていたからってのもあるし、要するに喜怒哀楽な目に遭うその振幅は大きいというのはもう最初っからわかっていたのだけども、いざそんな目に遭うと、予想もしてないような悪いことが重なるわけで、さすがに「もうおれは立ち直れんのではないか」と思いかけてたのだった。まだわかんないよ。わかんないけども、少しずつ自分のハートにいいことをやり始めよう・と思うわけ。

 達観の極致にはほど遠く、煩悩まみれではあるんだけども、それでもやや失意のずんどこ・ちがうちがう失意のどん底からは「30代」ほどの角度で改善されつつあるという気もしてる。わかんないよ。わかんないけどね。

 本日、心斎橋まで出たついでに、前々から決めていたのだけど「梅」を見に行く。高津宮。天気は今日までという予報だったし、カルく緊張したあとにそれはとてもいいタイミングだな・と思っていたのだった。

 阪急オアシスがあったので、総菜数品にロング缶でキメる。途中からカップルがやってきていちゃいちゃ始めたり、10mほどのリードに繋がれた犬(犬が通過してしばらく経たないと飼い主が通過しない!!!)などに邪魔されたが、それでもほのかに薫る梅は良かった。あの色がいいね。桜は色白ですね、それに比べたら。

 久しぶりにチャリに乗ったが、マタ部分がイタくなった。そしてふと思うのだった。女子はなかなか大変なのではないのか・と。もし娘がいたりしたらチャリンコ禁止令を出すかもしらんなあ・など思う。馬もあかんらしいがチャリもいかんよ。乗ってもいいが常に「立ちこぎやぞ」なんて。M系男子の「サドル願望」もそうなると「理解」できたりもする。

 おばちゃんらには「どーぞどーぞ」と言う。そういう発散・は世界平和への第一歩である。

 明日から三連休みたいである。世間は。トドムンドも急遽日曜開けて、月曜休みです。人が休んでるときいろんなとこ行っても混んでて疲れるだけよ。強力な低気圧も来てるみたいだしね。飲みにきてちょんまげ。待ってるからね。

 春分ですので「春分」で始まったわけだよね、ライヴ。


 まことに春につきづきしいカラ・ディロンちゃん。黒はあたしの髪のいろ〜。

 

posted by 浪速のCAETANO at 19:42| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月18日

muito obrigado

 いや〜、おもしろかったですね、昨夜のラフレシアン・コムプレックス。

 レインドッグス、やりにくいかなと思ってたが、なんのなんの、爆音さえ我慢すればぜんぜんやりやすい。次もここやな・と思った次第。

 すっぽんぽん'ズメグ・アオミ、レスザンゼロミタキ・サカキバラ、ユウミちゃん、ハープの木寺くん、DJ平野さん、サントス、瀬戸ちゃん、エンジニアキイくん、キング堀内、カオリーニョ藤原という黄金のラインナップのミナサマ・アーンド、忙しい中来ていただいたお客様、もひとつ・アーンド、レインドッグススタッフの方々、ご苦労様でした。

 どうして今まで出なかったんだろう。

 次は週末に開催して酸欠ライヴにしたいよね。おれは二階からの眺めがピーピングぽくて「やや萌え」でした。やってるひとがそっち方面無防備で。ん・しかし、ハゲはあかんな。

 雑多なものがいいし、雑多なものがそのままごろんとそこにあるのがいい。みんなかなり好調だったしね。あんなカオリーニョもなかなか見れんよね。一粒で6度おいしい「ラフレシアン・コムプレックス」なのだけど、ほんとに一度みなさん、足を運んでください、未体験の方々。

 さて、今後は4/2、すっぽんぽん'ズとマルタニカズの京都・陰陽(ネガポジ)、そして4/27、サンホールのマルタニカズ・ホストライヴと続きます。これもなかなかわくわくしております。コムプレックスは5月か6月ってことになりますね、そうなると。

 今回は、フライヤーの印刷ミスがおれのモチヴェイションをすっかり削いでしまったが、次はそんなミスをなくしていただいて、しっかり営業して「酸欠」へと繋げたく思います。

 いやー、それでもほんと面白かったし、みなさんに楽しんでいただき、プロデューサーとしては、満足な一夜でした。


 さて、The LABEL RafflesiaのHPへリンクから飛んでいただいてTest Listeningができるようになりました。まずはPARABOLA SPINSとCVS COWBOYSの全曲が聴くことができます。太っ腹です。オリジナルの「手品師の帽子」や「コンドル2」「観覧車に乗って」などとにかくその2アルバムは全部聴くことが出来ます。

 気に入っていただいたら、買って。ワタクシ自らアルファロメオで宅配いたします。
 
 Let's ENJOY!!!


 
 
posted by 浪速のCAETANO at 16:41| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Rafflesian Complex | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月16日

向かい風の中

 昨日ほどではないにせよ、サイクリング日和だと思う。ぺろの爪切りながらそう思う。

 放っておかれると外へ殆ど出ない人生なので暑さと寒さの加減がわかんなくて、だがしかし、その中庸たるところの「巾」をわりと真剣に考えて「えいやっ」と階段を駆け下りて、愛車に乗れば、まあ許容範囲。予想はやや寒寄りだった。本日は淀川辺りを走ろうと思ってスロープを駆け上る。

 しかし、常に自然は予想外。水たまりがこんなにあるなんて思わなかったし、それに加えてこの「向かい風」。ショーミの向かい風だった。おれのカマキリ型ハンドルのチャリは、ほぼ前傾姿勢を取らずに乗ることになっていて、それは頸椎ヘルニアによる肩・腕の痺れが直接の原因なのだが、すると、向かい風のそれもきっついのをまともに正面から受けることになり、ものすごく、進まない。ギアを上げてやや緩和されたが、それでもすいすいなどということはなく、「あ・の・さ・な・ん・て・い・う・か・さ・こ・の・む・か・い・か・ぜ・は・ん・ぱ・ち・ゃ・う・や・ん・い・や・ま・ぢ・で・・・」というような進み方・なわけよね。風をまともに受ける・means・ドライヤーの1600Vを前面から当てている・なわけで、マイヘアー イズ オールバック なのであって、髪の毛が伸びている時のこれはまあまあキツいのであって、それはなぜかというと親父そっくりなわけで、その親父のことだ〜れもしらんやん・と言うなかれ、これは主観の話であって、オノレの自意識の話でもあるので、「勝手に」おれがまいったなあ・しているだけなのだけど。

 はげしいオールバック・+・予想以上に疲れるのであって、次のスロープ降りてみる。下でもかなりの向かい風で、ほらよく高速にあるでしょ、鯉のぼり型のフラッグ、工事現場のそいつがまともにこっちにケツ向けて飛んでいる。どーだ・みたいに。

 いや、ぺろのトイレシートがなかったと思い、淀川のコーナンまでやってきたのだった。

 まあ・明日に備えて少しカラダ動かしとこうと思ってさ。意外とライヴとは、ことおれに関する限り「肉体労働」なのだった。だから。

 割と今週は忙しい。新しいことを始めようと思っていて、なかなかそれはチャレンジなので。目の前のことをしっかりクリアしていくしかないですね。

 帰ってきてバスルームに荷物を置こうと思えば、あららー、そこには缶詰とともに「ネコトイレットシート」を発見。確かめていくべきだった。

 オールバック損のくたびれ儲け・なんて諺は・ない。ま・ええが。

 明日はラフレシアン・コムプレックスです。
 ノリの大変よろしい「レイン・ドッグス」ですので、大いに騒ぎたいものです。6時pmオープン・7時pmスタート。意外な曲も聴けます。2000円です。

 来てね。

 From:
 girls' punk bomber すっぽんぽん'ズ
 middle aged boys レスザンゼロ
 bossa princeza ユウミ
 演歌bossa inventor カオリーニョ藤原
 king of blues キング堀内
 浪速のcaetano マルタニカズ com amor(w/love)


 こんな気持ちでやっていただきたい。


 
posted by 浪速のCAETANO at 15:30| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月13日

馬鹿に満ち溢れた・・・

 まったく世の中は馬鹿げていて、どんよりしている。本日の天気のようだ。

 馬鹿げているというか・馬鹿だった。馬鹿は死ななきゃ治らない。ただし、馬鹿のまま死ぬと治るも治らないもなく馬鹿のままであるから「死んでも治らない」というか、治ったか治んなかったかは不明・となり、「あ〜あ」のままで終わることになる。あ〜あ。

 さてさて、馬鹿とばかとバカではどれが一番ばか?

 それぞれアジがあります。馬と鹿でなぜ馬鹿なのか? 鹿を馬であると偽ったことから来ているらしい。オノレのパワーを根拠に矛盾したことを押し通すわけであるが、そうなると現在の使用法とはややズレがある。

 言葉とはコンテクストのなかで豹変するものだけど、コドモが別のコドモに言う「ば〜か」、おかーちゃんが覚せい剤持ってた息子に言う「ばかっ」、男女間に於いて事態の悪化が杞憂だった時に女子の言う「もう・ばかばか」、カンペーちゃんの「ばかぁ」、おれのよく言う「ばかか・お前は」および「キミは・ばかですか」、女子が好意を持つ男子にケツ触られた時の「ばかん」、青天の霹靂「そんなばかな・・」、ソンナバナナという早過ぎた脱国境バンド、まあいろいろあるのですが、ほとんど悪意に満ち溢れたものってないのね・これがまた。ばかうま・なんてのもあるし。

 ヤバ・なんかと同じく、VERYVERYの副詞化してるわけでした。その「転倒」って何か重要な意味を孕んでる気がするんだけど、忙しいから考えないのである本日は。

 少しずつ、みなさん、オノレのばかをカイゼンしていきましょう。よろしくおねがいします。


 spooky little boy like youこのねーちゃんもたいがいである。

 

 
 
posted by 浪速のCAETANO at 13:30| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

業務連絡

 勝っちゃんへ。

 右上の THE LABEL RAFFLESIAのリンクからCONTACT USまで行ってくれればおれのメールへアドレスします。よろしく。
posted by 浪速のCAETANO at 10:45| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月11日

打倒80's

 作業をすると目が覚める・というか冴える。目は冴えてもアタマが冴えんという悲しさはあるとしても。

 それにしても春なのに〜だ。本日までは寒いみたい。明日はほえ〜・としたいものだ。是非。

 どーもおれ、花粉症ではなかったみたい。風邪ひいた瞬間だったのですね・あのときって。今年も堪えた。

 さて「RAFFLESIAN COMPLEX VOL.11」一週間後に迫ってまいりました。今回も前回からの変化・進歩、あえて変化しない・進歩しない、と様々な変容・非変容を抱えながらのレーベル・ライヴである。うさぎよりは亀・三歩進んで二歩下がる、じ〜んせいは・・・である。チータの歌う三歩進んで二歩下がる・と人生はワンツーパンチ・とはいささかその生きる態度としては矛盾があるように思っていたのだが、昔の歌謡曲はそんな小難しいことって言わんのよね。ま・いいぢゃないの。

 80年代のヴィデオ・クリップの特集みたいなのをやってて、それを見ていたのだが、実にくだらん。音楽のくだらなさは0年代90年代を逆向きに貫いた先の80年代にやっぱりありました。そのさらなる根源はクイーンにある。でもクイーン好き多いのよね。ばっかぢゃなかろか・とおれは思うのだが、あんまり言えない。同世代がよくこーいうことをいうから、たまに率直な意見を言うと、さきほどまでの世代で共有していたノスタルジアに後ろ足で砂・ということになり、それまで、ワカモノに説教していたほどのこともないんだけど、まあ年長者の意見などを共に述べていたそんな雰囲気を一気に壊して、どちらからも孤立することになる。まあ孤立はいいんだけど同世代からは一転して「裏切り者」扱いであったりする。

 一旦密着した後の別離ほど辛いものはない。いや・まぢで。それなら最初っから距離を置くべきなのである。話題は「ひょうきん族」ぐらいまでにしておくべきだ。

 いやしかしつまらない。80年代。今2010だからわかりやすい。30〜20年前だからね。しかし、今の音楽の原型はそんな時期に求められていることが多く、だからアメリカも日本も音楽がつまらない。ラフレシアン・コムプレックスはつまらなくないです。80年代へのアンチから始まっているから。まだ最初の頃はマシだったのよね。パンク・ニューウェイヴの時代はさ。しかし、ヘタだったから、予想通りというか予想以上に素早く、業界に取り込まれてしまったし、その取り込まれ方が「あ〜あ」だった。

 ただ、音楽を取り巻く、経済やら風俗やらが、バブルも手伝ってものすごく加速していった時期だったから、取り残されたものが一杯ある。そんなものとそれ以降の世界音楽、そんなもののミクスチュアがラフレシアン・コムプレックスだったりする。

 経済・風俗ベースの上塗りがされて「旧く」なったと認識されたもの、実はそんな中に「宝石」が埋まっていて、それを掘り返して再生・これがラフレシアのテーマです。今の音ってさほど新しくないのよね。ていうか何が新しくて何が旧いかという基準がないというかね。カッコだけのラッパーとかに代表されるように、風俗の方により過ぎみたいなとこもある。

 そんな中での音楽だから難しいことだらけなのですが、まあそれでも・やる。

 そんな感じ。

 RAFFLESIAN COMPLEX VOL.11@RAIN DOGS 梅田東通り商店街どんつき一本手前南入る。
 18:00OPEN 19:00START 2000円/2500円(DRINK別)

 カオリーニョ藤原/キング堀内/ユウミ/すっぽんぽん'ズ/レスザンゼロ/浪速のカエターノ/タク・サントス/木寺勝久/平野孝則/キタバヤシジュン/マルタニカズ



 来てね。

 いい80's
posted by 浪速のCAETANO at 06:24| 大阪 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月09日

春なのに

 藤の湯へと行く。

 カオルちゃんの公開リハ。プロデューサー目線である。でも大丈夫だったと思う。

 いい歌詞かけてるとおもう。一部、言葉の順序とか「てにをは」の部分がカオルちゃん仕様になっていて、オノレの美意識的には「がるるる」なのだが、手を放れてしまったものはまあしゃーない。「余韻」とかいうものの扱いにはやはり個人差もある。幸か不幸かおれは「廃人の・じゃなかった,俳人の息子」であった。まあ・こうやって土台が違うからこそコラボも「1+1>2」となる可能性がある。コムブレックスでもカオリーニョやると思うよ。そこだけカオルちゃん「えっらいオトコマエ」です。

 寒い。TVで雪に覆われた道路が映っていて、トーホクがどこかかな・と思えばなんとヒロシマぢゃないの。列島の南西地区だけに雪が降るというのも面妖な話であって、北東地区は寒いのは寒いみたいだけどさ。もうすぐ春分だというのに。春分といえば「全員集合」ですが、ごく一部のコアな方々しかわからんこと言ってごめんちゃいなのだけど、そのまま行くが、春分と秋分の時期とは、バランスが完璧なのね。主に太陽と地球の公転面と地球の傾きに関することなのだけど、北極点と南極点と太陽の距離もイコール。これが黄金バランスなのだけど、冬至や夏至がそのインバランスの極致であることと同様バランスが完璧ってのも特殊なのであって、それはほら、そうでない時期が大方を占めるってこと考えればなんとなく想像つくと思いますが、極大でも極小でもないダイナミズムを伴った特異点なのね。極大極小の際はダイナミズムが一瞬失われるのに対して。速度がもっとも大きい点。高速道路を120km/hで巡航しているような時期な訳ですね。共同体がもっとも安定する時期でもあります。

 と、いうわけで「安定」しましょう。落ち着きましょう。と、オノレにまず言ってみる。

 花見と言えば桜だけど、梅がいいでしょう、なかなか、実は/実に。そりゃ桜の、一歩間違えると「死」に至るような祝祭性もいいが、梅の、なんというか、おれたちがなくしてしまったような隠されたエロチシズムの対象のイメージの根源みたいな・さ、ぱーっと開放的でもなく、何かを秘めたようなぞくっとするような美しさがあるでしょう。最初は何の気なしにカルくデートしていたが知らぬ間に惹き寄せられ、そのオンナのために殺人を犯してしまう・みたいな、そんな隠された磁力を持つ花よね。いい着物を着て、その中身は一体どんなカラダしてるのだキミは・なんて、想像力をかき立てられる・そんな「余地」を持つ梅ですが、グラン・クリュのシャブリなど冷やして、料亭のお弁当持って愛でにいきたい・そんな気がします。古典では梅は「嗅覚」桜は「視覚」へ訴えるものとして表されている。平安人ぱちぱち・って感じね。


 昨日思いついたホストライヴのサブタイトルを忘れて、「ばっかばか」なのであるが。短期記憶のインでるの・なんとかならんかなあ。

 
 プリマヴェーラなヒト
posted by 浪速のCAETANO at 15:43| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月08日

53年目最初の日々

 この週末、はげしく飲んでしまった。飲み過ぎ。

 少数精鋭のトリビュート・ライヴ、なかなかおもしろくて、かつ感動的でもありました。

 しかし、あれだね、みなさんが歌える歌は見事に「non-脱国境系」で、そこに作曲家としての「幅」を見たりするわけだったね。リズムに依拠して音楽作っとらん証拠でもあります。そこらへん「・・・・音楽」やってる・というその・・・・はいろんな国や地域が入るのだけど、それはノリだけの話であったりして、曲も詞も書けとらんひとたちわんさかいたりもするわけで、難しいね。

 リズムも詞も曲も混じって消化されて一体化することが音楽のおもしろさ/すばらしさであったりする。そこんとこ、「批評」するべき言葉を持ったニンゲンに出会ったことがないというおれの不幸もある。

 さて、来週は「ラフレシアン・コムプレックス」です。11回目。梅田レインドッグスです。いろいろ新しい試みがなされています。若手の成長も見られるでしょう。見られない場合もあるでしょう。イヴェントとしての形態も今回は気を使っています。

 前売りはなく、行くよ・といってくれたヒトはフロントで前売り料金で入れます。別に自主制作した整理券的なものもトドムンドにあります。それも前売り同様です。

 そして、The LABEL Rafflesia および TODO O MUNDOへのリンク完了しています。どしどし訪れてくださいね。



 Elis Regina canta "Formosa"

posted by 浪速のCAETANO at 15:10| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月06日

啓蟄だった

 さて啓蟄であって、啓蟄ながらちょっとした寒波ゆえ、ムシたちも「おっとっと」かもしらんですなあ・とやや心配するのである。

 個々のムシは実は苦手。概念としてのムシですね。あたたかい季節とともに現れる「生命力のシンボル」としてのムシが出てくる日に、おれも「こんにちは」したのはかれこれ52年前ということになる。

 各方面からのお祝いのサムシングをいただいた少数精鋭のみなさま、ありがとうございます。まあ・別にめでたくないけど、なぁんて斜に構える態度の悪さのここ数年でしたが、今年は去年から色々あった中でのANNIVERSARIOということもあり、ここはひとつ素直な気持ちで感謝申し上げるのである。お誕生日近辺は悪い「気」がもっとも入り易い時期で、それを友人家族のチカラを借りて「どひゃー」とか「ずかーん」とか「ひゅーひゅー」なんて言葉にならない声などで、ガードするというわけだった。意味があったのよね。いや・少数精鋭のみなさん・ほんとにありがとうございます。少数精鋭ってのがポイントよ。

 この時期バースデイ・シーズンである。しかし、何かにかこつけてさわぐ・なんてのはこの沈みがちな21世紀のメンタリティにはいいのではないか・と思ってる。

 本日も@Todo O Mundo、なんかお祝いをしてくれるみたい。なんか、「おれトリビュート」ライヴもあるらしい。恐縮です。でもおもしろいものが見れるかも・多分。



 きみを「損なっちゃった」よね。この場をお借りしてお詫びしたい。

 
posted by 浪速のCAETANO at 15:42| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月05日

詞を書く

 もわー・とあったかい。でも明日からまた寒いそうだ。寒いと言ってもこの時期の寒気にウォッカ一気のみの根性はない。ヒートテックでプロテクションOKだろう。

 カオルちゃん(カオリーニョ藤原)のソロアルバム用の歌詞を書いていた。まあ喜んでいただいてこちらも嬉しいのだが、やや難産だった。日本語を前提としたメロディーってそんなにリズムが複雑ではない。演歌にせよ、JPOPにせよ、細かくても8分のウラぐらいまでで、そんなのに日本語を当てはめてお話を作るぐらいはお茶の子さいさい・さのよいよい・なのだが、カオルちゃんの持ってきたメロディーは、おれたちにはよくあることなのだけど、16分のウラでメロディーゆらゆら、つまり作曲の時と作詞の時はお互いのことを全然考えない・ことがあったり前で、そういった思いやりのなさが真摯な姿勢なのであって、これはオノレが詩・曲両方作る時も全く同じ。

 さらに今回は作曲者からの「括り」があり、それは「40代オトコと30代オンナの、不倫ではないかな・ないな・いや・それでもええな・いやどうかな・まあええわ・どっちにせよ(!!)、まあ恋愛というものはこうありたいものやな・みたいな」「なんかな、もの倦げな気分やねん・でも僅かながら希望もあんねん・みたいな」と言い残してアールグレイを飲み干して帰っていったカオリーニョ藤原というおっちゃんがおって、なんかわかったようなわからんような、「ほうほう・うーん・まあまあ」など曖昧におれもお茶を濁していたのだが、「納期」が近づくにつれ、期末テストがあって実はしばらく忘れとったのだけど、突然メールがカオルちゃんから来て、「4日に行きます〜」とそこにはあり、おれも3日に試験が終わったとこだったから、やや・というかかなりアセったわけだった。

 で、スローなブラジリアン・ボレーロでいーっぱい音が詰まった中で歌詞を考えながらその音たちを括り・仕分けし・再構成していくわけだけれども、オリジナルのメロディーのニュアンスは極力残し、しかし、話を始め、話は跳び、エキセントリックな言葉の並びをサビに持ち込んで、それでも歌としての整合性を保ちつつ、これはポップスなのだがポップスにあらずという際際のとこで収める。

 で、自分で歌ったものをPRO TOOLSに吹き込んで、それをCDに焼いて作曲者に渡す。

 で、ウケの問題は置いといて、ヴォーカリストとしてはおれはカオルちゃんに一日の長があるので、その歌はプロトタイプであると同時にテキストでもある・ということになる。そんな過程を経て、ひとつの曲が「共有」されていくわけである。だから、「手品師の帽子」でも、変なセクショナリズムに陥った、主にカオリーニョシンパのアタマ悪いのが、手品師の帽子って「曲は」カオリーニョで詩はマルタニさんと、詩はマルタニさん部分をものすごく早口で言ったりしてるのにたまにカチンとクルことがあるけど、そんなものはやなあ、お前ら如きのぺーぺーに言われたないのよ。「共有」なのよ「共有」。おれはカオルちゃんがそれらの曲を「おれの曲」ということに100%異論はないし、それらの曲をおれが「おれの歌」ということにカオルちゃんも100%異論はないわけよ。一粒で二度おいしいの。

 だからね。いい作業を終わった後はいい気分なわけよ。見事に作曲者・作詞者ともにカネがないが、これがさ。世の中なんか間違っとるでしょう。しかし、今度のカオリーニョ・ソロはいいと思う。カオルちゃんの他の曲もかなりいい。「時代に逆行」や「リズムの申し子」。ならでは・のラインナップになるはずです。トドムンドの投げ銭時にもだいぶ受けてたもん。おれはウケた。

 間違っとると言えば、5才の息子を餓死させたおかんの「ダンナに似てるからその子が嫌いだった」という発言。日本人のあかんとこのすべてがこの一言に「凝縮」されていると思います。「救い」がない。なさすぎる。

 カンケーないがトドムンドのひとたち・ほんとに「英語」勉強してな。それって「交通安全」てタトゥー入れちゃったアホのガイジンといっしょやで。


 ARE WE not MEN?
posted by 浪速のCAETANO at 11:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月03日

そうなって誰が嬉しい?

 最近、組織に属していない人々がかなりイんできてる。見るからに疲れているか、気が病んでいるか、わけもなく不機嫌か、なんかそんな症状が見受けられる。穏やかだったやつが、ケンあるやつへと変貌してる。悲しいことだ。

 組織に属している人はまあだいたい「対岸の火事」みたいな感じ。ヒトの生き方は色々あっていいはずで、それが文字通りの「人生・いろいろ」なんだけどね。

 で、何かに属さず生きている人は、基本的に独立心旺盛な人であるはずで、まあ日本人は組織好きではあるけれど、その中での人間関係とかが厭であるいは自分の好きなようにお金と時間をマネージしたいとかそんな人たちであるはずだ。

 ある時期、70・80'sぐらいかなあ、会社ニンゲンの悪口が流行ってた。曰く、仕事のことしかわかんない、趣味なし、家庭を顧みない等々。今だってそんな人々はまだいるはずで、その時期から比べると「遊び」は覚えた日本人だが、当時は独立とかがなんだかカッコ良かった。リスクを取ってテイク チャンスみたいな・ね。それで失敗しても、安倍が首相当時に言ってた「再チャレンジ」なんてこと敢えて言わなくとも別に今よりももっとみなさん再チャレンジしていたと思う。もちろん大失敗して逃げた方もいらっしゃったはずだが、なんというかまだ「隙き間」が社会にあったよね。そんなに今のような殺伐とも違う殺伐もあったのだろうが、こんなに周りのみなさんがそれを見てへらへら笑ってなかったような気がする。誰かが誰かの支えになるっていうかな。

 今って「個人」と「社会」が別の宇宙にあるんじゃないか・ぐらいの別次元。個人の成功は、社会がまだベースにはなってるが、個人の失敗は社会とはカンケーないみたいなことになってる。それっておかしい。社会のせいで個人が失敗することが多いのだ。しかし、失敗は100%個人へと帰す。ここんとこ、すごくおかしい。企業は「法人」だが人の集まりでもあって、そこには社会性を内包していると思うが、企業が個人商店のフィールドを浸食することも多い。資本力に差があり過ぎるから、そこに個人商店の生きる余地は・ない。企業もそうやらねば、自分がつぶれちゃう。そういう自由競争の中で、チカラのないものはどんどん退場させられる。彼らが「個人」だったりする。そしてその失敗は個人へと帰する。それって社会の仕組み・システムと言ってもいいが、そのせいぢゃん。激化する競争が個人を潰してるのだ。どの業界も「トーナメント」を強要されている。で、自己目的化した加速する資本主義が悪い・という結論になる。ペイできないことをやっている人は「退場」ってなんかひどい・と思う。イノチを持つニンゲンとしての扱いではない。だから、どん底まで堕ちてしまう、そんな人たちは。

 そういった人々も「コミ」なのが社会であるはずが、今はそういう人々は「非成員」という感じだ。その仕組みの狡猾さに気付いてない人もいる。日本人は、そんなことを他人に相談することさえ疎ましいものだ・という意識を植え付けられてしまった。個人・なんて無理だったのだ。個人は「自分勝手」以上のものにならなかった。残念な国だった。

 でもさ、このまま行くと、今なんとか持ちこたえてる人たちもぽろぽろと堕ちていくことにならんかねえ。上から目線の人々の「強欲」を改めて頂く以外何も変わらず、事態は悪化の一途を辿るしかないと思うが。


おれたちは「名前のない馬」なのか。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 09:57| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月01日

閉会式

 前のカルガリーの時がロビー・ロバートソンだったから、今回はニール・ヤング出て来ないかなあ・とカルく期待してたらホントに出てきてびっくり。

 出てきたならもうあの曲しかあるまい・と思った。それは:

 「ずっと走れますように、ずっと走れますように、いろいろ「変化」がおとずれたとしても、キミのクロームの心臓が太陽に照らされたままで、ずっと走れますように」

 もうこれしかないよね。最初のコードでわかる。

 LONG MAY YOU RUN.

 こないだ友人の結婚式で歌ったから、その「つきづきし」な感じは確信するわけ。どーよ・Sくん。

 Twitterやってたら、さっそく呟くのに・そんなのがタイミングなんだね・きっとね。

 開会式の時に全部は立ち上がらなかった聖火も、LONG MAY YOU RUNのオーケストレーションで静かに倒れていった。なかなか良かった。

 その後の一曲ずつの「ロック・コンサート」は「かたはらいたし」。

 そんなだったらダブリン(アイルランド)で五輪やんないかなあ・と思った。まずメアリィ・ブラックやろ、まあU2はユルしたろ、ドロレス・ケーンやろ、シャロン・シャノンやろ、ダンスはリバーダンスは決まりで、リチャード・トムプソンもどさくさ紛れで出ていただいて、最後はヴァン・モリスンで〆てもらう・と。

 ん? そう考えると、リオ・五輪決まったよね。2016やったっけ。今回みたいなのが恒例になったら、その閉会式は「ゆゆしき」こととなるのでは。

 まあ、こんなときにニール・ヤングを事故みたいに見れて良かった。カーク船長もでてたしな。本日まで生きてて良かった。実感です。

 
 アスリートにはジンと来るだろう。エーゴちょびっとくらいわかんなきゃ「おじいさん歌ってるう」だが。

 
posted by 浪速のCAETANO at 12:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

んー・何かが違うのだがうまく言えん

 元生徒が来てるから、店に出頭すべし・RIGHT NOWという電話が店長から掛かってくる。そいつらとは4.5年ご無沙汰していたので、ワインの空き瓶15本を伴って片手チャリで店へと向かう。普通ゴミの日は覚えたのだが、資源ゴミの日がいつやったかな? というのがわかんなくなって、それ以来、店のワイン置き場に置けばいいぢゃんってことにあるとき気付いて以来、だらしなさはそのまま。普通ゴミもたまに店に早朝やってくるおにいちゃんの世話になっている。だらしないことこの上なし。

 K応のSFCを今春卒業し、H神・H急百貨店に就職が決まっているやつと京都D大5回で実質2年の2名がおこたにいた。

 20余年塾をやっていると、7・8回アホみたいに盛り上がった年がある。そのハジケ度はまあいろいろで、80's後半〜90's〜0'sと時代を変遷し、同時に映しながらのそれらなのだけれど、豊津時代の最後から2番目のまあ楽しかった年代のアホ2名なのだが、そいつらのパパは同じ同い年/2つ下・という、なんとなくこちらにある種の自覚を促す、そんなビミョーな年である。

 2名とも中学受験経験者で、もっとも切れていたのは小六のとき・というよくある話ながら「やや残念」とも言える・そんなタイプ。

 中学受験ていいのだろうか? 

 曰く、公立には行かせられない。ちゃんとした教育が受けられない。受験対応もダメだし。こんな話で、みなさん中高一貫あるいは大学まで付いている・そんな学園を目指すわけだが、もちろん親の経済的負担もハンパではない。それが「できる」ことが立派な親の証し・という意味もこの20年間の日本人の心象風景を鑑みるに、否定できない。多分にそれもまた「新自由主義的」である。

 その傾向はおれたちぐらいの年の親から始まり、普通になったのは今40代の親たちだが、それは教育に対してコストパフォーマンスでもって評価するこころを持った、ということだ。言わばコンシューマー・マインドに目覚めてしまった・ということなのだが、それはお金を使う際にコストパフォーマンスを考えるという、まあ言わば当たり前のことなのだが、しかし、それをこちらへ適用するとそれはどうなのかな・などとおれは思いながらも単に呟いていただけだったのだが、そうしているうちにあれよあれよ・という間にそんなセンチメントが支配的になってしまった。

 そしてそのほんとのベネフィットを測定することは難しく強いて言うなら「合格率」みたいなことしかぱっと見ぃ・ないんだもんね・目に見えることが。

 「競争」と「勝ち負け」というあまりにもわかりやすいが、ものすごく単純な世界へと移行していくことになる。親子ともに「新自由主義的」であればそれでよかろう。とりあえず、その現場での葛藤は極小かと思われる。しかしいきり立った親といまだ洟たれた、あるいは競争とかが厭な平和主義者な息子/娘だったら。

 昨日来たそいつらにも確認してみたが、中学受験の現場にいる際には「なぁんにも疑問持ってなかった・というかなぁんにも考えてなかった」という情況だ。しかしやる勉強量はその年にしてみたらハンパではない。小学生の算数ってなかなかむずかしいんだよね、これが。論理性をそんなにつきつめずに「○×算」をやらされる・そんな印象がある。今年面接に来たノゾミ学園出身の子の塾ノートを見せてもらったが、国語にしても「オトナの言葉」による回答が満載だった。それって果たして「いいこと」なのかな。疑問が残るんだなあ。いつになっても。

 例えば、微積の難問を解く、空間ヴェクトルの難問を解く。そんなときに6年も7年も前に詰め込まれたことが「好印象」のもとに甦るのは「一般的」か・ということなのだ。きっつい塾の小学生がやっていることをよく見てみると、結局それは中学生の問題だったりする。平行四辺形ベースの辺の比なんてのもモロにそうで、まあ一貫の進学校なら高二で高三までのカリキュラムは終えるから、まあ進むことはついていきさえすればやれる子に負担はないだろうけどさ。

 しかしである。あの15才の時にグランプリ・ファイナルで楽勝の優勝をした浅田真央ちゃんでも、「オトナ」になるにつれて「波」も出てくるわけである。早熟は必ずその後の停滞をもたらす。まして、強要された早熟・ってのはどーなん? と言いたいわけ。いや、おかーさんにしてみたら強要したつもりはなく、「本人」ともちゃんと話しましたけど・と言うのであろうが、でも小学生に「オトナ」な判断なんてできるわけがないのだ・そもそも。

 おれは自分が公立出身で「できるだけ勉強せずに」をモットーに生きてきたので、そんなちびっこが、勤勉を根拠に「将来のことを語る」という現場に立ち会うと「へー・ほー・おー」など驚いてしまうのだが同時に「ほんまかー」と斜視にもなる。

 うちの塾には伝統的に中学受験成功して「身元保証」されときながら、「ぬけがら」と化したD大・K大・K学大付属高校生が多く在籍した。そうではない一貫高で大学は外部というパチパチな人々もいたけども。しかし、それなら公立高校でもそれは「可能」だったりする。しかもこれから「タダ」だ。

 15才で「初めての受験」ってわりとその心身の成長ってこと考えると「ちょーどよく」ないだろうか。

 今、必要以上にお勉強ができて、とりあえず、目の前の競争に勝っていくことを至上命令として少年少女時代を過ごすことは、なにかその時代にしか感じることの出来ない「コドモ」としての感覚をその代償として差し出す・そんなことにならないのだろうか。

 15才当時の天才浅田真央ちゃんでも苦しむわけである。エリート中のエリートである。安藤美姫ちゃんだって同じく・である。苦しみは安藤美姫ちゃんの方が質・量ともに上だったと思う。荒川静香さんにしてもそうだ。必ずスランプというものは存在し、そんなときこそ、周りの「新自由主義・後」の世の中の意味を理解したオトナが一旦競争から身を引かせて、精神をリストアさせ、チカラと自信を回復させることが必要かと思う。親の「無責任」なとこは、そこんとこフォローできないくせに「焚き付ける」だけはするってとこかなぁ。そこまで予想しながらコドモを焚き付けた親には今まで誰一人出会ったことはないなあ。先って見えないし、まただからこそ「可能性」に賭けたい・という気もわからんではないけど。

 しかし、ほんとに鬼畜なのは「受験産業」である。あんまり親を脅迫しないで欲しい。そして絵に描いた餅で親のコンシューマー・マインドを刺激しないでいただきたい。そのノゾミ学園にせよハマ学園にせよ、中には所謂「アホクラス」もあったりする。それって「存在矛盾」である。アホな子たちの月謝はカシコイ子たちのために・とは今や常識だが、それはあまりに「あからさま」ということだ。

 行き着く先は「つかえない東大生」を量産してな〜にがうれしいのだろう。お勉強とかそれは受験でも構わんのだが、ピークに向かって徐々に盛り上がっていくのがいいに決まってるわけで、それは時間とともに「納得」や「覚悟」がオノレの内部由来のものになるからである。高校生で早熟なら社会の矛盾とその中で「生きていかねばならん」という決意はまだ可能かもしれないが小学生にそれは100%無理である。

 灘中○○人、東大○○人というパンフ広告がどんどん入る時期になって、マイナー塾としても広告しないといけないのだが。時代は逆風である。

 しかし、必要以上に進学塾といわれているところ、そんなところに「結果」以外に、生徒の事を考えているオトナは誰一人いないのよ。受験「産業」と言う言葉がすべてを語っている。おれんちは「進学塾」ではあるが「産業」ではないので。

 
 

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 07:37| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする