2011年06月14日

自由

 やっとこさ、コピーが復活して、塾前に7/11に走らなくて済むようになった。関係各位に多謝。

 しかし、昔の学校のようで面白くもありました。即興で問題作ったりとか。

 利便の機器があるということで、なにかしら脳内的に「安心→安全→油断」みたいなものがあります。プリントをコピーしただけで「お勉強させた」みたいな気になったりとかね。今後はw/oコピー時の緊張感を持ちながらやっていきましょう。

 六月も半分、折り返し。相変わらず早起きなのだが、「起きなあかん」と「起きんでもええのに勝手に目が覚める」の違いを実感しているところだ。しかし、おそらくこれからは時間が過ぎるのは早いだろう・と予測している。早く7月になって欲しい。根本状況は変わんないんだがね。

 基本、おれはヒトに管理されることも管理することも大嫌いで、しかし、管理される場合は、なんとかその管理の目を盗んで、合法的に「見える」方法で、本能的にそこから網の目をくぐろうとする。その場合はまだいいのだが、管理する側になったときに実はものすごく居心地が悪いのね。

 「見たくない・聴きたくない」と故南方師匠化するわけだけれど、それをやりつづけると空気はもう「どひゃー」になってしまう。自由で楽しいのが良いのだが、おれが思う自由は、相手の思う「なんでもあり」と対応する・そんな結果になりがちである。

 それが悩みの種ぢゃん。

 最近、そんな状況相対化する出来事が多く、おれは「管理者」ではないときに「いい仕事」をする・そんな気がしてる。ジレンマ・だ。

 ヒトを管理し・ということは「支配」し・に繋がると思うが、それを嬉々として・あるいは、仕事だからといってそんなに消極的でなくやれるやつがいる。きっと彼/彼女はそんなことでこゝろは痛まないのだろうが、おれはあいててて・だ。

 おれの「やわさ」はそんなことにも原因がある。

 でもさあ・言葉はまだあって、その概念がぼやけて、実体はほとんど存在しない・というのが「自由」なのでは、と思っている。

 現代の自由とは、微分されてしまった。だがしかし、一見不自由な状況にも「自由の芽」は存在する。おれは今、そんなことを実感しつつある。誰かが/何かが、おれの身体や時間を拘束しようとすればするほど、おれの精神は「自由」を求めてしまう。そんな意味でもこの2011年6月は、ほんとにいい経験をした・とあとで思うだろう。自分が求めているものがなんなのか、少し危機感を伴って再確認できつつあるからだ。

 あんまり阿呆になるのはよそう・と思う。もう十分阿呆だからだ。

 のど元過ぎればなんとか・で、おれもすぐ忘れてしまうからなあ。

 自由ほど「ちょうど良さ」の微調整が難しく、そして不断に必要なものはないだろう。油断はまさに禁物である。自分の自由の「ちょうど良さ」が見えてきている。

 そのスケールを覚えておかなくては。

 ホント・言うは易し・なのだ。


posted by 浪速のCAETANO at 18:02| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする