2011年09月30日

SENTIMIENT 2

1007liveol_CS-1.pdf1007liveol_CS-1.pdf
マルタニカズa.k.a.浪速のカエターノ
HOST LIVE
@SUN HALL
10/7(Fri.)


 いい具合に涼しくなってきた。暑いとこからの気温の低下はヒトをして「セクシー」な気分にさせるのである。

 まさに今中秋。運動会シーズンである。この運動会シーズン・なかなか「切ない」わけである。つい最近までの皮膚感覚によると、まあ・跳んだり走ったり・わーわー言ったりするこの一日は、なんかやっぱ代謝上がっているわけであって、なんのかんのいいつつも気持ちは高揚するものだ。

 しかしながら、運動会が終わって片付けも終わる頃、なんだか急に「ひんやり」してるのだよね。空気が。

 よく「センティミエント」て何ですか? と訊かれる。一言では言えないなあ・ワンフレーズでは。一言主の神・でもそれは「ていうかー」となろうと思う。

 元々和語にはないのだが、近似的な状況なら、上の下線部が貴方にもたらす環境によって、貴方の中に生じやすい感情・というのは如何だろう。

 もう少し、補強しよう。

 カンチョー・あるよね。浣腸ではなく、SMのプレイとしてのそれではない・いたずら・のカンチョー。

 これはなんとなくだが、女子の方がリアルだと思うのだけど、女子同士でたまに「もうどうしようもなく」カンチョーしたくなるようなケツが、「どうしようもなく」受け入れオッケーな態勢で目の前にある。そんな場合、カンチョーの誘惑に勝てるヒトは少ない(ほんまか?)。

 いや・ここは少ない・ということで進まないとアカンとこなので進みます。

 で、満を持して「する」。これが意外にズブリと行く。する側はやや慌てる。一体「どこまで」入ったんよ・と。あるいは狙っていたとことはやや「ズレる」。「あ・そこ・ちょっとちがう」みたいな。

 さて・ここからである。

 された側の反応の中に「センティミエント」を解く鍵が実はある(ほんまか?)。

 無防備な状態とは、ほんとに無防備で、余計なチカラ入っとらんわけよね。だから、スポンジが水を吸収するように、ケツは指を「吸収」する。ジーパンとかよりジャージの方が良かったね。ま・そんなことで、すぼっ・と奥までイク。

 出会い頭に濃厚なチューされるようなモノだと思う。あった瞬間におっぱい・ではなく、心臓わしづかみ・そんなことだと思う。おっぱいでもま・いいが。抵抗なんて文字はその時貴方の辞書にはないわけね。

 すべてを躊躇なく受け入れる。それが、センティミエントの条件である。抗わない。

 そして、次は狙っていたとこがちょい・ズレる。

 された側・今度は「もうっ!!!」である。もうっ!!!なのだが、そのズレが、ちょっと違うとこに当たる。だから「もうっ!!!」が「う〜ん・いやん」ってなる。カラダが感じるキュン・とでも言おうか。これもセンティミエントである。

 上記のものたちの「混合されたもの」それがセンティミエント。

 余計・混乱された方もいらっしゃろう。ワンフレーズってしかし、そんなもんあかんわけよ。物事とは「フツーで複雑」なのだから。

 概念上・似た言葉に「サウダーデ(サウダージ)」がある。目の前にない何かを強く、求める気持ち・という意味ではかなり近い。しかし、センティミエントはサウダージを包含する。

 そしてその「求めるもの」は絶対に手には入らない。それは「すでに終わってしまったもの」だからだ。しかし、強く求めると、別のものが手に入ることがある。

 なんだか、そんなものを今回は表現・というとまた違うのだが、そんな情緒に包まれたライヴをやりたい。

 そんな気持ちで準備をしてる。中津の中学校の実力テストが重なったのが「誤算」だが。


 センティミエント増量
 
 


posted by 浪速のCAETANO at 16:22| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月27日

疲労・徒労・過労の果てに

 ある匂い・や音・味・皮膚感覚、このようなものにおれたちは記憶の根っこをぐいっと捕まえられているが、その証拠に、ことあるごとにその感覚は「リプレイ」実はされていて、それは電車の乗り換えの時や、クルマのキーをひねってエンジンがかかるつかの間、そんな瞬間に、これはまるで夢のメカニズムがおそらくそうであるように、数十分・あるいは数時間・もしかしたら数年間の時間の凝縮されたものが、経験されたものとして脳の中を光速で通り過ぎていくのだ。

 確信犯的にそんな目に遭おうと思ってあるアルバムを買った。もう廃盤となり、手に入れることはほぼあきらめかけていたのだが、その道の集中力とはおそろしく、ネット空間の中から発見してしまった。

 1988年製作というから23年前。30歳の時に、「もう一番素敵!!!」と思ってしまったのだった。それは成熟したオンナの声で、ややその熟し方が後半を迎え、腐敗の危うさとすれすれの正にその「時」にしかできないようなアルバムだった。かわいさとエグさが同居していて、当時30歳のおれにはそれらに対応するかのように「憧れ」と「怖さ」が同じようにあった。

 コムポーザーはルル・サントス、カエターノ、ジャヴァン、ミルタォン、ジョイスなど。どれもガルのためのオート・クチュールのような曲だらけだ。そのアルバムは最近再三言ってる「LUA DE MEL como o diabo gosta(蜜月-まるで悪魔趣味の)」なのだが、LUA DE MELはHONEYMOONと訳してもいいかもしれない。

 手に入れたのは日本版だったから、ライナーは当時MM誌によく書いてた女性ライターで、まあシロートみたいな解説だが、当時はブラジル音楽への知識と理解はまだその程度だったのだと思う。ただ、そのなかでも数ある作曲歌陣の中でもカエターノだけは「無視」されてる。これって、中村とうよう氏のMMのなんとなくの統一見解だったのだよね。とうようさん・そこは「節穴」だったね。このようなことは、いまでもあっちこっちで起こってる。おおお・いらんこと言いそうやった。

 土・日・月と苦しい人生で、疲労と肝臓のキャパ問題でいっぱいいっぱいだったが、今度は次のライヴのリハが始まる。

 寝ても寝ても疲労感が取れない。昼間のビールやめましょうね。

 昨日・一昨日と二日連続でニューライトに行ってしまったおれはアホだが、まあそれはそれ。洋食をカラダが求めていたのだろう。しかし、同時にラーメンは喰えないなあ・もう。

 アメ村の人出が減っているらしい。おれはライヴの時ぐらいしかあの界隈行かないけれども、確かにそんな気がした。御堂筋と東側の方がヒトが「たかっている」。ただ、キタよりもミナミはチャリで「通過」したい街だな・と思う。

 「透明人間」の楽しさと哀しさを同時に体験したけれど、当事者の皆様方には、その「重さ」をしっかり体感していただき、好意のエナジーをおのれの人生に役立てていただきたいものである。

 
posted by 浪速のCAETANO at 17:04| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月22日

Outono Veio

 もう半パンは履かんやろ・と強く思う一日だ。

 最近の気候って、グラデーションってのがないのよね。いきなりパンツ脱ぐ・みたいな感じ、合ってる・合ってない?

 移り変わりの風情にやや欠けると思うのだ。現在の国民性が気候に影響を与える・なんてことはないか、それを言うなら現在の国民性が気候を反映する・でした。

 厚めのタオルケットだったのだが、朝方寒かった。もう布団で良い・そんな感じ。

 コーナンまで淀川左岸をチャリで往復してきたが、空が高かった。本日なら長袖のシャツでちょうど良かったほど。夏物ともしばしの距離である。ライトやゴミ袋など細々したものを買いにいったのだが、思わず、ペットコーナーの方へと足が向く。習慣ってさあ。

 
 さて、全然カンケーないんだが、かつおのたたきの美味しい食べ方・というか活用法というか。

 オイルサーディンや某名店の鯖サンドから考えると、今まで試さなかったのが不思議なのだが、かつおのたたきでサンドイッチを作る。めんどくさいのっておれは基本的に好きじゃない。特に昼メシにそんな情熱傾けるのはヤ・なのだ。だから、すごく簡単なもので、いれたテのコーヒーと・なんてのがいいわけよね。

 おれの昼メシというのはusually3時のおやつ・の時間ぐらいなのだが、麺とかパンとか、そんなお手軽が好きよ。

 で、本日はマフィンを使う。なぜか?

 マフィンがそこにあったから。

 ことは哲学的要素を帯びてきたぞ・なーんてことはないのだけど、これっぽっちも。基本・あるもので、これがお手軽のエッセンシャル。

 マフィンを二つ割りにして内側から焼く。おれはいつも卵焼き器を使ってるけどね。斜めにちょうど2つ収まるんだもんね。

 その間に、たたきのパックを開け、7〜8mm幅に切る。分厚いのがお好きならもっと豪快にどうぞ。一人で喰うならどうせ余る。

 たいてい、たれが付いてる。それを切ったたたきにかける。そしてオリーブオイルを上からかける。オリーブオイルってほんとにエラい・とおれは常々思ってる。ほとんど調味料だよね。ま・かける。

 マフィンが焼けてきたら、半分をもうひとつの上に乗っけてスペースを作る。そこにオリーブオイルをひき、たまねぎのスライスをそこで炒める。

 マフィンにマスタードを塗ってその上にたたきの切り身を好きなだけ乗っける。黒コショーを振り、タマネギを上に乗っける。その上から、タレとオイルのドレッシングをかけ、レモンを搾って、もう半分のマフィンで蓋。以上です。

 あとは大口開けてかぶりつくのみ・ね。

 たたきのこげがなかなかいい仕事してる・とおれは思います。あ・最後にマヨ・もいいかもしれない。そこは好みで。

 魚のサンドって実は旨い。おれはオイルサーディンで目覚めてしまいました。25年ほど前に。それで白がかなりすすむ。

 よろしければ、TRY!!!


 戻るが、最近の我が家の食卓には、戻ってないか、キノコのアヒージョがよく登場するなあ。キノコはなんでもいい。エノキでもしめじでも椎茸でも舞茸ですらOKです。

 耐熱の皿・なけりゃ、ホイルで作成する。オイル・ニンニクで煮るだけよね。これもお手軽。魚介の助っ人があってもいい。海老でもイカでも蛸でも。一緒に「混浴」させる。余ったオイルにバゲットつけて、これまた白がすすむ。


 昨日は「おでん」を煮込んでみなのものに振る舞った。こう・なんだか料理をしようという気になってくると秋冬なのだなあ・と思う。割とおれの行動ってパターン化してるから、そんなことでも季節が変わってしまったことを自覚したりする。

 
 季節感と言うなら、おれは、マリーザもいいと思うが、ガルだ・と思っていて、しかし、ガルの最近の充実してなさや・日本公演時のおれによる「カネ返せ」事件なんかがあったこともあり、なんだか、もうええわ・と思っていたのだけど、ふとしたことから記憶が甦り、それは「蜜月」というアルバムなのだけど、それでガル命になったアルバムがあり、しかしそれは廃盤となり、もう手に入らないかなあ・と思っていたら、手に入るかも・ということになり、俄然・当時のあの幸福感もまた、甦ってきたのだった。

 そこでのガルのすばらしさったら、マリーザの比ではなく、というかマリーザはかっこいいがガルは素敵・なのね。そしてどこまでも甘く・切なく・ホマンチコ(ロマンチック)なのね。おそらく、それがガルの(すくなくともおれにとっては)最高傑作だと思うのだけど、廃盤。ひょっとしたら・おれ・それ・だけが好きなのかも知らんが・ガルの。

 「世の中間違っとる!!!」の良い例だと思う。

 この秋は忘れていたガルの最も好きな声を聴きながら、窓から月を眺めつつ、三千盛のぬる燗でも飲むかー・なんて思ってる。

 なんという幸せ。みなさんには「?」かも知らんが。

 放っといていただきたいわけである。
posted by 浪速のCAETANO at 17:11| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

史上最高値よりはじめて

 76円12銭。史上最高値だ。

 どうすんの? 諭吉をどんどん刷って、それを銀行に留まらせないような法律作って、おれたちにまで行き渡るようにしろよ。

 今・増税を既成事実化しよう・として、もうほとんどそうなっているが、ちょっと待って欲しい。増税には「バカ管」でさえ、民意を問う・と言ってたのだ。なんでもかんでもなしくずしちゃいかんのだけど。ねえねえ。

 アメリカを、これ以上損させない・そんなことのために、おれたちを犠牲にしようと思ってるのは知ってるが、そんなことでいいのか?

 野田・安住・藤井、財務省・GOTOHELL。死んだらほんまに行くで・キミら。

 みんなを中間層から「落として」、「派遣労働者化」しようとしてるのは、わかってるぞ。

 特に「東北」を助けようとしてないのは、東京の、放射能怖くて帰っちゃったアジアのひとたちの代わりとして、被災して仕事をなくした人間を使おう・なんてのもわかってるぞ。

 ほとんどすべてを「派遣」へ。そして、「自己責任化」させて、死ぬなら死ね。そう思ってることも知ってるよ。

 今回の台風だって、ポースはいいから、いや・ポーズもせんかなあ・しかし、こんだけみんな意識してメディアも騒いだ後だし、ポーズぐらいはするか、するにしても、もうきみらは「熊野」を助けない。ポーズだけ。

 
 切ないのは、落ちるか落ちないか・の人々がオノレのことを見えてないことね。自分だけは・のミーイズムだから、その人の「落ちてしまった人間」への視線は残酷だ。アンタッチャブルを見るような「蔑み」の感情がそこには見て取れる。

 あのさ、乗せられてるだけなんだって。努力するのは悪いことじゃないし、落ちてしまった人々が努力してないわけでもない。その場のそれなりの努力はしてるわけよ・みなさん。

 で、肝心なことは、互助の精神しかない。まあ・落ちてるくせにその精神に欠けるバカもおるけれど、しかし、互助しかやっぱり・ない。それもけっこう切羽詰まった話・だと思うよ。

 年齢・とは大きいけれど、やはり、60・70'sを体感していないことが大きい・そんな気がしてる。知的な人間なら、今の状況を切り取って、そこが・まあ希望のあるなし・という決定的違いはあるにせよ、レヴェルがその過去のどこかと共通していることを感じるはずで、そしてリソースに関して言うならば、おれたちも欲しいけども、もっと欲しがってる他の人々もいる。じゃあ・どんな割合がいいのかは・よくまだわからんが、もうこれだけ人間が「意識」を持っちゃった挙げ句ならば、そのシェアに関しては、フェアネスなしにはあり得ないことはわかるはずだが。

 何かを「敢えて」見ない・見て見ぬ振り、それが結局は、そのフェアネスに対する反動の要素・ってことにはなかなか気づこうとはしない。気づくと「崩壊」しちゃうのだよなあ。ここんとこ・あちら側の「手」なんだけど、国内・およびたまにアメリカ、メディアはそこしか報じないような、黄身と白身で卵内部・そんな「環境」を作り上げられてしまってる。中国に対して「感情的」になるヒトって、「乗せられてる」証拠。もっと相対化した方がいい。そうしないと、ほんとに戦争になっちゃうよ。戦争は、たいてい国力の「弱い」方から仕掛ける。そして国力が弱いわけだから、そっちは必ず負ける。今は日本の方が「国力」は弱いのであって(GDPはそうなってる)、あんまりカリカリしちゃあかんのよ。そんな意見ってほとんどが「内弁慶」というとほほ・だし。

 日本もやってることは中国と同じ。

 国内の政治への不満を隣国に向けさせて、ガス抜きさせてるわけです。と考えると先の、衝突事件とか、両政府にメリット・あったのでは・なんて勘ぐりたくなる。尖閣諸島に関しても、そんな気がする。例の如く「勘」だけど。

 政府とヒト(特に民間人)とはどこの国だって、一枚岩じゃない。おれの知ってる中国人たち、愛国者もいれば、おれのきわどい話にも「笑ってる」やつもいる。

 今の日本の人々、何かに目を瞑らないと「パワー」が出んのかもしれないが、多かれ少なかれ「ホリエモン」の残像を追っかけてる・そんな気がしてる。あなたたちって、それ「ちっちゃい新自由主義者」だよん。それじゃなんにも・だれも「幸せにはならん」ことはすでに「証明」されてるわけよ。アウト・オヴ・デイトである上にアタマ・ユルすぎ。もうすぐわかるよ。分かった頃にはもう手遅れだけど。

 おそらくその大部分が「あらためて落ちてくる」だけ。

 こんだけみなさんが「欲の皮」つっぱる・ってことは、そこが大部分になってるわけで、その大部分の中からは、次・に対応する考え方はまず出てこない。孫ちゃんの100億円寄付なんてのにみんな「おーーー」というのは、実は「そちらに善」があるな・ということがみんな分かってる・ということだし、しかし、それはおれだって一万円(だはは)義援金しましたよ・それと差は実はない。立場というのも固有だし、現在の立場には過去の運も大きな要素だからね。

 そして、平均寿命からいくなら、おれたちはまだもうちょっと生きる。いろんなひとにいろんなオポチュニティは数は少なくなったとは言え、巡ってくる。まだまだいろんなこと・不確定要素・満載だと思うよ。そんなときに「ミーイズム」は「障害」にならないかな・なんて思う。


 大阪は今年は「ちいさくラッキー」だった。台風災害も「ゼロサム」なのであって、誰かが誰かの身代わりになってくれてる・そんな発想は不謹慎と怒られるだろうか? 逆であれば自然災害に関しては受け入れる。それと増税は別やけどな。

 

 GAL perfeit pra mim

 
posted by 浪速のCAETANO at 16:33| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月20日

今度はすっと行って

 上げたつもりが上がってなくて、「おれの美文は電脳ブラックホールへ」。

 真実は「その駄文は電脳ゴミ箱へ」だったとしても、言うだけ言うとくのであった。

 エネルギーが無駄に使われることって「くそー」ってなるですね。なんぼでもあるエネルギーでなけりゃ余計に・ね。

 何かいてたんだっけー・だよね。もういいのだけど。

 一期一会・であるよね。こんなことでも。

 そう言えば、さっきもクルマ飛ばして十三までタバコを買いにいったが「売ってなかった」。かように本日・エネルギーをちっちゃく無駄にする日・みたいである。

 
 ま・おれのそんなことはどーでもいいのだ。

 熊野(いや)地区というのがよくわからなくて、調べていたらわかった。それは龍神から串本へ抜ける路の龍神スカイラインを降りた辺りだった。桜の季節にシトロエンで走ったことがある。そのときの印象のモチーフは「木の精の話」や「木の精の歌」となって、自分の中では結構大切な体験である。どこまでも続く杉木立に囲まれながらでこぼこ路があり、そこを疾走するシトロエンBX・インテリアが「ドリフ」だったのだ。

 こんなときの速報は、ネットではなくTV・ラジオの報道だと思う。そっち・かかりっきりになったらやっぱり報道は強い。こういうときにしっかり働けよ・と思う。

 もうR168はあちこちで寸断されてしまった。クルマで行けるには10年ほどかかるだろう。現在の唯一のクルマ路・R425も緊急車両以外は通っちゃダメ・だって。中辺路は一番回復が早いと思われるが、今日明日の被災状況いかんでは遅れることもあるだろう。なによりもJR紀勢線がアウトなんだから、山間部への物資の供給とか大丈夫なのだろうか。熊野(くまの)は充分山間部なのだった。熊野〜新宮間がなんともなけりゃいいのだけど、支古や日足の被害も報じられていたからだ。

 おれごときが今・熊野行くのって、「ちゃいちゃい」されるだけだった。出直そう。で、台風来るのはもういいから、ギアチェンジして「あっ」という間に行ってよね。

 明日は警報でコドモたち・休みだろう。「やったやったー」と喜ぶバカたち、その一方での家の・イノチの危険に直面するひとびと、その温度差というにはあまりに違うその温度に「うー」と無言になるわけよね。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 18:39| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月17日

ざぁっとした告知

 今レスザンゼロを手伝っている。そのライヴは9/25(日)らしいです。手伝うのだが、姿は現さない/現せない。

 透明人間として手伝っている。不自由で不憫。尤も、レスザンゼロ自体が不自由で不憫な子たちの集団でもあるが。

 ま・しかし透明人間だもんね。不自由で不憫を共有するとこから始めてる。

 いや・まぢで。

 
 さて、おのれのライヴのことも。

 
SENTIMIENT VOL.2
マルタニカズa.k.a.浪速のカエターノ
HOST LIVE @SUN HALL


10月7日(金) 18:30open/19;00start 2000/2500(w/oDrink)


 出演は、Los solos Lobos、CVS Cowboys、ボサ姫、フラメンコ中西夫妻、キングちゃん、カオルちゃん、カエターノナニワーノ、ノビナニワーノ(ノーヴォスナニワーノス)、北村嘉章(モノシズム)、小松辰(ギターワークス)、岩崎秀昭、このようなメンツです。

 また、チラシが出来たら、本格的に。

 秋は月イチでまあおっきなライヴがある。

 11月はなんと「ソンナバナナ」である。6日。尼崎の臨海地区の野外にて。これからメンツの出演交渉なのだが、なるべくみなさん参加して欲しいな。ほんとの脱国境音楽・お聞かせしたい。

 12月は田中屋にて。Los solos Lobosのワンマン。4日。冬場の南部。

 ホストライヴ(金曜)以外は日曜だし、予定に入れといてよ。お願いします。

 昨日、N井から「本日産みたて」たまごをもらって、卵かけごはんを敢行したが、さすがに旨かった。10年は喰ってなかった。しかしちっちゃな幸せ。だはは。

 さて、さきほどレスザンゼロのリハに行って来たが、きらきらしたギターバンド・アレンジにしようと思ってる。ギターだけ弾くって気楽で楽しい。
誰か、雇わないかな・おれ。昔みたいに「うるさく」ないよ。隅の方で弾くよ。どお?
 
 
posted by 浪速のCAETANO at 16:32| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月16日

こんな快楽

 世間は連休と、ややはしゃいでいる。おれも外仕事は来週は休み。奈良と和歌山へ行こうと思っている。半分はおふくろの用事の代理人だが。

 さて、どんなスケジュールにしようか。

 熊野までのルートを地元に訊いてみたが、ひどい。しかも一本しかない。今まで通っていた路がすべて通行止めで、しかも復旧のメドがたたない・という。えらいことである。中辺路も大辺路も・だ。那智大社もエラいことになってる。その後数日の滝の水量ハンパではなかったろう。巨大お○んこ大洪水・とかは今回は言わない。本宮・大斎原も水につかった。本宮から湯の峰への裏ルートも土砂崩れと聞く。


 お前が行くことになんか意味があんのか?と問われても「うーん」と考え込む。何しにいくねん?と問われても「そうだなあ」と口ごもる。

 実際行くかどうかはわからない。奈良での用事が済んだら考えよう・と思う。

 またまた「祟り」に思いを馳せる。もし、そうなら、この10年反省することだらけよね。おれもそうだが、政治家とかが。ここんとこ忘れられてしまった「古代人の知恵」だろうと思う。そんな「心持ち」がひょっとして必要なのではないか・と思う。自然の与える豊かさと畏ろしさはペア・なものだから。事故で死ぬとかは考えれば普通のことなのかも知れない。今は軸が「極めて安全」な方向へとシフトしてしまっているから、まあみなさん全員が古代の貴族よりも上・な状況に慣れてしまっている。自分もそうなのだけど。だから、ちょっとした不幸でさえ、大事となる。

 そこんとこ、幸せの増加に伴い、不幸もまたその機会が増える・なんてことをおれたちはバカなもので忘れちゃうのよね。

 やはり、少し「謙虚」になった方がいいのかもしれない。そんな気がする。

 しかし、それをこれまでいい思いをする機会が少なかった人々に強要できないだろうな・とも思う。欲望がこんだけ喚起させられ続ける今の世の中で、なかなか難しそう。誰もが、「どこにもない自分を捜しにいったり、そのままのばかでいいんだよ・イッツ・オンリィ・ワンだもんね」な世界ではそれはどうなのかな。

 おれもほんと・思うのよ「今・ワカモノじゃなくって良かった」と。

 ある種のサイクルの終盤にかかっている・と思ってる。

 もうみんなの使えるリソースって、こんだけみんなが狙っちゃってたら、今までみたいにはじゃんじゃん使えない。そういう意味では、物質的にはなかなか厳しいよね。

 ただ、リソースというのは目に見えるものだけではないのでは、とも思える。おれもオノレと周囲のためにアホほどお金使ってきた挙げ句のこのザマなのだけれど、それはおそらく「無駄」ではない。その証拠にほとんど最近までとても幸せだったから・である。

 今も、別に不幸でもない。蓄積された目に見えないリソースに依拠してなにかをしているとき、今も大変幸せなのである。

 ここへきて、快楽の意味もシフトしているとおれは思う。まあ・おれの中だけの話かもしれませんが。

 どひゃー・うわー・どばっ・だけではないんだよね。

 中に快楽そのものを溜め込むサンバや抑制の利いたラテンの踊りのような・とでも言おうか、例えて言うなら。ウエストサイドストーリーのような踊りとは趣きが異なるわけだった。喩えが旧くて今楽しかったが。

 おそらく、その幸せは誰かと共有するのは難しく、その快楽は説明するのも難しい。しょぼい自己マン・な世界とすれすれ・かもしれない。そうでないことを祈ろう。

 パンドではやってない音楽が最もそれに近いかな・と自分では思う。ギターを持ってオノレと向き合うのは良い。今、教えている人たちにも早くそう思えるようになって欲しい。ヒトのためではなくまず自分のため、ヒトに聴かせるというより、まず自分に聴かせる。自分はその際・審美眼を持っていなければならない。広い音楽の知識もあれば更に良い。なくてもいいけど。

 まだカメラ向けられると「自意識」があるが、ギター持つとその辺からも自由になれる。そんなレヴェルまでは来たな・と思う。時間かかり過ぎながら。

 個人内快楽主義だよね・と切に思う。

 desolation row
 
posted by 浪速のCAETANO at 17:27| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月15日

へらへら

 12時間以上飲み続けてしまって脳細胞は100万個ほど壊死したと思われるが、元よりばかなので、どうでもいい。

 世間的に非休日でオノレにのみ疑似休日(ほとんど気持ちは休日)なんてのが、最も気がユルむ。ユルみたい。

 しかし、よく飲んでしまった。途中のギター教室もなにかしら「ごきげん」で生徒のみなさんもなにかしらハッピィだったのではないだろうか。わかんないが。それも「あり」だと思う。

 いつまでも「もわ〜」と暑いのだが、もうね・先は見えてるからね。最近カレー頻度が高く、カンティプール・カルダモン・サグンとご近所の店から、自分で作るもの・それもインディカ米で、まで、およそ3日に一度はインド・ネパール人だ。

 しかし、最近は喰えなくなった。ナンとライス全部喰っちゃうと、意が破裂するのではなかろうか・ぐらいの腹一杯度だ。最近・毎夏・食欲減退で、豆腐・冷麺・カレーなんかのローテ・となるのだが、しかし、やはり・たまの「胃拡張チャレンジ」は必要かと思い、カレー屋へと行く。

 カレー屋もそば屋同様・ランチが落ち着いた2時ぐらいがベストだ。「遊んでるヒト」と思われるが、別にいい。まあお堅い仕事やってるなんて誰も思わんもんね・おれを見て。

 と、いうわけで、本日も天六方面へと行かなければならない。誘惑だらけだ。誘惑には負けとこう・タイプなので、おそらく香辛料にまみれることだろう。天六・居心地よすぎだ。帰りに図書館にでも寄ってこよう。

 長く郊外と言われる地区に住んでいたから、ダウンタウン界隈に住むことの戸惑いが少しあり、しかし、突然そんなことには目覚めるわけだが、そこ・使っとかな・だ・となぜか本日肯定的。やっぱ100万個脳細胞が死ぬって・一時的ロボトミー手術後みたいなことになるのだろうか。へらへら一日中笑っときたい。

 と、いうわけで「カタいこと」言わない一日になるはずである。バカは楽ね。


 it's a lazy day
 

 
 

 
 
posted by 浪速のCAETANO at 11:56| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月14日

おれたちのA・K・B

 とりあえず、すごくおおまかでいいと思うのだが、それは多くのヒトがすごくおおまかに勘違いをしてるからなのだが、そして敢えて「勘違いのまま」でいとこうかなという確信犯の方もいるし、もうめんどくさいからそれでいいよ・それよりも早くビール飲みたい・そんな方も大変たくさんいらっしゃるわけで、だからこそ「とりあえずおおまか」でいいと思うのだ。

 ではいきま〜す。

 AチームとBチームとKチームに分けたいと思う。あくまでもおおまか・よね。

 こないだ辞任の鉢呂くんはB、もう忘れてると思うけど、九州男児のB型やけん・の松本くん・B、松本くんに怒られた宮城県知事の村井くん・A、先日再選された岩手県知事の達増くん・B、われらが大阪府知事はA・われらが大阪市長はK、代表選に負けた海江田くん・K、小出さん・B、野田くん・A、管くん・K、亀井ちゃん・B、児玉さん・B、X-JAPAN・A、JAPAN・B、坂本さん・K、村上さん・B、もう一人の村上さん・K、紳介・A、BILLY BRAGG・B、嵐・A、地方を眺める東京の視線・A、東京を見つめる大阪の視線・K、小沢くん・B、小泉くん・A、二次元的なカテゴライズって難しい。でもあくまでおおまか・ですから。

 Ahoチーム・Kasuチーム・Bokeチーム・と命名しよう。

 どっちが「ええ方?」とかは訊かないで欲しい。

 権力闘争の勝利者は「歴史の勝利者」でもある。現に藤原氏は歴史を「改竄」し、それが国の「正史」となっている。それに対して敗者による史書を「稗史」と言うが、「紀」が作られた奈良時代には「紀」のために、多くの豪族の「歴史書」が集められ、処分された。それに先立つ乙巳のクーデターでは「蘇我氏」が所有していた「天皇記」「国記」は屋敷の焼失とともに消えた・とされる。

 根拠が心許ない・そんな正史・をおれたちは「頼り」にしながら国の歴史をイメージするわけだけど、その過ちはもう懲りてるはずなのに、慣れやめんどくささにより、「もう・ええやんか・それで」と思うヒトが大方だと思う。

 同様に、現在・が歴史となったときも、同じようなことが行われる・そんな気がする。官僚とメディアが「利益共同体」となってしまってるところが、よけい「ヤバ」な気がする。きっと当たってるだろう。

 そんなことに気づいてるひとも多いはずなのだけど、声を上げる「有効な機会」が与えられているとも思えない。そんなものは小さな穴を開けて少しずつ広げていくしかないのだろうが、それを聞く人々が今は「あまりに権威主義」だと思う。それは怠慢・なのだと思うが、怠慢にならざるを得ない状況が用意されている。そんなことにかまけてちゃ「生活」ができないよ・というメッセージである。

 それは堕ちてしまった人々だけではなく、「堕ちるかもしれない」人々には更に「有効」だ。そのひとびとは限りなく「現状維持」と「安定」を求めると思う。「甘い汁の誘惑」はもう二度と浮上する目のない国の現状を背景に「技あり」だもんね。同時に欲望も限りなく喚起させられてるしね。エネルギーをオノレとその極近いところに使う・以外に選択肢がない。

 お前が一番「バカ」ではないのか・という批判もオッケーで、でも、特高警察に捕まんない限り、駄文を書き続けてやるのだ。「稗史」でも構わんのよ。稗史によって、蘇我入鹿だって「復権」の目があるのだし。


 稗史としての音楽
 

 
posted by 浪速のCAETANO at 12:49| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月13日

終わっていく・そしてのっぺり

 二階建てであまりに時間が空いてどうも「中間飲み」の傾向があり、まあたっぷり時間があるから醒めるのだけど、これで雨とか降られたら、困るなあと思い、後半を二時間早くしたら、忘れたやつがいて、結局「早始まりの・遅終わり」になってしまって、「なんでやねん!!!」が似合う状況。

 ただ、深夜に見上げた「十五夜の月」で「まあええわ・ユルしたろう」・となりかけて・やめかけて・結局なった。

 飲み過ぎた。おみつで。

 かつてのデットエンドストリート・もう今や見る影もなく、廃れるのもここまで廃れるとなあ・といった「程度問題」を通り越した惨状なのだが、そんな中・おみつが閉めておかあさんは他所の店へ行くことを聞き、こう朝から外へ出てる日というのが、そんな機動力と腰のカルさゆえ、そういうことには適しているわけだった。

 末席におじゃまして、みなさんの歌を聞いていた。うそ・シャットアウトして聞いてるフリしてた。選曲が「おお・神様」ではあった。カラダは起きてたが、ハートは・まだ飲んでもいないのに倒れていた。

 しかし、最後に「骨まで愛して」で〆ていただき、なんとか持ち直す。とはいえ、松葉杖ついてたが。

 久しぶりだったからいろいろ話をし過ぎて飲み過ぎた。おれが知らなかった・というか正確にはしらなかったこともいろいろ話してくれた。その場を離れるとなるとヒトは饒舌になる・ということか/ことだろう。ここで起こったことは「もうすべて時効」彼女にとってはそんな感じなのだろう・と思う。

 デッドエンドストリート自体はもう今や「MEMORIA」で、そうなるとおれは未練がなくなるのだけど、というか未練を持っていてもオノレがつらくなるだけという現実もあることから来る・ある代償行為としての「引き出しの中へ入れる」だと思うが、まあTODO O MUNDOの12年というのは、期間としては十分に長く、その間には、中心よりも周辺の雨雲が発達したりするわけである。おれの意識の中では場所にしても店の形態にしても間違いなくストリート内ではTODO O MUNDOが中心であったわけで、それはみなさんの同意するところであると思う。中心と周辺。マージナルな中での中心・そして・周辺。

 中心では大火事になったとしても大騒ぎしてなんとかすぐに鎮火するわけよね。が、周辺では火がいつまでも燃え続ける。そんなことである。

 ま・いずれにせよ、デッドエンドストリートは「営業上の無理」があり、もう「更にそのまた露地を曲がってね」の寿司恵もヤメたし、おれたちの露地ではなく今や新御堂へ続く路自体が「封鎖」されたデッドエンドであるという皮肉もある。そんな・おれにしてみたら「大道路」行き止まりにせんでええわけよ。あんな明るいデッドエンド・お呼びじゃないって。

 しかし、この10年で日本は崩壊してしまったことがほんとに実感できる。ちょっとした油断で国もヒトも終わる。いらんことせんといたらいいのだけど、それを「大丈夫ちゃう」とか言いつつ、ちょっかい出してしまって取り返しがつかないこと多過ぎ・だ。

 残念なのは、いろんな「アジ」な人々が発言権をなくし、多様性もなくなり、なんだか今ってのっぺりしてることかな。そこまでヒトを貶めなくてもよかったわけよ。七転び八起き・って死語だった。

 
 「うんこつけたろか〜」大臣・ハメられたかな。よくよく考えれば彼「原発ヤメ」なただ一人だったもんね。いまや・官僚は記者ともグル・ということね。うーん・しかし、更に世は「のっぺり」していくなあ。

 

posted by 浪速のCAETANO at 11:25| 大阪 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月11日

Since A Decade Earlier

 まあ・そのう・様々なことを思い出し、考える「記念日」だ。

 関大前に居るときだった。豊津の家に、ぺろとたまを置いて、関大前に部屋を借り、塾をしに通っていた。関大前はスーパーがその数年前につぶれ、今もそうだと思うが、私鉄沿線の住宅地にも関わらず、スーパーのない駅である。

 おれは豊津(には当時でさえ3つあった)で買い物をし、チャリで持って帰っていた。たまに千里山のピーコックへも行った。

 その年はいろんなことがあった。思えば、それが21世紀の始まりだった。ミレニアム・なんちって、表面上は前世紀からの余韻のウカレポンチも、底深いところでのなにかがすでに変化している・そんな予感は勘のきついヒトにはあったはずなのだ。おれの中には「不安」という形であった気がする。よくよく考えてみたら、TODO O MUNDOもまだ5年目で、トドムンドガールズたちも健在で、その美しさとぴちぴち度も健在で(大方みんな20'sだったね)、毎年秋の大旅行へも行っていたし、おれは43で、まだ一晩複数回のセックスもOK。クルマは当時なんやったかなあ、ランチア・プリズマかシトロエンBXかプジョー309か、それとルノートゥインゴに乗ってて、更にチンダル藤田のBMW2002を預かっていた。いや・もうサーブになってただろうか。とにかくいっぱい持ってた。

 もちろん、クルマ旅行もよくいっていた。間人に2度目のカニ喰いに行ったのもそんな時期。

 初のぎっくり腰になり腰が直ったとおもったら膝に来て、その部屋は五階建ての最上階だったから、階段がきつかった。

 義理の母親が亡くなり、別居を始めていた妻ともひさしぶりに新幹線のホームで会った。実家では一緒の布団に寝かされた。別居のきっかけになった、うーちゃんが死んだのはその前の年。もう10年以上になるわけだ。「つかの間のiyashi」が出たのも2000年だから。

 今ちょっと調べてみたがキキH11 8 4 うーちゃんH12 4 24 たまH 13 11 11と記してある。H 11が1999・H12が2000・H13が2001だから世紀の変わり目に連続して3人亡くしていた。まあ記憶って曖昧ね・というか、そこらへんのこと「霧の中」みたいだった。ちょっと確認。

 いや、そのときに気づくべきだった・というか確認すべきだった。何かがもう自分の中で「終わり」かけている・なんてことを・だけど。そういや、よく死ぬことを考えていた。それも割と具体的に考えていた。死に方をである。やっぱり、うーちゃんが死んだこと・ヨメが出て行ったこと・おっきかったのかなあ・今思えば。おそらく。

 まあそんなこともあり、豊津を離れたかったのだと思う。

 関大前のうちは裏が関大の小さな森で、その夏は昆虫(外にいるヤツ)としてのゴキブリに室内で2度遭遇してヒヤヒヤの夏だった。その夏のまだ余韻が醒めない11日だった。あの衝撃は。まだその頃ブログは知らなかったし、その前後・何をしていたのか、記録にはないが、一番最近の彼女にメールをした。

 過去はややもすると美化されがちだが、あの・裏が森というロケーションはなかなか良かった・と思う。

 おれたちは、10年前からすると、確実に「落ちぶれて」いるが、それはおれたち本体だけのせいじゃない。

 10年前は為替は1$=130円台だった。原油は20$台だった。並べて書くけど;
 現在は最高値の1$=70円台。そして原油は70$台である。円は対ドル比で2倍・原油は3倍になってしまってる。

 輸出に頼る国にとってなかなか致命的だ。原材料は3倍、対米輸出は2倍の難しさを内包することになるわけだから。まあ、これは円高故の原材料費の相対的安さなんてファクターもありそこは今無視してるわけだけども、そんな調整もありつつ、世界の様相がはっきりと変化してきたことがわかる。そしてアメリカは何をしたか。

 戦争とグローバリズムという名の「アメリカン・スタンダード」の、世界への押しつけである。それに「わん」と言って追従したのが日本ということよね。小泉=竹中くんたちの「罪の総括」ってだれか・早くやんないと。そこをうやむやにするから、どんどん軸がずれて、植草くんや小沢一郎の冤罪にも一般のヒトが「冤罪? まぢで?」なんて反応になるんじゃないか・とおれは思う。

 要は・「新自由主義」に前のめりで進んで行ったということなのだけど、それは「無用のトーナメント戦」の時代の到来で、産業の世界での「多様性」を拒絶することになり、それは社会のあらゆる側面で同様のことが起こり、すべてが「消費者目線」を持ち、一等賞以外は「値打ちなし」そんなことになる。日本はメディア・ネットワークの点でどの国よりも勝れ(別に勝れんでもいいけど)キー局からの「上意下達」が「あっという間」である。PCというより、ケータイの普及はそれに拍車をかけ、ただただ「利便性の奴」としての一億三千万人が出来上がってしまった。

 世の中にはケータイ持ってずに生活している人や、最近ならTV無くして生活始めたヒトもいるわけだから、そしておれもそうだが、メールしか(それも決まった相手だけ)しないようなユーザーもいるが、世のヒトにとってケータイとはPCの意味を持つ通信ツール/ゲーム機なのであって、おれはあの「誇り高かったアップル」が「iPhone」の大普及によって得たものって、おそらくこれから失うものより多いのか少ないのか・ってことを長年のMac Userとして少し心配しているが、大衆社会にとってそれは「杞憂」なんだろうか。

 何度も言ってるが、そのツールに値する人たちなの・そのユーザーってよ・ということなのだ。あんまり「大したこと」出来てる気がしないんだが。ある場所に「何月何日何時何分何秒に着きまーす」なんてのは、一般の会話の中でそれやると、データ少佐はピカード艦長から「うるさがられてた」ものだが。早い話、そのツールでゲットしたものって、そんな「いらん正確さ」が大半ではないのか? これ・ローテク星人の疑問。過去・人間が持っていた能力で今消えかかっているものを「完全に消す」そんな役割をそのツールたちが担っている・そんな気がしてる。そうすると、誰が得するぅ? そこんとこ・考えるとこよ。

 大衆化社会って、やっぱそこマーケットがでかいし、そこしかもうないから、その誘惑って、製品を売るヒトにとっては抗い難いとは思うんですが、一旦ブレイクしたら「だあーーー」みたいなことだと思う。はなはだ分かりにくくてごめんちゃいなのだけど「だあーーー」以外に言えないのね。すべてが「分かられる」。「理解はしていただきたい」が「すべて理解はしていただきたくない」なんてのはもう成立せんのだろうか?

 この10年間に起こったこと・って、おれたちはバカメディアの戦略で、次々に新しいトピックを提示され、とにかくかごの中のリスみたく・同じとこをせかされ走らされて、なんかそれで「仕事した」みたいな気にさせられているが、この10年間のタイムラインの大筋ってやっぱ・わかってないとね。

 この十年の間に「日本人にしてはとんでもないお金持ち」が出現したりした・ことも今・言ったことと関係あり・だ。その一人のお金持ちを成立させるのに1000人が没落した・と思って差し支えない。格差などというそんな言葉では言い表したくもないが、なぜかと言うと、お金持ちとビンボーな人々との絶対数が異なるからね。要は富の集中でその結果、数%のヒトが90%の富を独占する・そんなアメリカ社会と同様になってきてるってことにすぎない。絶対数は「ビンボー」なのだから、大衆社会なら「そっち側」に立ってモノを言わないと、その時の資格は「ビンボー」だけど。

 政党もそうなのだが、自民党も民主党もどの層の「利益」を代表しているのかが、今イチ不明であるし、これだけ「ビンボー」の絶対数が増加しているのに、そのひとびとの利益を代表する政党が、その数を反映して存在していない・という不思議もある。ビンボー・の声を代表する政党・ぜひ存在したいものだ。民主党が政権交代した時に掲げていた「国民の生活が第一」というスローガン・それと「官僚(政治家・財界・メディア等)の既得権とアメリカよいしょが第一」というような軸が次の争点か・と思うが、それには小沢くんが晴れて無罪を勝ち取り(そこは元々無罪だとは思うが)、やっぱ再度のガラガラポンしかないかなあ・と思う。そこには既得権層は死にものぐるいで反発し、ネガティヴ・キャンペーンを張ってくるだろうけれど。メディアはまたちっちゃな脳の大阪のおばちゃんらに訴え、小沢のイメージを落とす・そんなことになるだろう。結局、ビンボーとまでは行かん・甘い汁希望の人たちはメディアに流され・付いて行く方が得・だ、と思ってる。しかし、その判断基準も「得か損か」だけ・というのも「なんぢゃ・それ」なのだが、そこまでこの10年で日本人のメンタリティはうんこまみれになってしまった。

 貿易センタービルへの飛行機突っ込み・を誰がやったか・なんて、ほんとははっきりしない。いまだにはっきりしていない。ウサマ・ビンラディンがやったという証拠・実は「ない」。

 アルカイダ説から米政府の自作自演説まで幅広く存在する。よくわからない。ただ、あのビルの崩壊は「まちがいなく爆破」だと思う。あらかじめ、爆弾が各階にセットされていたことだけはわかる。では・どなたが?

 ということなのだが、アメリカのことだからあと20年ほど経てば「実は・・・・・」なんてアメリカ人が現れるかもしれない。アルカイダに通じた人間かもしれない。

 ウサマ・ビンラディンは「殺された」ということになっていて、そこはおれは本当だと思うけれど、彼は、「やられたら・100倍返しや」とアタマに血の上った「バカカウボーイ」に「勝利しない戦争を決断させ」「その国の兵士を多数殺させ」「その国の経済も混乱させ」「その国のヘゲモニーに大打撃を与え」「その国の没落を加速させた」。ウサマ・ビンラディンは「勝った」のだ・とおれは思う。
公平に見たら。

 アメリカはこのようにして負け・滅んでいく必然性があった・と思う。では、日本は?

 いずれ近いうちに、アメリカか中国かを選択しなければいけない時が来る。

 おれのような「脱国境音楽家」には別にどっちでもかまわないし、そんな立場から見ると日本の小ささ・というより世界の「大きさ」・これは物理的な意味ではなく、もっと正確に言うなら「世界の多様さ」の方に目移りする習性がある。極論を言うなら「オノレの中に」日本の文化・習慣・美が内在することができたなら、ほんとにそんなこと・どっちでもかまわない。

 治安維持法の時代なら特高警察にすぐ捕まえられて拷問かけられそうですけど、おそらく、もうこれまでのような日本ではあり得ない。

 で、そのみなさんが「ほんとの日本」と思っているようなものの根本・そこが大変「疑わしい」。それがなにかというと「日本書紀」なのね。

 英雄・中臣鎌足が怪しい。怪し過ぎる。英雄・中大兄皇子=天智天皇が怪し過ぎる。聖徳太子さえ・怪しい。大化の改新なんてほとんど・怪しい。ここ・すべて不比等の陰謀である・と思ってる。

 いろんなエラいひとがいろいろエラそうなことをおっしゃるが、出だしが「ウソ」なら、それすべて「徒労」やん・と根っからアホのおれなんか思ってしまう。すべての日本論・日本人論、修正が必要になるんぢゃないかな。

 ここ・根っからアホということでないと、小手先の修正で納得しちゃいそうなので、できるだけ、根っからのアホでいたいのだけど。

 これもまた特高警察に「御用」だけど。

 およそ、この10年のアメリカと日本の失敗は、ヒトの生き方にも「両極化」を激しく選択させるドライヴとなったことは否めない。その最後の駄目押しに3月11日・という日があったことも、ここを偶然と思うにはなかなかそうもいかない。「祟り」という言葉を古代人のように噛み締めてみるのもおれは「悪くない」と思ってます。

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:41| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月10日

週末は

 そのおっさんは「いちびり」だったのだと思う。「うんこつけたろか」ぐらいの感じだったのだろう。

 大臣・なんだから、こんなことぐらい言ってもよかろう、というのは大臣・なんだから、そんなことは言ったらあかん・と裏表だと思うが、その裏表のスイッチを間違えたのだろう。

 なんか最近・みなさん「おカルい」ね。きっと「オノレは逃げ切れる」という安堵感からきてる・とおれは見てます。

 そう考えてみると、取り残される人々が「戦争」を欲す・なんてこともわからなくもない。そんな気がする。

 戦争は良くないに決まってるが、今の腐敗と体たらくの処方箋ってそう簡単には見つからないからね。不気味な時代になってきた。取り残されるとしても「戦争はダメ」と言えるかどうか・ってことかと思う。

 
 ラグビーのW杯・フランス戦を見ていた。ナイス・ゲームだったと思う。一時は4点差まで詰めた。バレーなんかとは異なり、自然に巻き起こった「ニッポン(チャチャチャ)」は嫌な感じがなかった。観客の中に判官びいきもあっただろうし、ジャパンはいいラグビーをしている・と見えたからだろう。

 ある時間帯、明らかにフランスはアセってたし。関係者は「うーん・もうっ!!!」なのだと思うが、おれは面白かった。おそらく、2勝するのではないか。


 さて、公私ともにいろいろあった一週間の週末。この週末・週明けと言うのが意外におれは忙しい。外仕事。小商い。ほんとに「小」すぎて笑っちゃうが、その前後の「放浪」も含めて、今・外に出るのがいいみたいである。本も読めるし。

 あちこちに最近は居心地のいい喫茶店を見つける。意外とまだある。まだあるのだが、おそらく「すぐに」なくなる。居心地の良さ・って「押し付けがましく」ない・のと同義だったりする。その「押し付けがましさ」って、店をやるときの「肩にチカラ」とも関係し、その空回りは今最も「めんどくさい」ものだったりする。店の個性なんて、やる側に今・主導権がなくなってる・と感じる。

 「理想なんて今すぐ捨てなさい」が天の声だったりする。ここ、非常に脱力するところなのだけど、店にも「可愛げ」が要るとするなら、そこんとこなんか・ひっかかるな〜・だ。距離感って難しいですね。

 
 新・歌姫かも?

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 17:35| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月09日

殯中

 暑かったが、もう長く続く暑さではない・そんな感じ。

 名も知らぬお好み焼き屋へ最近よく行っていて、昼間ちらっと食べて飲んで帰る。喫茶店へもよく行く。

 心配がなくなったからだと思うのだが、やや解放もされている。

 少しずつ「殯(もがり)」の期間が過ぎて行く。ほんとの殯はまだ火葬のない時代の話なので、同様のことは「恐ろしくて」できないが、まだ仏教の入ってくる前、やはり神道によると思われるが、「殯の宮」を建て、そこに遺体をおいて、一定期間祀った。殯は数年に及ぶこともあったという。恐ろしい。しかし、天皇(大王)の殯中の皇后が誰かに犯される・なんてこともあり、その誰かとは、喪服にエロを感じるおっさんと同様で少しおかしい。

 人間臭いことよね。イッツ・ヒューマニズムである。

 49日なんてのは仏教による考えだと思うが、チベット密教にも同様だと思う。今は中陰でぺろが「次」の生を受けるまでの中間期だ。なんになるにせよ、自分也に祈っている。なんとなく、「宗教的」になる自分があるように感じる。死と宗教は分かち難い・と実感している。いるが、そこであまりに厳格に「仏教」に忠実に・という気にもなれない。それはそれ・である。

 たとえば、ぺろが(ぺろに限らないが)焼かれている時、深呼吸をしたり、骨の一部を拾って齧ってみたり、そんなことが「宗教的」に思えたりもする。ギリシアや日本の戦国時代の男色・などにも同様の「宗教的感性」を感じたりもする。

 聖徳太子や蘇我入鹿・長屋王・菅原道真等、祟っていたヒト・多いが、その祟りとは、別の見方をするなら神の荒魂の表現だと思うが、それは和魂と異なり、神はその両方そもそも持っていたわけだから、そのうちの「怖い方」の体現なのだけど、それが祟られた側の「やましさ」と結びついていた時代のある種の「健康さ」を思ったりもする。

 科学は意外と厄介だ。万能・かもしれない・と思えたりもする。そこはヒトの浅はかさ・とも言えようが、その浅はかさに気づく体験を出来るヒトもセレクティヴだし、そこんとこ、科学の先端のその先の大いなる闇など体験的に実感できる・となると宇宙飛行士ぐらいしかいなさそうである。

 ただ、科学よりも早くヒトを納得させていたものが宗教というには現在の宗教観とはかなり異なる「アミニズム」だったわけで、そこんとこやっぱりそんなに無視できんなあというのが実感だったりします。そんなことたちの平和な共存がおれは良いと思う。まあ各人の心の中の話だけどね。

 ぺろ・どの辺まで行ったんだろう。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 21:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月08日

皮肉なほどの秋晴れの日に

 昨日・そして今日と、清々しい正に秋晴れ・の日だ。

 熊野があんな目に遭ってるとおもえば・しかし、心は複雑に揺れる。また大雨が熊野に今夜から降るという。ただただ祈るしかない。

 よくよく考えれば、こんな災害の時に逃げ場のないような場所・というものを好んでおれは熊野へ行っていたわけだから、今回のことには言葉をなくす。ただ、熊野すべてがそうとは言えず、行政の不作為というか、平成の大合併による「行政そのものが無理」であった・そんな背景がある。

 見捨てられていたのだ・最初から。その見捨てられて場所だから、そこにある大社だからおれは行っていたのだ。かように熊野は行くのが大変だ。

 おれは中辺路・大辺路からR168を北上するルート・R168と、熊野本宮大社へ行く路は熟知しているが、どれもそれなりの良さがある。

 熊野大社へ行くことは「崇高な永遠の愛人」に会うような高揚感があるが、路を選ぶことは、その「崇高な永遠の愛人」の性格における「今回のフィーチャー」を決定する。

 熊野大権現は何にでも姿を変えることができるので、それぞれ「伏し目がちの女人」であったり「快活で奔放な女人」であったり「グレイトマザー」だったりする。

 おれだけではなく、実は誰にとっても「神聖」な土地である熊野を「未開のド田舎」のように扱うメディアの態度はちょっと許せない。それがいいのだから。このような災難も熊野大権現は「受け入れている」という気さえする。現代的な偏差値的な視点で熊野を見るのはヤメるべきかもしれない。

 それは「現代人」が被災することとは、また次元の異なる話・な気がする。過去に於いては「熊野本宮大社」そのものが流されたのだ。

 熊野の森は暗く深い。ちょっと杉植えられ過ぎだけど。いつもフィアット・パンダで過ごした一夜のことを思い出す。

 そして取材で会った人々の無事を祈っている。
posted by 浪速のCAETANO at 17:03| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月07日

元凶はまたあいつ

 最後に熊野に行ったのは4年ほど前になる・と思うが、そのときある違和感を持ったことを覚えている。熊野は・と言う時にはまずは本宮辺りを指して言っているのだけど、それまでは「東牟婁郡」という地名だったのが「田辺市」となっていたのだった。

 その違和感は、中上健次が南方熊楠を指して「田辺の人」と言っていたことから来る。

 田辺はやっぱり田辺で、おれのような余所者から見ても、そして白浜に熊楠記念館があることからして、そして中辺路ルートで熊野へ行くときでさえ、田辺の朝来から、そこまではR42を走りながら、そこから中辺路へと左折する感覚から考えても、別の文化圏だという印象が強いからなのだ。

 その熊野を田辺市と呼ぶことに関する違和感と今回の台風による災害とはおそらくものすごい連関があると直感的に思った。

 で、旧田辺市と新田辺市の面積を調べてみて、びっくらこいた。

 136.43km2だったものが「1,026.77km2」になっている。最初、目の錯覚かな・と思った。さらに人口は;

 70,652人が78,456人に増えた。いや、増えた・と言ってもさ、ここんとこ大事なところなのだが人口は10%強しか増えていないのに土地面積は「650%」も増えている。他の言い方をしよう。新田辺市に新たに組み込まれた部分とは、現在の田辺の8割ほどの面積に1割ほどの人々が住む・要は「おれの大好きな熊野」そのものである・と言えることなのだ。

 しかし、これは「異常」なことだとは言えないだろうか。

 1DKの部屋がいきなり8LDKになったと思えばいい。掃除大変ぢゃね。しかも増えた7部屋にはひとはほとんどおらん・となれば、掃除主任・どーする?

 ひとの密集する、元あった1DKに「掃除も意識」も集中するだろ。

 今度の台風の被害はそんな目の届かない広大でヒトの少ない地域に集中している。

 ヒトが少ないっつってもやな、ヒトは居る。相対的に少ないだけの話で、100人以上の方が亡くなってしまった。

 これはなんなのか・と思うわけ。

 要するに「コスト削減」ってことか・と思う。コスト削減は非常時にその代償を支払うことになる。田辺市の例えば市長が、これは一般的な疑問ですけど、市の8割を占め、1割しか人の棲まない「新しい地域」のことを普段真剣に考えるのだろうか? 選挙では都市部の票を押さえれば勝てるはずでしょう。

 そして仮に考えたとしても、以前の7倍ほどに広がった地域に「有効な避難指示」を出せる「能力」が自治体に備わっていただろうか?

 さらに、もっと言えば避難する「場所」が果たしてあったのだろうか?

 おれね、何度も書いてるが一番好きな路はやっぱりR168なんです。その好き・ってのは峠攻めドライヴァー的な「好き」でもあって、今じゃだいぶ改善されたR168なのだが、それでも7年前のあの何度も映像で流れ、今回も流用されてる、あの・森林の崩壊画像を見るにつけ、そして何度もあの路を走って思うことは、避難する場所って「かなり限られる」ということなのね。

 下からは川が氾濫し、上からは森が崩れてくる。どーせーっちゅうねん・が実感よね。崩壊跡はいまだに迂回路を通んなきゃいかんし、自分が行くときはやっぱ、天気のいいときがほとんどだったけど、おれは走りに行くのに好きな路であっても、行政の立場からなら、もっと「安全」を配慮しないとそりゃあかんやろ。おれのことは「酔狂」で終わってくれていいのだけど、住んでる方々のことは自治体もっとよく考えろ・ぼけ・と腹の底から言いたい。

 ていうか、なんでそんな無茶な「合併」するわけ?

 新自由主義と熊野・全然関係なさそうなこれらのことが、今はっきり関係が見える。

 三位一体の改革による地方交付税の削減で弱小自治体はまわりの自治体に吸収されなけりゃ存続の危機を迎えるという、ほぼこれ「脅し」よね。やっぱり「小泉」だった・その元凶は。それによって「駆け込み合併」が多発したのだった。

 そして、政治家はこの災害に対しても「何も言わない」「視界にさえ入っていない」かのようだ。

 熊野だけじゃない。

 報道のテロップでもひとつ違和感があった。

 岡山かどこかだったと思うが、やはり川が氾濫、そして300000人に避難勧告・とあった。たとえ平地であったとしても300000人が避難できる「場所」なんてあるの? ほんまにぃ?

 よーわからん。よーわからんし、ほんとにわけのわからん・混沌と混乱の中で生きていかんといけなくなってしまった。あのバカたちのおかげで。
posted by 浪速のCAETANO at 14:55| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月06日

熊野が

 憧れの熊野がエラいことになってて、反省している。おれのせいじゃないんだけど。

 十津川・本宮・那智勝浦と必ず寄る地域がかなりひどい被災して言葉が出ない。

 熊野は1800m級の連山だ。水蒸気をたっぷり含んだ台風の風にはもってこいのカタルシスだった。お亡くなりになった方々・行方不明の方々・うー心が痛む。

 以前のR168の崩落みたいなことになってなければいいが。

 南東からの風が運ぶ水蒸気が・・・と報道では言っていた。しかし、やはりこういった緊急の報道ではTVにはかなわない。ほとんどネットは意味をなさなかった。キーボード打つ間に逃げなきゃ行かんもんね・当事者なら。

 自然災害は必ず毎年起こり、それも規模が拡大している。防災担当の省か庁を常備しておくべきではないのか。明確にそういう名を付けて。一部の自衛隊はその配下に組み替えておく。

 ほんとは「国」を守るのが本業なんだが「やってあけてんだぞ」みたいな右方面からの論調もシャットアウトできるのでは。ほんと・めんどくさい。英雄は英雄だが必要以上の英雄視・いらんからな。名もなき英雄でいいのよ。そしてそんなひとはいっぱいいるわけよ。

 シヴィル・サーヴァントでもある。税金がその資金源という意味だ。

 近々・必ず熊野へは行くが、あちこちで手を合わせる・そんな旅になると思う。

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:03| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

彼女が残したもの

 結局初七日には行けず、その代わりに霊園から塔婆が送られてきた。

 「最愛のご家族がお亡くなりになられた哀しみは、計り知れないものとお察しいたします。どうぞ、お気を強くなさってください。心からお悔やみ申し上げます。」

 とある。

 ほぼ外部的には基本的権は保証されないが「家族」というにはかなり近いものがある。特にここ数年はぺろこそが家族だったのだろう。家族ではあるが基本的権は保証はされないが。それをどーこーゆうてるわけではない。

 朝起きてぼーっとしてるとき、思わず、名を呼んだり、いつも居た場所を何カ所か目で追いかけることがある。我に返ることで「そうなのだ」と納得するのだが、少し寂しくもあるが、やらなくてはいけないことがある。

 大きなカップボードというかそんな収納家具があり、そこには比較的大切な本を入れている。そのなかにたまたま誰かから頂いた「廻る皿」がある。直径・そうだなあ・45cmぐらいでそれがそのチェストの奥行きにぴったりなのだが、ぺろはじめ霊園から連れ帰った歴代ネコたちのお骨を並べている。廻る皿はちょうど5つあり、うちのネコたちの人数にぴったり。一人一皿。中央に一つ・周りに四つ。

 中央にはやはり長女のマリー・左右にはうーちゃんとキキ、たまは後ろに控えてもらって、全面にはまだ日が浅いぺろと借りの位牌と送られてきた塔婆と水が並んでいる。

 うーん・とおれはそこで思ったのだった。こりゃ「ネコ曼荼羅だな」・と。

 ぺろがもういないと確信納得してベッドから起きたなら、まずすることがある。その扉を開けて、空気を入れ替える。そして手を合わせる。ぺろはいないのだが、ぺろはそこにいる。姉ちゃんたちと共に。一番仲が悪かったたまとは距離を設けている。うーちゃんは隣にいる。そしてぺろの知らないマリーが「大日如来」のポイントにいる。その「ネコ曼荼羅」には「かなり」救われている。愛して止まなかった彼女たちがそこにぺろとともにいてくれる。

 かなりこころの平安が保証されるのだ。不思議だ。

 線香をあげるのは問題があるが、まあおれはあまり形に囚われる人間ではないから大丈夫。

 型・と形は似て非なるものだ。形に囚われる不憫な人々には「同情」の念を禁じ得ない。

 まあ・どうでもいい。

 そんな朝の日課が今は出来ている。そして、それが非常におれのこころにとって良い・ということなのである。

 左手の人差し指の皮が剥ける。「なんでだろう?」と思っていた。ここだけ局部的に日焼けしたかな? そんなはずないのに・と思っていた。

 またまた・ここんとこおれのバカ独走なのだが、「破傷風」跡ってことだった。あとでハッと気づく。

 ぺろの一噛み・がまだこんなところに跡を残している。なんとなくやさしい気持ちになって指の皮を剥くのだった。

 存在・とはそう簡単に「なくならない」。
posted by 浪速のCAETANO at 12:48| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月03日

スロウスロウ

 台風12号はおばあさんの歩みほどの速度だからか、大阪は暴風雨域に入っているはずなのに、「しーん」だ。

 何かの狭間でかんぺーしてる・って感じ。

 ただ、なんて言うの。おばあさんながらパワーは体操のお兄さん100人分ぐらいはあるみたいで、「一旦捕まる」と「死ぬまでラジオ体操せんかー・第一も第二もやー・あたりまえやろー!!!」なんて言われるのだろうか。

 一旦・降り出すと、延々降りそうね。捕まったら終わり・ね。

 で、お仕事・繰り上げることにした。

 嵐の前の静けさ。ものすごくセレクティヴに今・キタはそうだ。

 熊野川が氾濫しているみたいだ。日足と本宮辺り。日足はR168の中では珍しくストレートな箇所がある。正確にはどの辺りかまではよく分かんないが、視界が広がるポイントだ。

 本宮あたりは川が曲がっていて、曲がってるっちゅうことはそこ上流からどっかーんと水来たらヤバいのはよくわかる。現実に「熊野大社」は流されたのだった。今巨大鳥居が立っている大斎原(おおゆのはら)にかつてはあった。むちゃ「水辺」である。

 今の大社・背中に森を背負って、それも良いのだが、かつての水辺に立つ熊野大社も詣でてみたかった。上皇たちはそっち行ってたってわけだ。

 熊野はよく雨が降る。しかしビルだらけの街に雨が降ってマンホールの蓋飛んじゃうのとは意味が違う。その雨は木々の葉の色を濃くし、今回みたいに溢れたらいかんが、まあそうであったにせよ、その水は新宮から熊野灘へ注がれ、それも大量のミネラルを含んで注がれ、ラ・メールな熊野灘の生態系をより豊かに・つまり、魚くんたちを「旨く」してくれるわけよね。

 R168を十津川から下ってくることは熊野の山々に降った水が熊野灘へ注ぐ・そのルートを「トレース」することにほぼ等しい。熊野川を最初は右に、そして途中からは左に見ながら、現代の熊野詣でをおれはするからなのだが、そのルートは上皇たちのルートとは異なるけれど、気持ちでは同じ。

 伊勢にしか行けなかった天皇を引退して大上天皇(上皇)となり、やっと自由になって皆のものを引き連れて詣でる熊野大社がもたらす「解放感」、想像に難くない。都が飛鳥から奈良へ・奈良から京都へ・とどんどん北上していく現実の中、さらに「南」への憧憬は募っただろうし、吉野のその先にある熊野・という意味もあったろう。根の国(死の国)熊野という意味もあったろう。イザナミの行った根の国からの想像上のフィード・バックもあったろう。

 和泉式部が御幸中に生理になって、それでも熊野大権現は「いんぢゃね」と言ったらしいから、そこひとつとってみても妙な「堅苦しさ」がないのね。伊勢に比べて。地理的に見ても伊勢は海・熊野は山と海、さらに大滝、その豊かさに於いても群を抜く。まさに神に会いにいくのだけど、その過程に於いて「カミ」があっちこっちに・という感じ。沸いたであろうことはわかる。実際沸くのね。

 もう、おれの熊野詣でのヴィークルであるクルマで乗りたいものがどんどんなくなってくる現実の中、少し涼しくなったら、屋根開けて行こう・と決めた。

 しかし、今夜の雨風はすごそうである。ゆっくり来てね。おれに仕事させてね。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 12:54| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月02日

まだ・台風をよろこべない

 雨風激しくなりつつ、タイフーンは好きなのだけどね、こう「災害」の頻発があると「必ず今回も災害が起こる」ことを考えると、そうわくわくだけ・なんて単純なことではない。

 みんな「自分はきっと大丈夫」なんて思ってるからさ。その中の何%の人々がこれまで淘汰・されてきたわけだけど、彼らの「後悔」の一言は決して聴くことは出来ないので。

 自分は事故には遭わない。自分は死なない。というか、あんまりそんなところまで「想像」していない。なんとなく生きているので。

 そんなところではないんだろうか。

 減少し始めたとは言え、まだ人の数は「多い」。

 だから何? と訊かれても、答えるわけには参りません。

 
 あ、だから、「情報公開しないのかな」「変に安心させることばかり言うのかな」

 被害が確定している段階での情報隠しは「殺人」に限りなく近いと思う。そこは「想像」とは全然違うのだけどね。

 20〜25年後に、どエラいことになってるだろう。原発跡周辺。それはチェルノブイリの現状を知ればわかる。福島はチェルノブイリ以上と言われている。そして日本は人口密度がかなり高い。

 見て見ぬ振り。お茶を濁す。時間稼ぎ。得意技である。

 この場合、「時間」は他の並行する議論とは逆に「ネガティヴ」にしか作用しない。

 その得意技の影のホンネは「見捨てている」だろう・と思う。

 今たまたま福島なのだけど、その政府の態度はその前から垣間見えていた。最近、もうみんな忘れているが、豪雨の被害や土砂崩れなどが震災前の数年、頻発していたが、政府の態度ってその際、「全く興味がない」「視界に入っていない」なんかそんなことだった。首相自ら対策本部長となり陣頭指揮をする・なんてのはまるでなくなってしまっていた。そのあげくの大震災だったわけで、そんな心象風景は、都市部のアタマ悪いワカモノなんかと共有してたのが、震災直後の「バカでブス(きっと)」が震災の報を受けて「東京で起こんなくてよかった・死んだのも年寄りばっかだったし」とミクシイで書き込んでいた・ことを見てもよくわかる。

 そんなブスは100回継続的に死ね・と思う。それもアングロ・サクソンのえぐい処刑のされ方で辛く死ね・と思う。思うだけ・よん。

 しかし、そのブスに全責任があるかというと、そうとも言い切れない。そのブスの親や環境、つまり教育が彼女にそういう感性を身につけさせてしまったわけで、きっとそのブスは犯罪者になるようなタイプではなく、小市民的であるのだがその小市民であるからこそ、そんな時にそんな言葉を思わず「ホンネ」として吐いてしまうのだと思う。

 今・日本人二分化されているのではなかろうか。

 やっぱり「あれ」以降って言葉も変わってしまったよね。以前の言い回しってなかなか安易に同意できないものになってるよね。そう思う人たちが20wほど節電する気もないのに暗くなってるよね。

 まだ・台風をよろこべる時間帯ではないのでは。そうなりたいけどね。

 
 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:35| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月01日

月は替わっても

 次は何?

 台風直撃ってかい。大阪直撃かもね。もう矢でも鉄砲でもミサイルでも持ってきたらいい。

 おむつが大量に余ってしまった。どなたか要りませんか。おむつカバーも。「おむつプレイ」には小さ過ぎるのよね。ジーナはまだそんな年でもないし、胴回り2.5倍ほどあるのね。

 昨日は、弁護士会館用の器材を返しがてらボサ姫のリハを聴いていたら、店長からTELでケーブルTVの取材が突然来てるから帰ってこいと言われ、まあ休みでもあるし、使われとこうか・と使われていたら次から次から入れ替わり立ち替わり「濃いお客」の連打で、そのたびに付き合って飲んでたら、飲み過ぎてしまった。

 あんまりオノレの意思で動きたくないときはそんなことでいいのだけどね。気が紛れるっていうの?・それ。

 本日から「見事に」9月だけど、この夏・めまぐるしかった。まだいろんなことなかなか整理がつかないが、やはりこれだけ密度の濃い季節だったのなら、その整理とクールダウンにもそれなりの時間とコストもかかる・そんな予感がしてる。おそらく・当たってる。

 9月はそんなことで過ぎていってほしい。緊急時にはいろいろ「置いといてー」してたことがはっきりしてくる。それは残念でもあるが、仕方のないことでもある。ヒトは余裕のない時、希望ではなく「希望的観測」でオノレを安心させようとするが、それは真の希望とはとても似ても似つかない「幻」である。過去の引力とはその結果であるが、過去がその人を作ってきた以上、それは避けられない。しかし、それからやっと自由になれるのは、緊急時の後である。

 やっとこさ、そこで過去と未来がイーヴンとなる。アタマの悪い人は無理矢理前を向こうとし、まあそれは昔から「スクールメイツ系」の歌や、今ならバカJPOPシンガーのテーマとなっていることからわかるように、ある種の「進歩史観」からくる安易で低レヴェルの表現である。

 そして過去に囚われる・ということは、これもみなさんご存知のように「演歌」の最大のテーマである。

 どっちかだけ・って「アタマわりぃ」のよ。おれは恥ずかし過ぎて、どっちの詞もよう書かんけどな。

 でも、現代日本人の精神のストレスもそこにあるような気がするわけです。

 過去と未来が肩のチカラ抜いて「イーヴン」と言える・かどうか、それは「当然」のことながら、なんかいびつなのよな・現代人の精神構造。老も若も同じ値打ち。左も右も同レヴェル。上・下でさえ・・そんなことが理想的かと思う。ちょいむづかしい気もせんでもないが、そんなことはないと思う。それがわかれば、評価は完全に個人のものとなるだろう。そこまではまだおれも「自由ではない」けど。塊でヒトをみる・悪い癖は完全に払拭されてはいないが、自分がそうされたら「むちゃ怒る」ことは知っているから、改善され得ると思う。

 ジャンルという塊は安易に「守ってくれる」ものでもあるから、ブスなどはそれでもよかろう・一時的避難の場とするなら。しかし、一旦、卒業なんかしちゃって社会に放り出されたなら、それは有害ゴミである。週イチのペースで処理されろ・なんて表現いかんですね。いかんいかん。ダメよん・そんなこと言っちゃ。

 9月だ。

 こんな単純な・月が替わることでも・おれがバカだからか・気分を変えなさいとなんらかの強制力が働く。首相が代わる。タメ年であったりする。来年から消費税も10%になるだろう。なんか震災後のうじうじ停滞から動き出す・そんな印象がある。しかし、方向は「悪い方に」だろう。「気分」を変えなさい・それ以上でも以下でもないのだ。感情とか気分意外に内面的持ち合わせがない・そんな印象の日本人であるが、破局へ向けて舵を切ってしまったような気がする。

 目に見えることもさることながら、ヒトの内面にもそれが言える。被災地にTVで見慣れた人々がやってきて「がんばろー」なんて言って「それがなにか」なのではないのかな。そんなリミットを設けられた範囲での言葉に何かあるのだろうか。気休めだけではほんとにそのうち気休めにもならなくなってくる。そこに対してあまりに気がついてないのではないのか・みなさん。それがなんだかできない空気が存在すると言うのなら、それは目に見えるものに先立つ「内面の崩壊」がほぼ完成したということではないのだろうか。

 気がついたら「紙幣」だけが残っていた。そんな危惧がある。おれはもう少し、自分の内部の欲求に耳を傾けたい。

 
posted by 浪速のCAETANO at 15:21| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする