2012年10月06日

嵐の前に

 嵐の前に・なんてのは少し大袈裟、だけど、約二週間拘束(誰が誰を?)する/されることとなるから、気持ちはどっか遠いところへ行ってしまっているのだった。

 さらに熊野の小説など読んでしまって、あかんあかん・なのだった。

 今できるのはPetit旅行だけ、くれぐれもそこんとこ間違いのないように。なんだか、そんな自分を見ていると、そうやって年を取っていくのだな・と思う。要は、懲りないんだろうな・ってことで、オノレの楽しむスタイルはもう決定していて変わらんのだろうということだけはわかる。

 さまざまなことが周囲で起こり、だがそれも一定の解決の目が見えてきた。しかしその負のエネルギーの暴発というのはそこから余韻がさまざまな共振を引き起こし、その揺れが収まった頃にいろんなことが顔を出し、事実の組み替えをヒトに強いて内省させる。曖昧でいれればよかったことがもう曖昧ではいられなくなり、ヒトは新たな地平へと立たされる。時計を早回しするようなものかな。ゆっくり時間をかけてわかればいいことが、素早い理解を要求される事になる。こゝろの準備などしているヒマないから、その何度も押し寄せる波にアップアップになりつつも、首だけ上に出してる。

 この躁状態の後はぐったりするんだろうな・という予感があるが、ぐったりもしてられんのよね。視野の狭い人間は第三者のエネルギーということに無頓着だから、そして状況が物理的に視野を更に狭くさせるから、そこまで気も廻らんと思うが、本来デリケートに出来ている者にはそこの処理は事の処理が終わってから始まるのだ。暴力的とはこんなことを言うと思った。

 たいがいのことは胸に納めようとまずは思うし、自分が誰かに自分の事を相談するなんて考えもつかないが、正確には自分を含むこの状況というわけで、登場人物が増えれば増えるほど俯瞰の高度は高くなる。となるともはや「当事者」でもあるわけで、第三者の存在を求めてしまう自分がいる。というか最後の俯瞰を共に共有できるような存在を求めてしまう。

 こんなときヒトは退行しているのではなく進歩している事がやや嬉しかったりもする。単にそれは年の問題だろうけど。

 ロスを承知で前へ進むことは一見論理矛盾だとも思うがそれ・しか方法がない時もある。おれも十分ハートが痛い。そこをケアしてくれる人間が見当たらないところで自分はオトナなのだということを実感した。
posted by 浪速のCAETANO at 17:17| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする