2019年02月20日

Warmth is approaching

温かい。というかヌルい。あまりいい気分ではない。
今週、また少し寒が戻って、来週はもう暖かくなる、本格的に、そんな見立て。晴れてるとまた気分も違うのだけどね。

今日の天気図を見てみる。ということは「春一番」が吹くのではないかな。

花粉も飛び出している。杉の雄花の気持ちに寄り添えば、「ドバーッと」いってくれ、という気にもなる。だか、「辞めてや!」という声も聞こえる。大体しかし、ドバーッと、いきたいなどという気持ちは、「メーワク」なものではなかったか?オスの悲哀。

杉にempatheticになるのもどやねん?そんな意見もあるだろうが、maleとしてカテゴライズされたものとして、ある種の共感はある。y geneの悲哀。やっぱり悲哀。

怒涛の外仕事の週が終わってひと息つく間もなく学年末テストの時期がやってきた。まあ大抵、おのれのanniversario=啓蟄まではなんか毎年そうなのだった。もう何十回も繰り返しているのに、、「忘れている」。現場が近づくと、、思い出す。こういうことの繰り返しがおれの人生にはよく見られる。あほちゃうか?とも思うが、しかし、よくよく考えるならseason cycleに翻弄されるというか、「次の季節」ほどまでしか意識が届いていないことへの自覚がある。例えば今なら、「春」にまでしかおれの意識は行っていない。春になれば、夏まで、夏になれば、秋まで、という具合に。

世の人々はどうなのだろう?と、あまり興味はないくせにこんなことを言ってはいるが。動物的には、そんなものだろうと、高を括っているのだが。だってそうじゃない?寒〜いときに暑〜い時のことまで想像できんでしょ。寒い時にはそれが緩和される、つまり暖かさ、は求めるが、それが過剰になった時のことまでかんがえられるか?

他の要素が入らないとそれは無理だと思う。もっと生臭い要素ね。

しかしもう、コートの重さは「飽きた」ね。身軽になって「動きたい」。弥生になると休みが取れそうだ。こんなこともまた毎年同じなのだが、考えることは「さて、どこに行こうか?」である。

思い出すのは、初めて「賢治」を追いかけて、イザベラ・バードを読みながら、訪れた「大沢温泉」のこと。2012だったかなあ。ちょっと筆舌に尽くしがたい体験だったなあ。その前から一人旅というのは始めていて、その前は出雲、新潟、富山なんかにいき始めていた。

それ以前はイタ車・フラ車で熊野ばっかり行っていた。たまたま熊野のR168で連れに撮ってもらったPeugeot106に乗ったおれ、という写真を見つけたが、なんというか「舐めとんな」、だが、楽しそうだった。実際、超楽しかったのだけど。だがやっぱり熊野は「クルマ」で行かないとね、最後に行ったのはツインスパークのアルファ155でR42〜中辺路ルートだった。新宮の「火祭り」を見に行った。あの時の宿の勝浦の湯、湯川ともまた異なり、だがやっぱり柔らかな「ぬる湯」。

電車あるいはバスの旅というのは、まああまりにクルマのそれとは違いすぎるわけだが、かつては「あり得ない」と思っていたことが今は大好きなわけで、ということは「移動好き」か「現実逃避好き」ということになるかと思う。ただ、life is swinging なわけで「非・移動」だとか「非・現実逃避」のその後、が「効果的」というのはよく分かってるのね。

さて、今年はどこへ向かうのでしょう、おれ。

posted by 浪速のCAETANO at 12:53| 大阪 ☁| Comment(0) | その嘘・ホント? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする