2020年10月24日

蘇我氏のヴェールを一枚づつ

おれの目もまた「曇ってる」・おそらく。

数年前に数度集中的に訪れたのだが、飛鳥自体はピンでボードに「留め置いてた」・そんな事だった。日本書紀・おそるべし。


おれもただただ「入鹿の首塚」「甘樫丘」「石舞台古墳(という名)」「飛鳥寺」という『表面』にやられてただけなのかもしれない。それは脚色by藤原氏なのよね。

蘇我氏の名誉回復はレイヤーの最浅層なんじゃないかな。

あるいは「蘇我氏自体」もまた「聖徳太子」同様・あるいは聖徳太子のために「作成」されたものかもね。なるほど、だから誤解と曲解とヤマト王権の幻想がこんがらがった後に「聖徳太子は蘇我入鹿である」@関裕二・なんて説も出てくるわけか。案外外れてないのかもしれない。どちらも「架空」であるとするなら。

関くんは根本は間違ってるけど(九州王朝がわかってないから)まあ良くある事だが向こう側でこんにちは・はあり得る。いや、大和のことに関してはベースに「天皇」がないだけで(あるだけで)いちいちそこへ戻るから話はさらにこんがらがるわけで、そこへ戻らずに「飛鳥だけ」のことなら一聴の価値はあるのかも・そうも思える。その大元には、梅原先生のあまりにもロマンチックな曲解があったのだけど。

古田先生は「飛鳥」に関しては多くを語らずして亡くなってしまった。

そっちは卑弥呼@近畿説とかを「本気」で信じてるパターナリスト歴史学者が群れをなしてるから鬱陶しい。

王・意宇・多・大という名は半島系ではなく、大陸・江南からのもので、九州だけではなく、近畿においても半島系vs大陸・江南系の対立はあり、そこから半島系の中でも新羅・伽耶系vs百済系の対立が内包され、天武vs天智の、それまでの・そしてそこから一世紀以上の間、天智系による天武系の排斥が続くのだ
が、白村江以降平城京までという約半世紀に何があったのかということはほんと・知りたい。

飛鳥の「蘇我氏のヴェール」を剥いだ後には「王・意宇・多・大」そんな姓が散りばめられているのね。

飛鳥の時代とは「まるで現代の」公文書改竄・破棄、そんな時代のことなのだ。その50年の悪行(実際は10年ほどだろう)による偽史の正史化により、その後1300年に及ぶ「わけわからん国」が出来上がる。

前述の対立の図式は南北朝を通り越して薩長同盟にまで影響を及ぼす。薩摩が「九州王朝の正統」が逃れた地であることはよく知られた事実だが、その後の「隼人の『乱』」(720)、宮廷行事における隼人による「犬の遠吠え」、君が代の発見@薩摩、西郷の別名・「菊池」など。で、最終的には「長州」による西郷の排斥。

そんな対立の「目」はいちいち古代まで遡ることもできるのね。今の政治・芸能の半島系による支配なんて、そこから考えるならまあ当然かな・という気もしてくる。ただ、半島の「どっち?」。そこポイント。

王・意宇・多・大の文字が示すように「飛鳥と出雲」の繋がりもまた、近畿=(おそらく)狗奴國の由来とも、そして葛城山系を越えた地域に点在する古墳の存在とも呼応しつつ、興味は尽きなかったわけである。

今度は「鎌足の地」を、今まで避けていたのだけど、訪れてみたいかな。多武峰・談山神社。蘇我氏の宿敵/不比等の父であるね。



posted by 浪速のCAETANO at 10:31| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする