2008年07月01日

誰にもある殺伐

 なんだか「抜け殻」である。

 抜け殻の時に期末テストだ。大丈夫なのか。いやー、どうでしょう。

 ボディブローで弱っていたところをいいワンツーもらってもうあとひとついいのを貰えばダウンである。ダウンして楽になる誘惑にかられる。こんなとき、アタマが硬直しがちである。もう・ずーっと硬直が続いてる。アタマ固いのにも慣れた。周りも慣れたかな?

 「Yrr」も下巻に入った。一気に読むにはハードで難解であってゆっくり読むのだが、読み飛ばすもんでもないし、こういうのって、そしてコストがすごくかかっていることがよくわかるから、味わいたいわけだね。

 ヒトの一生というものは自然に任せるならば自分でプロデュースできない。これは「生物」としての「掟」のようなものだと思う。ところが人類は幸か不幸か知性を持ってしまったものだから、人類以外のものに「加工」を加え始めた。加工の歴史はまだ数万年ながら、その加工は、どーも致命的なフェイズに入ってしまったらしい。その加工によるカタストロフが迫っているらしい。そのカタストロフの予感は、大きな「悲観」として人類を覆いだしているみたい。

 その大きな悲観は、自分がバリバリの時はそんな大事には感じないのね。対岸の火事・あるいは別の惑星の出来事、ぐらいの感覚なのだが、自分が元気なくなってくると、その大きな悲観からブレイク・ダウンされた一つ一つの、感覚から政策にいたるまでの身近な現象がいちいち痛みを持つものだ。

 今の世界を見て感じることは、ジョン・レノンの志を受け継ぐような人間の絶対数の欠如・だ。今・現在「持てる者」は「持たざる者」を犠牲にして、生き残りを図っている。その現実的な政策が新自由主義なのだが、あらゆるフィールドで、「寡占化」が進んでいる。より大きな者たちが体質を強化する。より小さい者たちはそこにはもう存在しないかのようなムードを伴いながら、それがなされている。

 周りの人間がクッションとなってあげることはまだ可能だけども、同等に周りも疲弊してきている。周りがいない・という悲惨な場合もある。

 アキバの加藤とそれに準じる環境にいる人間のことを考えているのだが、そこにある感情は「まわりから名実共に見捨てられている」ということだと思う。見捨てられてたまま、それから50年生きることの現実感は、ない。その辛さは想像に難くない。なぜか?
欲望は常に喚起され続けるからだ。欲望を喚起されないような100年前の通信もおぼつかない田舎に住んでいたのなら、細々と寿命を全うして生きて死ぬことも可能だったろう。それはまあ言うなら、地球の一生物的だ。生まれる時代によってはそれも可能だったはず。それが残念でもあり、可愛そうでもある。「適応していかなきゃダメ」というキビシい意見もあるけど。それは、よく物事考えずにそんなこという方はアタマ悪い人だから、それはそれでいいのだけど、そんな方のほうが、現実的・にはうまくやってることも多いわけで、人間の社会が「豊かさ」を志向するというのなら、適応するしないは、どの時代にもあったことなのであるから、、その不適応な人々を見捨てるのがずっと過去のしょうがなさだったわけで、しかし、共同体という概念が「普通に」存在していた頃はそのフォローもできていたのに、今では、ずっと過去よりももっと過去のサルが木から降りたすぐの時代みたいになっちゃってることが、豊かさを目指した社会の成れの果て、その豊かさは、一部の人間だけが必要以上に享受するというすごくいびつなことになってしまっていることへの「反省」とそこからの対処がなあんにもなされる気配がないこと・それが、加藤ちゃんの行動の「構造的な」原因だろう。

 もうあまりに悲惨悲惨の連続で、目を背けたい方もいると思うし、ただね、加藤ちゃんの立っていたところとおれたちの立っている地平は繋がっていることは忘れちゃいけないと思うわけ。「あらゆる犯罪は革命的である」という至言がある。おれは、バカの模倣犯みたく、加藤を英雄視しているわけでもないことでは全くないとことわっておく。だってあの顔やで。ただ、虐げられる・という言葉も以前とはニュアンス変わってしまって、今は虐げられているような事実を虐げる側も虐げられる側も、決してあからさまには見えないような巧妙で洗練された虐げられ方ではあるが、その虐げられた人間は、虐げられっぱなしではない・という警告・と受けとらないといかん・と思うよ。無差別テロ・という見方も出来るだろう。でもそれは勝手な物言いだ。テロという言葉は「反社会的」だろ。社会の許容量がなくなったことでキャパを小さくしといて、ハミ出たから「反」社会的ってのはおかしくないかい? ちょい昔まではそこぐらいまでは枠広げとったのだ。しかし、加藤にしてみたら無差別にもなるよね、敵が見えないんだからね。社会はその責任を粉砕して分散させている・これまた巧妙に。

 だから「やられっぱなし」ではないということを表現したことがが革命的と言えば言える。市民社会という言葉に「小」という枕詞、つかなくなって久しいが、それはみなさん「小」だからかな・とも思うのだけど、昔はそれって「貶し言葉」だったんだけどね。まだそんな頃が良かったね・きっと。今の20代30代ってそんなことこれっぽっちも疑問に思わない人が多いんだろうな・残念ながら。ただ、そんな土壌が新自由主義をウエルカムするのにものすごく都合良いわけだけどね。

 加藤がいみじくも「表現」してしまったのは、ヒトは「限界」を超えたらヤバい・ということだった。そして「限界」超えそう/超えてしまったヒトがもう既にあちらこちらにいる・という事実が顕在化してしまった。それも「悪人」の資質のないヤツがそんなことになるのが「悲劇的」なのだ。そこにはペーソスもない。失笑もない。「殺伐とした悲劇」があるだけ。

 人は一人だとどうも「殺伐」へと向かってしまう。残念ながら。うちの歴代ネコたちのように、やや短めながらも自然死って今や「贅沢」なことかもしれない。おれもついててあげたしね。では、おれに誰がついててくれるのか? なんてことを今考えると、「殺伐度」は深まるから考えないのね。ただ最初に戻るが、その「生物」としての寿命を、環境をコントロール出来る(気のせい)のと同様にコントロール出来る気がしてるのね。医療の発達もあるし。アキバの事件もその人間のおごりの闇の部分に端を発し、経済のイディオムだらけの今という時代での暴発という気がしている。

 自分の命ということに関して。他人が見る自分の命のカルいことよのう。自分もつられてそう思った瞬間にパラダイムは変わる。変わらないようにするのがこれがまたムヅかしい。押し切られて変わってしまえば、同時に他人の命もかる〜くなるのだ。そこんとこ最後の砦なのだけど、地盤はかなりユルい。
 

 
posted by 浪速のCAETANO at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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