2008年08月06日

岸壁の母を訪ねて130km

 この時期はほんとに自縛状態で「おれのボスはおれである」ながらもそのボスって結構スクエアぢゃん・なわけで、そして「ある思い」を持ちながら今年は夏期講習を行っていることもあり、時間のある時はその反動というか、かわいい蕩尽を欲するわけ。

 やんなきゃいけないことがある。そのやんなきゃいかんことが、家じゃなきゃできないか・というと実はそんなこともなく、「あ・そうか」とバカに気づきが訪れる。

 一日分の着替えと資料とノートPCをエコバッグに詰め込み・つってもだいぶスカスカだが、よっこらしょと抱えて8vに乗る。小銭をかき集めると高速代とガス代と宿代とメシ代ぐらいはなんとかなりそうだったので、「たびえーるnet」で宿を探す。このたびえーるnetは優秀だ。他のサイト・じゃらんとかるるぶとかよりも使いやすく確実に予約までいける。さて・ではどこへ向かうか?

 しばし・目を瞑って心を一旦無にして無から有になる瞬間に、浮かび上がる地名を注目すると、何故かは分からんが「舞鶴」と出た。山の中でも湖でも海沿いでもなんでも良かったのだが、舞鶴と出た。満を持しての勝負旅ではなく、気軽な思いつきによるものなので、行った土地に過剰な期待もなく、裏切られても構わない。そんな大層なものでもなく、B&Bのホテルと街の料理屋で晩メシを喰えればそれで良しなのであって、そもそも街が裏切る・って何なん? アンタ何様よ・ということなのだった。

 ガソリンを4000円分入れて(この時代のイタ車は満タン入れると漏れるのね)新御堂を北上している時だった。ふと、バックミラーに目をやると、おれがいた。あー・おれか。ふーん・・・なんでまた・・・・?
 いや後ろにおれはおらんわけで、前日スタートレックで見た「時間の反復現象か」など思ったのだが、そんなことはなく、155が(多分)おれを見つけて、ついてきてた。こういった場合、おれたちアルフィスタは「喜び・哀しみ・情けなさ・意地っ張り・そして楽しさ」と155にまつわるすべての感情を一瞬にして共有出来るわけで、そしてそれは、前を走るおれの突如としての加速・いささか強引な車線変更となって現れるのであるが、うしろの155もその動きには素早いフォローでついてくるのだった。結局、そのライオンのコドモのじゃれあいのような2台のツーリングはお互いのドライヴァーのカオの確認もないままに中環の分岐まで続き、速度を緩め、奈良ナンバーの155が追いつくのを待って、最後に、あ・アナタでしたか・とカルく会釈をし、彼は武庫川方面へ、おれは中国方面へと袂を分かつ。

 気分のいい出来事が偶然起こるとまあこれからクルマを走らせる上ではそれはいい兆候だ。思わずエンジンの回転数も上がる・というわけだ。

 舞鶴若狭自動車道に入って、またまた邪悪な雲が北の空に、と思っていたがやっぱり来た来た。またまたCATS&DOGSの洗礼である。時間にして5分ぐらいだったか。100km/hに落として「徐行」する。前見えないのね。「兄貴」のテールランプを頼りに走る。そしてそれは突然始まったのと同様突然終わる。クルマ綺麗くなったわ。

 それからはこれから行く舞鶴のことを考えながら走る。舞鶴は「岸壁の母」の港がある。

 高速の下は丹波の「まさに里山」と形容するしかない風景が広がり、気分はいい。緑に感応する遺伝子ってやっぱりあるよね・としか思えない。豊かな風景なのだ。しかし、経済の観点からいうなら、これが豊かとは言えないのだ。何かがおかしいことだけはわかる。大阪からちょうど130km。楽勝のドライヴで日本海である。ネットの地図を思い出して、宿を探す。この辺りかな・と思えばその辺りである。早くつき過ぎたから、海岸沿いを流していると、舞鶴は「自衛隊の街」だった。にわかに緊張感が高まる。ロシアも北朝鮮も韓国も近いのだ。

 「引き揚げ記念館」に行ってみることにした。ホテルから湾をぐるっと回って反対側の丘の上にあった。そこから舞鶴湾が見渡せ、この湾に「特に満州からの引き揚げ」が殺到したのか・と思うと、60年前の現実を幻視するしかないのだが隔世の感に堪えない。中に入るとちょうど団体さんの善男善女が「語り部」と書かれたハッピのおっちゃんから説明を受けていたので便乗する。

 ラーゲリ(収容所)での話は「イワンデニソヴィッチの一日」さながらだった。おれは満州の「位置」がもひとつ曖昧だったのだが今回はっきりとわかった。北の境界線はロシアと西はモンゴル・東は今の北朝鮮・そして現在の北京は入っていず、しかし、ギリギリのところまでは満州だったのだな・ということがわかった。甘粕とか大陸浪人とかノモンハンとかの言葉が浮かんでは消えていく。しかし、要は、口減らしのために国民を大陸へ追いやったということなのだ。それも他所ん家に、無断で。

 戦争末期のヤルタ会談でソ連と日本は事前に「中立条約」を結んで、相互不可侵を約束していたにもかかわらず、ソ連の満州侵攻をアメリカ・イギリスが認めてしまう。それは8月9日、長崎に原爆が落とされ、「新型爆弾」の被害の模様が絶望的であり、日本に戦意がなくなった瞬間の出来事だった。150万人が満州にいたとされるが、そこに同数の軍隊で襲いかかったとされる。関東軍は人民を守ることなく先に逃げ、弱いもの・女子供・下っ端の兵隊が多くは、暴行・虐殺・そうでなければ「ラーゲリ」へ。ラーゲリはシベリアであるからマイナス30℃の厳寒の地で、寒さと飢えで仲間はどんどん死んでいく。シベリア第二鉄道の建設のための日々の過酷なノルマに対して食事は黒パンが5人に一斤だったという。

 その人々が引き揚げてきたのがこの舞鶴の港である。戦争の悲惨・と一口で言うには重過ぎ、おれも長崎の原爆資料館でのあの肚の底に鉛がたまるのと同様の気持ちを持った。ただ、しかし、思うのだ。誤解を怖れずに言うならなのだけど、果たして今とどちらが幸せなのか・と。そんなもの今に決まってるじゃないか・と誰もが言う・特に戦争体験者なら言うだろう。被害者なら言うだろう。ごもっとも。ごもっともながら、質の異なる今との相対的比較は無理だな・ということがわかる。戦争の「絶対的悲惨」というのは動かし難い。しかし、展示されていた悲惨な写真の中で、引揚者の男性が家族と抱き合う瞬間の写真があり、それほどの「爆発的な喜び」というのは現在存在するのか? と思ったりもする。このことはすぐに結論を出すべきじゃなく、おれたち一人一人がずっと考えていかなきゃいかん課題である。非・戦争期の課題と戦争期の課題は異なるのになぜ結局ヒトがヒトを殺すという結末なのか・という問いだ。

 もう一つ、その時代の年表(1935から1946ぐらいの)を見ていて驚いたのだが、満州事変から終戦までの間に、国内でさまざまな災害が起こっている。大凶作・台風・地震(なんと東南海地震も)数えただけでも6つほどあった。そのそれぞれの死者は2000人超である。そんなことにも正直ショックを受けた。今一つの災害で2000人もの方が亡くなるなんて「大事」である。そんなことが国内で戦時中に頻繁に起こっているのだ。きっと大した援助策もないままに(戦時だから)、特に後半の災害などは放っておかれたのだろう。国の外でも中でも人は殺され殺し、死んでいたのだと思えば、言葉に詰まる。そんなだったのに(そんなだったから?)「植民地」を求めて、他人の土地をむちゃくちゃしていたなんてのが、よくわからん。仕事が命の・というかカネが命のおっさんがおってあくどいことをしていて家空けがちだったところその家に強盗が入り、ヨメ・ムスメ・息子が惨殺される・みたいな情況でしょう。なのに、さらに外でその仕事にさらに精力をつぎ込む・とは一体どんな神経やねん・ということなのだ。そこから考えられることは「狂っていた」それも「集団的に狂っていた」という結論しか導きだせないのだ。

 もう一度湾を眺めようと丘の上に登る。広葉樹の「むせ返るようなフィトンチッド」でほんとにむせ返り、現実感が遠のいていくのだった。63年前の今日は敗戦直前である。

 ホテルにチェックインするが、なんとB&Bで5800円!!!部屋は・というと「なるほど!!!」という部屋だった。別にいいんだもんね・それで。さっそく資料を出して、PCをLANに繋いで作業にかかる・が、おれのノートは入力がローマ字入力のままだった。しまった。おれは「伝統のかな入力派」である。それでもなんとか慣れないローマ字入力でやっていると、「文体が・ノリが変わる」変わってもおもしろいか・と思いやっていたが、なんか椅子の感じが今イチでビールを飲んでしまう。途端にヤル気が失せ、ただの旅行者になってしまう。窓からは舞鶴湾がすぐそこに見え、明日早く起きれたら、岸壁にそって歩くのもいいな・と思う。

 それでもある程度仕事し、時間は7:00pm。そろそろハラも減ってきた。さっきクルマで流している時に街の(ここは東舞鶴)概観はなんとなくわかった。岸壁に平行に商店街が2本あり、それぞれに露地がある。この縦・横の直角な造りはきっと昔からの街ではないな・という気がした。歩いても問題なく、街の隅から隅まで歩いても30分もかからんぐらい。で、歩き出すが、これが「見事なシャッター通り」で新自由主義の波はもれなく地方都市を・地方都市ほど強烈に襲っているなと感じるわけだった。酒屋に入り、今晩の酒だけ買っとこうと思い、ついでにおとーさんに飲み屋を訊くが、「そんなもんいっぱいありますよ」と言うが、そんなもんいっぱいないですよ。それでも各露地をツブしていくなら、一つおれのこころくすぐる店があった。「鉄板焼きけんちゃん」である。店の扉が開いていて、ニッカーズのおっちゃんらが集っていた。もう少し探してなかったらここやな・と晩メシの保険を掛けて、もうしばらく探索する。すると商店街の角っこに「小料理屋」があった。向かいにパチンコ屋もあり、中を覗くと、い〜ね〜、羽根ものがある。じゃあ、ここでちらっと飲んで、その分稼いで帰ろう・ということになり、「鉄板焼きけんちゃん」は保険のまま放置することにした。

 中に入ると、客は居ず、カウンターが7席、小上がりが三席ほどのこ綺麗な店で、おとーさん・おかーさん・看板娘の三人がいた。看板娘がカウンター内で退屈そうにしているから、「こっちで一緒に飲もうよ」と誘うと、「あたし飲めません」とツレないのだった。まあしかし、話はまあまあ弾み、立ち退き寸前の店の話やら、舞鶴の話やらなんやらでお刺身や、巨大万願寺などでビール・酒・焼酎と進んで、長居しちゃう。客は来なかったが「まあ月曜はどこでもこんなんよ・うちも休みやし」かなんか言ったりし、そしておとーさんに見えたおっちゃんは親戚のおっちゃんであって、おかーちゃんと看板娘は実の母子でみたいな内部事情も教えていただき、居心地がよく、ちょっと飲み過ぎ、お金払って出たら、パチンコ屋は閉まっていたのだった。がっくり。
KC3A0087.jpg「看板ムスメと母とバカ」

 宿までは歩いて10分ほどで、せっかく買った角瓶を岸壁で飲もうと思い、コンビニで氷と紙コップを買い、小林旭風にキメていたら足が滑って海に落ちそうになった。落ちたら泳ぐしかないか・落ちた方がええかも・など、酔っぱらいのアタマの中の無責任さに翻弄される酔っぱらいだった。

 気がつけば部屋のベッドに倒れ込みだった。なんと成長のない。

 舞鶴・また訪れようと思う。
posted by 浪速のCAETANO at 12:07| Comment(1) | TrackBack(0) | ツアー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
メッチャ気になるブログですぅ〜♪

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Posted by きよみ at 2008年08月06日 12:55
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