2008年08月09日

北京の開会式をぼーっと見てた

 オリンピックは「巨大なタテマエ」である・と思っている。

 タテマエであるから、イスラエルとイラン選手団が、ロシアとグルジア選手団が同じ場にいる。プーチンとグルジア大統領は目を合わせただろうか?

 タテマエであるからこそ、ブッシュやサルコジがやや善人に映る。

 タテマエであるから福田首相も本日午前の長崎の平和式典に間に合う。

 しかし、タテマエだから全部ダメなのだ・というつもりではない。そのタテマエの場は「貴重な場」だと思う。コマーシャリズムに毒されたオリンピック・とはもう耳にタコもできている。しかし、大きなイヴェントにはカネが要る。人も要る。中国の世界に誇れる「資源」って第一には「人」だったね。

 タテマエの貴重な場に「世界の200いくつの国と地域のアスリーツ」が集まる・とはよくよく考えるなら、大したことだ。確かに、人にも・民族衣裳にも(ということは文化にも)多様性があるということを一番よく分からせてくれるのはオリンピックの開会式だと思う。多くのコドモたちが見ていたらなあ・と思った。それとホンネの殺し合い(この時もロシアとグルジアは戦時だ・だが、ロシアが悪いのか?ちょっと調べてみる)とは別の話だ。そちら方面からオリンピックを眺めるなら「偽善」と映るのもしょうがなかろう。

 でもおれはそれが「タテマエ」でも「偽善」でもどうでもよかろう・と思ってきた。オリンピックは「民族の祭典」と言われてきたが「多様なる人類の祭典」と言いたいところだ。オリンピックにはなんだかチーム競技が似合わないと昔から思っていた。チーム競技は国vs国というマッチメークしかできないからね。そういうのってサッカーのW杯をはじめとしていろいろあるし、もうええやん・と思っていた。個人競技の場というのが好みだ。国を背負うなんて背負う方も背負わせる方ももうなんだか「古い」でしょ。チーム競技はどうしても「疑似戦争」のニュアンスがつきまとう。ただ野球とかで、ジャパンで闘う時の選手たちの面白さはわかる。特に野球はあんまりそんなことなかったしね、これまで。でもメジャーのすごいのでないよ。あんまり入れ込まれるとなんか違うんだけと・とついつい言いたくなる。でも個人競技ってそうでもなくない?

 そのフィールドでの第一人者がフルパワーでのパフォーマンス中に、この現代においてナショナリスティックな情緒の入る余地はないのではないか・と思う。そうでないと勝てないんじゃないかな。情緒的なナショナリズムが必要なのはメディアであり、一部の国民にしか過ぎんような気がするから。この場で素晴らしいパフォーマンスを行えるアスリートはもっとも「普遍的な個人」に近づくような気がする。

 タテマエを「理想」と置き換えてみよう。最近は理想を現実の方に引き寄せる「下品な」な人々・手法、共に多いが、近づこうとするベクトルを持つのはやっぱ「現実」のほうからぢゃん。変容出来るのは肉体化された方でしょう。

 開会式は「中国をプレゼンする」という意味で言えば、とても良かったと思った。閉会式のようなだらだらな各国選手団の行進も良かった。

 おれとしてはイスラエルとイラン、あるいはロシアとグルジアの選手間で「ホモ・カップル」が誕生する・なんてことを期待してます。その障害の多さを乗り越えるのが現実を理想に近づけることなのだ・なんちって。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界・地球 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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