それを「システム」と呼ぶ。
そのシステムはオリジナルを真似て、さらに簡素化されたものではあるが、アタマわりいヒトはシステムってなんだかカッチョいいものだと思ってるとこもあって、これさえあればアタマも使わず、ハートも込めず、いつでもどこでもそれができるー、やったやった、と喜ぶだろう。ただし、それは料亭の茶碗蒸しとコンビニで売ってる茶碗蒸しほども味と素材が違う。それはわかるやつにはわかる。わからないやつにはわからない。
システムは「自己増殖化」というものを始める。システムは厳密さと無縁ではないのだけど、厳密さを追求しようとした瞬間にもう一つの厳密さを切り捨てることでしか最初の厳密さを体現できない。枝葉が別れていった先の唯一つの枝を選択することに似ている。その枝葉の重要度はしかし時と共に移ろう。さきほど捨てた枝がほんの一ヶ月先には最重要になってきていたりする。システムが扱うことになる「需要」というものは移ろい易いものだからだ。システムには「遊び」があまりない、ということがわかるだろう。システムに依存したあげくのユルさは致命的になる。システムをブラック・ボックス視というか神聖視する人々がそこにはウンコとハエの関係のようにシステムに「たかっている」。もちろんそれはたかっている人々の怠慢に理由があるのだけども。
南のヒトの持つ「ユルさ」はヒトのやさしさが根拠になっている。それは相手の少々のアクション・リアクションの意外性にも揺れることのない「ユルさ」である。システムにたかって、少々いい思いをしたヒトには「なに古くさいことやってんだよう」と思われるかもしれない。しかし、システムの高度化とそれにかかわる人々の低能化はほぼ同程度進んでいることが最近どうもわかってきた。耐震偽装関連しかり。種々の犯罪しかり。
奪うことより与えることの重要性を気づいている南のヒトは、人類の進歩から遠く離れたように見せかけて実はヒトがヒトとして最も高度な状態で「止まる」ことを選択した賢明なヒトビトである。そもそも最近の進歩など、それこそテクノロジーの「自己増殖」にノっかってるだけのことで、それを進歩と思い込んでいるだけのことだった。もってる携帯で他の携帯以上に何かができるということがなんかエラいか?
南のヒトの「弾力のあるユルさ」はヒトの美しい最終形態である。知性とはそれである。知性を持つ動物とはそういうことである。あのユルさはヒトを破滅に導くが、このユルさはヒトを救うのではないかといま思っている。