2008年12月22日

透明な流れの中で

 自分の判断が、果たしてこれでよかったのか、とはまあおれぐらいのトシになると誰もが、そう自問自答するのだろう。

 そんな小学生はいないと思うし、最近ではそんな中学生もあんまりおらんか・と思われる。

 年末は、なんだかそんな気分になりやすい時期でもあるらしい。

 忙しくしている時はそんなことを忘れ、ぜーぜーはーはーと息を切らし、あー終わったー・はいメシメシと、ワインか焼酎をくびー・であとはおぽろ・あとはおぼろ・で知らん間に朝・なんてのも「理想」である。

 そんな理想的な毎日とは限らないとこが、バカのくせにちーとだけ・ものを考えたりするとこがちっちゃな不幸を広げたりもするからやや問題でもあった。

 ものを「考える」とひとはいささか・不幸になったりもする。

 ものを考えなくてもひとは不幸になる。

 不幸を「死」と置き換えてみようか。いづれにしてもヒトは死ぬ。それでいいのだ・とバカボンのパパがそこで出てくるのだけど、バカボンのパパには「揺れ」がない。だから「それでいいのだ」と言えるのだけど、そうなるとバカボンのパパはほんまのアホなのかほんまの賢人なのかわからなくなるのだが、多分どちらでもあるのだろうが、小市民的な悩みからは自由であるところが・かっこいい。

 不幸を死と置き換えることは現世的ではあるが、その置き換えは正しくなくって、それは不幸と死の間には数えきれないプロセスが存在することも有り、また死は不幸ともかぎらない。

 今年はもう一週間ほどになっちゃったが、去年のような友人たちの「まだ若い死」には遭遇しなかった。おれが遭遇しなかっただけで、そんな目にあった人々は世に多数いるだろうけれど。

 いみじくもおれも言っちゃったが、「今年の・・・」みたいな話がまた今もあちこちでされているけど、なんだかそれももう無理がある。みなさんの気持ちは既にもう「普通に悲惨」な来年へと行ってしまっていて、今年ばかりは今年を「感慨を持って振り返る」という気になかなかなれない・と思う。一年という単位があんまり意味のない今年である。非東洋的だ。

 ほんとは時間の断絶などないのだが、80年代の半ばぐらいからこちらがそれ以前とはまったく異なる「ような気がする」のと同様に2010年以降は今とも全く異なる「ような気がする」時間帯になるのだろうと思う。違うのは、今の時代が振り返った時にみなさんが「一体そこでは何が行われていたのか?」と、経済を除くと、全く記憶が甦らない・ようなLOST 3 DECADES となっていはしないか・という悪い予感がする。

 自分自身に記憶がない。そんな過去。いや・今は覚えてますよ。しかし、忘れることが、「善」みたいなとこあったじゃない。リセットする、ゲーム感覚と近いかも知らんが。自分探し・だとかさ。プッ・だけど。この十数年。ポジティヴに・とか、「空」元気だして・とか。敢えてそんなことをいわないと・ってとこにそもそも嘘もあった。現世的・夢の総決算というか、しかし、全部パーで「赤ずきんちゃんガブリ」、そして空はどこまでも青く高い。

 日本はポストモダンでプレモダンというへんてこりんな国になっちゃってるが、特に雇用の問題なんかにそれは顕著だけど、これもまた資本主義の実験台の運命なのだろう。そこんとこ「汎アジア的というか汎非欧米的な課題」なのかもしれません。

 来年からは「仕事が特権的」というニュアンスがより強まる。これまでとは違って、それがあからさまにアナウンスメントされるようになる。なんだか階級が固定されるね。アナウンスメントされるってことは。メディアは「雇用問題」をオンエアすることで、そんなことに「貢献」しだしてる。

 「横丁社会主義」の出番かも。

 キタの辺境・中津マージナル・ヴィルを立ち上げないといけません。その前に曾根崎デッドエンドストリートを残る方々にお返ししないといけません。以前の名もなき露地・として。11年5ヶ月・そこで「遊ばしてくれて」ありがとう・の言葉とともに。

 

 
 
posted by 浪速のCAETANO at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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