みなさん・ご存知と思われますが、曾根崎デッドエンドストリート・及び曾根崎トドムンドの「ご臨終」を看取っておりました。
ヒトが死ぬ時、その家族は大体、その後の儀式・つまりその準備・遂行に大わらわ・またはてんてこ舞い・により、「哀しみ」を感じる時間というものがないものなのである。そこんとこ気を張ってやり遂げていかねばならないものであり、そのバタバタは家族たちが「TOO MUCH SORROW」により打ちひしがれないようにするための機能を持ち、その儀式はそのための装置でもあったりするわけ。
その機能の中に今入っちゃってる。だから哀しみを感じずにこのバタバタを生きざるを得んのだが、11日に鍵の返還があり、その前に備品とおれが創ったものは運び出さないといけない。
ただ、自分は冬期講習が今日・まさに今から始まるわけで、みなの者に委託することとなる。8日からはおれもいこうと思う。
「死と再生」ということを考える。
根の国・熊野には後白河上皇よりは少ないが後鳥羽上皇よりは多く詣でてるおれといたしましては、一旦死んで甦る・というコンセプトがまあ・なんとなくだがわかるようになってきた。それはゲーム世代の「あー・やられたー・くそー・・・ハイ・リセット」とはちょいと異なる感覚である。
それは「表面を滑っていく」ような疑似イノチの連続ではなく、一旦ほんとにあの世に行って帰ってくるかのような消滅と再生のプログラムなのであって、だからゲームで死んだ主人公はクローンであるのに対し、根の国での再生は「別人28号」なのだ。姿カタチは変わっていなくとも、何かが違う。いや・姿カタチさえも変わっているのかもしれない。
そんな・おれにとっての「身近」なコンセプトにより、TODO O MUNDO を再生してみたい。
正直言って、おれの前には日本人ではだぁれもあの曾根崎の露地に「積極的価値」を見いださなかったのだ。それが、あのような「素敵」な空間に一度は生まれ変わったのだ。おれが、そこにいつもいたわけじゃない・という批判も受けた。でもそれは、あまりに「一般的」すぎて、相手にする気にもならん。店とマスターの切っても切れない関係の一般論であり過ぎるからだ。そもそも、一般論では成り立たない店だったのだ。一般論で成り立つなら、おれ以外の日本人のみなさん・あの露地をあそこまでおれがやる前に再生して見せてくれていたはずだもんね。
当事者でないヤツは好きなこと言えるのね。どーぞどーぞ勝手にドーゾ。
で・儀式と再生・である。
最初・曾根崎トドムンドは中津トドムンドの「ドナー」になる・など思っていたのだが、ちょっと違うな・と思い出してきた。
そうではなく、「表面的に滑っていくイノチの連鎖」ではなく、「おじいさんと孫」のような関係性をおれは思う。
今なら寿命伸びてっから、ひいおじいさんとひ孫・かな。そこには「遺伝子の連続」はあるが、人間性は別である。当事者を繋ぐ遺伝子の連続の中には他者のDNAが「ちゃちゃ入れてる」からだ。それはいかんことか? そうではないのだ。
そうではなくって、他者のDNAが「ちゃちゃ入れる」ことによって内部の免疫系が強化されていくのだ。それは必ずしも表面化しないけれど、そして何の役にたつかはよくわかんないんだけれど、しかし、それはある予想もしなかった危機の対応に効果を持つのだ。
そして、もっと大きな摂理とは、ひいおじいさんが死ぬことによって、ひ孫が生まれる・ということなのだ。
そんなことを考えて、少し盛り上がってしまうわけだった。
おれはオリジナルなものしか興味がないので、っていうか、テキストのないものしかやれん・という特異体質でもあるから、今はマージナル・ヴィルの名を広めようと思う。今回はそんなことで文句言われることもなかろう。
ちっちゃな権威の中に入れ込もうとする人々ほんとに多くて参る。人見てやったらいいのにな・と思う。まあ・そんなこともバネのエネルギーとなったりもするから歓迎・ですけど。
これからしばらくは中津マージナル・ヴィルのことに関しての話題が必然的に多くなるだろう・と予想されます。そして多くの困難も待ち構えているでしょう。まあそのぅ・そこんとこ「アホの団結」により乗り切りたいものだ・と考えます。
11年5ヶ月にもわたり、曾根崎デッドエンドストリートおよび曾根崎トドムンドを愛していただいてほんとうに感謝しています。店は店であるという身もフタもない「資本主義下」の考え方だけではトドムンドは成り立たなかったでしょう。店の者によく言っていたことは「店と客はフィフティ・フィフティである」という事だったのですが、て言うことはどーゆーこと? と訊かれても、それには一度も答えたことはなかった。そこから先は各自が考えることであるから・答えない。実はこの正解は人の数だけある。だから答えない。そしてそれは「決して方法論には成り下がらない」・つまり応用はできない・マニュアルにもならない・そんな種類のことであるわけでした。
場を創る・ということが、店をやる人間の「思い込みとこだわり」だけでできるものならそんな簡単なことない。そんな公開オナニーのようなイージーなことではなく、そこんとこ「公開メイクラヴ」であるわけで、そう考えるなら、やる側の思い込みだけ・ってのが上滑りしていくことがわかるでしょう。その裏返しとしての必要以上の奴隷的サーヴィス・なんてことも有り得ない。店は未完成・でいいわけ。
それが、おれの思う「フィフティ・フィフティ」へのヒント・なのだけど、と・なると、お客の側の質も問われることにもなり、となると資本主義下のペイできるできない・という話と擦ってくる。
でもね、どの分野のどんなことにせよ・「そこんとこ」しかやる意味なんてないのね。
曾根崎トドムンドは不幸にして消滅してしまいましたが、中津トドムンド@マージナル・ヴィルでの「再生」を楽しみに待っていてくださいね。
本当に長い間ありがとうございました。
そしてトドムンドに関わってくれた延べ50人ほどにもなるかなあ・なみなさんにありがとう。
そして最後に・本当にありがとう。曾根崎の名もなき露地。
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