2009年01月07日

・・の先にあるもの

 SAUDADE DE TODO O MUNDOをアップしたものの、どんどん解体されつつあります。

 「ああ無常」です。わりとこの手の感情引っ張るタチなのですが、明日は自分も解体に参加するので、一気に現実へと引き戻されるからそれを待っている。

 思えば不思議なものである。

 アタマの中の出来事が現実の出来事となり、生活の場となり、いろんなヒトにいろんな感情を湧かせ、そこを必死で守り、その「場」のためにヒトはヒトを罵り、ヒトに殴りかかり、それがプライドになり、それによってプライドを傷つけられ、それがあるために「通り」が出来、「街」のようなものが出来、そこにはその場にしかない「季節」もあり、そこでしかできない音楽もアートも有り、それは幻ではない・と誰もが確信し、「永遠」ということを誰もが疑わなかった・そんなものが今は、撮影が終了した映画のセットのように解体されているのだった。

 TODO O MUNDOは映画だった。

 文学的な意味で言うのではなく、そこに関わったヒト・かけたカネ・エネルギー・鳴っていた音・装置、そんなものを含めて「映画」だった。

 映画にも使われた・とかそんな意味でもなく、おれにとっての「映画」だった。

 まあ・であってもミニ・シアター系だけどね。

 能力の限界までそんなことをやる・なんてこと、ないもんね。それによって監督は莫大な○○を負う・なんてとこも似てたりして。脚本も何度も変わったしね。主演女優・助演女優もね。しかし、救いは、確かに誰かにイムパクトを与え・誰かの記憶に残る・ということであるし、確かに誰かを救った・ということでもある。

 ヒトとはコストのかかるものであるし、コストをかけたからといって、それに対する見返りがそれに比例してある・というものでもない。経済合理性とは関係ありそで・うっふん、なさそで・うっふん、ほらほ〜ら・・・・・・・、とかいうものである。

 あのね、思うのだけど、ヒトはみなさん「映画」を撮ってるのだね。

 コストをかけ、架空のものをでっちあげ、それに真実味を持たせ、あわよくば見る人を泣かせてしまう。うーん・人生の本質がそこにはあるよね。すべてはバブルである。これもまた人間の本質に近かった。元気のあるヒトはおおよそバブルな体質を持っているということに他ならない。その元気はそういうふうに使う以外にないから。

 バブルを過大評価も過小評価もせずそのように「普通」に捉えてみるのもいいんじゃないの・と思っています。

 たかが「泡」なのだ。

 イスラエルに攻撃されているガザの人々のことに感情移入しながら、それを敢えてやらせて「原油価格」をもう一度上げようとしている(としか見えない)世界の金持ちたちを本当に批判するのはこちらの禊が中途ぱんつではムヅカしかったりもする。ヒトを殺すのは絶対にいけないが。絶対に。

 ただ、そんなときに、過去に生きた、それもその精神性の高さによって生きた人々の姿がもう一度、萎えた精神に「喝」をいれてくれることもあったりする。

 トドムンドの正面入ったすぐ、目につく一人の男の「肖像」・覚えてますか?

 そう「エルネスト・チェ」です。

 彼はこんなことを言っている。
 「もし我々が空想主義だと言われるならば、救いがたい理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう。その通りだと」

 カストロとともにキューバ革命を成し遂げたチェ・を社会主義者だからいいのだとか悪いのだとか言うことは意味がない。真の革命家とは、用がなくなれば「追われる」ものなのである。イデオロギーに凝り固まったヒトではなく、その時その時の「何がヒトを幸せに・より不幸でなく・することが出来るか?」という問いに真摯に対応し続けたヒト・という認識がある。当時の世界だと「幸せ=自由」「不幸=不自由」と置き換えてもいいと思う。

 時代もあるのだと思う。当時は誰もがこんなに「カネ・カネ」言ってなかったが「カネ・カネ」と思ってたヤツらは少なかったが確かにいた。資本家・だけども、現在とはその裾野の広がりは比べようもなく、みんなはもっと「狙ってなかった」

 しかし、チェ・が本当に目指していたものは、社会主義的な思想の実践ではなく、その先にあるもの・だったはずなのだ。その先にあるもの・それが今、おれたちがマジで考えなきゃいかんことであって、それは「経済とは位相をずらした価値観」をどれだけ経済とパラレルに持ちうるか・ということだと思う。

 ちょっとでも自分が得する・ということに反応してしまう、おれたちの精神に刻まれている「新自由主義的負の遺産」からの価値を転換した先に、それはあるのであって、それはほんとに「スター・トレックの精神」にも一歩近づくのであって、そうでなくちゃ21世紀になった意味もリーマンが潰れやがった意味も無に帰すのだ。

 ユルフンが「最終的」にひとつだけトドムンドに貢献した・とするなら、チェ・のポスターを「勝手」にあそこに貼ったことだったなあ。

 空想であるとか・理想であるとか、新自由主義下ではもっとも「ぷー」なものとして扱われていた。現実だけが大手を振って歩いていた。自分の理想は地上げの現実の前に「とりあえず負け」ってことになっている。その勝ち負けなんてことももう古い。みんなで「A little bit of WIN-WIN or LOSS-LOSS」でいいんでないの。ここんとこ、「勝ち負け」にこだわったり「根性」とか、むだなルサンチマンを敢えて焚き付けないとするなら、それは「人類の進歩」と言えるような気もしてくる・っちゅーもんである。
 
posted by 浪速のCAETANO at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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