2009年02月05日

やさしさが強さにならないと

 朝、起き抜けにらっきょをつまんだら、カレーが喰いたくなって、カレーを作ってる。

 根菜のカレー。味覚の連想力ってすごいね。カレーとらっきょが一般的かどうか・それはわからないが、おれの場合は福神漬けよりらっきょかもしれない。

 塾のHPの原稿をずっとやってたのだけど、書いても書いても翌日になると、「なんか違う」と思えて、書き直したり書き足したりしていた。しかし、もうアップしちゃってからも訂正も更新もできるから・と思い、今アップ待ち。

 世の中がどう思ってるとかではなく、こちらがこうである・でいいじゃないの・と今は思う。無理なことはできないしな。

 お勉強業界・音楽業界、ものすごく遅れていると思う。人の幸せとごく近いところにあるはずのその二つの社会は、人を孤立させ、アホにさせ、無益な競争を煽り、恫喝し、という意味で「遅れている」と思っている。

 非常に、新自由主義的だ。優れた者を伸ばせば、それが牽引力になって劣った者も引っ張られ、あるいはその恩恵を受ける・なんてのが正しくその考えが働いたときのスキームだと思うが、もちろん働かない。「必要以上」の二極化を招くことになる。なってる。

 そこで現状批判もいいが、現場としては、そこからまた別の方向へ状況を向かわせたい・と思うわけだから(まあ・おれは)そうではないコンセプトをアピールするのだけど、ここまで新自由主義的な世の中でそんなことが果たして耳に届くのか・という懸念がある。

 日本人というのがよくわからなくなることがある。まあ・ワンパターンではないということなのだろう。しかし、子供たちはどうか? 意外とワンパターンかもしれない。わからない。

 わけわからんままに競争の枠に入れてはいかんよ・ということを延々その中で言っている。現状の競争って、「他人より先んじる」つまり、ピストルが鳴るよりも早くスタートすることによって第一コーナー・第二コーナーのカーヴでインコースをゲットするようなものだからである。地力に勝る子はバックストレートでやっぱり出てくるのだけど、地力がなく、しかし、親によって先んじさせられた子はそこで息が切れる。子供はなんだか自分のチカラをそこで自覚するのであるが、そんなことはおかーちゃんはユルさないのである。競馬ならばそこで鞭が入るわけである。競馬の鞭はホームストレートまで取っておくのであるが、そんなことおかーちゃんは考えてくれないのである。そこで必要以上に鞭を入れられた子供に鞭の痛さは残る。そのレースでかろうじて上位入賞しても、それはまだ予選だったりする。第二次予選・準々決勝・準決勝・決勝と先は気が遠くなるほど長い。おれが提案しているのは、いきなり予選とか参加せんでいいから、もっと気楽にプレッシャーかからんとこでトレーニングをして地力がついたな・と思えた頃にレースに参加したら・ということなのね。

 新自由主義のもとではやさしさは弱さと捉えられていた。やさしさがしなやかな強さになること以外のパラダイム・シフトは意味がないと思うひとりだった。

 さて、どうなることか?

 中津TODO O MUNDO NOVOもなんか本日進展がありそうである。行けないのが残念であるが、任せた。
posted by 浪速のCAETANO at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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