2009年03月30日

もうひとつのTODO O MUNDO

 トドムンド浜松派遣村と「同姓同名」の中津トドムンド店主です、こんにちは。

 歴史は我々の方が長いです。しかし、それは我々がというか、あるオトコが15年前ほど前から「ポルトガル・ブラジル狂い」になってしまったことが原因です。そして「言葉」とはその文化に関わるすべてのヒトビトのものである。だから「トドムンド」という発語を世に広めることはいいことです。

 日本人はあまりに言葉に対して「カルい」と思われます。言霊の国の歴史と伝統は今や何処へ? という感ありです。すべての言葉を4発語へと縮めるようなことに関しては「なんかなあ」と常々思っている一人でもあります。そんなに急いで何すんの? という気持ちです。

 いや、別に大したこと・何もしとらんのよね。縮める快感と、それによって対象の「矮小化」を計っているだけなのです。何故矮小化が必要かというなら、そうでもしないと、どんどん相対的に小さくなっていくオノレがモたん・ということに尽きます。すべてをカルくしないことには、現実に潰されてしまうヒトビトの「嘆きと叫び」がそこにはあり、しゃーないなあ・ということなのね。情報がヒトビトのこゝろを蹂躙しているわけです。

 浜松・というからには、トヨタ関連の仕事場がたくさんあったのだろうことが想像出来ます。カエターノが東京・大阪、そして名古屋で公演したのも、マリーザが大阪には来ず、東京・名古屋だけだったのも、在中京のブラジル人の存在が理由にあります。公園でカポエイラの練習をしているなんてこともあると聞きます。

 あの、フィリピンの、不法入国でおとうさん・おかあさんが強制送還されたあの女の子の例を引くまでもなく、日本は「外国人」に対して非常に冷たい国です。その冷たさは「時代錯誤的」で「イナカモン的」の両方の性格をもちます。気分は「いまだに鎖国」なんだなあ。外部の者に対する拒絶感はどこにでもあります。「都会」ではないんだね。歌舞伎町やらそう言う一部を除けば、ほんとの意味では。都会が良くて、村がダメという意味ではないですよ。どちらも、良さと悪さを兼ね備えていて、そのいいとこだけを安易にミックスもできない。しかし、どちらかにベースを置きながら、もう一方を改善して行くなんて姿勢がないと、社会は活性しないし、共同体の回復も有り得ない。

 新聞等で報道されているように「TODO O MUNDO」はMUNDOを世間と見るなら、その意味は「みなさん」ということになり、文字通りMUNDOを世界と読むならALL OVER THE WORLDとなります。どっちもいいね。閉塞感からは遠くって。

  おれなどはギター一本もってそこへ行き、ブラジル歌謡の3時間コンサートでもやっちゃおうか・ぐらいの気があります。

 今はなきシネマアルゴにて映画「クアトロ・ジアス」の初日に開演前ライヴをしたことがあって、「ブラジル人を泣かした」こともあるわけで、ほんまに行っちゃおうかな。「浪速のカエターノ」でした。「浪速のルイズ・ゴンザーガ」でもありました、その時は。どちらの称号もブラジル好きの「他人」による命名です。自分で言ってるんじゃないのよ。

 何度も言うけれど、トドムンドという発語が「奇異」なものにならなくなることは「良し」である。そして、その派遣村が機能することを祈ってる。

 困ったヒトたちがいて、そのヒトたちが自分を守ろうとギリギリのところで組織した集まり、そこへ名を付ける。そんな状況でのその名は「希望と連帯」を内包していものでなくてはいけない。それが「トドムンド」だった。発想としては同じであります。おれはそこんとこ「誇り」に思うし、自分のチョイスが間違ってもいず、かなり先の世界を言い当てていたことが良かったと思ってる。いつだって早過ぎて、自分が飽きた頃に世の中が追いついてきて・あ〜あ・なのだけれど、自分の停滞ってのもたまには変なシンクロがあるね・と思う。

 おれの気持ちとしてはね、そのヒトビトすべてに「トドムンドのカイピリーニャ」をふるまいたい、と思ってます。
posted by 浪速のCAETANO at 10:06| Comment(1) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
また遊びに来させて頂きます^^
Posted by カポエラ 神戸 at 2009年11月18日 03:22
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