2009年06月15日

エコ辞めよう

 まだ完全に片付いていない。

 予想では、このままの状態がすくなくとも夏休みぐらいまでは続くだろう。とりあえず、なんでもかんでも奥の部屋へと押し込んだが、そこでの目の前の段ボール色の景色にも慣れてきつつある。イクないのはわかっちゃいるんだが。

 引き蘢って仕事しないニートではないニート(neat)を目指したいところではあったのだが、片付けには何か強い動機がいるからなあ。そんなことがあるかなあ・とやや心配している、オノレのことながら・と言ってる口調がなぜか他人事。

 時代はクールを求めていて、「汗」を嫌っているみたいだ。やっとこさ、人口密度に由来する「狭いところで人が全力出すと暑苦しさTOO MUCH」にやっと気付いたみたいである。暑苦しさTOO MUCHではない全力の出し方もあったりするのだが、人はそない器用に出来てなかったりする。

 ただ、いつもそうなのだけど、一般化してしまったムードには中指立てときたいわけよな。全力出さない癖がつくと良くないこともあり、なんだか精神が・肉体が縮んでいくような気になることがある。全力出せる環境作りをまず第一に考えるべきなのだ・という気がしている。環境無しに全力投球ってそれは暑苦しいし危険だ。

 なんだか、エコエコ言い出してからそんなムードになってきたと思う。日本人の言ってるエコが正しいとは思えない。政府や産業界主導のエコなんて「胡散臭さ」がその周りに漂い過ぎ・である。「AC」がTVで展開しているキャッチコピーなんてろくなもんじゃない。

 トヨタ・がそのクルマもエラいヤツも大嫌いなのだが、GMやクライスラーのアンチみたいな捉えられ方をしているが、それはGMやクライスラーが「あんまり」過ぎたことが原因なのであって、それのアンチだから、大したことはないのだ。

 もう現代のクルマはドライヴィング・プレジャーからは遠く離れたモノになってしまっていて、今それを求めるっことは「変人」なのである。特にエコに洗脳されてしまった30代以下の人々には、そういう発想はもう一生出て来ないだろうと思える。

 大金かけて「太陽光発電」セットしないとエコが出来ない・なんて発想を「なんとなく受け入れて」しまうようではいかんのだ。それは地球のことを考えているようで考えていない。そんな企業がスポンサーになっているTV番組がゴージャスな旅館にばかタレントが行き山海の珍味を食べ尽くす・だったりするわけで、そのスポンサーのCMを見て、なんとなく受け入れることが「免罪符」の作用をしているだけなのだ。

 普通に年取っていくことだけで、エコと言えばエコだよ・とおれは言ってみたい。20代の自分と今の自分では必要とする快楽もエネルギーも、その量に於いてかなり異なるからだ。簡単に言えば、喰うメシの・和食の頻度が高まるだけでもエコっちゃエコなのよ。それで充分じゃないの。

 そもそも今の経済状態で、この下流大増産の社会で、クルマ買い替える? 太陽光発電する? それはやな、お金持ちでないと出来んでしょう。すくなくとも以前の自称中流だらけ・のレヴェルは必要なのであって、みなさんちょっとでも安いもん・みたいなデフレ社会で、そんなん可能なわけがない。

 放っといても日本なんておじいさん・おばあさんだらけになるわけだから、それで充分「エコ」なのよ・と言いたいわけである。それじゃモノ売れなくて困る「企業」が政府とグルになってエコを商売にしてるだけだからね。騙されちゃいかんのね。70年代ぐらいの生活に戻ればかんなりのエコである。

 あまりにもわかりやすいとこにしか反応出来ない洞察力ゼロ・の日本人だから、その公的行為は「すべてパフォーマンス」になってしまうんじゃないか・と危惧する。もう政治家とTV報道の関係がそうなってるからね。

 今朝キムラヤさんに朝早くパンを買いに行ったが、旨そうな田舎パンがあって、これいくらですか・と訊くなら、50円・とおばあちゃんが言う。「今朝焼いたんじゃないから」だって。嬉しくなって、ベリー入りのヤツと2つ買ってきた。計100円。コンビニもそんなことしたらいいのに・と思ったりする。節約とはエコの概念に近いと思うが、それが成り立ちにくいのはエコで儲けたいヤツやお金を回したいヤツがその中でコントロールしているからだ・っていういいサンプルだよね。

 
 節約の対義には「蕩尽」のようなものがあるが、その熱狂には「資格」が要るはずなのだ。大衆化社会はそれをみなさんに等しく与えてしまった。それが大間違いの元。例えばブスに基本的人権を認めているところがおかしい。昨日たまたまフランス革命後のフランスでルイ16世とマリー・アントワネットがパリから逃亡する・というドキュメンタリー・ドラマを見ていたが、その中で描かれる、王と王妃の気品に比べて、「革命家」たちの、その品性下劣さには少し考えさせられるものがあった。平等の代償ってのもなかなか大きいな・ということである。人は必ず過ちを犯すものだったりもする。フランス革命後のドタバタはもう加速度ついちゃってることもあって、もうしっちゃかめっちゃか(懐!!)で、結局ダントンもロベス・ピエールもオルレアン公も断頭台の露と消える。右も左もモザイク状になっちゃってるそのプロトタイプってフランス革命に内在してるわけだったね。

 決してマリー・アントワネット役はできないアンナ・カリーナなのだけど。ファム・ファタールの称号はよく似合う。悪いオンナもよく似合う。

 
posted by 浪速のCAETANO at 12:10| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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