2009年07月07日

七夕よりはじめて

 天気予報は晴れなのに空はやや重苦しい。

 七夕だけど年に一度の織姫・牽牛の逢瀬は見れないですかね。

 というか、年一回の待ちに待った逢瀬・それをなんで「公開」しなあかんねん・という本人たちのご意見もあろうか・と思われる。それも至極真っ当な気もする。逢引であるならこっそりがよかろう。

 小学生時代のある七夕、北西の空に動きながら近づいていく2つの星を見た。家族も一緒に居たからあれは事実だと思うが、「ほー」だった。科学に「希望」があった時代だから、それは非科学的と言われることがマジョリティながらも勢いとしては科学に軍配が上がる・そんなアトムの時代だけれども、今となっては科学は最新の仮説・なんてことはわかっちゃいるが、科学イケイケの当時にしては、そのことは「わからんこと・あるなー・まあでもええか」などと思いながらスイカにかぶりついていたのだ・おそらく。

 七夕の夜にドンピシャでそんなものを見た・なんてのはなんか大きい気もする。見えないもの・わからないものに対する「畏れ」、それはその後の倫理観とも関わってくると思われるが、「不思議な」ものを子供時代に見て、それを科学的に簡単に納得しないことは大切かもね・と思うのだ。というのも科学は最新の「仮説」であるからして・ということだから。それが新説によって乗り越えられたときの色褪せ方のみすぼらしさってないわけで、デヴィッド・ボウイが出てきた時のマーク・ボランみたいなものだ。尤もマーク・ボランはその後おれ内では見事に復権するのですが。今でも大好きです。

 まあまあ近いところで恐ろしいことが起こっている。アキバの加藤のときもそうだったけれど、結局「本人の弱さ」みたいなことにその原因を求めたがる傾向があるが、それだったら今の「社会」の特異性を棚上げすることにならんのだろうか・と思っている。過去にも格差はあり、それは今よりも量的にはもっと大きかったはずである。それは極論・「古墳」などが作られたことを考えればすぐにわかることなのだが、その際にその量的なことだけで物事は考えるべきではない。そこには「情報」と「資本主義の究極」あるいは「大衆社会」という要素が、実はこれらはあまりに・あまりに自明のことであるから、その要素に入れることを忘れてしまっている・というかおそらく恣意的にカウントしていない。

 欲望をこれだけ喚起したあとでの格差・だから、問題なのであって、そこは村上さんの卵と壁の喩えにも見られるように現代の最高の知性を持ってしても如何ともし難いものがあるし、人がこしらえたシステムがその本来の意味に忠実に、かつ、それに反して人の首を真綿で絞めるように身動き取れなくしているわけだけれども、そんな中で相対的に「自分」のそして「自分の命」がカルくなってくることはあったり前の話だろう。何かを求める時に、情報が行き渡った社会に於いては、その対象をゲットする際の競争率もまた史上最大となるからね。自己実現の可能性が一見広がったあげく、その可能性は限りなく「ゼロ」に近づく・というのが「今」なのであって、さらにそこには階層が固定に向かっていることもあり、生まれや親の財産みたいなものが決定的な要素となり、しかも社会はメディアによって、それをエンターテインメントとして再構成することにも成功している。TVでよく放送される「大阪のおばちゃん」の街頭でのインタヴューの質の劣悪さや無責任さが見事にそれを証言し、大阪のおばちゃんの再生産にも拍車をかける。歌舞伎や落語など、日本の伝統とはとりあえず、それは善きもの・と捉えられ、それはある種の権威も背後に見え隠れし、そこに反応する人々もものすごく増えてしまった。

 アメリカ文化に対抗する上での日本の伝統。その両方が質・量ともに極大化している。それも一種のバブルなのかもしれない。すべてにお金が絡んでしまっている。当然と言えば当然か。

 思うのだが、清少納言たちが宮中で使いだした言葉と道長たちが使っていた言葉の断絶と、ギャル語と放送で使われる言葉の断絶はどちらが大きいのだろう。簡素化とか便宜上なんてコンセプトはよく似てると思うんだけどね。仲間内の言葉という点も共通だと思う。そんな「TINY WORLD」はどこにでもあると思う。現代は商品価値というもうひとつの要素が加わるからまたそこで歪みが生じる。

 権威を伴い強制される伝統に回避するぐらいなら、ギャル語の中に埋もれて「何人」でもない人間になる方がマシ・なんて思うこともある。生活者の視点と便宜があれば、なんでもいいはずなのだ。だから、マンガ美術館はダメなのね。

 此花の放火にしても、最近は派遣切りの話題も敢えてメディアは避けていると思うし、政治ショーをおもしろ可笑しく伝えることにばかり精を出していると思うが、またサミットで無邪気に笑うばか面を見せられる人々の中に、次の放火犯がいても全然おかしくない。早く解散して政策をすすめるぐらい「しか」政治家にはできなかったりする。できたとしてもそれが本当に困っているヒトに届くかどうか・というところである。では、早く仕事せんかい・ということに普通はなる。


 オカマのマーク・アーモンド。この「パーリー・スペンサーの日々」はいろんな人がカヴァーしている。マークもカヴァー。David Mcwilliamsがオリジナルです。おれはグラス・ルーツで中学生時に聴いたなあ。どのカヴァーもバッキングはほぼ同じ。ストリングスがいてー・という感じ。 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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