2009年09月17日

good day to die? NO.NEVER!!

 赤ずきんちゃんガブリ。

 昨夜一時頃、きじこ(キジー)がクルマにはねられ死んだ。

 家に帰るとミタキから電話があり、すぐまた店に戻ると、動かなくなっていた。ついさっきまで尻尾触って怒らせてたのだ。

 ドライアイス屋の前で、十三方向から来たクルマにはねられたと言う。

 そこから20mほど公園の方へ行ったところにタクシーの洗車場が有り、そこにはバイトのにーちゃんたちが常に外で客待ちをしている。

 かれらが、その現場を見ていた。

 TODO O MUNDOに来たことある方はわかると思うのだが、ドアを出て右に10歩ほど歩けばドライアイス屋である。そこで路はクロスしている。まさに現場はそこなのだが、店のやつはだれも「急ブレーキ」の音など
聞いていない。

 「轢き逃げ」である。それも、なんというか、そのきじこの命を奪ったその行為に逡巡と反省の気配がまったく見えないことにおれたちは深く傷ついてしまう。

 ドライヴァーの側にも衝撃がないわけないのだ。にもかかわらず、急ブレーキをかけるでもなく、クルマを止めて自分のしたことを確かめるでもなく、なんというか、カナブンがフロントガラスに当たった・ほどの感情しか、そのドライヴァーが持っていなかったことにおれたちはこころを痛めるし、憤る。

 そのドライヴァーはおんな・だという。そして、洗車のにーちゃんたちはそのクルマもドライヴァーも良く知っている・という。

 おそらく、近いうちにそのドライヴァーと対峙することがあると思う。難しい時間になると思う。娘を轢き逃げされた親の心境だからだ。

 「畜生」という言葉をいまだに使う人間・いるが、それは人間だけが特別だという、おそらく、良く考えるとさほど大した根拠もない手前勝手な思い込みの短い歴史の産物だ。

 中津の街は野良猫も多い。そいつらはやっぱり外生活のプロで、自立しているし、うちの店のネコのような中途ぱんつな外と中の「ええとこ取り」ではないから、五官はもっと研ぎすまされているはずだ。そんなやつらでもたまに轢かれてたりする。

 最近きじこはネズミを捕まえてちょっと得意気になっていたこともあって、間が悪く、クルマより獲物の方に気を取られてしまったのかもしれない。

 身体の傷はなく、右顔面から出血していたから、そこがクルマのバンパーに当たって飛ばされたのだろう。

 苦しまなかったであろうことが、唯一の救いだ。

 昨日までそこに、いなくなる気配がまるでなかったものが、いなくなる、という喪失感に耐えなければいけない。

 そんなことばかりだ。

 どこまで悪くなるのだろう・と少し畏れさえ感じる。

 おれもネコを亡くすことには慣れてはいるが、キキとたまは老衰でだったが長女のマリーと三女のうーちゃんは突然死だった。

 マリーは腫瘍が見つかって、手術後病院に駆けつけたら、痙攣が始まっていた。

 うーちゃんは、病院で突然の心臓マヒで死んだ。

 ただ、きじこの場合、その一分前まで元気一杯で生命力に溢れていたから、やるせなさが募るし、まず第一混乱する。何が何だかわからなくなる。赤ずきんちゃんガブリ・だ。

 小学生の頃、一緒に近所を走り回っていた犬がやはりクルマにはねられて死んだ。はねたおっちゃんは恐縮して福砂屋のカステラ持って謝りにきた。

 犬は大きくネコは小さい・そんな問題ではない。

 そして、ネコを外に出す・とはこういう事態も想定しておかなければならない・ということでもある。そこは理屈ではわかるが、命が・というか、家族の一員が突然「殺される」ことを瞬時に納得はできない。

 イラクやアフガンが「地獄」である・とはこういうことがもっときっつい理不尽さで満ちあふれている・という意味なのだろう。

 被害者側に立つための想像力の弱体化が諸悪の源のような気がする。

 死んでいった人間(ネコ)が望むことはきっと「復讐」ではなく、その死によってアホな人間が何かを学ぶってことだろうと思う。

 加害者も。そして被害者側の人間「さえ」も。

 そう簡単には割り切れないけれど。

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 12:50| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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