2009年09月19日

またまたお葬式

 もう「お葬式」はヤだ・と思っていたが、これもまた仕方のないことで、きじこのお葬式。

 A美嬢のろろの時と同じく、荼毘に伏して、骨を持って帰る。

 一つ前の犬のお葬式に来ていた家族が「泣きはらしていて」哀れだった。まあミタキもそうだったが。一人目の衝撃・とはかくあらむ・だ。

 そんな場合、事を淡々と進める人間が必要で、葬式ヴェテランなんてなりたくもなかったが、なってしまったおれはそんな役目である。運転手兼務。

 きじこが焼かれてる間、なるべく深呼吸をして「きじこ」を体内に取り込んだり、うちの4人のお墓の掃除やら、霊園内でごろごろ寛いでいるネコたちを撫でたり(毎回かわいいやつがいる)、してその約50分を過ごす。

 あまりにも突然だったが、これできじこもすべての煩悩から解放され、無駄な殺生もすることもなく(やつは最近ネズミ捕獲に燃えていた)、穏やかな世界へと向かうわけだが、また一人「見送ったな」という気持ちだ。まあ若い・若くないと寿命はあんまり関係ない。そんな例を見過ぎたから、それに関しては運命としかいいようがない。

 お通夜にもみなさん来ていただいたし、幸せなネコである。

 現実は大きく重いのであるが、現実だけが現実ではない。リアル・とは向こうの世界にもある・というのが最近の実感だったりする。現実逃避はその際、現実逃避と言えなくもなるが、それは「一人」で生きている場合にはそれもあり・かな。ただおおよそヒトは一人では生きていけないから、その現実逃避がTOO MUCHではいけない・となる。

 時間というものは、ある意味、冷酷でも偉大でもあり、そのヒトにその時点で最も大切なものだけを淘汰し、残してくれる。

 ヒトは愛する者をなくした時に、一旦ひどく弱り、そして時間とともに回復し、強くなる。孤独をやたらに紛らわすことなく、残った者の再評価をしてみるのもいい。「ポスト」が空けば、人・は以前とは変わるからだ。

 間違いなく「変化」は起こり、当事者のまっとうな気持ちがあれば、また新たな体制が構築されるだろう。

 これだけ、情報量の多い毎日を送ることを余儀なくされているおれたちは、次々に「先」へ進むこともまた余儀なくされる。その進む・とは第一には変化・そして運が良ければ発展なのだが、発展でなくてもいい。そんな変化だ。

 そう考える時に、逝った者が右後方上方のどこかで「優しい目」で見守ってくれている・かのような感覚を持つだろう。

 近い将来そんな温かさを感じながらTODO O MUNDOがあることを望んでいる。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:01| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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