2010年03月01日

んー・何かが違うのだがうまく言えん

 元生徒が来てるから、店に出頭すべし・RIGHT NOWという電話が店長から掛かってくる。そいつらとは4.5年ご無沙汰していたので、ワインの空き瓶15本を伴って片手チャリで店へと向かう。普通ゴミの日は覚えたのだが、資源ゴミの日がいつやったかな? というのがわかんなくなって、それ以来、店のワイン置き場に置けばいいぢゃんってことにあるとき気付いて以来、だらしなさはそのまま。普通ゴミもたまに店に早朝やってくるおにいちゃんの世話になっている。だらしないことこの上なし。

 K応のSFCを今春卒業し、H神・H急百貨店に就職が決まっているやつと京都D大5回で実質2年の2名がおこたにいた。

 20余年塾をやっていると、7・8回アホみたいに盛り上がった年がある。そのハジケ度はまあいろいろで、80's後半〜90's〜0'sと時代を変遷し、同時に映しながらのそれらなのだけれど、豊津時代の最後から2番目のまあ楽しかった年代のアホ2名なのだが、そいつらのパパは同じ同い年/2つ下・という、なんとなくこちらにある種の自覚を促す、そんなビミョーな年である。

 2名とも中学受験経験者で、もっとも切れていたのは小六のとき・というよくある話ながら「やや残念」とも言える・そんなタイプ。

 中学受験ていいのだろうか? 

 曰く、公立には行かせられない。ちゃんとした教育が受けられない。受験対応もダメだし。こんな話で、みなさん中高一貫あるいは大学まで付いている・そんな学園を目指すわけだが、もちろん親の経済的負担もハンパではない。それが「できる」ことが立派な親の証し・という意味もこの20年間の日本人の心象風景を鑑みるに、否定できない。多分にそれもまた「新自由主義的」である。

 その傾向はおれたちぐらいの年の親から始まり、普通になったのは今40代の親たちだが、それは教育に対してコストパフォーマンスでもって評価するこころを持った、ということだ。言わばコンシューマー・マインドに目覚めてしまった・ということなのだが、それはお金を使う際にコストパフォーマンスを考えるという、まあ言わば当たり前のことなのだが、しかし、それをこちらへ適用するとそれはどうなのかな・などとおれは思いながらも単に呟いていただけだったのだが、そうしているうちにあれよあれよ・という間にそんなセンチメントが支配的になってしまった。

 そしてそのほんとのベネフィットを測定することは難しく強いて言うなら「合格率」みたいなことしかぱっと見ぃ・ないんだもんね・目に見えることが。

 「競争」と「勝ち負け」というあまりにもわかりやすいが、ものすごく単純な世界へと移行していくことになる。親子ともに「新自由主義的」であればそれでよかろう。とりあえず、その現場での葛藤は極小かと思われる。しかしいきり立った親といまだ洟たれた、あるいは競争とかが厭な平和主義者な息子/娘だったら。

 昨日来たそいつらにも確認してみたが、中学受験の現場にいる際には「なぁんにも疑問持ってなかった・というかなぁんにも考えてなかった」という情況だ。しかしやる勉強量はその年にしてみたらハンパではない。小学生の算数ってなかなかむずかしいんだよね、これが。論理性をそんなにつきつめずに「○×算」をやらされる・そんな印象がある。今年面接に来たノゾミ学園出身の子の塾ノートを見せてもらったが、国語にしても「オトナの言葉」による回答が満載だった。それって果たして「いいこと」なのかな。疑問が残るんだなあ。いつになっても。

 例えば、微積の難問を解く、空間ヴェクトルの難問を解く。そんなときに6年も7年も前に詰め込まれたことが「好印象」のもとに甦るのは「一般的」か・ということなのだ。きっつい塾の小学生がやっていることをよく見てみると、結局それは中学生の問題だったりする。平行四辺形ベースの辺の比なんてのもモロにそうで、まあ一貫の進学校なら高二で高三までのカリキュラムは終えるから、まあ進むことはついていきさえすればやれる子に負担はないだろうけどさ。

 しかしである。あの15才の時にグランプリ・ファイナルで楽勝の優勝をした浅田真央ちゃんでも、「オトナ」になるにつれて「波」も出てくるわけである。早熟は必ずその後の停滞をもたらす。まして、強要された早熟・ってのはどーなん? と言いたいわけ。いや、おかーさんにしてみたら強要したつもりはなく、「本人」ともちゃんと話しましたけど・と言うのであろうが、でも小学生に「オトナ」な判断なんてできるわけがないのだ・そもそも。

 おれは自分が公立出身で「できるだけ勉強せずに」をモットーに生きてきたので、そんなちびっこが、勤勉を根拠に「将来のことを語る」という現場に立ち会うと「へー・ほー・おー」など驚いてしまうのだが同時に「ほんまかー」と斜視にもなる。

 うちの塾には伝統的に中学受験成功して「身元保証」されときながら、「ぬけがら」と化したD大・K大・K学大付属高校生が多く在籍した。そうではない一貫高で大学は外部というパチパチな人々もいたけども。しかし、それなら公立高校でもそれは「可能」だったりする。しかもこれから「タダ」だ。

 15才で「初めての受験」ってわりとその心身の成長ってこと考えると「ちょーどよく」ないだろうか。

 今、必要以上にお勉強ができて、とりあえず、目の前の競争に勝っていくことを至上命令として少年少女時代を過ごすことは、なにかその時代にしか感じることの出来ない「コドモ」としての感覚をその代償として差し出す・そんなことにならないのだろうか。

 15才当時の天才浅田真央ちゃんでも苦しむわけである。エリート中のエリートである。安藤美姫ちゃんだって同じく・である。苦しみは安藤美姫ちゃんの方が質・量ともに上だったと思う。荒川静香さんにしてもそうだ。必ずスランプというものは存在し、そんなときこそ、周りの「新自由主義・後」の世の中の意味を理解したオトナが一旦競争から身を引かせて、精神をリストアさせ、チカラと自信を回復させることが必要かと思う。親の「無責任」なとこは、そこんとこフォローできないくせに「焚き付ける」だけはするってとこかなぁ。そこまで予想しながらコドモを焚き付けた親には今まで誰一人出会ったことはないなあ。先って見えないし、まただからこそ「可能性」に賭けたい・という気もわからんではないけど。

 しかし、ほんとに鬼畜なのは「受験産業」である。あんまり親を脅迫しないで欲しい。そして絵に描いた餅で親のコンシューマー・マインドを刺激しないでいただきたい。そのノゾミ学園にせよハマ学園にせよ、中には所謂「アホクラス」もあったりする。それって「存在矛盾」である。アホな子たちの月謝はカシコイ子たちのために・とは今や常識だが、それはあまりに「あからさま」ということだ。

 行き着く先は「つかえない東大生」を量産してな〜にがうれしいのだろう。お勉強とかそれは受験でも構わんのだが、ピークに向かって徐々に盛り上がっていくのがいいに決まってるわけで、それは時間とともに「納得」や「覚悟」がオノレの内部由来のものになるからである。高校生で早熟なら社会の矛盾とその中で「生きていかねばならん」という決意はまだ可能かもしれないが小学生にそれは100%無理である。

 灘中○○人、東大○○人というパンフ広告がどんどん入る時期になって、マイナー塾としても広告しないといけないのだが。時代は逆風である。

 しかし、必要以上に進学塾といわれているところ、そんなところに「結果」以外に、生徒の事を考えているオトナは誰一人いないのよ。受験「産業」と言う言葉がすべてを語っている。おれんちは「進学塾」ではあるが「産業」ではないので。

 
 

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 07:37| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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