まあはなはだ個人的で、それも今では無名のミュージシャンがほざいていることであるし、だから何さ・という反応もよくわかる。いやいやそれでいいのね。ただ、おれはこういうのが楽しいのね。ホント・楽しい。まあ不十分なのですが、準備・というものができた。ほら学祭とかでも準備って楽しいでしょ。未確定の未来のある瞬間に思いを馳せるからだと思うのだけれど、その瞬間はどうなるのかわかんない。大コケ・する場合も考えられる。大成功な場合も考えられる。ちょっとしたジンクスみたいなものに囚われたりもする。今のこの「態度」が結果を大きく左右するんぢゃなかろーか・など思えてくる。ちょっと精神主義的になったりもするのね。
いつもやってることなら全然平気なのだが慣れない事をやろうとする際、ほとんど気持ちはルーキーであったりもする。まだ・かわいいとこあるね・とは自分による自分評だったりする。能力総動員で場に臨むというのが好きだったりする。緊張感ね。
そのテーマが「南部」というのがいいだろう。南に進路を取れ。北ではいかんのね。それはかけおちの男女や指名手配の人が進む方角である。東は「一旗揚げたろう」な方角だし、西は「都落ち」であって、なんだかな・なのだ。このユルい・じたばたしてもしょうがない時期っつうのは、やはり「南」なんですね。
潜在的な熱を求めて南を目指す。たしか欧陽菲菲も御堂筋を「南」へ歩いていた。愛する誰かを探していたように思う。ハートへの栄養が「南」には待っている(気がする)。そうハートへの栄養なのね。何よりも解放される事を望むわけですよ、ハートはね。元気になりたいと願っている。しがらみからも解き放たれ、課長や・妻や・愛人や・クソガキや・ローンや・ストーカーなどから一旦切り離され、こころを自由に飛び回らす事ができるのはなんてったって・「南」。
「なんで南部なん?」とよく訊かれる。最初からそれをイメージ出来てない人を説得するのは意外に難しい。「合理的」な人がこれがまあまあ厄介だった。「暑いとこ行きたいねん」「大阪充分暑いやん」みたいな会話が続き、ほんとに北へ逃げたくなる事もある。
戦争中の「南方」なんて言葉も、手放しでは喜べないものの・おれにはかなり魅力的に響く。「行ってしまったら地獄」だった・ということだけど、行く前のなんとなく浮き浮きする気持ちがおれ・わかる。苦労して帰ってこられた大先輩からは「ばかか・お前は!!」だろうけど。大島渚の「戦場のメリークリスマス」なんて映画が成り立つのもやはり南方であって、それは参加者がすべて「異邦人」ということと関係があるように思う。そんなこというな・現地のむちゃくちゃされた人々の事をお前はどー思っとるのだ・ばかもん!!!・と叱責される事を承知で言うと、それは多分「エキゾチズム」なのだな・とわかる。
実際にそこを訪れる前に「エキゾチズムの徒」となってしまってるわけである。行ってしまえば現実。虫に噛まれるし巨大ゴキブリもいる。しかし、そんなことは「エキゾチズムの徒」には屁みたいなものである。意識の話だから。ハワイであってもいいよね。
アメリカの南部は当時のミュージシャンにとってエキゾチックだったはずてあって、そこへいくと「自動的」にカリブ海を目にするのだ。隣はメキシコだし。慣性がついてるから、思いはそっちへ。その先にはリズムの宝庫のスパニッシュ・ラテンアメリカがある。マンボ・ルンバ・マリアッチ・ズーク・カリプソ・ソカ・コンパ・メレンゲ・クンビア・様々なリズムを体験しながら進むと、その先にはブラジルがある。これかなり運命的というか象徴的な話だとおれは思ってる。
そんな「運動」が「南部を目指せ」だったりする。その南部とは固定されてはいない。蜃気楼のように追いかければ逃げて行くのかもしれない。それでもいいの。バカの妄想とも言える。合理的な人々はそう取るだろう。しかしながら、バカの妄想を語るバカに「熱」があれば、それは一緒に演るミュージシャンに伝播し、そしてそれは聴衆にも伝わる可能性はあると思う。ライヴ後冷たいビールを改めて飲もうという方が多ければ「よっしゃ」だったりする。
25日は@サンホール、HOST LIVE。チケットはお取り置きしておきますよん。食べ物もTODO O MUNDO出張でトドムンドカップルがサーヴしてます。「南部を目指すフード」って何なんでしょう?
このアルバムがまさに「南部」。