2010年10月24日

新しい公共・で人は死ぬ

 奄美に対しては初動の遅さ・だけでなく、メディアを通じて現場の様子を伝えてはいるものの、おれには「放置」という印象がある。その印象を感じたのはこれが初めてではなく、それはいつだったかと思い出している。

 それはマンガなら「めんどくせーなあ」という吹き出しがつくようなもので、もっというと「そんな厄介なことになりやがって」と思う気持ちが行為のそこここに窺い知れる・そんな感じの政府の「感情」だ。新潟の地震の時もそんな気になった。そうそう、沖縄の大学に米軍のヘリが墜落したことがあったよね。それって、今の普天間の移設問題の直接的な要因になったことだと思うのだけど。

 そこんとこ「ん?」と疑問持ったのは、やっぱり「阪神・淡路」の時かな。あのときも「初動」はものすごく遅かった。

 1995が東京とそれ以外が「中枢」と「末端」である・というような再構成の最中だったのだな・と今・わかる。1995と言えば15年前。まだ・世の中はマシだったし、人はまだ今みたいに「中途ぱんつな政治性」に毒されてもなかった。社会が「悲壮感」と「不審感」に包まれている・ということもなかった。

 今・民主党の言う「新しい公共」という概念は「阪神・淡路」の経験から気づかれたように思う。民主党によれば:

 「20世紀は、経済社会システムにおいて行政が大きな役割を担った時代でした。しかしながら、経済社会が成熟するにつれ、個人の価値観は多様化し、行政の一元的判断に基づく「上からの公益の実施では社会のニーズが満たされなくなってきました。そして現在、官民の役割分担の見直しが行われ、民間企業や個人と並んでNPOなどの民間セクターが重要な役割を担いつつあります。これまでの行政により独占的に担われてきた「公共」を、これからは市民・事業者・行政の協働によって「公共」を実現しなければなりません。これが「新しい公共」の考え方です。」


 なんてことみたいである。

 つまり、政府が、「これがイんぢゃない」とやったことが、みんなに「それズレてるよ・そんなことじゃ・ねーよ」と言われ、「だったら現場のひとでやってね・そこんとこよろしく」
ということだ。

 これは、平時なら、それでもよかろうと思う。そして、いわゆる「小さな政府」の根拠にもなる。だから「平時」なら、それでもよかろう・だ。

 問題は「not平時」にもこの考えを当てはめたいのだな・と思える点なのね。

 今は、すでに普段がすでに「not平時」だったりする。爆弾こそ飛んでこないが、精神的に「いつわたしは堕ちて行くのだろう」という不安と現実的な危機にみんな脅えている。それが普段の生活で、そんな中、災害が起こる。

 三日で900mm降るとは想像もできない雨量だ。想像力のない方と算数の出来ない方に僭越ながらお教えする。1cmが10mmである。10cmが100mm。では900mmとは90cmである。約1m。これが「平坦」な地面に降った量なのね。ご存知のように島の地形というのはアフリカの、地平線が見える草原のようなフラットではない。早い話「でこぼこ」だ。「でこ」に降った雨は「ぼこ」を求めて下に流れる。単純に考えて、でことぼこの面積が1:1であっても、「ぼこ」に集まる水量は2倍の1.8mとなる。人は低地に住むものだ。おれたちの身長は170〜180ぐらいよね。川が最終的にその水量を回収するにせよ、「ぼこ」地域を通った後に川に注ぐわけでしょう。えらいことよね。そんな「実感」からものごとは考え始めるべきだと思う。

 国庫支出金ではなく地方交付税交付金を増やして、地方の裁量を大きくし・と言うのって、「地方分権」なんていう謳い文句(なんとなく耳ざわりいいよね)とともに「改革派」と言われる首長が声を上げていて、なんだかみなさん、それがいいなんてことにもなってるが、おれには、現在オノレの失政により、格差の生まれた「地方」をそのまま放置するための方便に聞こえる。「新しい公共」とはなによりもその考えに奉仕する言葉に聞こえる。

 要するに「災害」が起こったときにも「まあ・キミらでやってよね」ということだね。

 ブッシュのカトリーナ時のニュー・オルリンズに対する態度は新自由主義のアメリカならある意味「当然」の態度だったのだ・と思えば納得できないかな。「健康保険」ないんだぜ・アメリカって。国が地方を・または個人を「助ける」という「発想自体」が存在しないわけね。共和党のティー・パーティーなどは早い話リバタリアンの巣窟であって、次の中間選挙ではオバマの民主党は大敗を喫するという確率の高い予想だったりする。

 おれたちもメディアの言説とか、過去20年ぐらいの「自分のことは自分で」みたいなある種の「洗脳」によって、オノレのトラブルはオノレの責任みたいに「刷り込まれ」ているが、特に今の30代・40代の人々そうだけど、そのアメリカナイズ/新自由主義の教育は中国の「反日教育」と相似だということも気づかないといかんとおれは思う。

 災害というのはメディアにとって単なる「ネタ」に過ぎず、東京から芸能レポーターに毛の生えた程度のバカキャスターを派遣し、とってつけたような深刻顔も嘘はすぐばれるし、本当に現在困ってる方に「今どんなお気持ちですか?」など訊くんじゃない。「自分は安全」という特権の元でのそんなこともう辞めたら。

 こんな話もある。

 奄美は鹿児島県でその選挙区の民主党代議士が「小沢くん」のグループだから政府は「動いてあげない」という話。本当なら、ひどい話。

 釣魚島のことになると「国」が・・とか「国家の」・・・みたいな話にすぐなるのだけど、アホですかキミらは。奄美とはまぎれもない「日本国」じゃないの。しかも人がそこで生き、そして死んでいる「国内」の話だろ。それに関して(何に関してもコメントしないおっさんだが)管くん、一言でも奄美のことに言及もしない・では、あかんよ。両陛下はコメントしたよ。うまいもんばっかり喰ってるだけじゃダメよね。突然の美食家変身は元社会活動家にはみっともない。

 これらすべてのことが「新しい公共」という考えを消極的納得させるための布石に思えるのだ。それは嫌な話・「じゃあ・しょうがないから我々だけでやろ」という有志の方が現れれば現れるほど、政府は「よしよし・いひひ」となる皮肉も内包する。意図的に流布される言葉にろくなもんはない。


 dubliners

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:10| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | TODO O MUNDO | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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