2011年07月22日

また・だけど

 おれは、自分でおじいさんプレイすることはあるが、ほんとはまだそんな自覚はなく、それは自分の父親が「おじいさん」としてまだ彼の地で生活をしているからかもしれない。

 こんな髪の色だから、ほんとに表面的にしか物事を見ない人からは「おじいさん」と思われることはある。そんなときはお肌も艶のないバイオリズムだったのだろう。そんな方々には「記号の逆襲」をしてあげるのだけど。

 で、だ。おれたちは、昨日、中村とうようさんの自殺の報に接した。

 コンちゃん(今野 雄二氏)・加藤さん(和彦氏)の自殺にへんな「免疫」できてしまったのもどうかと思うのだけど、おれも最初とうようさんがもうover80だったからか、ある種「一般論的」にその自死を納得しようとした。

 その一般論とは、亡くなった方がまだ若かったなら「早すぎるのにね〜」・それに対して亡くなった方が高齢の場合「大往生でしたね(生きるだけ生きてたしなあ)」みたいなこと。

 おれたちはアホだから、人間年齢と言うか地球年齢で、ある種の諦観を持って「ヒトの寿命」についてわかったようなことを口にし、それが所謂一般論の根拠みたいなことに・よう考えもせず、なってると思うのだが、でもほんとは「いつまでも生きていていただきたいヒト」と「今すぐ死んでもそないだれも困らないヒト」というその2種類があるだけの話なのではないか。

 もう一種類「こちらは積極的にシネシネ・と思い願いながらも、そう願えば願うほど、まるでその憎悪を栄養にするかのようにイヒヒヒイヒヒヒと含み笑い声を背景に肥え太りその立場が更なる安定へと向かうヒト」もいる。

 およそ自殺するのは、第一のタイプ。いや・その自死をヒトが認知し、惜しむことになるのが第一のタイプだろうと思うのだ。

 ものすごい矛盾がある。みんなから「生きていて欲しい」と願われる方々が自ら命を絶ち、「FUCK視」されているおっさんおばはんらは権力に寄り添い、ちゅーちゅーする水はいつまでも甘いのよ・ということになる。まあ第一のタイプのふりしつつ、実は第三のヒトという「クレヴァー」くんもいらっしゃるが。そんな方々はポーズ上手だから。

 神経が細いのって、大変である。それはもう生まれと育ちで決定してしまう。そして細いからこそ見えるものもある。声高・って神経細いの同義と見ていい。

 第一のタイプは、でもがんばるのよ。現実との対応は確かにかれ・かのじょを強くもしてくれる。もともと「リアリスト」なんかではないのだ。もっというならリアルを憎んどるわけ。で、音楽とか文学へと引き寄せられる。しかし、音楽と文学は違う。文学もそうかもしれないが、音楽のフィールドはもうないほど荒んでいる。それは文学などの比じゃない。しかも、その音楽は相対的ワカモノだった時代には「イスラム原理主義者のコーラン」というとイメージ悪くなるが、それはアメリカの視線におれたちが晒され過ぎてるからである。実際、当時の音は「今でもパワー」を持っている。それがある意味厄介なのだ。

 その音の根拠になった社会は跡形もなく消え失せているのにも関わらず、その音は正にそこに「在る」わけだから。意識はフィード・バックを始めるでしょう・そりゃ。音楽を相対化できているヒトならよいわけ。しかし、そんなヒトに切実な振りをして音楽について「語っていただきたくはない」。それは前述のクレヴァーくんに多いが、音楽をアクセサリーのように扱うな・うっとうしい・と言いたい。

 自死された方々を必要以上に美化するつもりはないんだけど、そこには「当事者の苦悩」があると思う。それは、かつての栄光が地に堕ちてしまった音楽というフィールドの不運に寄り添って生きるしかない当事者のある種の覚悟なのだ。

 とうようさんが聴いてこられた・すばらしい音楽をおれも影響され・反発もし、好きになったものも・嫌いになったものも、とうようさんが嫌いなのに大好きになったもの(NEIL YOUNG、TELEVISION等)も数限りなくあるが、「音楽でモノを考える」ということが習慣になっている。かおるちゃんの「リズムでモノを考える」とはおれが散々言ってきたことの、彼の実感溢れるパラフレーズだと思う。

 もうそっち方面の方・誰が自殺されても驚かないが、おそらくSさんなんて絶対しないが、可能性ならHさんだが、まあどーでもよいが、やっぱ音楽ってヒトを「コドモ」に連れ戻す作用があるから、どんなにおじいさんになっても聴くとチカラが一瞬漲るもんね。それから社会復帰が大変ですが。

 おれももう身近に悲しむ人間がいる限り、自死は考えないと思うが、というほど悲しむ人間はおらんが、なーんやそれ・ながら、でもね、とうようさんの今回のことはわかりやすく、コンちゃん・加藤さんの流れの延長上にあると思います。

 よく怒ってた人が、亡くなるって、その怒りの対象にやっぱり最終的に負けた気がします。おれたちは、きっと負けるのだけど、しかし・だからこそ、そのヒトの歴史が抵抗の歴史でもあるってことは、理想に近い。それは「自然」なことでもあるって気がするからだ。

 しかし、業界はなあんにも反省しないし、もうきっとできないのだろう。

 音楽のような時間を超えるものが身近にある人間にトシって関係なかったです。

 とうようさん、ありがとうございました。ご苦労様でした。




 

 

posted by 浪速のCAETANO at 12:11| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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