2006年08月06日

夏祭りおつかれ・よりはじめて

 夏祭り@曾根崎デッドエンドストリート後半も無事終了したみたい。ナチュラリーも3周年ってことで、ミタキも40ageってことで、これはあくまでも一般論だが、とりあえず40年生きたってことはそれでまあ幸か不幸かこの世に生まれ落ちて(成り行きで)そいでもってようわからんままなんだかんだ刺激をうけ(それも成り行きで)、それに反応し、そしてそれなりに何か語るべき事をもち、誰かに影響も与えつつ(これまた成り行きで)なんてことを考えるとほぼそのヒトの生きるスタイルというかな・そんなことはもう大筋決まっとるわけで、そこからの路線変更なんてのはなかなか難しかったりするわけである。

 これはもう一回いうけど一般論なのだが、そこまでのやり方をここから変えなさいという強制力が働くことはなかなか不幸なことみたいな気がする。最近は自分もなかなか混乱すること多くて、かつてのカミソリのようなアタマの切れなんてことには、とんとご無沙汰だから何言うとるかわからん向きもあることとは想うのだが、時々は賢くなりたいが基本・ばかでいたい・と想うのである。というか少々賢いぐらいでは物事・好転しないと想うからなのだ。

 今は信じるものをもっているバカが一番ブレない時代なのであって、逆に言えばすべてを疑うくせのついたちょこっと賢い人間がもっとも生きにくい時代なのだ。逡巡は自信のなさに外からは見え、そんなやつのぼそぼそっと言う事にはだ〜れも反応しないのである。つまり、神ではない限りすべてを把握することは(たとえどんなに偏差値高いやつだって)不可能なのであって、すべてとはどこまでも広がる地平の先にしかないのだった。それはヒトをして現状の中をみっともなく「もがかしむる」こと意味し、それはどこかで納得し「手ぇ打とう」という話になるのであるが、そうなっちゃうとそこで思考停止という・あとはTV見て「あははは・・・」などというチカラない笑い・な人生が待っているだけなのであって、あいつは終わってるなんて話になるわけだった。

 もう一度生物学の定理に戻ってみるが、あまりに世の中に適応しすぎるのはよくないわけ。現在の「適応」とは「声がでかい」「迷いがない」だと思うが、それはモノ事の単純化なんてことが社会のベースにあり、あと「キャラ」などという言い回しもヒトの全体性をなんや思とんねん・と怒っているのである・個人的には。過度の適応は次の時代への適応に支障をきたす・まあそれが10年単位で起こるかどうかはまた別の話だとは思うが、生物学史における何億年をマクロとするなら、ヒトの一生なんてその単位は「ナノ」みたいなもんだが、しかし、個体発生は系統発生を繰り返す・ではないが、大きな歴史の流れを集約した形がヒトの一生の中で起こるなどと思ってみる事もある意味「ロマンチック」だと思うが果たしてどうだろう?

 小さいものの中に宇宙がある。小さい大きいなどというのは相対であって何を基準にするかによってなんぼでもどうにでもなる。おれたちはその基準をあまりにも人間単位にしてしまっている傲慢の中を生きる傾向があり、最近の余裕のなさからそれを増長させる傾向にもあり、しかし、よくよく考えてみるなら、宇宙のでかさが今イチほんとのところが想像できない(これは相対的に考えてる限り永遠にムリ・なのだけども)ことから考えるに虫の世界や細菌の世界というあまりにミクロなこともほんとはよくはわかっていないのであって、それは結局何もわかってないのと同義・と言われてもしゃーないのだ。

 「経済」という一側面からの強制的なものの見方が唯一であるような、それこそ強制力がさらに増しているここ最近なのであるが、滅びつつあるもののなかから何か新しいものが生まれるなんてことが社会の正しい新陳代謝だと思うわけ。ナチュラリーもがんばってね。
posted by 浪速のCAETANO at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 路地 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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