2011年11月15日

DIZZYING DAYS

 日曜にイヴェントがあると土日月がどっと忙しく・どっと疲れる。疲れた。ばたばた・だった。

 非常に不毛なことをしている気がすることがある。まあこの国家自体が「不毛」を地でいっているわけだから、おれごときの不毛など、目立ちはしない・わけであるが、それにしても、クルマでがーっと走って、帰って、行って、帰って、チャリでごーっと走って、行って、弾いて、帰って、寝て、起きて、またチャリでがーっと走って、行って、教えて、カレー喰って、また走って、行ったら休みで、がっくりして、つまんないサ店二軒もハシゴして、ケツが痛くて、教えて、来なくて、遅れやがって、帰って、愚痴って、飲んで、寝て、起きて、今に至る・わけだが、なんかいっぱいやっていたことが、「なにをやってたんだか」よ〜わからんのである。

 リアル・ではないからだろう・と思う。物事の成り立ちが、おそらく、おれのスタイルと異なるものにはリアリティを感じないのかもしれない。だったら、自分がやれよ・ということなのだが、そういうことなのだが、それが、なかなか・なのよ。

 やっぱり休むときは休まないと、いざ・って時にチカラ出なかったりする。

 ここから、年末に向け、立て直して行こう・とケナゲに思う。しかし、近未来も「多忙ながら不毛」な予感。ま・やっとおれも「フツーのヒト」になった・ということか。


 さいなら・さいなら



 しかし、今「SEEMS フツー」ってのはなにかの必要条件であるな・と思うのだ。時代・だね。小学生のチビが「あいつ・上から目線でムカつく」とオトナに言って、それがなにかしら効果を発揮する・なんて「変な」時代なのである。

 「お客様全盛でマンセー」な時代。そんなのはおかしい・と思うが、周りが「お客様全盛でマンセー」ならば、大勢はそうなっちゃうのよね・残念ながら。そんなの・おかしい・と思いつつもそれを「正攻法」でやっちゃうと「埋没」してしまんうだな。埋没しそうです。

 ま・それでもかまわない。

 残念ながら、予想通りの悪いシナリオでTPPへの参加が決まってしまったけど、まあ「どじょう野田」もサイテーながら、反対の「フリ」だけの慎重派もサイテーで・っちゅうことはわかり、そんなに現実・ニッポンは植民地だったのだ・なんてことももうたいがいわかった・なんてことは「まあ・よかった」のじゃないの・と思うのだ。慎重派は「暗殺」の危険もあったらしいというから、そう考えると、原口くんのあのびびった顔もなんとなく説明できる気もするが。でもね醜く生き続けることと、何かの捨て石になること、そんなのはもう天秤にもかからない。吉田松陰はもうおらんのだよね。そんな政治家たちのマインドは、まあおよそほとんどのニッポン人のマインドと重なり、それは結局、将来の・次の世代への展望をハナっから放棄していることでもある。

 「将来のコドモたちのために」と言いつつも、オノレの一生分の想像力しか持ち得てないわけよね。言い替えれば、それ以上の想像・は拒否しているってことね。おそらくそういう人々の多くは「コドモ」作ってるはずなのに・だ。

 その子たちのためにも「カネ」だけは残しとかなきゃ・ということなのだろう。そして、そのマインドは多くの日本人とシェアされてる。

 「社会」って考え方は「仲間内」と矮小化されてる・と感じることがある。さらに先鋭化しているとも思う。それは目に見えるものだけに反応する・と同義で、目に見えないものは=存在しないもの、という非常に頭の悪い考えがベースになってる・と思う。

 最近、知らないヒトと話をするのが苦にならない。アウェイが好きになってきた。いつまでも何かに守ってもらってエラそうなこと言ってるだけじゃ話にならん。メディアにならなきゃ・自分が。そんな気がしている。

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 13:15| 大阪 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「世の中は、、、」の話だけをする人は、現実肯定主義の人である。守旧派の人である。
「あるべき姿」を深く考え述べる人は、その現実対応策をも合わせて説明する必要がある。そうでなければ、その考えの内容は、現実の中の真っ赤なウソとなる。だから、このような人は改革派とは言えない。破壊派かな。

目の前のことを疎かにして歩いていては、交通事故に遭う。だから、目先・手先の注意が必要である。だが、案内人 (政治指導者) に行き先の説明を受けることもなく、ただ懸命にその時その時を歩いているだけでは先行きが不安でたまらない。だから、政治指導者には哲学 (不動の非現実) が必要である。

我が国は、初等・中等教育に力を入れる。高等教育がないのだから仕方がない。
だから、その教育の成果も、子供にでも通じるロボット・コンテストとか、アニメ制作程度止まりである。
人間の知恵をはぐくむ教育は、英米流の高等教育である。それは、英語のさらなる学習である。言語機能の発達により大人の教育が可能になるのである。
これは、「英語は話せてもバカはバカ」という状態を脱するための手段となっている。
だから、この教育効果は単なる英語学校では得られない。つまり、大学 (college) が必要になる。
また、英語を話さない人は、いつまでたっても、知的社会の蚊帳の外にいることになる。
ちょうど、経済大国の我が国の首相が国際会議の中心人物にならないのと同じ状態である。
その結果、我が国は、「世界にあって、世界に属さず」となる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

Posted by noga at 2011年11月15日 14:01
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