2012年03月13日

ペドロ&カプリシャスが・・・

 ペドロ&カプリシャスの歌で目が覚めた。

 別れの朝・がいつの間にか、五番街のマリーへと移ろって行き、最後はトモノのおとうさんが壮大なフェイクをかましながら、あの素敵なヴォーカルの彼女の場所で歌っていた。おれは「噂」には聞いていたが、これがそーかー・と感心しながら見ていた/聴いていたのだが、まあその感想を言えといわれたなら「どひゃーっ」と言ってそのまま逃げたい。

 変な夢を見てたなあ。ちゃりんこでクルマと競争するのは、おそらく寝る前に「タモリ倶楽部」のちゃりんこの正しい乗り方・と言うのを見たからなのだが、しかし、かつての彼女たちが4・5人出てきとったなあ。夢の中でも、こっちの女といるときにも、きみだけだよ的なその場の精神の整合性をついつい気にしてしまって意外と疲れる。寝てて疲れるってなんやねん・とちょっと怒ってしまった・目が覚めたとき。

 ペドロ&カプリシャスのあのVo.の人、時代・だが素敵だった。ああいう人居たのよね・あの時代。サイケ・というかね。みなさん・細身で顔は派手。そこが in common。おれの周りにも居た。4・5歳上のじゅん子さんといって、おれが入り浸っていたスタジオで働いてた。


 東京から帰ってきて、だからなんかおしゃれで、彼女も「細身で顔が派手」。ちょっと思い出してしまいました。いいねえ・年上の女。泉重千代さんの気持ちわかるなあ。

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 イザベルは新潟を発ち、山形に入り、米沢平野にいる。ここで、こう言っている。

実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところものである。彼らは葡萄・いちぢく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり、大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている

 イザベル・バードは「西洋人女性として初めて・東北から蝦夷を・一人旅・した」その旅行記から引用しているのだが、これがほんの150年前の話なのだけど、ということはそれ以前も「それ以上」なことはなく、日本人の、江戸や上方以外の生活はこんなものだったのだ。

温泉場を訪れて、彼らの風習や娯楽、そしてヨーロッパから何も取り入れてないのにまったく完璧な文化を観察するのは、興味深いことだ

 英国人女性にはそう見えた。彼女は、できるだけ客観的であろうとするが、彼女から見てあまりの惨めさ・醜さ・不潔さに対しては歯に衣着せないが、しかし、それでも「蚤」への不平は何度も出てくるが、トイレのこと(ここ・壮絶な不快度だったろう)に関しては、今のところなんの記述もない。彼女は米と卵を・そして時々、伊藤という通訳兼世話人の少年が手に入れた鶏や土地で振る舞われる野菜を食べながら北上して行く。

 三味線や謡の音が気に入らなかったらしく、「不協和音」と言っている。苦笑するのだが、ここは完全に「西洋音階」しかしらないわけでね。

 訪問される日本人にしても「初めて見る西洋の女」であるから、動物園の動物状態でもある。障子にいくつもの穴が開き、そこから見つめる多数の目に晒されながら旅を続けている。その態度をイザベラは「無作法極まりない」と言っている。しかし、もう慣れてきたみたいだ。こんなこともある。

何百人となく群衆が門のところに押し掛けてきた。後ろにいる者は私の姿を見ることが出来ないので、梯子を持って隣の屋根に上った。やがて、屋根の一つが音を立てて崩れ落ち、男や女・子ども五十人ばかり下の部屋に投げ出された。誰も叫び声を上げなかった。これは注目すべきことである。数人が擦りきずを受けただけで負傷者はいなかった

 もう・笑うとこ満載なのだが、ドリフのプロトタイプみたいな。本人たちが好奇心と畏怖の気持ちがないまぜになってるのがよくわかるんだけど・昔の日本人。はっと今思ったのだがイザベラが知っていたかどうかわからないのだが(おそらく知ってた?)、芭蕉やそのマトリックスでもある西行の足取りを意識的にか無意識にか追っていることになるな・ということである。

 しかし、タフとしかいいようがない・イザベラ。
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 天皇陛下の「3.11」でのお言葉の「TVの意図的なカット」に関して:

 全文を見ようと思うならネットでいくらでも見れる時代に、その意図をごちゃごちゃいうやつはマーケティング的に与し易し・とTWITTERで誰かが、呟いていた。

 そうかな・なんとなく違和感があった。ごちゃごちゃ・言ってるのは「そこ」ではなかろう。

 「意識」がある人間なら、そうやって全文見たらいいだろう。ただし、陛下の言葉の中で、そここそが一番大切だ・と思える箇所を意図的に削った民放だけではなく国営放送はなんなのだ・ということよね。

 人災を隠す・というか、なかったことにする/したい・という意図(だれの?)が見え見えではないか。陛下の言葉の中にはいろんなヒトへの「いたわり」があったが、それもまた大幅というかほとんどカット。

 そこを削ると「野田」のあのすかすかの言葉との整合性ができる。

「不幸で不運なみなさん・あきらめてください」

「しょうがないこともあるのよ」

 苦しんでいる方々への、シムパシーが何もない。TVでの放送しか見なかった人の中にはそんな「あきらめ」の感情も湧いたことだろう。それは「消費税増税への根拠」「新自由主義」「新しい公共」などのコンセプトを自動的に補完することになる。

 メディアの世論操作というのは、「少しずつ・違ったサブジェクトに関して・同様のコンセプト」で、行なわれるモノで、またひとつ、橋梁ががくっと下に下がらさせられた・そんな気にもなるわけ。

 いや、「確認」できる余裕とアタマのあるひとならいいんだよ。

 オマエはどっかのエージェントか・と突っ込み入れたくなりました。70年前なら、殺されてるで。陛下の言葉やで・とおれが言ってるのがおかしいが。



 初代の方がおれの好み。前野曜子。
 
posted by 浪速のCAETANO at 13:24| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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