2012年09月22日

なんだか静か過ぎる

 なんだか静か過ぎると思うのだ。10チャンネルとかの右報道のコンスタントな煽りは着実に遂行されているけれど。

 自分の現場と「その」現場の距離が遠過ぎるという意識。そして「危機感」のなさ。みんな一様に「政治的」な割りにじっさいの政治には無関心。いや・関心があるやつを見つけたとしても、またここでも「マッチョ」の論理に支配された思考停止である。

 平和ボケという言葉、最近は「いつまで平和?」な状況だからさすがに今はあまり使われないが、それでも昨日のように明日はある・と普通に思ってる・そんな人々もいるのだろう・いつの世でも。

 しかしそれでも静か過ぎると思う。

 その原因は、「反戦」を語る事がタブーになってしまったからだと思う。

 日本がアメリカに骨の髄まで支配されている事は、特に左とも言えないいろんな方がそれを認め、解説せざるを得なくなっている。それを言う事がタブー視された時代ともまたちがって、「ぶっちゃける」ことでまた180度違う立場にすうーっと身を置く。そういうの1945に経験済みのわれわれにとっては「特に難しい事ではない」。

 争いごとを回避することより、争いごとに勝つ事の方が大事なのか? ほんとにぃ? 戦争でご苦労された方々のおっしゃってることをもう一度聞いてよく考える事だ。

 アメリカは緻密な調査とその分析によって「知っている」と思う。基本的に憲法改正のハードルがものすごく高い事を。そしてそれをどうすればクリアできるか・も。そこには在米企業の80'sからのマーケティング・リサーチ・データがものすごく貢献しているはずである。日本人の中身を変容させるヒントがそこには満載だ。そんな仕事に関わっていたことを恥じる。もうずっと前の話だが。

 世紀が変わってからは、アメリカは、日本人の予想以上の変容に「嬉しい誤算」を発見したはずである。それはコイズミへの熱狂だったんだけど。

 改憲なんて、ありえないはず・だったのが、そう言う状況がもうそこまで来ている。津波がここまでくる・なんてありえないはずが、来てしまった、と似ている。

 おそらくどこの国も新自由主義の行き過ぎで両極化し、不満ガスが充満している。日本と・急速に日本化している中国にその傾向が顕著なのだろう。自然災害も猛威を振るっている。人為的な破滅的事故まである。日本だけではなく中国に於いても地震は頻発してるしね。それに対する対策ってどちらも見事に不十分だし。

 目を外へ向けさせることは常道である。そんなときには。しょうがなくてそうする場合もあるだろうが、そこに機を見いだす(ということはそこに利益の臭いを嗅ぐ)ものもいるわけで、そう言う勇ましい事を言う事がオノレの身を助けるという・火遊び好きな政治家も現れる。彼らだけ・の利害がフィットする。そして火遊びが過ぎる。

 新自由主義の恩恵を受けないものたちでもそのマインドはしっかり身に付いていて、そこからの発想は「金儲けのためなら何でもする」だ。それが正義・だったりする。環境とはおそろしい。

 まわりでも、最近自分の発言が「通じない」。今まで通じていた事が通じなくなっていると感じて何年?

 相対的尊敬度の低下かな・と思っていたが、どうもそれだけでもなく、彼らのマインドとおれのそれがズレてきているみたいなのである・どーも。「きれいごと」すぎるのだろう。理想を追い求めすぎる・とも言えるかも。なんだかぽつんと・なことなのね。

 それでも、これまでやってきたようにオノレの説を唱えて行くのだけど、うーん・どーかなあ、やや自信がなくなりつつある。身内の中での孤立・と、普通の孤立、どちらを選びますか・と言われれば、おれは後者の方が好みだな。無用で過剰なトラブルからは解放される。おそらく近いうちにその選択のデッドラインが訪れると思う。今のトラブルが終わった頃、と見ている。

 エネルギーの有限・とそれを使い散らかされていることをひしひしと感じる今日この頃である。

 

 

 

 

 
posted by 浪速のCAETANO at 11:51| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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