2015年09月17日

キタバヤシジュンが、、、

癌の人間のお袋さんから電話かかってくると、「緊張とイヤな感じ」が同時にやってくる。そしてその電話は取らざるを得ない。

今日・明日という「見立て」らしい。看護師に言わせると「今日」らしい。

学年は2年差だがおれは3月、彼は4月、まる3歳違う。だからいま「還暦」のはずである。還暦=厄年だからね。最後の厄かな。最後でひっかかったな。

北林純がいたから、マルタニカズの音楽はあった。ジャンルをかるーく跳び越える音楽。80s〜90sにそんなことやってるやつなんていなかった。他の誰からよりも刺激をもらった。35年になるかな。お互い天才同士。言わんでも分かるんだからしゃーないよな。また、おれの理解者がいなくなる。とことん孤独になりなさい、ということなのかい?あるいはHONZIが待ってるからそんなに急ぐのか、純ちゃん。

いつ連絡が入るかわかんないから予習しもって起きてるけど、でもさすがに明日だけはおれの唯一の「激務」なので、携帯ベッドの電源で充電するわ。

日が3日経ち水曜の朝、純ちゃんは特に苦しむこともなく逝った、とその夕方、おかあさんと奥さんに聞かされた。月曜にお邪魔して、手を握り、おれと純ちゃんの「作品」である「パンキー・ズーク」のビートを両手に伝えていた。最初キョトンとしていたが、そのうち目が座ってきた。もう表情もさほどヴァリエーションもないのだけど、よくよく考えるなら、おれはずっと彼とは「ビート」で会話してきたのだった。フルセットのドラムがもっとも頻度高かったが、ジャンベやティンバレスの時もあった。35年間一緒にやってきたが、お互いプライヴェートのことはほとんど話さなかった。音楽のことしか話さなかった、と言ってもいい。ビートで会話すること、最後にそれをやれてよかったと思う。

ただ、もう死ぬほどおれは辛いが、いつかはこうなることもわかっていた。逆だったらどうなのだろうか?よくわからない。しかし、稀代の天才ドラマーと言うか「ビート クリエーター」と一緒に音楽をやれてよかった。いろいろ思い出はある。また落ち着いたら書こうと思う。



おれたちの歳って社会的にはおっさんだがガン細胞的にはやっぱりまだワカモノっちゅうことやな、とを改めて実感する。

人が死ぬ時、周囲の人間には時系列における分水嶺がある。おれも何人・何匹と見送ってきたが、行かないでほしい、おれを置いて逝かないで、という気持ちが先に立つ。その喪失の予感はヒトを狂わすに充分なイムパクトを持つ。自分にとってそこに有り、それがオノレのベースを作っているもの、広い意味でのやっぱり「依存」なのだと思うが、依存というにはこちらももっと意識をして場を彼・彼女に「空けた」わけで、それは例えて言うなら、家事・料理が好きな男がいて、しかしそれよりもずっと料理の上手い女と住むようになり、しかしいつの日かその女がいなくなった時に、何もできない自分を発見するようなものである。料理の話とは違うが、おれも前の奥さんとの間でそんなことがあった。担当の問題なんだよね。担当外れたことに関してはどんどん疎くなっていく。その分担当の特化がなされるのだが。

その段階から、それは経緯はどうあれその瞬間には極めてエゴイスティックなことだとおもうが、もうひとつ進むと、行く・逝く、彼・彼女の身になって考えることができるようになる。まあ、生きてるのと死ぬのでは少し違うが、。生きたままで別れるのはやはりある種の生臭さが伴うが。まあこれは生きてる証でもあるけど。死にゆく者たちにたいしてはそこから、オノレのエゴが、潮が引くように消えていく。彼・彼女の生の終焉を見守る、そんな態度が生まれてくる。これまでの経験から言うなら死と生は分かち難く、死は生の行き着く先でもあり、目標でもあるってこと。もっと言うならおれたちは「死ぬために生きている」ということなのだ。だから良き死は良き生と同格でただし死は生をタイムライン的には「上塗り」することができるBIG EVENTであるから、そこ良き生を生きた人はその等価として、そうじゃない人ならそれを大きく覆えすものとしての「死」があるべきだと思うのだ。

しかし、びんぼうにんには、そういう濃密な時間を創り出すことも厳しくなっているねと実感する。いろんなことに追われ、小刻みなスケジュールで動いている人間にはね。豊かじゃないなあ、日本て。みなさんが馬車馬となって初めて成り立ってる。それ、ビンボーな世界だとおれは思うが。死の前でさえこんななのだから、死の後、なんてどんだけ「事務的」か、ということね。流れ作業だもんね。ぜんぜんビンボーであるね。

親友であった原田知世の兄とHONZIを立て続けに失くしたのが2007のこと。あれから8年か、と溜め息をつくが、こういうことは「何度も」繰り返される。自分が「生き続ける」限りにおいて。

35年間と言えばもうお互い「空気化」してたからね。空気の喪失という息苦しさに慣れるのか。まだ、もうちょっと自分のことを観察してみたい。
posted by 浪速のCAETANO at 11:40| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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