2015年12月17日

追悼vol.2を終えて

今年の4月の純ちゃん最後のGANZでの演奏が残っていて、それを聞きながらsettingをしていたら、「あのスネアの音」にやられて絶望的になってた。

今となっては望むべくもないがもっと鼓膜を痛めて欲しかった。

ないものねだり。

存在の不在を確かめるようにライヴは進行し、なかなかおれにとっては「酷」なことながらもひとつひとつ確認せざるをえず、それは混乱ということでもなく、諦観に近いかな、どちらかというと、その中での「次の」可能性を探すといった習い性をややおのれで疎ましく思った。号泣してしまえばそれでキミは自由になれるじゃないか。またまた何かをうしなうけどさ。そう囁くもう1人の自分もいて、しかし、なかなかオノレのプライドはそれを許さんのね。

そういうことがあるから「生きて行ける」んだな。

諦観と言ったが、その中での「茫然」とする自分もいて、まあ店帰ってからは泣いとったが。

ルーティンの一種かな。

彼の場合、普段そんなに会ってなかったし、リハとライヴだけと言っても過言ではないほどで、だから死んだというよりどこか遠いとこへ行っちゃった、そんな印象なんだね。

死ぬ前日も、死ぬというよりおれの印象というなら「なにか別のものになる過程」。大きな環境がその背景にはある。ちょっと変な話に聞こえるかもしれないが「向こうからこっちが見える」のではないか?そうも思った。変な話でごめんちゃい、だが、まことに。

こちらの世界の相対化とかそんなこと。

変な話ついでに;

昨日、リハ中にこの時期に何故か、蝶々がおれの目の前にひらひらと舞い降りてきた。ん、なんだ?と思いつつも練習不足ゆえ、その後も何もなかったようにリハは続いたのだが、そのあとで、かんのさん(acc.)が
「蝶々降りてきてましたね、北林さんかも」なーんて言うから、「え、見た?」とそんな話になって。その場所ってのがおれの目の前だったから、「うーん」と色々考えたのだった。

目撃者2名。一名ではないところに話の妙味がある。

こういう「見る」のは女性であるよね。

梅雨明け夏のカミを92年富士通カリビアンカーニヴァルのステージ上で見たのも、おれとシーラ。

あんた、おったんかい、なんて気にもなる。そういうことを信じることが「そないファンタジックでもない」気が今日はしてます。

GRAN追悼は年明け1・23です。


それからこの土曜日、舞洲のロッジ舞洲、牡蠣小屋にて「脱国境音楽家=浪速のカエターノ=マルタニカズ」今年やり納めライヴがあります。

牡蠣食いつつ、ワイン飲みつつ、綺麗なイルミネーションをバックに世界音楽を演ります。小一時間。昨日、かわいい女子が「目を瞑って聴いてたら世界のいろんなとこ行けました」なんて嬉しいことを言ってくれてた。おれの名前だしていただいたら入場料は要らんらしいです、just500yenだけどね。

そんなことみたいよ。現実に負けずに生きていきましょう。









posted by 浪速のCAETANO at 14:34| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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