2007年05月28日

エイモスin豊津

 ブルーズが・というかオールド・ミュージックがモチーフなのだと思えば、驚きなのだが、音楽はそのパブリック・イメージの裏にすべての感情を内包しているものだから、天性の無意識がその美意識を持ってエイモス・ギャレットに選ばせたスタイルが唯一無二の「それ」だったとしてもほんとは驚く必要はないのだ。

 おれはエイモスを見ていて・聞いていて、ギタリストとしての枷を自分に強固に嵌めながらその意識は自在に飛び回り、しかしカタチはブルーズであるのだけど、そこで表現されているものといったら、それはそれはもう「柔らかい夢の世界」なのだった。

 しかし、何故後続のギタリストはエイモスを目指さなかったのか? いや・おれ・目指したって。今だって目指してるよ。ただ一般論を言うなら、誰も真似のできないことであるから誰もエイモスを目指さなかったというのが「現実的事実」というわけなのだろう。それを目指すってことは自分のスタイルを確立できないままおじいさんになる可能性・リスクを取るに他ならんわけだからね。それほど「類を見ない」ものだった。

 特異な感覚とは、ある意味メインストリートから外れる覚悟を余儀なくされる。エイモスのギターも決して一般的ではなく「カラオケ」で簡単に歌える曲しかヒットしないなんて時代にはさらに傍流へと追いやられてしまう。今の大衆音楽なんて「バカ大衆音楽」に成り下がって久しいけども、アメリカとか日本とかの大衆音楽を成り立たせる経済の枠組みの外からエイモスのギターを見てみるなら、それこそ、言葉の壁なんかを超える超絶表現だってことがわかる。

 昨日だって、単なるアメリカ音楽好きだけじゃなく、もっと広い視野を持つ人間に聴きに来て欲しかった。総勢10人で浪速のカエターノは行ったのだが、その人々の感じたニュアンスが「値打ち」だと思う。ジャンルは「便利」だが、ほんとうにうっとうしい。昨日もやっぱりアメリカ音楽好きの内部のイヴェントであることは間違いなく、呼び屋のおじさん(トムズキャビンアサダ氏)の商売はその方が成り立ちやすいのはよーくわかるが、エイモス・ギャレットのその世界音楽を体現する音色なんてものへの説明が「エフェクターなし」では語彙不足ではないだろうか。うーん・違うな・言葉超えちゃってっからね。尤もエイモス本人はブルースへの愛がその音楽をする上でのドライヴになっているわけだから、こんなこというのは「大きなお世話」かもしらんけどね。

 一つの暗い穴に入ったらそれはワーム・ホールでγ宇宙域がその先には広がっていた・という「予想通りインクレディブル」な素敵な夜だった。来なかった人かわいそう。ていうかバカ。
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posted by 浪速のCAETANO at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 南部をめざせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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