2007年06月01日

メール・よりはじめて

 闘病生活の友人からメールが来た。

 こちらのメールに対する応答なのだが、あまりに「ヨレヨレ」なメールで、普段ならバカ笑いするとこなのだが、病状と投薬による意識の混濁がはっきりとわかり、それが早朝のことだったから枕にカオを押し付けて泣いた。

 身内が有名人ゆえ(なんだと思うが)、見舞いに行った現場監督の話では、他言も・さらには本人にも真意は伝えてくれるな・という。ファミリー内の結論なのだと思う。思うが、ヒトの命とはそのヒト固有のものであり、そのヒトが自分の運命を左右する最初で最後の個体であるはずなのだ。それが他人に知れ渡る事でどんな不利益があるのだろうか? おれもよく知っている妹はほんとにそう思っているのだろうか?
 わからない。わからないが、このようなときに家族や親族というのはバリアだ。冠婚葬祭の際、その現場におけるバリアは厚い。「家」の存在・ものすごくうっとうしくなる瞬間なのだが、そのときに戸籍とかがそのバリアを補強することになるのもどうかと思う。二者択一ということを言っているのではなく、どちらも・例えば葬式やその直前の場にはそれら二つがうまく混ざり合うような事にはならぬものか。うちのデラシネ家族ならそんなことが可能なんだけどな。

 そもそも身元を確認するものとして戸籍が必要か? 国家が人々を管理するためのものであること忘れちゃいけない。管理できるのは定住する人々・つまり農業従事者たちだったことも忘れちゃいけない。山の民・川の民・海の民のような人々は定住という概念からはその生活実態が遠く、国家の網の目を身軽なステップですり抜けていったのだ。

 今ならITを駆使すれば戸籍に替わるIDの作成が可能だと思うが。戸籍ってのは「・・・の息子○×」という系譜がキーになっているわけで、スタートレックでも最もワイルドとされるクリンゴンの「ウォーフ・モーグの息子よ・・・」と変わらんわけで、戦国時代といっしょやん・それ・など思ったりする。

 倫理観を保ちつつ、先に進むことというのは無理なのだろうか? 先に進むには倫理を切り崩さなくては無理で、倫理を保つには先に進まない決意をする・なんてのが、あーこれも二者択一の世界にハマりそう。もう行くとこまで人間は行ってるのだとするなら、過去の・そのバランスが絶妙だった地点まで立ち戻る勇気だって要るはずなのだ。

 
 
posted by 浪速のCAETANO at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | あれやこれや | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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