2016年06月19日

須玖岡本遺跡より

春日市の須玖岡本遺跡から巨大な甕棺が見つかった、と。

そこまではいい。それを奴国の王のものかも、と。王とは言ってないか、有力者ね。

またそこからかー。

奴国はそんなに大きい国ではない。魏志倭人伝には陳寿が邪馬壱国(邪馬台国ではなく)へ至る際の通り道の国。

バカジジイが志賀島で出た金印の「漢倭奴国王」を「漢の倭の奴の国王」と読んだこと(イデオロギーも入ってる)が間違いの元です。もう何度も言うてるから、分かってるよね。

金印授受とは最高の栄誉で(銀印・銅印・鉄印もある)、それを与えるのって何百年に一回のこと。銀・銅・鉄と下るにつれて通常は頻度は上がっていく。

もう一回「おさらい」とをしておくと、「漢倭奴国王」は「漢より倭奴国王へ」と読むのが正しい。与えるもの、与えられるものは一つと一つであるのね。「漢よりいど国王へ」あるいは「漢よりいぬ国王へ」と読みましょう。

いど、いぬって何なん?

奴の読みが「ど」あるいは「ぬ」、倭の読みは「い」です。倭の意味は「おとなしい」、奴の意味は「上から目線での家来」ね。

倭奴に対して「匈奴」という概念あり。秦の始皇帝がそのための万里の長城を築いたと、ウラジオストクら辺から今のモンゴル辺りにいた遊牧民のことね。匈=ヤンキーですね。そいつらに比べて「なんと従順な」という意味が倭という字には込められている。

時代は下るが「旧唐書」に「倭国は古の倭奴国なり」とある。「世世、中国と通ず」ともある。そしてもうひとつ併記して「日本国は倭国の別種なり。…日本は旧小国。倭国の地を併せたり」とある。白村江の戦いで倭国は大打撃を受け滅びつつあり、それに代わる「別王朝・日本」の立ち上げの頃のことが記録されている。次の史書である「新唐書」には倭国の記述はなく、日本国のみである。

ちょっと戻りましょう。

だから奴国がバカ歴史学者の中ではすんごい国ということになってるけど、そんなことはなく、まったくなく、邪馬壱国の下での小国に過ぎなかったのね。当然倭国の中心ではない。倭国の中心は言うまでもなく「邪馬壱国」である。それを補佐するのが「伊都国」。そして宿敵が「狗奴国」。

さて今回の須玖岡本遺跡であるよね。吉武高木遺跡とともに「三種の神器(宝物)」が出ています。「鏡・矛・玉」。それが「権力の証」。簡単な話だ。同時代の遺跡からこんなものは出てません。さらに言うなら絶対出ないよね。三種の神器ではないがいろんなものが出雲からは出るけどね。出雲は博多沿岸に中心が移る前の中心。これもまた当然のことだった。オオクニヌシね。

須玖岡本遺跡からはとても貴重な他からは出ていないものが出ている。なんだと思う?

それは中国製の「絹」。日本製の絹は九州のあちこちで出てるけどね。中国製は須玖岡本遺跡だけ!さあ、ここで魏志倭人伝に書かれていた、魏帝から卑弥呼へと贈られたものを思い出してみよう。鏡に絹だったよね。もうひとつの金印「親魏倭王」もね。須玖岡本遺跡は一時期卑弥呼の墓ではないかと言われたこともあった。

今回の発見はBC150年頃の銅剣と青銅製の柄飾り「はとうしょく」だという。

その時期はいわゆる「天孫降臨」の50〜100年後の時期に当たる。天孫降臨は神話ではなく、壱岐(天国・アマ国)にいたアマテラスの「海人(アマ)族」が釜山の鉄(鉄器)を背景に「天下り」出雲のオオクニヌシから実権を奪った歴史的事実だが、その天下りの地も、そんなクソど田舎の宮崎の日向であるはずもなく、もちろん博多である。チクシの日向(ヒムカ)のクシフル岳。板付の縄文水田が欲しかったんだね。オオクニヌシ方も頑張って戦ったんだが、やっぱり鉄の威力には降参。タケミカヅチvsタケミナカタなんかに象徴的に描かれてる。アメノウズメvsサルタヒコとか。この場合vsはちょっとちゃうけどね。武力のみならず「いろんな」手法で、と読める。

で、今回の「三種の神器」も「中国製の絹」も出てる須玖岡本遺跡で巨大な甕棺(かめかん、ではなく「みかかん」と読んでね)が出た、誰の?

間違いなく、天孫降臨一族の誰かでしょうね。まだ古墳時代ではないから墓の大小でその人物の高貴さは計れない。

ちょっと飛ぶが、大阪周辺の古墳ね、あれ天皇の墓ではないよ。まず、当時、近畿には「王権」はないです。王権の定義とは日本の場合にはその時々の中国の天子に「認められて」初めて、金印とかを例えばもらえるわけよ。天皇という言葉も当時は、ない。天皇は天子とは異なり、唯一無二のものではないのね。地皇という言葉(地位)さえあるぐらいで。

近畿圏には「地方豪族」はいたよ。いたし、それが閉鎖的な中で「王権的」に振る舞ったということは考えられる。しかし、それを王朝とは言わん。仁徳陵、応神陵、「と言われてる」にだけでなんの証拠もない。発掘させろ、と言っても「ダメ」。なんでダメなん?

なぜか?天皇陵じゃないからでしょう。

じゃ、なぜあんなでかい墓を作れたんや?と人は言うだろう。それは「ヒマ」だったから。

「なんやとー!」ちゅう声が聞こえた気がしたけどね。

広開土王って知ってますか?好太王とも言う高句麗王だが、その碑文に、倭国が何度も攻めてきやがって、それをやっつけてやったぜワッハッハ、と書かれてる。当時の新羅の史書にも「倭のボケらがしょっちゅう「越境」して攻めてきやがる」とある。ここにはまあ、予想されたことだが驚くことが書いてある。倭は朝鮮半島にも「あった」のね。越境だもんね。地続きということ。秀吉が半島を攻めた時のような「出張戦争」ではなく、ちゃんと土地があって地続きのお隣さんにちょっかい出してた、と書いてある。新羅の立場で被害を受けたことを嘘書く意味もわからない。これは事実ね。同様に、日本も新羅に占領は別の地域だけど2度ある。一度は白村江後の唐による九州占領の「後釜」として。

倭国がそんなことをしてる時に近畿は海外との戦争もなし、平和だったということね。銅鐸の国の民を使って作らせたわけよね。信仰の強要と言う意味もあっただろう。

だから例えばあのでっかい古墳が誰かの墓なのは間違いなかろうとして、それが応神・仁徳と言われる人のものであったとしても、その人たちは「王」ではない。いや「王」でいいかな。王っていっぱいおるから。日本国が存在し始めるのが672の壬申の乱から710の平城遷都の間だから、例えば河内王朝なんて言葉はそれ自身、論理矛盾なのね。おれはそうおもうよ。このことは何よりも「九州に王朝あり」を認めないという最初のボタンの掛け違えからくるものであって、そんな最初が間違えてたら、その後何を言っても「残念」なことになる。スポットでいい事言ってる方もいっぱいるんだけどね。余計に残念。

日本書紀の「どこが」パクリでどこが改竄でどこが付け足しか、そこを古事記との見比べでチェックしないとね。古事記になくて日本書紀にあるもの、これはウソか九州王朝の史記「日本世記」あるいは「日本旧記」のパクリです。

先ほどの応神は本当に近畿へ行ったのか、父の仲哀のわけのわからん死に方、母とされる神功皇后への「卑弥呼と壱与」の笑っちゃう投影、神功皇后のスーパーウーマン振り、武内宿禰の超長寿そしてなによりも「宇佐八幡宮」の存在。あの道鏡が孝謙女帝により天皇にされそうになり、打倒藤原氏をもう少しで成し遂げれた際に、宇佐八幡宮の神託で覆される。そんなビッグな神社が大分にある。ここ不思議に思うんだよね。応神という人が大きい存在なのはわかる。そこで再度近畿を(神武に続いて)侵略したのかもしれないが、そして地方豪族として都を河内に置いたのかもしれないが、だからと言って河内王朝はない。ある権力の存在は認める。九州の権威を傘に近畿を治めていたのかもしれない。ただ、その系列が後の近畿天皇家に繋がってくるのかに関してもまだ、おれはわからない。明らかな断絶がその後にある。

須玖岡本遺跡の巨大な甕棺、アマ族の誰かというのは間違いないよ。













posted by 浪速のCAETANO at 13:22| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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