2016年07月17日

夢で会いましょう

永六輔さんが亡くなって、犬hkで(当時はNHK)「夢で会いましょう」を一番組全部やっていた。1963versionだった。弟が生まれた頃だった。戦後18年てとこね。1964が東京五輪。

ほとんど笑えない(今となっては)ギャグと、アメリカナイズとドメスティックがいい塩梅でミクスチュアされてる。中村八大クインテットはなかなかのものだ。金井克子のダンスもバチッと決まってる。今週の歌は「こんにちは赤ちゃん」だった。日本版チャオチャオバンビーノだね。E.H.エリックと岡田真澄の「ガイジン兄弟」黒柳徹子、坂本スミ子、デュークエイシス。

ちょうど、力道山の頃かね。ご近所のひとたち、祖父の家にテレビを見に来てたね。チロリン村とくるみの木、おかあさんと一緒。ひょっこりひょうたん島が1964だね。

日本という国はビンボーだったがちっちゃな輝きがあちこちに散りばめられてたなあと思う。オヤジも晩年がこうなるとは思えなかったろう。

甘酸っぱいな。幼稚園児である。みどり幼稚園というたな。

こないだ実家へ行って、親父のいない家でおふくろと話をしていて、その関係性は、オノレの歳とともに時代を遡り、ときには下り、平行移動するのに気がついた。おれがちびっこになるとおふくろも若くなる。おれがええ歳になればおふくろも歳をとる。最後は58と80の会話になっとったが。

こうなってしまったら、もはやオヤジもおふくろも「無力」である。年金生活者。オヤジは投票できたのだろうか?訊くの忘れた。おそらくしてないよね。おふくろにも訊いてない。

おふくろの一人暮らしも半月。解放されていた。おれと同じくバルカン人だった。治安の問題はあるだろうが、まだ安全な地区である。「老人ストリート」と言うてたな。

先日、初めて複数日、オヤジのいない実家体験をしたが、非常にイラっと来なかった。なんでかな、と思ってた。後でわかった。TVが付いてないのだった。うちのバカオヤジは、クソみたいな番組を「喜びつつ、半分寝つつ」見るのが日課だったのだ。病気する前はほんまに「死ね」と思ってた。

配偶者がそんなだったら耐えられんなと、おれなら思うし、暴れるかもしらんな、とも思う。

まあ、しばらくは解放されてちょーだいとおふくろには言うてきた。

もうオヤジとは「50音・会話」である。おっさん、50音のボードを指差しながら意味を伝えるのだが、もどかしいのだろう、50音ののボード内でウロウロしながらもどかしいんだろうね、途中で字を書き始める。「エアー書き」あ、た、ひ(もぞもぞ)、れ(もぞもぞ)、た、、、、みたいなことになって(もぞもぞ部分が、なんか、書いてる)、皆目わからん。

意思伝達にかなり難ありだ。今後のことを思えばなかなか思いやられるのだが、このおっさんの「介護」どーするよ、という「issue」は残したままである。厄介だ。厄介だけどなんとかしないといけない。

そのままで帰ってきた。また行くが。

まあ、置いといて。

夢で会いましょう、は昭和30年代後半。以前、中之島大学で30年代特集で演奏したが(純ちゃん・北村スーパーギタリストと)、なかなか考えるにキュンとくる時代ではある。オノレの意識が鮮明にならない・なるの瀬戸際だからか、それともセピア色ではないな、灰色のイメージがノスタルジーを掻き立てるからか、当時の「人」がもっとプリミティヴだったからか。よくわからない。わからないが、何かしら当時の日本人の視線の先にあったものが、今音を立てて崩壊させられようとしてることとは関係ないだろうか?ある達成と驕りと安心と油断。そして戻るところは「戦前」。つかの間の「個人と自由の真似事」。長い目で見たら、「やっぱ、後進国の1つ」だった、みたいな。もしそうならそんな虚しいことはないな。







posted by 浪速のCAETANO at 15:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | その嘘・ホント? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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