2018年10月05日

サザーンリーチ

天と地、上と下、二カ所責めもまた通常のこととなりつつある。そんなことを「予言した」のは1ヶ月ほど前だった。台風に地震なんだけどね。
ものすごい勢いで「変容」している。そんな小説を去年読んだとこだった。

こんな。

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サザーンリーチ。

変化ではなく変容。悪夢的で、頭の中での事の進行と「現実の変容」が、どっちがどっちかわからなくなるかのような、読み終わってそれから「おれはこのまま女子大いってもいいのだろうか?はたして」そんな気にさえなったりして。

なんて言うかさ、その変容は間違いなくいい方へのそれじゃなく、人間個人から見たならば間違いなく「崩壊」を指向するものなのだけど、その挙句に、自意識もまた変容するわけで、人間ではない何かになってしまった途端に、進みつつある環境変容を受け入れる、というか環境変容そのものと「同化」していることに気づくのだ。

そこで浮き上がってくるものは何かというなら、人間という生物が「環境から浮いてる」ことだったり、環境は人間の意図など、これっぽっちも気にしていないことだったり、被捕食者の気持ちだったり、なんかそんなの。

心の底にある「怖れ」とどうもシンクロしていたという気がするね。

すでに「そういうこと」なのではないのか?何もかもが「終わってしまった」そんな世界をただただ惰性で生きているだけなのではないのか?政治の崩壊などはその流れの最後の1ページにすぎないのではないか?

おそらく、みなさん、明日のことに関しては、予定決まってると思う。だが来年とかもう考えると気が狂うというか、あまりに不確定関数多すぎて、考えることがそれこそ無意味に思えるのではないかなあ。

では3ヶ月後はどうよ?そこなんだよね。そこらがおれたちの「未来」の先端部分かなあ?そこだって視界は晴れないけど、薄っすら霞んでるけど。今で言うなら今年いっぱいぐらいってこと?

そんな「不確かさ」と同居しながら生きてるとおれたちの前後では意識が、それこそかなり変容していることに気づく。例えばおふくろ(83歳)と小5女子(11歳)は極端としても、いやその歳ならかえって近いのかな、当事者性と言う意味で言えば。小学生よりももうちょい進んでおのれと社会に接点やその入り口があまりに小さいことに気付かさせられたひとびとの行き着く「傍観者」という立場、その挙句に同義だが消費者としての経済的姿勢、、、、、しないと「損」みたいなことね、そんなつまんない、おれの主観ですけど、とこに着地するのが関の山である。Sentimientoから遠く離れて。

人間の概念を極端化したら一方に機械、他方に動物、だと思う。そのハザマでカンペーしてるのが、おれたちでしょう。うまくバランス取りたいんだけどね。取れてる人って少ないね。取れてない人のその鬱憤の解消が怖い。そこを商売にしてる方もいるが。それはまっぴらごめんだけど。

例によってとっ散らかるのだけど、昨日6時まで飲んでたせいもあるが、そのまま行くが、先ほどの小説サザーンリーチはキャプテンビーフハートが最近の機材に出会って作ったアルバム、のような、またしてもおれの主観ですが、破壊力に満ち溢れた作品だった。

実際の暴力ではなく「暴力性」からは逃れようがないな、今。実際の暴力ではないよ、繰り返すが。
posted by 浪速のCAETANO at 13:32| 大阪 ☁| Comment(0) | その嘘・ホント? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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