2018年10月31日

窒息も気が狂うのも

窒息しかけていたのだな、と分かる。
自分を支えているものをないがしろにせざるを得ない、そんな日常があるんだけど、それをおれたちは(おれだけかもしらんが)小銭のために「売ってる」んだよね。国も売られてるわけだから、おのれの売り方はmildにしとくべきなのね。

VRが全盛になる前からエフィンジャーのイスラムSFなどで、脳内と外のボーダーは曖昧になってきてた。おれの中ではそう。主観と客観の入り混じった世界、悪夢とも言えるし、目眩を楽しむとも言え、そこに対する自分の評価は保留していた。今もそれはよくわからないままであるが、肝腎なことは主にその内部から外部への風通しを良くすることだった。外から内へは帰ってきやすい、比較的。内向きと外向きは50:50である必要はないが70:30ぐらいが理想的なのだなと思う。きっと正解。

初めての土地への旅はその閉塞を回復する効果的な方法であるね。

おれたちは(おそらく勘違いなのだが)、世界をpcとかtablet とかiphone の中に閉じ込めている、そんな気に、生意気にも、なっている。それは一般的に言うなら「矮小化」だと思う。コンパクトという表現はおのれの相対的無能に対応するコンセプトなのであって、世界の(もっと遥かに巨大である)表面との摩擦もなしにおのれの内部で完結した気になっている。だから安田くんへのバッシングはほとんど、取るに足らないものである。ボーダーをリアルに超えたものに対して、そんな勇気もない人間がどうこう言うべきではない。自分が拷問を受ける、といった想像さえできない人間がそんなことを言ってるのはほぼ間違いなく。彼らに関しては、使命感もあろうが、五感、特に嗅覚に訴える何かがまた彼らをその現場に戻してしまうのだろうと思う。視覚の世界、そして時々聴覚、そんな中でおれたちは完結しがちなんだよね。よーく考えて見てほしい。そうじゃないかな?嗅覚も含めた肌感覚、強烈だよね。だが、それはそんなことしなくても生きれるからね、文明のおかげよね、過去の人類の、それは達成であるとは思うが、それによって何が失われたかと言うなら「リアル」ではないかな。

祝祭、や儀礼、人の内面を支える何か(自覚してるしてないにかかわらずよ)との関係性をおれたちは勘違い、もっと言うならば、間違ってるとこがあって、それがハロウィンとかのバカ騒ぎを象徴しているが、やはり、例えば、だんじりとかおくんちとかねぶたとの相違が物語る、伝統を基盤にその準備と心構えというか、その重圧が参加者を潰すかもしれないほどの人に何かを迫る、人智を超えた何かとの対峙がないものって、どれもおそらくつまらないし、そこに参加する人間もまたつまらないのだ。

おのれの枠って「意外に」小さい、のね。

小さいことと、その自覚は大変大事だと思う。ものの生み出される場とはそんなものである。だけど、自分をはるかに超える大きなものとのgateway を常に用意しとかないと、その狭く小さな世界で息苦しくなってしまう。gateway を解放するだけでもいいんだよね。空気の入れ換え。digital機器の中ばっかりではいけない気がしてる。子どもたち、大丈夫かね、と思うのはそういう点。

気が狂うよ、一方だけだったら。
posted by 浪速のCAETANO at 11:01| 大阪 ☁| Comment(0) | その嘘・ホント? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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