2018年11月15日

傍流のセンス満載

BLUE RONDO a la Turkを聴きながら。
「んんっあ、ん、っん、んんっあ」ヒューマンビートと呼ぶには腑抜けでセンス良すぎである。そんな言葉はまだなかったよ。

ファンカラティーナという言葉、音楽が存在した。決して主流にはならないのだけど、それはド8ビートからは遠いからなのだが、音楽とはシンコペーションである、のおれとしては無視できなかった。シンコペーションのみならず、その猥雑さにも惹かれた。同様の匂いはネグレスヴェルトにも感じたし、遡るとカルト ドゥ セジュールに、そしてその元を辿ればブルーロンド アラ ターク。時系列を逆行してみたらそうなった。

おれは、まあなんにしても数列横隊でザーッと進んでいくので、その隣にはSavanna band がいたり、もちろんそこからのキッド クレオールがいたり、ブルターニュのソルダ ルイがいたり、ポーグスさえもその括りの中に入ってた。

マットビアンコになってからは、嫌いじゃなかったけれど、猥雑度が落ち、その分売れたみたいだけど、ちょっとおれの興味は縮小した。もっとケーハクなモダンロマンスやヘアカット100などもよくクルマで聴いたな。

自分の中の思考と志向と嗜好の流れは偶然性を持った必然というか、磁石をかざされた砂鉄の如く、ある方向性を持つものである。3ムスタファ3やBrave Combo やマルタンメソニエの仕事とかもその延長上で聴いた。こちらの国のワカモノがブルーハーツなどに熱狂している時代のちょい前頃の話。にほんごに「泣ける」とか、「レゲエが聞きやすい」とか、音楽が大衆化した、聞く必要のないやつがマーケティングの俎上に乗っかってきた、そんな逆風の時代の始まり。こちらの国の右カーヴのフリした戦前回帰もそんな頃から仕込まれた。

周りを見渡してもそんな話をできるやつはいないし、なかなかに孤独ではあるが、ま、ええか、とも思う。新しい音楽的試みはいつの時代にもやはり面白いし、そんなものは商品になってない人間の特権でもあると思う。David Byrneも「amateurism」という項で書いていたな、そんなこと。あと、25ページ。今はコペルニクス、ボーデ、周期律、パンテオン宮殿の天井、音楽的周期律、そんなとこ。あと25pとなると名残惜しい。しかしよう続いたな、と我ながら思う。根気などとは無縁の人生だったからだ。人は時としておのれの中で革命的なことをやっちゃうのだな。

トルコ風ブルーロンドを聴きながら。

明日は「Frute del Sentimiento 2018」


posted by 浪速のCAETANO at 11:32| 大阪 ☁| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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