2019年01月18日

元号ねえ

次の年号は?と朝、やっていた。
「安」の文字が頻出していた。キモいわ。安全安心治安安寧安泰安定、安の文字は大抵良い意味だけどね。だが、誰もがある男の顔が目に浮かぼう、というものである。

イニシャルから言えば『A』は充分okだしね。

憂鬱だ。

元号=時間の支配。

メカニズムとしては「ヤツら」が支配することになるからね。

元号、その成り立ち、日本国(近畿)が倭国(九州)を併呑した際に、そのシステムをパクったわけだけども、現在に繋がる元号は「大宝」、つまり701年が最初である。前にも書いたが、そのココロは九州王朝の「三種の神器、奪っちゃったぜ、yeah! 」だ。

その直前、つまり7世紀最終盤はいろんな「書くに書けんこと」が起こっている。これは後の事だが「長屋王」は「長屋親王」であるという文献。親王っちゅうことはパパは天皇。パパってだれ?それは高市皇子である。高市皇子のパパってだれ?それは大海人である。大海人って、だれ?それは天武だよ。

じゃあ、高市皇子じゃなくて高市天皇じゃん。

大海人の血を断絶したかったわけねー。高貴な倭国の大弟皇(この言葉は紀に一名、つまり大海人にのみ使われる)であるから。最近、秋篠宮にも使われてるが。

その高市皇子の暗殺が696年。おれは持統の即位はなかったと思うよ。そこは高市皇子が天皇についていた、というのが見立て。そして暗殺される。大海人の直系。この高貴な血は中大兄・藤原の「チーム馬の骨」には目障り極まりないからね。

高市皇子を持統に「置き換える」ことにどんな意味があるか?讃良(さらら)ちゃんは天智(つまり中大兄皇子)の娘であるからね。そこで史書上、大海人の血は薄まるわけね。天智がオノレのムスメを何人も天武に嫁がせてる。高貴な血ゆえである。天武が天智の弟とか思ってる方多いと思うが天武の方が「senior 」であるからね。わかりやすい「紀のウソ」。

そうそう「壬申の乱」の大海人の敵、大友皇子もまた「弘文天皇」として即位している。だからそこら辺の九州からパクった近畿の「天皇制」は天智、弘文、天武、高市、文武、元明、元正、そして聖武と続くはずである。私見ながら。最初っからウソで固めてるのね。不比等のヤツめ〜。

TV(主にNHK)でサルの歴史学者が白村江の戦いで「天智はこう考えて、、、、」などよく言ってる。で、よくわからない、という結論になってる。わかるわけがないのだ。天智は白村江の戦いなど「やっていない」からね。

倭国の要請で、兵は集めたが参加せず、ひょっとして唐・新羅と内通していた可能性すらある。一番、ましな想像では、倭国に加勢しない、見てるだけ。一番ひどい想像では、倭国の天子(薩夜藦)を売った。

さほど的外れでない証拠は、その後、天智は「論功行賞人事」を行なっている。白村江では「大敗」したのに、である。悪くすると歴史上最初の「売国の人」である。見事に現代に連なる。

論功行賞、とは心の声で言うなら「やったー、お前らもよくやった」である。

それがおれの一番悪い想像の根拠なんだけどね。倭国潰し、とその権威をクソど田舎もんが、これから手に入れるベースができた、ということね。

近畿は当時、カネはあった。遥か昔に饒速日の銅鐸の国を亡ぼし、その射程は吉備、出雲ほどまで及んでいたと思われる。まあ出雲は微妙だけど。なんといっても「銅剣(九州の祭祀具)」と「銅鐸(近畿の、以前の国の祭祀具」の両方が大量に出てくる土地であるからね。

まあその後、九州を唐・新羅連合軍に(まるで戦後の占領軍のように)占領され、カクムソウによって(マッカーサーのように)支配された。唐は近畿のようなクソど田舎までは来なかった。くる必要がないからね。一豪族ね、単なる。ついでに言うなら、持統が天武の蜂起前に行っていた「吉野」とは奈良の桜の名所ではないのね。「吉野ヶ里」の吉野である。なんで、田舎のまたさらに田舎へしょっちゅう行く必要があるかな?歴史は批評の目をもって見てみようね。なぜ吉野ヶ里へ行くか?重要人物はそこにいるからである。それって誰?それはカクムソウ。知ってる?大海人の蜂起のタイミング。カクムソウが帰った「直後」だからね。「九州の王朝はズタズタであるが、新しい王朝を近畿に、九州直系の高貴な血のおれが作るけどい〜い?」これを、ある時は夫婦で、ある時は持統が大海人の書簡を持って、カクムソウに会いに行った。これしかないでしょ!

なぜ、こんな「シンプル」が分からない?

いまだに大化の改新とか信じてるおめでたい方々いるみたいだけど。あれは明治維新という言葉の正当性のために捏造された架空の改革。そこでは蘇我氏を滅ぼすクーデターが「チーム馬の骨」によって行われただけでした。

蘇我氏=九州から監視役として派遣された財務官僚(百済出身)ね。なぜ監視の必要性があったのか?それは遡ること6世紀の「磐井の乱」が実は「継体の乱」だったことに原因がある。磐井って人はエライのよ。6世紀初頭に「律令制」を導入していたぐらいで。倭国の先進度がよくわかる事実である。この辺からはサルがもう虫レヴェルのことしか言うてないからもう見るに聞くに堪えん事ばかり。

ではまた来週、ごきげんよう。
posted by 浪速のCAETANO at 14:12| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。