2019年04月07日

玄界灘を渡って(第2部)

国と国の関係がさほど良くない時ほど、行ってみたいと思ったというのがある。
玄界灘を超えていく意味、まあ勝手にどうぞ、なのだが、うん、勝手にするよ、ということでもある。

金官伽耶は狗邪韓国、つまり、倭国の一部である。倭国を現在の列島の政権の前身と見るのはちょっと違うのね。倭国とは壱岐・対馬を中心に海を仲立ちにした海洋国家群である。

魏志倭人伝の時代ならその中心は邪馬壱国。魏志倭人伝の側から見るなら伊都国が以前の中心だったところ、一大率を置かれている。何を意味するか、といいますと、そこに一大国(壱岐)の軍隊が駐留している、ということなのだ。その支配は女王国によるものである。

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この絵を見ていただきたい。もちょっとアップにしようか。。

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卑弥呼そのものである。少なくともおれにはそう思える。「鏡」を手にしている。このマジック、卑弥呼の得意とするところ。

金官伽耶のmuseum にあったものである。

半島は、特に南部は倭国を構成する国の一つ(あるいは複数)だった。

おれは任那日本府というのはね、そのイデオロギーが気に入らない。その経営主体は近畿という文脈になるところが気に入らない。あり得ないから。

だが、半島内にも「倭」があり、そして新羅の史書にあるように「しょっちゅう(倭が)国境を侵犯してきやがる」という描写のあること、これがその証明と言っていいかと思う。

そして驚くことに、新羅の中枢に倭人がいる。第4代脱解王は倭人である。下関付近にあったたばな国から流れ着いた人である。そして瓢公という策士というか政治家、これもまた倭人である。なんでそんなことが?と思われるかもしれない。だが、辰韓(のちの新羅)時代ーーーいわゆる三韓時代だが、ここには倭人は「混じっていた」と思われる。でないと、新羅王に倭人が、ということはあまりに突拍子もなくないかな?

そして、もひとつ「踏み込む」ならば、新羅人と倭人はまあまあ「仲良かった」と言えるのだ。

まあ、だからそのう、近さはそれ故に憎しみに変化することもあるよね。よくある話。

古代から遠く離れて、ではあるが、三韓時代には倭人が辰韓、弁韓には数多くいた。そしてもっとその区別も曖昧だった、ということが考えられる。混ざってた。犬の喧嘩みたいなことだったと想像できる。

その後、国ができ、高句麗・新羅vs百済・倭の死闘が始まるのだが、こちらから向こう、向こうからこちら、と「上陸」し合ってのせめぎ合いがあった。こちらから常に「侵略」していたというわけでもない。犬の喧嘩の延長だからね。

みなさん、古代をもっと知ればいいのに。「ヘイト」の愚かさにきっと気づく。

おれも今回行って楽しいこと不愉快なこと色々あった。まあ、それしかし、普通じゃね?地面近くで生活している人、本当にloveでしたよ。地面から離れるに従ってムカつくのもおるが、そこはそれこそpm一味の犠牲者という気がせんでもないのね。そこは判断するにもう少し経験が必要。

でもさ、上の写真、金官伽耶=狗邪韓国に女王国の女王の「得意技」が展示されてることはこれまたおれの想像に油を注いでくれたよねえ。

ゾクッとしたよね。勝手に。個人的にだけどさ。

posted by 浪速のCAETANO at 01:41| 大阪 | Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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