2019年04月13日

アマタリシホコに会いにいく

録音かなあ、と思ってたんだけど、急に思い立って法隆寺へ向かう。
夢殿の御開帳の時期で「救世観音」がナマで見れる。今かなあ。

救世観音像、わかりますか?

聖徳太子と言われたひとを模して等身大で作られたと言われる。

発見されたのは、明治である。

フェノロサが何としても見たい見たい、とゴネました。

法隆寺の僧侶たちは命がけでそれを阻止しました。「絶対開けたらあかん」というのが代々いい継がれてきたことだったのね。だから、必死で守ろうとした。だが、フェノロサの粘り勝ち。

それは布でぐるぐる巻きされ、まさに「封印」されていた。その布を解いて現れたのが、その救世観音像だったのだが、人で言えば、後頭部にぶっとい釘が打ち込まれていた。

誰が、一体、そんなことを?

近畿天皇家だよね。法隆寺は行橋の「椿市廃寺」を移設したと言われている。今に繋がる天皇家がそれを行なったわけで、となると、後頭部ぐさっ、も、ぐるぐる巻きで封印もおそらく8世紀入ってからのことでしょうね。

よっぽど、あからさまにさせたくなかった、ということ。

そりゃそうよね。近畿天皇家の気持ちになればそれはよくわかる。せっかく、作った古事記を廃案にして、九州王朝の歴史書が手に入り、それをパクって、日本書紀を作成し、唐からも「ま、よかろう」と承認されひと安心。だが、「生き証人」はゴロゴロいて、九州王朝の残党も薩摩に逃げてあわよくば、なんて心配もあり、「隼人の乱」が起こるか起こらないか、そんな時間帯である。

そんな時に、本家の九州の王朝の、最重要人物を模した黄金の像が、「ちわ〜」では、ドヒャー、やんなぁ。

救世観音像、ナマで見るのは初めてだ。

夢殿のなかは暗く、網に顔をくっつけてど真ん中で顰蹙買うぐらい見つめ続ける。

阿毎多利思北孤。隋の煬帝に喧嘩売ってはいないけど「ん?なんて?」と思わせ、裴世清を遣わして確かめさせた。

その時の話は、随所タイ国伝に詳しく書かれてある。

側室たちが500人ほどいた、とか、ね。裴世清はタリシホコと会って話をしてるのだ。バカ歴史学者のみなさまは、それを推古(女子)であるとか、厩戸であるとか言っている。厩戸は王ではないしね。

まず、近畿まで来てないしね。一言も書かれてない。もし近畿まで来てたなら、風光明媚な瀬戸内海の穏やかな海路に言及しててもいいはずなのにね。


さて、ちょっと足を延ばす。JR奈良から歩く。京終の、ミリアムまで。

ふみこさんが働いてる喫茶店ね。ふみこさんは北林純の奥さん。

ミリアムさんが店主ってことね。

お客が気持ちいい方ばかりで、ふみこさん居心地良さそうだった。

ライヴが出来ればよいね。





posted by 浪速のCAETANO at 17:24| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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