2019年05月03日

騒ぎの外で

5月も、はや(?)3日。今日は【憲法記念日】である。
はるか昭和の時代に「明治の人」がいた。祖父・祖母たちはみんなそうだった。ある種の、一定のと言ってもいいが、パーソナリティがあったような気がしている。

はるか彼方に生まれた人々、もちろんアウトオヴデイトなのだが、ちょっと逆らえない、というか、そんな存在だった。昭和という「新しい」時代に彼らは生きにくかったはずだが堂々としていたような気がする。

おれたちが今昭和における「明治生まれ」みたいな立場になっていることに気づく。

昭和元年というのは1925年である。普通選挙法と治安維持法の年で、この相反するかのようなアメとムチにも思える法の施行との類似性なども思うが、異なるのはもはや「厳かさ」がなくなってることかな、と思う。

昭和生まれは現在31歳の人々までそうなので、なかなか一色では描写しづらいものがあるから、まあ昭和生まれが一概にアウトオヴデイトと言われるにはもう少し時間がかかるだろうなあと思う。そんな言い方をされるのはおれたちが死んだ後ぐらいだろうね。知ったこっちゃないか。

元号とは遠ざかって生活している。意図的に。新聞も4月5月は取らないでおこうと決めていた。毎日、玄関を開けて新聞を取りに行く、もストレスだったことがわかった。どこかの電子版でいいかな、とも思ってる。東京新聞かな。日刊ゲンダイでもいいけど。


嫌な時間帯に入ってきたな、と思う。国民の分断を目論む勢力があって、それは小銭を餌にまあまあ成功してる。前々から言っているように「上vs下」という対立はもう避けられないように思う。明らかな上、明らかな下というのは分かりやすいが、おそらく「下なのに気分は上」この人たちが厄介かな、と思う。


分断は「住民(国民)投票」という形で結実する。これもまた英国などを見たら、なんだか悲惨だし、その実験は大阪で行われるだろう。モルモッツ=大阪市民、なんかそんな実験台は嫌だな。個人的な実験ならいざ知らず、そんなアタマの悪いかつ狡猾なヤツらの実験台になるというのが、だ。


それでも究極の選択である「国民(住民)投票」では決着をつけなければいけない。「勝つまでジャンケン」方式もあるんだがin Osaka 。それ反則やしな。

だいぶ(おれの周りでは極小だったが)元号盛り上がり、というのは確かにあったのだろう。まあこちらの国の盛り上がりって「人の噂は7.5日」の法則下にあるから、現場から遠ざかるのがやっぱり正解。元号が変わっても、平成からの積み残しが「どかーん」と存在する。そして、このままではおれたちは全く幸せにはなれない。そこまではもう自明であるけれど、じゃあそこからだ。ムードに弱い人たちにはムードは用意されていて、もうわかってるのに、そのムードにヤラレる人たちの未来はかなり悲惨な気がするし、そこが1世紀前の様子と極めて相似形であることは、もう大勢が決定してしまっていることを意味するかもしれない。

じゃあカタストロフがいつやって来るのか?

まず、ハッキリとみなさんに形が見えるのは(見える人には既に見えてるが)来年だろう。その前にはほとんどの人が気づいちゃいるけど気付かないフリ、という時期がある。それが今年。ラグビーw杯はどちらにどう貢献するか。それがolympiadを予見する。気づく人は増えて来るから情報はどんどん「統制」へと向かう。ヴォランテアの悲惨を踏み台にolympiadの取り敢えずの「成功」を、「最後の高揚」としての自覚を持ちつつ、虚しい盛り上がりがあるだろう。その後には腑抜けの100000000人がそこには「在る」だろう。

環境はさらに決定的に変わってるだろうな、と思う。当然ながらさらに生きにくく、モノを言いにくくなっている。ある種の高揚感の裏でそんなことは進行するのね。


この数日、騒いでいた人々がそんなときに何を思うのだろうか?




すごく不思議なこと。なんでLDPのpoliticianの「言うてること」、そう素直に信じるかね?なんで、そんなに批評精神に欠けるのだろうか?それを無批判に信じることとおのれの生活の劣化との相関は感じないのだろうか?そこは「全く」関係ないことだし、というか関数として無視できる、という確固たる根拠があってのことなのだろうか?あれば教えて欲しいと思ってるのだが。理屈の通った説明、聞いたことないけどね。










posted by 浪速のCAETANO at 11:17| 大阪 | Comment(0) | その嘘・ホント? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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