2019年07月07日

ほんま、やめて

お願いやから音楽を「ナメないで」欲しい。
キミらの「慰めもの」ではないのだ。暇つぶしにやれるものでもないのだ。何かの「彩り」でもないのだ。

それは人生そのもの、なのだ。ドシロートが偉そうなこと言うな、と言っているのではないのだ。キミの「彩」に音楽を使わないでくれ、と言っているのだ。

それを主眼に生きることの辛さを、それが二義的な人間にはわかるはずがないのだ。

ジョアン ジルベルトが亡くなった。

おれは直接に影響を受けたというわけじゃない。だが、事は重大である。彼がいなければ、これはギタリストにしかわからないけれど、Bossa Nova という「奏法」が存在しなかったことを意味する。

ボサは、音楽の流行という、それを消費する経済が主流になればなるほどに、その奏法を理解して馴染んでしまった身には、なかなかに重大な個人的事件なのだ。

これは運命論と言ってもいいと思うが、ジョアンがいて、カエターノやジルやミルタォンやロ、が出てきて、それはもう一つイギリスにビートルズがいたということも重要で、その時その時の偶然に、運命は支配される。

音楽は究極のミクスチュアであり、音楽一穴主義はアホである、というかオレには無理。画期的な曲を作るミュージシャンはみんなそうなのだ。ここで初めて「ドシロートはヤイヤイ言わんほうがええよ」となる。ドシロート=消費者、ね。

ジョアンがいなければカエターノも別のカエターノになり、大阪の誇るカオリーニョもブルーズギタリストのままだったかもしれず、であるならおれはカオルちゃんを誘っていたかどうかもわからず、となると「手品師の帽子」は出来ていず、まあそこからのコラボレーティヴな発展もなかった。

おれはさほど変わりはない。ジョアンにさほどの思い入れはないから。ただ、彼の「発明」した奏法、これはある時、「どエライことやな、これは」というのは身に染みてわかった。親指とそれ以外の指の分業の合理性と芸術性にほんとに痺れた。演奏という意味ではもうこれこそ「能力総動員」である。

今、ボサのギタリストは増えていて、その解説本などもいっぱい出てるのであろうと思うが(おれはそういったアカデミズム化には興味ゼロ)だからっつってそれで全てが言い表せてるなどとは思っていない。

そんなシンプルではない。

ドシロートの皆様は控えめにお語りくださいね。自覚をお持ちになって。「彩り」なんだから。
posted by 浪速のCAETANO at 18:37| 大阪 ☀| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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