2020年04月12日

結局・バカだったのか

今日はそうでもないんだけど、昨日のようないいお天気の日には「SFの中」に閉じ込められた・かのような気になる。

だから本日のような「たいした天気じゃない日」の方が「しらふ」でいれる。気象環境に罪はないが。気象環境ほど気まぐれなものはないが。

だからいい天気の日ほどおれたちは「翻弄」される。危機感が一瞬遠のく。

「ああ、そやったそやった」とすぐ戻るんだけど。


妙な「既視感」があるな・と思っていた。何かな?と思っていたら思いだした。

2012年の春だった。花巻の大沢温泉に逗留した後、宮沢賢治ゆかりの土地を周り、仙台のゲストハウスに一泊して福島まで戻って、レンタカーで「福島第一」の極力近くまで行ってみたのだった。

あの時もいい天気だった。

天気はすごくいいのだけど、目の前の空気感が「微妙に揺らいでいるか」のような、蜃気楼が目と対象物の間に存在しているかのような気がしたものだった。

目に見える空気は「悪い空気」そんな予断もあったと思う。β線にγ線。もちろん目に見えない。長閑な田舎の風景が続き、奇妙なのは「人の姿」がないこと。

事故後、まだ一年の時期である。

詳しくはそこらへんの日時のこのblogにある。


dejavuの正体は「それ」だった。今、目の前の空気もまた「悪い空気」。天気がよければ良いほど、「妙な違和感」は募っていく。


放射線にウイルス。小さなものが最も強い。小さなものが最も怖い。目に見えないものが「支配」する。

おれたちは、目に見えないものを文字通り無視し、切り捨て、「ないもの」としてきた。現代人の「劣った」点。その対処法が、この科学が進んだとされる現代においても、根本的なものがないということは、それはおれたちは古代人並みの「無防備」である事を意味する。

思い出すべきことは、「目に見えるものだけが存在するものではない」ということだろうね。

でもってクソ新自由主義の世である。おれたちは「カネ」にだけしか反応しない・そんな「劣化した感受性」の生き物に成り果ててしまっている。多くの人がことが終われば、様々を忘れ、また劣化したままで生活を始めると思うが、まあ「生き残ったらね」という留保条件つきだ。

目に見えないものの代表格は「heart=soul」だと思う。特におれたちは他者の感情にあまりに疎く鈍感になってはいないか?自分の能動的感情には必要以上に値打ちこくくせにである。


ウイルスは一種の「カミ」の位置にいる。おれたちは謙虚になる必要がないかな?ウイルスはおれたちの体内にもいる。「カミ」は宿ってる。相性の良し悪しあるけども。これは残酷な修羅場はあるけれども「共存」が運命であることを意味する。


どんなに「進んだ」としても、おれたちは古代人同様に「無力」だということに変わりはない。古代人より劣っているのは「見えないものを存在しない」とイージーに切り捨てる「浅はかさ」を身につけてしまってることだ。古代人は見えないものを見ていた。これって「すごい才能・能力」。おれたちは時代を下るごとにどんどん「バカ」になってきてるのだろうか?


感受性の精度の劣化。想像力の劣化。plus論理とそれらを整合させる能力。どれも「ダメじゃん」なのかもしれないね。


みなさん、その無力感に苛まれるべき・ではないのかな?本日はそんな気がしてる。










posted by 浪速のCAETANO at 14:26| 大阪 ☔| Comment(0) | その嘘・ホント? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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