2005年07月06日

マーク・ベノ来日によせて

 ミーツは字数制限ありで、なかなか思いを伝えきれなかった。最大公約数的にはそれでよし、なんだけど、もっと言いたいこともある。
 「南部をめざせ」とは運動である。物理的なものではなくって内的な運動。70年代の「南部」が象徴するものとは「黒人(今ではアフリカン・アメリカンと言わなきゃいかん)」である。その黒人の音楽こそ、70年代アメリカの良心的ミュージシャンが目指したものである。ザ・バンドが一番わかりやすい。要はルーツ・ミュージックを探求する内的運動なのよ。「雑魚」にはボビー・ウォマック、ジェシ・エド・ジェイムズ、クラレンス・ホワイト、ECバンドのカール・レイドル、ニック・デカロ、が楽しそうに参加しているし、ドラムスは「名人」ジム・ケルトナー、コーラスにはリタ・クーリッジの名もある。
 ホワイト・ブルーズマンとぼくは形容したが、シンガー・ソングライターでもあるし、ブルー・アイド・R&Bシンガーでもいい。ジム・ケルトナーのダルダルのバック・ビートに乗って(ほんとにうまいよ、この人、昔から今までずうっと)頼りなくも切なくもあるマークの声はハートにチョクでくる(たまに出る「アーォッ」なんてもう最高!!!)。好きな歌詞があって、スピーク・ユア・マインドの中で「きみに必要なことはただひとつ。きみの心を話してごらん」と歌っていた。
 アメリカ人ぽくないそのルックス(どちらかといえばブリティシュ・バンドでキーボードかなんか弾いてそうな感じ)から音楽的にそんな南部志向の人とはぼくも思ってなくて、気にはなっていたのだけど初めて聴いたのは80年代だった。それからというもの、ぼくの中ではザ・バンドよりもドクター・ジョンよりもマーク・ベノはアメリカ南部の音楽の「アイコン」となってしまったわけでした。
 
 ここでひとつ。みんなに質問。愛すべきめざすべき音楽に対して、どのようなアプローチをすべきであるか?
 この場合、それはアメリカ黒人音楽。
 1. なりたいものになりきってしまう。
 2. その音楽を自分のものとして発表してしまう。
 3. その音楽のルーツに敬意をはらいながら本物にはなれなくとも好きな音楽を自分なりの可能な表現を求め試行錯誤する。

 1. 逆マイケル・ジャクソンというか、シャネルズというか、お笑いの世界に近い。
 2. ボズ・スキャッグスのフェントン・ロビンソン盗作事件みたいな、権利関係に弱かった黒人はここでも搾取されちゃってた。バブルガムとかさ、こいつらは1と2の合体みたいな感じで、今のラップ系のばかたち同様始末が悪い。
 
3. こそが正しい音楽へのアプローチだと思う。特に大方のひとびとがルーツ・ミュージックをもたない日本人なんてそれしかない。これはナイーヴな意見かもしれない。しかし、ナイーヴじゃなきゃ。音楽だもん。

 3. はだからこそ、「南部をめざせ」というのかが内的運動なのであるということの根拠。めざしてもめざしても、まだ余地がある。それは微分化された余地かもしれない。しかし、まだあるのだ。マーク・ベノのアルバムを聴いて、そんなことが直感でひらめいたわけです。80年代に。そんなことから「脱国境音楽」なんてもののコンセプトがぼくの中に構成された。

 身近なひとにしか、いまだに理解されているとはいえないが、いつも初心には戻ることが出来る。マーク・ベノのこのアルバムはいつだってそこにあるからね。
posted by 浪速のCAETANO at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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