2007年12月23日

無常なのだ

 杉山・ZAKなき後(別に生きとるが2名とも)の関西エンジニア界の首領・前川くんに渡すフリ・プロ用のMDを作っていたら、ちょっとアツくなってしまった。マルタニカズ'ズの演奏に対して・である。
 音楽は生きていて、録音時の感覚が甦るものもそうでないものもあるが、それにしても世界のどこにもない音楽がこの中にあるんだがなあ・とROLANDの埃をはらったりするのだけど。

 うたを録ってないものも何個かあり、あっそうかと思ったが今日はちょっと無理であるから明日録ろうと思う。
 音楽には(まあなんでもそうかもしれないが)ココロの準備というか、溢れる寸前まで自分のパッションを高めないときびしいものもある。

 昨日、女優からCDと手紙が送られてきた。D蔵が生きるか死ぬかの時に録音が進行中だったのだ。「兄への想いがいっぱい詰まってます」と書いてあった。そうだろうと思う。おれの見舞いの姿や弔辞の言葉がココロに残っているとも書いてくれていた。こちらも何か書こう書こうと思いながらも、年末を迎えてしまった。静岡の墓にも参らねばと思う。家族もそうかもしれないがおれだって喪失感には苦しんでいるのだ。しかし、死者は死者であってもそうではない。夢にだって出てくるだろうし、面影をアタマに浮かべることだってある。そう考えると、死者と生者のボーダーも曖昧になる。生きてるやつだって考える事のないやつが大半なのだから。

 100年経てば人の細胞が5年で入れ替わるごとく、社会のその様子は変わらなかったとしてもキャスティングは別物なのだ。そのときやっぱり、今の誰かの役目をその時代の誰かが担っている事だろう。ただし、善きココロを持ったヒトビトの割合は減る事があって欲しくない。まるで「方丈記」なのだが、日本人の持つ「無常観」は自分の精神をしっかり包んでいるなあ・と思う事がある。そのワザトラマン(旧!!)ではない無常観がなかなか共有できないんだよな・ということも今のご時世よくわかる。

 虚しさを埋めるため楽しい事を追求するわけだが、追求してもしてもその虚しさ(空しさ)はやはりまだ依然としてそこにある。では虚しさ(空しさ)を凝視すればいいのか・という問題でもない。俗世に生きるわれわれは虚しさ(空しさ)を喰っては生きていけないからだ。それは社会性の回避にもヘタすりゃつながってエラいことになる。だからムヅかしい。うまいことやんなきゃいけない・ってハナシよな。

 本日トドムンドに失禁ではなく出勤・と思っています。

gina2.jpg「今また失禁にはもひとつ早いにゃん」
 
posted by 浪速のCAETANO at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック