2008年05月15日

カタストロフは極大化する

 明らかに今苦しんでいる人がいて、そこへ、こちらの事情・そちらの事情・あるいはこちらとそちらの間にある事情で手が差し伸べられないことの空しさ・である。

 災害においては現場・しかないと思う。カタストロフそのものが現場だからだ。事故や病気は世界の至る所に有り、虐殺さえも「いまだに」なくなってはいないが、それにくらべて「災害」とは、人間の意思とはもっとも遠いところのものだから複雑だ。災害に伴う人災以外に関して責任を問えないから。超弩級のサイクロンとマグニチュード、きっとだれも悪くないのだ。

 だからこそ、事が起こった後の人為に関しては最善を尽くすのがマストなのだが、それが見えないところに別のいらだちがある。

 ミャンマー・中国どちらの政府にしても大なり小なり、「起こってくれなけりゃ良かったのになあ」なんて思っているフシがある。こんな場合「なんでやねん」とは思ったり言ったりすることはその後の「人災」を拡大することになり、人間がその大災害をまえにしてできることは所詮「そこ」にしかないにもかかわらず。

 危機管理に対して、ものすごく懸念していることがあって、それはアメリカのルイジアナのハリケーンでも明らかになったことだけど、「小さな政府」という志向は、いざという時に役に立たん・ということだ。民営化という志向も同義。確率的に低いことにまず「コストカット」するからね。だから、なかなか起きないけれど、一旦起きた大災害にはものすごく無力になる。それはまちがいなく大惨事となることを宿命づけられている。

 上町断層が動いたら「えっらいこと」になる、と報じられたけど、おれの住んでる豊津も、その上町断層の北端に乗っかってるが、もしそうなったら諦めるしかないみたいね。というか、その現場でみんなでなんとかするしかないみたい。生き残ればするよ・するけどね。例えば橋下くんが知事の時代にそういうことが起これば、悲惨かも。彼だって「そんなこと起こってくれるなよ・たのむから」と思っているに違いない。でもmayorってのはそんなことでいいのか・という気もする。危機管理のためのコスト・というよりも「気持ち」を持ってないといかんでしょ。持ってるのか・持ってないのか、今正確には計りかねるけど。

 ただ新自由主義にストップをかけないと、悲惨なものはより悲惨になることだけは確実で、さらに自分が名実共におじいさんになったときのこと考えるのが厭になる。簡単なことだと思うのだけど、役人の無駄遣いや政治家のちょろまかし、ヤメるだけで、「災害にも強い福祉国家」になることはできるはずなのになあ。そういうモデルを世界に示すことぐらいしか今の日本には存在意義ってないのになあ。高齢化のピンチをチャンスに変えるってことはそういうことだと思うんだけど。

 このテクノロジーの進化と人類の自意識の過剰化から考えるに、悪くするともうこの10〜20年ぐらいでこの世界は「生きるに値しない場」になると思う。それは例えば現在が、将来振り返るに値しない時間帯になりつつあることから考えても想像出来る。このすべてにおけるサイクルの短さは20年の時間的距離をもって眺めてみるなら、たぶん荒れた粒子みたいにしか見えないだろう。荒野のようにしか見えないだろう。そしてみんな思うのだ。「あの時代って何があったんだったっけ?」と。

 今だってもう80年代がぎりぎりだもんね。振り返ってまだ面白みがあるっての。

 ミャンマー・中国に対して電話募金するぐらいはできるかな、やっぱ関西の人間としてはそれくらいはしないとね。

 
posted by 浪速のCAETANO at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界・地球 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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