2018年03月13日

官僚たちの抵抗

今回の公文書改竄は「日本書紀」のことを想起させる。

多くの方には「は?」だろうけれど。

白村江の戦いに惨敗し、時の天子・サチヤマが唐の捕虜となり、唐・新羅連合軍に「占領」された九州王朝(倭国)の大皇弟であった大海人(天武)が、倭国には応援を約束しておきながらそれは見送り、消耗すること一切なく、どさくさに紛れて九州から遠く安全な近江に都を作った天智〜弘文(大友皇子と言われているが即位してる)ラインに対する、正統の側からの皇位の奪還が「壬申の乱672」なのであって、天武として即位した後に、倭国とは「異なる政権」であることの(唐向けの)証明として近畿王朝の「歴史」を編纂を命じたものが「古事記」でもあり「日本書紀」でもあるのだけど、古事記の場合には九州王朝の傍流であった近畿の大王の歴史の中で共通の神話・説話(出雲〜九州王朝のそれら)プラス近畿独自の「牧歌的歴史」の混淆したものであったのだが「封印」される。古事記は「たまたま」発見されたものである。しかもそれは江戸時代のこと。それに古事記は712にできたもの。割と時間かかっていない。

通説では天武は天智の弟ということになってるが、当然それはウソで、天武のほうが「年上」。天武は九州の天子の血を引く、超高貴な出。だからか、天智は天武に自分の娘を2人嫁がせている。太田皇女と讚良(持統)である。で、それにひきかえ天智といえば、、、、、。九州から派遣された百済系の財務官僚・蘇我氏による律令制移行への反乱がいわゆる645の大化の改新(単なるクーデター)なのであって、それは言葉の使い方間違ってて、そもそも大化の改新とは《明治維新》という言葉の成立のために「明治政府によって」創り出された言葉であることはよいこのみんなは知っとかなあかん。今の言葉で言うなら「抵抗勢力」だったわけ。中大兄皇子も藤原鎌足もね。藤原は「馬の骨」なのよ。645のことだから昔からその言葉はあり、事実もあり、なんて理解が100000000人ほどだと思うけどさ、何遍でもいうけど。

さて、古事記が封印された理由は明らかで、天武の近畿王朝になってから二代目か三代目の元明の時(天武の嫁の持統の即位は?だから)、武器・書物を持って日本中を逃げ回る九州王朝のかなり位の高い人々に対して「今、降伏したら許してあげるよ〜」という御触れを3度に渡って出している。元明は「奈良遷都」を敢行した天皇(詳しく言うと天武・持統の子である草壁皇子(病死)のヨメ)である。遷都は710。そこで手に入ったものは武器の他に九州王朝の「見事な歴史書」があったのね。そこには「煌びやかな」九州王朝の、その部分は近畿の豪族の一部も共有していた、アマテラスの命を受け、壱岐から天孫降臨(@博多)した後の短い間の歴史だけではなく、近畿の王朝が知りもしなかった九州王朝の栄光の歴史がつぶさに書かれた正史の書があった。その書物名を「日本旧記」「日本世記」という。

そこには歴代中国王朝も知らない歴史が描かれていた。で、それを「拝借」という方針が決まった。古事記では「不十分」ということになった。で封印。だけど、近畿には次の歴史書のための大した書き手はいないわけ。では誰が書けと命じられたか。

九州の歴史・文字官僚しかそんなことはできない。でね、意に反してそういうことをやらされる。わかりやすいところで言うなら景行天皇の九州征伐の話。それは九州王朝の初期の英雄の九州全土の討伐の「主語の書き換え」だし、もちょっとわかりやすいのは神功皇后(応神の母)だが、彼女が行ったことは「卑弥呼(ヒミカ、ね)」と「倭与」の二人がやったことが振り当てられている。時代がだからむちゃくちゃ。さらにちょっと「豪傑過ぎる」のね。お○んこに岩を当てて、応神産むのを「我慢」し、新羅征伐を敢行した、とかさ。つまり「魏志倭人伝」を盗用してるんだけど、それを読んでたのは近畿の人間か九州の官僚か、となればおそらくクソど田舎の近畿にはそんな「インテリ」おらんやろ。ということになる。

そのとき初めて知って、強要したであろうことは察しがつくよね。

で、辛かったと思うよ。九州王朝の栄光の歴史を全部パクられるわけだからね。

古事記になくて日本書紀にある事柄「すべてウソ」である、でいい。

しかし、ギリギリの「抵抗」が見受けられるのね。日本書紀には「不思議な書きよう、が頻出する。「一書に曰く」という文言なのだが、要するに原典を明らかにしていない。そりゃそうよね。それは九州王朝の史書なのだから。そこが主語の置き換え、差し替えの部分なのだけど、かなり多い。そんな中、ほんの僅かな箇所で人目を盗むかのように「日本旧記に曰く」とある。「やったね、九州の!」

そこに彼らの意地がみえる。日本書紀の完成は720年である。今からちょうど1300年前。「日本書紀1300周年」なんてことを言うようなヤツがいたら一切信用しないほうがいいよ、そいつのこと。

今回の近財の「元の文書」での官僚たちの、まあ「責任を負いたくないとか保身」の意味もあるだろうけれど、物事の推移を「できるだけ正しく」「ありのままに」残そうという意味では相似だなあ、と思ったのね。

正しくないことが進行する上での「とりあえずの抵抗」。その、とりあえずに、整合性が欠いていても、欠いていればこそ、後々、真実が暴露される可能性を残す、ということね。「小さいが爆弾」。

新日本国の正史は天武の当初の思惑とは異なり(死んじゃったからね)、持統に取り入った藤原不比等が「藤原氏」のための(それは信仰・禊・祓という形而上学的なるものも込みの)正史と成ってしまった。九州王朝の匂いはできる限り封印された。それは8世紀の日本を見てみたらよくわかる。天武の子・高市天皇が高市皇子であったり、長屋親王が長屋王であったり。わかりやすいね。天武的なもの(まあ血だが)をいかに薄めるか、に全精力を投入したことがよくわかるのね。右翼の原点、こんなにお粗末なものなんですが。


セメント屋の人G20には欠席するらしいから、そこで辞任だろうね。もう一つ上まで行くにはどうしたらいいんだろう?みんな、「誰が」はわかってるのにね。支持率の急激な低下かな、まずは。






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2017年11月03日

宗像・沖津島

宗像三神。辺津宮・中津宮・沖津宮。沖津宮は(沖ノ島)である。宗像三神はアマテラスの娘たちとも言われている。

NHKで沖ノ島の特集をやっていて、玄界灘にある沖ノ島が、中津宮もそうだが、壱岐・対馬の海の民であったアマテラスの一族の聖地であったこと。わかりやすい。NHKはアホなので無理矢理ヤマト政権と結びつけようと、バカ学者・バカ神職にヤマト政権のヨイショをさせていたけれど、「6世紀にヤマト朝廷と【九州の豪族たちが】だって」だはは、バカか。

さらには磐井を「豪族」だと云いよった。磐井の石人とは「法廷を模したものである」。ここ何を意味するかわかっていない。磐井は「倭国の天子」である。そしてそれは「律令が倭国に存在していた」ことの証拠でもある。倭国の「群を抜いた先進性」の証左だ。

またここでも「磐井の反乱」なんちゃって。ど田舎の豪族(ヤマト)の内乱に乗じて若狭らへんから「出てきた」オホド王という極め付けのイナカモンが、おのれが掌握した近畿の誇りでもあった「その神を同一とする」九州王朝への「反乱」を起こした。それが真実。それまでの近畿の大王とは異なり、血の繋がりも、九州王朝との宗教的共有もないクソど田舎もんのオホド王(いわゆる継体)だからこそできた狼藉である。

歴史学者とはほほ全員バカであるが、特に古代のことをやってるヤツらはもうホントに酷い。藤原の陰謀にそんなにコロッと引っかかるそのナイーヴってなんなのだろう?そのバカの根拠を知りたい。およそ、それは「日本書紀に書いてるから」なのだけど。

宗像氏は、本来アマテラスの海人=天(アマ族)の下に連なる同業の民であると思う。その歴史はオオクニヌシの時代にまで遡るはずである。オオクニヌシの1の子分が海人=天(アマ族)のなのだから。

宗像中津宮に「奉助天孫」とある。こんなに分かりやすい言葉はないな。宗像氏は、アマ族と等しくオオクニヌシの元で海上交通を担当していたはずである。ただし、その立場はアマ族の下だった。天孫降臨(これは史実ね)の際に、瓊瓊杵命が糸島半島の「クシフル岳」に上陸し、硬軟とりまぜ、北九州の街を征服した後、あるいはその最中、天孫族(=アマ族)の宝物の管理と天孫族の安泰を祈願する、そういう祭祀を担当したのだろう。天孫族の宝物はもちろん沖津島にあるわけである。

近畿の豪族たちは7世紀半ば過ぎまでは沖津島に対して「指一本」触れることは出来なかったにちがいないのだ。









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2017年09月21日

8世紀の、、

桓武の時代になると、というのは称徳とデカ○ンと言われる道鏡の時代の次だ。間に光仁というちびっこ天皇を挟むが。称徳は孝謙の重祚(再び皇位につくこと)である。

称徳=孝謙(女帝)は天武系である。何のことか「は?」だと思うから、ちょっと言うとくけど、672年の壬申の乱以来、天智系と天武系の闘争があった。天武は言われているように天智の弟などではない。血の繋がりはなく、こと「血」という意味では、天武の血は高貴極まりない。九州王朝の天子の(おそらく)弟だからだ。最近の、真子ちゃん・佳子ちゃんのパパのことを大皇弟と呼ぶか、なんて話あったよね。天武は書紀においてそう記述されている。そういう呼び名は後にも先にも天武ただ一人なのね。

天武が倒した大友皇子、天智の息子だが実は「弘文天皇」として即位していた。だから「壬申の乱」とはクーデターなのね。そして皇位乗っ取りである。ただし、最も高貴な者による皇位乗っ取り(奪還と言ってもいい)だった。

太平洋戦争ほどに倭国は「白村江の戦い」に於いて、唐・新羅連合軍に負け、壬申の乱の一ヶ月前までは九州にカクムソウがいた。これマッカーサーがいた、と同値ね。唐・新羅連合軍のヘッドである。その時、九州は完全に蹂躙される。唐に9年間捕虜となっていた九州王朝の天子(ということは列島における天子)薩夜摩が帰国した後、九州から距離をおいた近江にしょぼい政権もどきを建てたのが天智/藤原組なのね。藤原は鎌足の藤原です。

それを大皇弟の天武が奪還した。これが壬申の乱ね。そして天武はこれまでとは別の国として(日本として)新たな公式の史書の編纂を命じるが、その完成を見ることなく亡くなってしまう。

権威は失墜してしまった九州王朝だが、その誇り高い残党は薩摩へ逃れる。ほどなくいわゆる隼人の乱(720)でヤマトに制圧されるが。

今ふと思ったが薩摩って薩夜摩に由来するのでは?当然のことながら天子・薩夜摩の消息など「どこにも」書かれてはいない。

その年は奇しくも日本紀の完成の年だけどね。奇しくも。飛ぶが、君が代の歌詞が薩摩藩に存在したというのも頷けるのね。その「君」は今の系譜の「君」ではないし。おれはだから君が代、おっきな声で歌えるよー。ハシシタとか言ったかなあ、前のmayor、あんな口だけ達者なバカの口パクチェックなど、真の歴史を知ろうとする者には「何ともない」のね。嘘の歴史から早く一人でも多く「解放」されればいいのにな、と切に思う。

で、天武が死んだあと、藤原チームの藤原のための天皇創作がはじまる。とは言え、天武の血は、8世紀においてはそうそう途切れない。ヨメの讃良(サララちゃん・キラキラか!)、持統だが、その即位はおれはよくわからない。藤原氏の「私邸」が「宮」だったぐらいだから。だが、彼女は死ぬ前に息子の草壁皇子のヨメであった元明を即位させる。そこには藤原不比等の意向がもちろんあった。不比等は記紀の編纂に関して、先ず古事記を作らせるが、そのうちに九州王朝の全国に逃げていた(反抗もしつつ)者たちからの九州王朝の史書が手に入りだす。そこで古事記は「封印」され、日本紀の編纂にかかる。記紀における「差」が生じるのはそういうわけで、記になくて紀にあるものは、それらはすべて九州王朝王朝の歴史書「日本旧記」「日本世記」からの「盗用」である。だから、おめでたくも日本紀を「信じてる」みなさまに一言申し上げたいが、「神功皇后」が時期のズレという史書ではありえんことなのだが、「ヒミカとイヨ」の一人二役を演じさせてる、そんな中学生が見てもわかるようなウソを仕込んじゃあかんのね。日本紀を根拠にモノをぬかす思考停止の人たち、不憫である。フィクションを根拠にフィクションを生きる道を選ぶのは「ご自由に」だけど。

戻るが、8世紀の皇位継承は如何に天武の血を消すか、ということ最大の努力が払われた時期であって、血というのは消しても消しても消えないのね。持統が天智の娘で天武のヨメというのは有名な話だが、その子孫だから、藤原の血を入れても(有名なところでは光明子)、それでもまだ天武の血は残っていく。その天武の血はことごとく藤原に楯突くという「性癖」があって、聖武と光明子、先の孝謙=称徳というように藤原側から見たら反乱分子となる。藤原がもともと天智とつるんでいたのは事実で、そして蘇我一族(645)and/or高市皇子(高市天皇・天武の子)(696)の暗殺の首謀者であるから、藤原としては藤原のための天皇制を作り上げることに命をかけるのだが、恵美押勝も孝謙に退けられ、その前には四兄弟がすべて天然痘で死ぬ、など、なにかの「ばちが当たった」としか思えんようなことが起こりつづける。

京都に泉涌寺(せんにゅうじ)という寺がある。そこには歴代天皇が祀られているが、「天武系」は全て廃されている。藤原にとっていかに天武が「うっとおしい」存在であったかがよくわかるよね。藤原のような馬の骨にとっては過去とは言え、光り輝く九州王朝の天子の血は恐れ多くも、しかし何としても葬り去らねばならなかったのね。

で、やっと本日の本題までやってきた。天皇皇后両陛下の高麗神社への参拝ね。桓武の母が百済の(もうその時は滅亡しているが)武寧王の子孫である。武寧王は6世紀初頭の人。倭国では倭王は磐井の時代かな。あのね、磐井の反乱とか言って山川のバカ教科書が継体への反乱として書いているが、事実はまるで逆でしてですね、時の「天子・磐井」にイナカモンで奈良の豪族の政変に乗じて豪族たちの大王となった継体(オホド王)があまりのイナカモンゆえに九州の尊大さもよくわからずに、さらに大友氏にそそのかされ、九州にお手伝いに来てた時にちょっと暴れてみたらちょっとだけ上手くいき磐井を殺し、屯倉を一つだけいただいた、というのが「真相」ですね。ただし奈良の豪族はその何十倍もの代償をその後支払うことになるのね。その土人らは野蛮やから監視がいるし、その前にはちょっとコテンパンにいわしとかなあかん、というプランが実行されるのである。九州王朝によって。その後の「お目付役」が蘇我一族なのね。その後の奈良の天皇と言われる大王だけどね。イナカモンである継体の血をひいています。あ〜あ、だね。

また飛んだが、戻るが、その武寧王の子孫が桓武の母だったわけね。で、半島には親しみを感じると今上天皇は仰るわけね。それがまあ見事に都知事のおばさんの関東大震災の際のあのデマによる虐殺を一緒くたにしちゃったタイミングの直後という見事さ。

8世紀を通じて天武の血をやっとこさシャットアウトして天智系のちびっこ光仁を立て、その後が桓武なわけで。

真実は真実として、今上天皇そして美智子皇后はほんとに素晴らしい。あの方たちがいなかったら、例えば大統領制だったらとかいう意味だが、ゾッとする。真実は真実として。








posted by 浪速のCAETANO at 11:46| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

出雲と銅鐸の国

この国のブラック度がウソみたいに爽やか。最高の気候。

数年後には、こんな爽やかな日に誰かが逮捕されたりすることになるが、梅雨時に逮捕されるよりマシ?そうでもない?どっち?

どかーんとお休みの方もいらっしゃるだろうが、one of the workin' poorとしては昨日も今日も仕事だな。構わんのだけど。みなさんが働いてるときに、混んでない場所で羽根伸ばす以外に興味はないからだ。数時間でも仕事するとあとの酒が旨いよ。

最近、全くもってビールの味がわからなくなった。もうなんでもいい。発泡酒でも、だったら何?である。酒やワインにはまだ少々うるさいが、ビールはもうどうでもいい。エビスとその他ぐらいしか分からないことにした、というのが正確。ひたすらキリンにそれもラガーにこだわっていた頃が懐かしい。

さて、そろそろ騎士団長殺しを読もうかな。ほとぼり冷めるまでは手をつけたくなかった。拒否してるわけではないんだが、みなさんがそれに注目してる間は、読むこともそれについて語ることも息苦しくなる。精神的サイバー空間(そんなものがあるのか?)が混み合っている。混んでるのが嫌いなのだ、前述のように。

バカラックかスラップハッピーを薄ーく掛けつつ読もう。濃いコーヒーとともに。公園読みもいいかもしれない。河川敷読みも捨てがたい。となると、自主弁か、酒もいるやん、となって話が大きくなってきた。ちがうちがう。そこ、大満足の読書会はちょっと違うのね、こちらの村上さんの場合は。あちらの村上さんの過去の作品などは、最近読み返しているが、酒呑みながらでもイケる。エネルギーの所在地の問題だろうと思ってる。

飛ぶが、この国のバカ右翼がというと語弊があるけど、要は鈴木邦男氏や「ワシ」とかはおれはバカ右翼には入れてなくて、そうじゃないバカ右翼のことだけど、結局「九州王朝」を知らないことが最初からボタンの位置がイッコずれてるのね。これが2個ズレてたらわかりやすいんだけど、イッコってのが微妙なんですね。まだウソをキワキワ吐き続けられるズレ方。ヤマトに於いて日本書紀を「書かされた」九州の文字官僚の諦観と矜持のモザイクが、その微妙なラインの根拠なのだが、まあそれでも読む人が読めば「景行」や「神功」のウソはすぐに分かる。「大化」年号のウソも、郡評の真実も、それらはすべて700年前後に「王朝の交代」があったことを如実に物語る。もちろん邪馬壱国(邪馬台国ではなくね)の場所など一目瞭然なのだけど、いまだに、その手のデタラメ本が新刊で出たりしてる。

ある程度、わかってるんだけど、まだ自分の中で確定していない箇所がある。それは出雲と饒速日命の国との関係である。

出雲は壱岐のアマテル一族に国譲りを強要され(要は攻められ)日本海側の支配権
を失った。アマテル一族とは天孫降臨の一族ね。そして彼らは糸島半島に「上陸(降臨)」するわけだが、それを宮崎の高千穂とか言うてる人もたくさんいるが、「なんのために?」というに留めておこう。

神話は真実を民衆に対して説話化したものである。タケミカヅチとタケミナカタの「相撲というか力比べ」など分かりやすいよね。アマテルvsオオクニヌシのそれぞれの鉄砲玉の闘いだし。

そこで出雲は敗れ、アマテル一族が博多にやってくるわけだが、オオクニヌシとは非常に近いスサノオはアマテルの「困った弟」ということにされる。九州が出雲を飲み込んだことのメタファーが説話となる。

九州の王朝は(所謂中国文献に倭奴国・倭国と記されているが)、壱岐・対馬からはほど近い釜山の鉄を背景にした「武力の国」。であるから祭祀の具は「銅矛・銅戈」である。神武たちは「銅剣」。それに対して饒速日命の国(首都は茨木市東奈良)の祭祀の具は「銅鐸」。この銅鐸、たくさん発見されてるけど(淡路島とかでも)、古事記・日本書紀には「一言たりとも」記述がない。何を意味するか?所謂今の(というか近畿の)天皇家(とされる一族)とは「な〜んも」関係がない、ということだ。

だから、この饒速日命の国は、確かに縄文の終わりから弥生時代にかけて「存在」したのだが「誰か」によって滅ぼされてしまう。その誰か、というのがアマテル一族の中にいるのだが決して主流にはなれない傍流の所謂神武たちである。神武たちがおのれの意思で近畿まで行ったのか、あるいは九州の意図で来たのかに関しては決め手がない。ただ「カムヤマトイワレヒコ」の「ヒコ」とは長官の意であるから、ここに倭国の「指令」を感じることはできる。どちらにせよ、神武以下の大王(天皇ではないので)たちが倭国と「その神話を共有する」ことを誇りに思っていたことは確か。津田左右吉が「いないよ」と言った所謂欠史八代の大王、いるんだけど、神武たちは結局、近畿を支配するところまではいかず、橿原の狭い地域を「与えられて」そこで暮らすことになった。橿原では「壊された銅鐸」が数多く出土する。神武たちは「武器」もなかったのね。そして実は「包囲」もされていた。饒速日命の国に。で銅鐸を壊して銅剣を作ってた。

その銅鐸、出雲でも大量に出土している。おれがわからないのはそこ。同時に出雲では銅剣も大量に出土している。出雲には神武たちの祭祀の具と饒速日命の国の祭祀の具が「共存」しているということになる。しかし何故滅んだ国の(その時点では滅んでなかったのかもしれないが)銅鐸?というわけなのだ。

饒速日命は「Another 天孫族」とも言われている。JR東西線(学園都市線)の大阪産大よりもちょっと先、磐船神社に降臨したと言われている。

饒速日命の国が「のちの天皇家」に侵略され始めるのは10代崇神の時代からである。崇神は「ハツクニシラスノミコト」と言われ、初国とは元国に対する概念で、要するに「新たな土地」という意味ね。名は体を表す。この時代は出雲がアマテル一族に征服されてから300年ほど後である。饒速日命の国と出雲は距離的に言うとまあまあ近い。

饒速日命はオオクニヌシの一族であるとも言われる。崇神時代に疫病が流行った際に、神武たちの信仰を押し付けたことが遠因とされ、大神神社のカミをオオムナチ(オオクニヌシ)にしたこと(つまり非征服民たちのかつての信仰)など、それを裏付けるかのような記述もある。支配とは実質的なことだけではなく信仰もコミであるから、崇神以降、アマテル信仰を民に強要したということは想像できる。その反動が上記の出来事か、と思われる。

実は応神・仁徳の墓といわれる巨大古墳もその一環である。河内王朝など存在しない。河内の豪族がいただけ、の話であるただ、おそらく、神武〜崇神の系列であろうことは言える。ただし、それは「王朝」ではない。少なくとも対外的に「承認された王朝」では、という意味である。祭祀の、つまり信仰の強要のためには饒速日命の国の民に強制労働させてアマテル信仰を「身に染みさせる」必要があった。その結果が巨大古墳である。ただし、天皇陵などとは程遠い。天皇など近畿にはいない。掘ってみれば分かる。なぜ、ムダにデカイかに関して言えば「ヒマ」だったからである。敵もいない。その当時、倭国は高句麗の好太王との血みどろの闘いに明け暮れていたのだ。古墳をそんなにでかくしないことがすでに当時の「流行」であったにもかかわらず、そんなにデカイのを作ること自体が田舎者の証拠でもある。対外的に孤立した当時の近畿の様子が窺い知れる。

さて、同じ祭祀の具が存在することは饒速日命の国と出雲には何らかの、というかかなり強い繋がりがあった、と見るべきだ。それはやはり、饒速日命がオオクニヌシの一族、あるいはもっと近い血縁の人物だったという推理も成り立つだろう。つまり饒速日命は出雲からやってきた、という説。エキサイティングである。

高貴さで言えば出雲系列がもっとも高貴なのである。カミに最も早い時期に近づいた一族。カミはヒト、その後神人、そしてカミへ。

バカ学者たちはその当時、近畿に天皇家があったと「盲信」しているから出雲も変なものになってしまうのだ。ここには王権はなかったのだから。700年以降なら話は別だよ。

卑弥呼(ヒミカです)の時代の、魏志倭人伝にある宿敵である「狗奴國」とは饒速日命の国ではないかと思う。出雲の生き残りが難を逃れ近畿で立てた国が狗奴國ではないかという妄想。神武と卑弥呼はほぼ同時代。卑弥呼の命を受け、近畿へ向かった、なんて妄想も。

妄想ついでに、出雲は倭国に対し、面従背反で饒速日命の国と祭祀の具を共有していた、なんて。

村上さんよりこっちの方が楽しくなってきた、そんな連休の谷間。












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2016年07月20日

ニアリィ猛暑日やんか

蝉がじーじー激しく鳴いている。「やらして〜!」だが、やれるかな?やらしてあげて、蝉女子、とお願いしときたい。外野の無責任発言。

ぼんやり梅雨明けし、本日外出たら、なんじゃこれ、な暑さたっだ。エポック・メイクな何かがあるんじゃないんだな。政治の様相と似てるね。なんとなく生きてたら、戦時だった、みたいなことね。実際、おれの周りの人に死に方は戦争中みたいだが。その頻度において。

明日から、夏期講習的なものがあっちとこっちで始まるゆえ、暑い〜、とそれだけに対する感想で済ませられるのは本日最後かな。ま、いいんだけど。初動は「うーん、もうっ!!」だが、すぐ慣れる。何にでも慣れる。順応の動物、その名はhuman being。

改憲にも戦時にも慣れてしまうんだと思う。治安維持法にも。slaveryにも慣れる。もう慣れてる、が正しいか?おとなしい。近畿王朝の伝統。謀略には長けてるんだけどね、その代わり。

クソど田舎だった近畿が九州王朝を併呑したのは7C末〜8C初頭。そこから1世紀経って長岡〜京都と遷都して九州からパクった律令も機能しだし、今の京都に繋がる「日本的洗練」が始まった。まあ、それも最初のTEXTは九州の洗練ですよね。クソど田舎もんにはノウハウなどないのでね。

白鳳文化というのがある。主に飛鳥時代のそれを指す。そのご奈良に遷都してからの1世紀は、天平文化と学校では習う。不思議なことに時代のより古い白鳳のほうが天平よりずっと洗練されている。白鳳の例えばお寺、大官大寺にせよ法隆寺にせよ、ひょっとしたら法興寺でさえ、九州から移設されたものだからね。法隆寺の元寺は椿市廃寺ですが、今の行橋市にある。ぐるぐる巻きにされて日本が戦争負けなかったら、フェノロサ来なかったらいまだにきっとぐるぐる巻きの、夢殿から出てきた「救世三尊像」。木綿でいく重にもぐるぐる巻きにされ、延髄らへんには刃が刺さっていた。何かを、当時の権力が「封印」したかったわけね。

聖徳太子とか、そんな間抜けなことは言わんでいいです。聖徳に比定というかそのネタになった人物の像です。姓ははアマ。

白鳳の方が洗練されているのは言うまでもなくそれまで栄華を誇った九州王朝のものだから。

その洗練の蓄積はその後100〜200年分はあったはずなのね。とするなら、平安京における栄華と洗練も実は九州倭国の文化的遺産がその根本にあるのは明白だね。

磐井の乱の磐井は倭国の「天子」であるが、その墓(古墳ですが)には裁判を描いた石像が配置されていた。九州の律令が「遅くとも」500年代に存在したことの動かぬ証拠である。近畿なんてそれをパクって大宝律令がやっとこさ701年だからね。いかに土人だったかの分かりやすい判例ね。

柿本人麻呂も九州人である。万葉仮名も九州でできた。万葉集には九州の歌が驚くほど少ない。なぜでしょう?

古今和歌集の「賀歌の第1番目」に紀貫之がいわゆる「君が代」を選んでいるのはなぜ?詠み人知らず、題知らず、となってる。なぜ?あれを国歌というなら言えばいいけど、そもそも「文脈」がまったく異なるのね。あの「君」はその「君」ですらなく、この「君」なんてとんでもないのね。おれは歌えるね。なんの問題もなく。真実を知れば知るほど、薄っぺらい右だと自称する人たち、それを歌えば歌うほど「不敬罪」であるという逆説度が深まる。愉快愉快。

詠み人も題も紀貫之は本当はわかってた。詠み人は今じゃ知るよしもないが、タイトルは志賀島で行われる「海ほめ祭りの第一連」です。安曇氏を歌ったという説もある。おれは違うと思うが。その対象は、普段は太宰府にいるのね。御笠川を年に一回下ってきます。そして志賀島へ。おれの「太陽女王」だね。女帝だった可能性、ある。「きみ」が女王を表す例が多々あるので。

日本書紀のウソは分かるにしても「何処が嘘」がわかってないと、なんの意味もないねん。








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2016年06月30日

聖徳は消えてるけど

夕暮れの空からの光線が、ビルに跳ね返って、ビルが赤みを帯びていい感じだ。「一見」平和に思える。天気はやっと回復みたいね。

期末テスト。中坊に因数分解教えながら、JKに飛鳥〜奈良の「専門分野」を。歴史の裏話。なんで、天智が自分の娘を何人も天武に嫁がせたのか、とか。なんで天武がその称号がそこにしかでてこない「大皇弟」なのか、とか。簡単なとこでは白村江の戦いでボロ負けしたはずの「日本国」が直後になんで論功行賞をおこなえるのか、とか。余裕のあるJKだから、お勉強とは別の話として面白がってる。おれもちょびっとだけ調子乗って、さらにディープな話を。

高校の日本史の先生、若干気の毒である。理屈に合わないことだらけで、澄んだ目をしたキュートなJK(まだ存在していたとするなら)からたとえば上記の質問をされたらどう答えるだろうか?興味深い。

天武は大海人皇子と言う。この大海人(アマ)が大変大きなキーワードなのね。天皇は「名字がない」ことになってる。平成天皇はアキヒトくん、「希望します」の昭和天皇はヒロヒトくんである。

リアル天皇家には名字有り。

天=海人=アマです。

天武は、だから、大変高貴な出、であるということがわかる。どこの人かは想像してみて。

京都の某神社。

天武系天皇を排除して天智系天皇だけを祀っている。天武系を外さなければならない「理由」あったんだね。その「血」はその後の「天皇家」にとって忌々しいものだった。天武の息子、長屋王(正しくは長屋親王)も藤原に排除される。親王というのは皇太子ね。おとーちゃんは高市皇子。つまり高市天皇。じゃないってことになってるけど。都合悪いね。藤原には。そしてその「高貴な血」はどうしても許せないのね。

8世紀は女帝の時代。持統にはじまり元明、元正、そして称徳(孝謙)と文武、聖武を挟んで四人いる。この「事後処理」の100年間、なんの後処理かというと「白村江」の後処理なんだけどね、ここ興味深い。藤原氏の世というには、その目論見の割に彼らも何度もピンチを迎える。四兄弟が次々に天然痘で死んだり、恵美押勝が称徳に敗れたり。

広嗣がなぜ「太宰府」で挙兵したのか、とか。日本書紀の記述だけでは因果関係が全然わからないことだらけである。

京都に遷都してからですね。「今」との繋がりはそこからはだいぶ見えてくる。貴族化も進む。しかし、そこまではドタバタである。8世紀末までは。どう転んだかわからない。

もうさすがに聖徳太子は「出てこない」みたい。ただ、厩戸皇子がその役割を担ってるって。バカですね。息子の山背兄皇子一族の、蘇我入鹿による惨殺。九州の皇族の実話の言い換えだね。父の用明も架空です。

この時代、6世紀末から7世紀にこちらに天皇はいないです。残念ながら。だれが近畿を仕切ってたかというと蘇我氏ね。蘇我氏って突然登場するよねどこかから送り込まれた監視人だからね。ただ、それがこちらの人々にとってはカチンとくるわけよね。で乙已のクーデターで蘇我氏を全滅させる。憎さ100倍。蘇我氏を悪党化する。馬子、蝦夷、入鹿という仮名のおかげで本名さえわからない。入鹿のみ蘇我鞍作太郎とかろうじてそれらしき名がわかる程度だ。

しかし、聖徳太子の「創出」はなかなかすごい。隋書倭国伝により、ウソはチョンバレながら、なかなか良くできてる。まるでその後の(含む今)お人好しの日本人の心性にぴったりなストーリーである。架空の人物を創出しておいて、その子の一族もすべて絶滅させる。だからその血を引いた子孫はどこ探しても、いない。完全犯罪。

憲法改悪されたら聖徳太子復活するのではないかな。












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2016年06月19日

須玖岡本遺跡より

春日市の須玖岡本遺跡から巨大な甕棺が見つかった、と。

そこまではいい。それを奴国の王のものかも、と。王とは言ってないか、有力者ね。

またそこからかー。

奴国はそんなに大きい国ではない。魏志倭人伝には陳寿が邪馬壱国(邪馬台国ではなく)へ至る際の通り道の国。

バカジジイが志賀島で出た金印の「漢倭奴国王」を「漢の倭の奴の国王」と読んだこと(イデオロギーも入ってる)が間違いの元です。もう何度も言うてるから、分かってるよね。

金印授受とは最高の栄誉で(銀印・銅印・鉄印もある)、それを与えるのって何百年に一回のこと。銀・銅・鉄と下るにつれて通常は頻度は上がっていく。

もう一回「おさらい」とをしておくと、「漢倭奴国王」は「漢より倭奴国王へ」と読むのが正しい。与えるもの、与えられるものは一つと一つであるのね。「漢よりいど国王へ」あるいは「漢よりいぬ国王へ」と読みましょう。

いど、いぬって何なん?

奴の読みが「ど」あるいは「ぬ」、倭の読みは「い」です。倭の意味は「おとなしい」、奴の意味は「上から目線での家来」ね。

倭奴に対して「匈奴」という概念あり。秦の始皇帝がそのための万里の長城を築いたと、ウラジオストクら辺から今のモンゴル辺りにいた遊牧民のことね。匈=ヤンキーですね。そいつらに比べて「なんと従順な」という意味が倭という字には込められている。

時代は下るが「旧唐書」に「倭国は古の倭奴国なり」とある。「世世、中国と通ず」ともある。そしてもうひとつ併記して「日本国は倭国の別種なり。…日本は旧小国。倭国の地を併せたり」とある。白村江の戦いで倭国は大打撃を受け滅びつつあり、それに代わる「別王朝・日本」の立ち上げの頃のことが記録されている。次の史書である「新唐書」には倭国の記述はなく、日本国のみである。

ちょっと戻りましょう。

だから奴国がバカ歴史学者の中ではすんごい国ということになってるけど、そんなことはなく、まったくなく、邪馬壱国の下での小国に過ぎなかったのね。当然倭国の中心ではない。倭国の中心は言うまでもなく「邪馬壱国」である。それを補佐するのが「伊都国」。そして宿敵が「狗奴国」。

さて今回の須玖岡本遺跡であるよね。吉武高木遺跡とともに「三種の神器(宝物)」が出ています。「鏡・矛・玉」。それが「権力の証」。簡単な話だ。同時代の遺跡からこんなものは出てません。さらに言うなら絶対出ないよね。三種の神器ではないがいろんなものが出雲からは出るけどね。出雲は博多沿岸に中心が移る前の中心。これもまた当然のことだった。オオクニヌシね。

須玖岡本遺跡からはとても貴重な他からは出ていないものが出ている。なんだと思う?

それは中国製の「絹」。日本製の絹は九州のあちこちで出てるけどね。中国製は須玖岡本遺跡だけ!さあ、ここで魏志倭人伝に書かれていた、魏帝から卑弥呼へと贈られたものを思い出してみよう。鏡に絹だったよね。もうひとつの金印「親魏倭王」もね。須玖岡本遺跡は一時期卑弥呼の墓ではないかと言われたこともあった。

今回の発見はBC150年頃の銅剣と青銅製の柄飾り「はとうしょく」だという。

その時期はいわゆる「天孫降臨」の50〜100年後の時期に当たる。天孫降臨は神話ではなく、壱岐(天国・アマ国)にいたアマテラスの「海人(アマ)族」が釜山の鉄(鉄器)を背景に「天下り」出雲のオオクニヌシから実権を奪った歴史的事実だが、その天下りの地も、そんなクソど田舎の宮崎の日向であるはずもなく、もちろん博多である。チクシの日向(ヒムカ)のクシフル岳。板付の縄文水田が欲しかったんだね。オオクニヌシ方も頑張って戦ったんだが、やっぱり鉄の威力には降参。タケミカヅチvsタケミナカタなんかに象徴的に描かれてる。アメノウズメvsサルタヒコとか。この場合vsはちょっとちゃうけどね。武力のみならず「いろんな」手法で、と読める。

で、今回の「三種の神器」も「中国製の絹」も出てる須玖岡本遺跡で巨大な甕棺(かめかん、ではなく「みかかん」と読んでね)が出た、誰の?

間違いなく、天孫降臨一族の誰かでしょうね。まだ古墳時代ではないから墓の大小でその人物の高貴さは計れない。

ちょっと飛ぶが、大阪周辺の古墳ね、あれ天皇の墓ではないよ。まず、当時、近畿には「王権」はないです。王権の定義とは日本の場合にはその時々の中国の天子に「認められて」初めて、金印とかを例えばもらえるわけよ。天皇という言葉も当時は、ない。天皇は天子とは異なり、唯一無二のものではないのね。地皇という言葉(地位)さえあるぐらいで。

近畿圏には「地方豪族」はいたよ。いたし、それが閉鎖的な中で「王権的」に振る舞ったということは考えられる。しかし、それを王朝とは言わん。仁徳陵、応神陵、「と言われてる」にだけでなんの証拠もない。発掘させろ、と言っても「ダメ」。なんでダメなん?

なぜか?天皇陵じゃないからでしょう。

じゃ、なぜあんなでかい墓を作れたんや?と人は言うだろう。それは「ヒマ」だったから。

「なんやとー!」ちゅう声が聞こえた気がしたけどね。

広開土王って知ってますか?好太王とも言う高句麗王だが、その碑文に、倭国が何度も攻めてきやがって、それをやっつけてやったぜワッハッハ、と書かれてる。当時の新羅の史書にも「倭のボケらがしょっちゅう「越境」して攻めてきやがる」とある。ここにはまあ、予想されたことだが驚くことが書いてある。倭は朝鮮半島にも「あった」のね。越境だもんね。地続きということ。秀吉が半島を攻めた時のような「出張戦争」ではなく、ちゃんと土地があって地続きのお隣さんにちょっかい出してた、と書いてある。新羅の立場で被害を受けたことを嘘書く意味もわからない。これは事実ね。同様に、日本も新羅に占領は別の地域だけど2度ある。一度は白村江後の唐による九州占領の「後釜」として。

倭国がそんなことをしてる時に近畿は海外との戦争もなし、平和だったということね。銅鐸の国の民を使って作らせたわけよね。信仰の強要と言う意味もあっただろう。

だから例えばあのでっかい古墳が誰かの墓なのは間違いなかろうとして、それが応神・仁徳と言われる人のものであったとしても、その人たちは「王」ではない。いや「王」でいいかな。王っていっぱいおるから。日本国が存在し始めるのが672の壬申の乱から710の平城遷都の間だから、例えば河内王朝なんて言葉はそれ自身、論理矛盾なのね。おれはそうおもうよ。このことは何よりも「九州に王朝あり」を認めないという最初のボタンの掛け違えからくるものであって、そんな最初が間違えてたら、その後何を言っても「残念」なことになる。スポットでいい事言ってる方もいっぱいるんだけどね。余計に残念。

日本書紀の「どこが」パクリでどこが改竄でどこが付け足しか、そこを古事記との見比べでチェックしないとね。古事記になくて日本書紀にあるもの、これはウソか九州王朝の史記「日本世記」あるいは「日本旧記」のパクリです。

先ほどの応神は本当に近畿へ行ったのか、父の仲哀のわけのわからん死に方、母とされる神功皇后への「卑弥呼と壱与」の笑っちゃう投影、神功皇后のスーパーウーマン振り、武内宿禰の超長寿そしてなによりも「宇佐八幡宮」の存在。あの道鏡が孝謙女帝により天皇にされそうになり、打倒藤原氏をもう少しで成し遂げれた際に、宇佐八幡宮の神託で覆される。そんなビッグな神社が大分にある。ここ不思議に思うんだよね。応神という人が大きい存在なのはわかる。そこで再度近畿を(神武に続いて)侵略したのかもしれないが、そして地方豪族として都を河内に置いたのかもしれないが、だからと言って河内王朝はない。ある権力の存在は認める。九州の権威を傘に近畿を治めていたのかもしれない。ただ、その系列が後の近畿天皇家に繋がってくるのかに関してもまだ、おれはわからない。明らかな断絶がその後にある。

須玖岡本遺跡の巨大な甕棺、アマ族の誰かというのは間違いないよ。













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2015年10月16日

本当の「巨星」が…

10.14というから一昨日か、古田先生が亡くなった。新聞に載っていた。

今年の正月、府大のi-siteに講演を聴きに行った。最初で最後の生・古田武彦先生、あそこで云われた「イヌ」の話が気になった。「火を跨ぐ→犬を跨ぐ」ではないか、と云われていたな。

委奴=イヌとも読めますね。読みと感じの対応、貴字・卑字それぞれあって、しかし「い」にも「イ」と「ヰ」の違い、いま日本語は母音が5つってことになってるが、字の違いは発音の違いであるわけで「ア行」の「イ」と「ワ行」の「ゐ」は(ヤ行かな?)違うんだからね。

呼、という字、例えば、読みは「こ」ではなく「か」であると云われていたな。卑弥呼に対して卑弥狗呼という狗奴國の男王は「ヒミクコ」、そして卑弥呼は「ヒミカ」。日甕である、とね。甕棺(カメカン)は甕棺(ミカカン)であるからね。男性最終母音「O」、女性最終母音「A」なんてちょっと「震える」よな。そして卑弥呼の「甕依姫」の比定。

資料を「まっすぐ」に読むことからくるもどかしさの中から真実を発見されてきた。

もうおれたちは「戻れない」。戻れないんです。

もう邪馬台国ともおれは言えません。邪馬壱国or邪馬一国、そしてその読みは「ヤマヰ国」。もうおれは日本史、山川の教科書笑い過ぎて読めんもんね。

しかし、とおれは思うのだ。

みなさん、壮大は壮大なんだけど、ちょっと考えたら「ウソ」までは確信もてんかもしれないが、「?」なことはいっぱいあるはずよね。日本書紀のことですが、そこほとんどの日本人「新興宗教」入ってるから目曇りすぎなのである。そこ、根本、間違ってる人間がどんなに偉そうなこと言おうともおれには「なーんにも」響かんのね。歴史学者は大家と言われてる学者からペーペーまで、全員バカだし。その他の分野でもこれは「絵踏み」だと思う。

誰もいないんじゃないかなあ。おれは知らない。誰かおせ〜て。

某作家が安保法案に賛成を表明したまあ与党議員に対しては「あなた方はその法案に「ほんとにええぞ!」と思ってるならあなたは論理的に破綻している、「ほんまはよくないけど、立場上しゃーないやん」と思ってるなら倫理的な破綻である」という趣旨のことを書いてたが、ねえ学者のみなさん、あなたは一体「どっち?」と訊いて回りたい。安保法案じゃなくて日本書紀のことだけどね。

「論理的」な方は「倫理破綻」なしかないと思うけどね。guilty感じてる、とおれはフんでる。怖いよね。だから古田先生は果てしなくすごいのね。

日本書紀によって「その存在を消された王朝」があった。

それは蘇我氏を貶めたような抹殺のレヴェルではない。

架空の聖徳太子の栄光のモデルになった天子がいる。

それはフェノロサが法隆寺で見つけた後頭部に釘を打たれミイラのようにぐるぐる巻きにされた「救世観音像」のモデルである。

倭王・武は雄略ではあり得ない。

その上表文でもわかるように「文字使用」がすでにあった。そして仏教はかなり早い時期に(552とか538とかじゃなくね)入ってきていた。

石上神宮に今保管されている「七支刀」は百済王から九州の天皇に贈られたもの。

神功皇后は卑弥呼と委与の功績をパクっている。

ホンモノの天皇家の故郷は壱岐・対馬。

瓊瓊杵命が天下ったところ、それは糸島半島。「まっすぐ北に韓国に行ける」。宮崎なんて大ウソ。

神武はいたし、神武は博多から出発した。

吉備の勢力とともに河内湾に侵入した。今の淀屋橋辺りを舟を牽いて渡った。

長髄彦に敗れ当時の上町半島の先端から逃げた。現在の「西中島南方」である。

当時、摂津には「アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒ」の治める「銅鐸の国」があった。

大坂は、だから京都はもちろん、奈良よりも古く「発展」していた。

その中心地は今の茨木市東奈良である。

それがおそらく「狗奴國」である。

今近畿、岡山にある古墳、なぜあんなばかでかい墓を作れたかというとt半島・大陸からは相手にされていず、戦闘もなく、平和で余裕があったからなのね。

当時の流行からは、かなり、遅れてる。イモ。一地方内部での権力誇示。

邪馬壱国は博多。今都会は当時も都会。

近畿では「矛・戈」は出ていない。だから近畿邪馬台国は「あり得ない」。バカたちがゆってるだけ。なんとなく政治的=倫理破綻です。

福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は津軽の和田ちゃんのパクリ。

関東にも大王はいた。そのシンボルはやっぱり富士山。

九州のシンボルはもちろん阿蘇。「阿蘇山有り」。

中国の歴史書に「瀬戸内海・大和」なーんにも出てこない。行ってない。行く必要もない。単なる一豪族だから。

白村江の戦い。ここが「最重要ポイント」。

そして661…720この間にすべてのウソが正史となった。

そのウソはあらゆるところでバレかけている。例えば「郡と評」のこと。倫理破綻の典型。

天武・持統の「吉野」、桜の吉野ではない。吉野ヶ里の吉野。なぜ、そんなとこへ行ったのか?カクムソウがいたからに決まってんじゃん。

カクムソウ=マッカーサー。

大和には「格」がなかった。文化もない。だから新王朝とは言えなかった。それで九州王朝の連続という形をとった。

いろんな「フリ」をした。古事記をみてもわかるように神武以前の神代ではなく神武以降の天皇譚のなんと「素朴」でいたいけなことか。

古事記になく日本書紀に記述があるもの、これらはすべて九州王朝の史書からのパクリである。

その史書のひとつが「日本旧記」である。

また、銅鐸のこと、記紀には「一言」も出てこない。元、近畿中国地方には銅鐸を祭祀の具とする国の存在の紛れも無い証拠である。

そこら辺、バカ歴史学者、はっきり言わない(言えない)。

津田左右吉は間違っている。江戸の本居宣長や松下見林なんてうんこもうんこ、だが。

九州王朝以前は大国主の出雲王朝があった。アマテラスはその一の子分。

そしてクーデター。米を求めて瓊瓊杵命が降臨。まあ攻めていったということですが。金属武器を背景にね。釜山でとれた。

猿田彦は出雲王朝の人間。博多を治めていた。

新羅の王族に倭人がいる。

大和は白村江当時、新羅・唐と密かに結んでいた。


もう切りがなくなってどうしようもないが、この列島の過去に起こった出来事をランダムに挙げると(ほんの一部ですが)こんなことになる。

山川の教科書には書いてないことだらけ。これが真実なんだよね。元々「狂ってる国」なんだね。でもおれはそこ、正気でいたい。

これらすべて、古田先生に教えていただいた。

やり残されたことまだいっぱいあったはずですで、無念だと思います。

ニール・ヤングと同じくらい尊敬していた。あとは誰も尊敬などしてないが。人材不足。どーでもいいが。

心よりの御冥福を祈り、何かしら自分もその遺志の欠片を自分なりに発展させたいと思ってる。

お疲れ様でございました。





posted by 浪速のCAETANO at 11:22| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

白村江の「真実」

九州王朝が唐と国交断絶した時に近畿は遣唐使を通じて唐と連絡を欠かさなかった。

隋書タイ国伝には「その後、絶つ」とある。w/九州王朝。タイ国とは「大倭国」だろう。

当時、九州王朝と規模・財政上見劣りしなくなっていた近畿は二又を掛けていた。


w/九州とw/唐へだ。国家の君主と敵の両方。

当然、九州は近畿に準備を依頼する。近畿も「準備」はする。吉備国風土記には、準備はしたが行かなかった、とある。倭国はTOTAL1000隻で白村江の決戦へと向かった。その内400隻焼かれ、乗組員は殺され、沈んだ。600隻(残りの)は何をしていたのだろう。

その400隻には上野野君雅子が前軍の将軍として居た。言わずと知れた「関東の王」である。では薩夜麻は?

薩夜麻は残りの600隻の船のどこかにいた。これらは「無傷」である。戦う気などさらさらない。中大兄と鎌足もいた。そして彼らは「唐と通じていた」。薩夜麻らは「中大兄と鎌足」に捕らえられ、唐の捕虜になった。

薩夜麻=九州王朝の天子。あのさ、近畿には大王(おおきみ)はいても天皇はいませんので。その当時まではね。

おそらく実質上の近畿の「天皇」は天智からです。斉明もうそ。斉明は九州王朝の「誰か」のこと。そして天武は2人いた。大海人ともうひとり。クソ日本書紀はそれを一人のように書いているだけ。

近畿は白村江で、九州王朝の天子plus関東の王までも「処理」できたということになる。近畿はこの千載一遇のチャンスを見事にモノにしたわけだね。金だけはあった「イナカモン」が栄光の九州王朝を外敵を使って倒す、一挙両得とも云える。そこまでは上手くやった。

しかし「イナカモン」で、歴史書もちゃんと書けない「ほぼ文盲」の輩であったわけだから、その後が困るね。

近畿は九州王朝の「格」が欲しかった。その後、九州はカクムソウによって占領・収奪の嵐に遭う。だが九州王朝の格=天子の存在は否定できなかった。いまだ、あくまでも近畿は「一豪族」。唐もそう見ていた。

中国を見てみたら、よくわかるんだけど、王朝は何度も交代している。禅譲というのは「稀」であり、その際前の王朝をボロカスに貶して、オノレの正当性を謳い上げる。中大兄も、というか天武もそうすれば良かったのだ。でもしなかった。なぜか?

「格」が本当に必要だったのだ。それは九州王朝と異なり、断絶があったからだ。武烈と継体の間。もはや九州王朝の血は近畿においては途絶えていた。継体など、ホンモノの田舎のおっさんである。そこで完全に「入れ替わった」。その子孫が中大兄たちである。神武から崇神のあいだの「九州王朝の傍流」のプライドももはや無根拠だった。

継体は「大問題」だと思う。そこ、リアルタイムで九州年号(初の)に「継体」が出現する。磐井の時代。これは時間を支配する天子(中国の)への明らかな挑戦であり、白村江の遠因だ。天皇の諱は後代に付けられるのであって継体はその当時は「おほど王」である。そこも後にパクったなと思うのが常識だろうね。

そして天武の命による古事記作成後、九州王朝の「日本旧記」等の史書を奪い、九州から人も連れてきて書かせたのだろう、日本書紀が完成する。しかしね、いろんなところでその「小さな抵抗」が窺える。誇り高き、九州王朝の歴史官僚の矜持が垣間見える。「一書」に、が多発しているのだが一箇所だけ「日本旧記」と、ある。これこそが九州王朝の「史書」である。

さて、白村江の話だった。近畿は唐・新羅と通じ、栄光の九州王朝の滅亡とそして列島の実権と王位を奪った。その後ろ盾は驚くことに、通説では「敵」である「唐」だったというお話。

あまりに「何もない」「何の誇るべきもの」もないイナカモンが王となったが故に、その歴史を「デッチ上げ」なければならなかった。

その際に天武ヨメの持統と藤原不比等の「大嘗祭」と「アマテラス」も「伊勢神宮」も同時にでっち上げられた。小さなものが身分不相応な「大きすぎる物語」を身に纏ったことが、特に「この100年の不幸」の原因だと思っている。その事はまたこの次に。


posted by 浪速のCAETANO at 22:49| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月28日

名月から過去を思う

キタバヤシジュンのPASS AWAYからライヴ三連ちゃん、それが終わったらドロボー、その後すぐ店長anniversarioと目まぐるしすぎてアップアップだった。久しぶりに昨日は12時前のonto the bedだった。何百年ぶりか・ぐらいの。

昨夜の月は神々しかったね。堂々ともしてた。スペシャル・ゴールデン・デラックスな月を愛でつつ、辛口本醸造ぬる燗、といきたかったのだが、前述の疲労蓄積により断念。

今日こそは、と思うが夕方から雲が、小雨が、そんな噂もあって少し心配してる。

今日は十六夜・いざよいですね。今夜がスーパームーンという話もある。明日は十七夜・立ち待ち月。月の「公転軌道のダイナミズム」がよく表わされてるね。徐々に月の出が遅くなるのね。横に寝そべって待ちが立ち待ちになる。気持ちは昨日と変わらないのに出の時間だけは確実に遅れるわけで(48分/day)、平安の女房たちの「う〜ん、もうっ!」というこころの叫びが聞こえてくるようではないの、ねえ。

鞍馬で中秋節を迎えたことがある。もう空気はひんやりしていて熱燗を飲んでた。森の中でもない、人の営みのある・上の方に灯りがそんなにないところ、だから理想的だった。

その夏の初めにはまたまた鞍馬でだが「蛍」の乱舞をみた。目で追っていった先に「普通の満月」があった。それもまた「夢の中」そんな気がしたものだった。

ハポン独自のSENTIMIENTOとでも言おうか。

不思議な気持ちになるのだが、8世紀初頭に権力が九州から近畿に移って200年の間に「日本的洗練」の大方の部分が、もちろん貴族の間だけでだが完成している。歴史書さえも満足に書けなかった近畿の土人の力だけではこんなことはあり得ない。そこは栄華を極めた九州王朝の文化人のチカラが大きかったに違いなく、しかし、その彼らはその出自をうやむやにされ、近畿の貴族の末端に位置付けられるなどしてその業績は抹殺されていると思う。

飛鳥の「白鳳文化」の仏像その他の芸術品が、その後の奈良の「天平文化」のそれらより「洗練」されている件。

それらはすべて九州から「持ってきた」ものだったからね。法隆寺さえ、持ってきたわけで。もちろん救世観音像(聖徳太子と言われる)がおれのblogを読んでるよいこのみなさんはそれが「アマタリシホコ」であることは分かってるわよね。

後頭部に五寸釘を打たれ、包帯でぐるぐる巻きにされ、決して「開けてはならない」と代々言い継がれ、それが戦争に負け、フェノロサにその反対を押し切られてその包帯から解放されたわ救世観音像である。

倭王・武の上表文にもはっきりわかるように九州王朝では文字と仏教は早くから浸透していた。もちろん一般に、ではなく中枢の人々に限られる、が。文字官僚と言われる人々が存在したことは間違いなく、それは帰化人であったはずである。クソ日本書紀は仏教伝来は6世紀と間の抜けたことを言っておるが、九州王朝には遅くとも3世紀には入ってました。だから仏教芸術に於いても「年季」がちゃうのよ。

もっと言うなら「卑弥呼(ヒミカと読んでね)」は文字が読めた。すごいね!

先進国だったのね。土人の近畿とはエライ違いである。チカラはつけてきてるがダッサ、そんな感じ。

あのですね、邪馬壱国(ヤマイ国またはヤマイチ国と読んでね)大和説、や邪馬壱国東遷説の人たち、ちょっとアタマ悪すぎた。

近畿では「矛」でてないでしょ?それで大和説・チーンだった。

隋書タイ国伝に「阿蘇山あり」。これで東遷説もチーンでしたね。

源氏物語さえも九州の話であるとするならさあ、京都って何なの?となる。京都のフィクション、すこし興味あるね。おれだけでしょうが。
posted by 浪速のCAETANO at 11:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月26日

天神って

コーヒーを買いに天六へ。

なんか人が多いな。浴衣姿、カップル多いなと思ってたら、そうか「天神祭」だった。

商店街は大騒ぎだった。祭は当事者が一番楽しそうである。おれはスエヒロでA定食を食ってビール飲んで、コーヒー買ってその場を離れる。

ところで「天神て誰?」

当事者たち、知ってるのだろうか?

天=アマ=海人=阿毎。

隋書タイ国伝にある、隋の煬帝に生意気なお手紙を送った「タイ国の天子」の姓が「アマ」である。日出ずる処の天子……というやつね。

生意気には「根拠」あり。倭国が延々朝貢をしていたのはその時は「南朝」。倭国というか倭人の朝貢は実は「周」の時代まで遡る。中国の唯一無二の「天子」の冊封体制に喜びをもって参加していたのだが、今やその国は風前の灯火。代わって、蛮夷の(ということはオノレと同列の)王がその立場を奪い取った。であるとするなら、立場は「対等」である。その矜持が自らを「海東の菩薩天子」と言わしめた。

隋はあっという間に「唐」でに取って代わられ、「タイ国」のプライドは維持されることになる。白村江の戦いまではあと60年ほど。

タイ国は倭国であり倭奴国(いどorいぬ国)と読みましょう。倭奴は匈奴に対する中国側から見た呼び方。匈=ヤンキー、倭=おとなしい、です。

邪馬壱国(邪馬台国ではなく、やまいちこくと読みましょう)が博多にあった、とは自明であるが、依然として「近畿説」とか言ってるバカ学者が群れをなしてひと山なんぼで存在するけど、じゃあ言うが近畿から「矛」が出てるか?近畿から「三種の神器」が出てるか?倭人伝にある三種の神器とは「鏡・刀・玉」であるからね。ちなみにだが近畿で出てる三角縁神獣鏡は「国産」だからね、残念でした〜。もひとつ言うなら、「中国製の絹・錦」が出てますか・@近畿。考古学って決定的よん。

三種の神器が出てるのは「王家の谷=糸島半島」しかないのね。

ほら書紀が卑弥呼(ヒミカと読みましょう)と委与のやったことを神功皇后に当ててるでしょう。神功皇后が実在かどうか、ここはおれは確信はもてないけれど、おそらくいたはいた、だが、応神の母としてね、「三韓征伐」だとか、その際お○️んこに岩を当てて応神が産まれるのを我慢した、とかはちょっとあり得んなと思う。息長帯比売命。書紀の筆者が倭人伝を読んでたって証拠だけど。

だから近畿説はたとえば卑弥呼を「ヤマトトトヒモモソヒメ」に当てたりしてる。箸墓古墳を卑弥呼の墓だとかいい加減なこと言ってるけど、じゃあ卑弥呼の墓=家の字から上の点を取った字、は何処だ?ということになるよね。もう一つ言うなら卑弥呼がもらった「金印」は何処?そうなるね当然。

神功皇后が祀られてる神社、これが臭いと思います。神功皇后は九州にいろんなエピソードを残してる。夫の仲哀の突然死や住吉大神になった武内宿禰と出来てたんちゃうか、応神はその時の、、、みたいな。そんなエピソードが残る神社、たとえば香椎宮とかね。

話は例によって拡散してるけれど、卑弥呼の祖先、邇邇芸(ニニギ)、そしてアマテラス、彼らは壱岐の人たちだけどその「アマ族」の神が「天神」。大国主の出雲から支配権を奪い、板付縄文水田を手にした海上交通を司る、大国主の「一の子分」であったアマテラスの一族の信仰していた神こそが「天神」なのであった。

蝉が鳴き出したね。夏本番。

posted by 浪速のCAETANO at 10:08| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

休みでしあわせ

店は休みだし、教え仕事もない。これが「real holidays-yesterday & today」。

本を読んだり、音楽を聴いたり、ギターを弾いたり、昼酒したり、昼寝したり、このlazinessこそが休日の証。もう思い切りダラける。積極的寝たきり生活とも言う。

しかしいろいろ発見があって、楽しい。目三角からは程遠いときに発見はあるみたい。

内閣支持率下がってきてる。もっと加速度ついてもいいぐらいだが。さてここから9月までに回復があるかというと「ない」に一票。参議院の審議、すればするほど姑息な、とももはや言えない「チョンバレのうそ」だらけの答弁を巻き散らすだけだろうから。

しかし、与党が苦し紛れの解散総選挙を打ってきたらどーする?今のままじゃ、前回ほどではないにせよ、結局自民党、勝つよ。他の選択肢があまりに貧弱ゆえね。民主党はダメだと思う。半分は第二自民。維新もどうだろう?市長サイドは極右。じゃあ共産?要は、選挙行ってくださいよーとは言われるが、入れるに値せんような候補者しかいない、これが現状なわけでさ。

沖縄方式しかないと思う。野党も次回、UNITEしなければもう永遠に変わらない。ほんと「戦後」にしか変わらない。

ほんとは憲法学者たちが新たな政党作っていただきたいけどね。今の日本がいつのどんな国に似てるかというなら100年前のドイツでしょうね。民主主義のレールの上に現れた独裁で合ってる。選挙で勝ったから「何してもOK」これ、そんなぶっちゃけ市長が言い出したと思うが、そのマナーに意外といつまでも「そらそや」と言っていた大阪のひとびとのどーしよーもなさはたかじんにはついていってもしんぼうにはどうかなあ、みたいなことで、すこしはマシになってる・なってない、どっち?

でも安心できないのは、今アメリカの最高裁長官が来てて、安保法案の採決を見届けるまではずっと居ることになってる。もう一つ。2016のアメリカの軍事予算の中に日本の「集団的自衛権」の分がすでにデフォルトとなっている、つまりその分「少なめ」のに予算を計上している、そんな事実があること。

支持率を30%まで下げたい。そのときは不支持が6割超えるからダブルスコア。そうなるとレイムダック化し、自民内での安倍下ろしの機会となる。もう安倍ちゃんは「逃げまくりたい」とは思うが、あのわけのわからない答弁をTVですることを避けられないとするなら、野党の皆さんは是非、党利党略に走らずに唯一民主主義がそこに存在する「沖縄方式」で早めの準備されることを勧める。小沢くんにもう一度出番ないかなあと思ってる。亀井ちゃん・鈴木君も。物事はイメージ先行って「ロクなことない」てことには未だシールズの諸君も気づいてないからね。日本人はどっちに転ぶにしても「MOOD」。太郎ちゃんや小沢くんに対する「汚れ視」の根拠が実は非常に薄弱であるってことに気づかないのなら、完全に「片手落ち」ですよ、そこ。メディアがほんとはケツ拭かんといかんのだけどね。「小沢と太郎ちゃんだけはダメ」だと宗主国に「言われてる」は重々わかってるけど。そこがひっくり返らないと植民地のまま。もうほとんど「DREAM」に近いけどね。

さて、突然だけど「天武」は二人いた。

草壁皇子のパパと高市皇子のパパ。

カクムソウとはマッカーサーであって、日本列島は実は二度「占領」されてるのね。前述の2名によって。そして今の馬場町の「難波宮」は孝徳がいたんじゃなくて、九州王朝の「副都」。来るべき唐との決戦に備え、651年、難波の地にもうひとつの行政の場を設けた。孝徳は笑えるがうちの店のちょっと東の豊崎神社(当時は湿地帯)にいた。豊崎長柄宮。地名もバッチリです。天下立評、つまり、律令の基盤の評制の詔が出されたのも@難波宮by伊勢王。伊勢王は薩夜麻のパパね。

ちょっと飛ぶけど、天武のヨメの讚良(イコール持統天皇)がしょっちゅう行ってた吉野、とは奈良の吉野ではないから。あんなとこいつも行くとこじゃない。吉野ヶ里の吉野ね、有明海に面した「軍港」があった。そして、史実の天武(壬申の乱の)がいった吉野もまたその地であり、では誰に会いに行ったのか?それは(1)カクムソウ(2)薩夜麻のどちらかであるのは間違いなくそこで壬申の乱の大義名分を得たわけよね。
そして長良王は長良親王であることから、高市皇子は高市天皇である。その高市天皇は696年に暗殺される。その模様の「書き換え」が蘇我入鹿暗殺となるわけで。そこから先は九州系の血を如何に廃絶するかという不比等始め藤原氏との抗争になる。長屋王の失脚をみてもわかるように結局、天武系の血は天智系に上塗りされていく。天武は二人いるというのはその言ってる天武は大海人皇子ではない天武、つまり薩夜麻、高市天皇のパパ、九州の天子の血、という意味ね。聖武にはもう九州の血は流れとらんからね。

源氏物語さえも九州の話。京都や奈良の「古都」としての伝統・価値、「アーティフィシャル」だったらどーする?



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2015年05月24日

銅鐸のことから

銅鐸が発見されたという@淡路島。
騒いだり喜んだりしているが、またすぐ忘れるくせに。

あのですね、銅鐸の仕組み、使用法の想像、そんなことへの解説、まあやってもいいが、では「銅鐸とは一体どなたたちのもの?」

洟たらさないの、そこで。

銅鐸は近畿・中国・四国で発見されている。多いところでは兵庫(淡路島はその40%ほど)、島根、そして近畿全般。

銅鐸はこれだけ発見されていながら、その「誰のもの」かを論じることができないために、歴史的にいつも宙ぶらりんということになってる。みなさん、手に余るというのがよくわかる。

イデオロギーとしてのではなくリアリズムとしての万世一系を信じている方なんていないと思うが(どーなんだろ、ほんとのとこ)、それによれば神武はBC660年ぐらいの人ということになる。だったら銅鐸はその時代にバッチリじゃん。

しかし、残念ながら「古事記」「日本書紀」に「銅鐸」は「ただの一言」さえ出てこない。

何を意味するか?近畿の天皇家とは「無関係」。そういうこと。

吉備の勢力を伴って、というか、に守られて近畿に攻め入った「サヌ」は九州王朝の傍流で、九州王朝と「神」を同じくし、それを誇りに樫原の地に100年ほど「その勢力」に囲まれて過ごしていた。時は未だ「弥生」終盤。であるから彼らの9代までの墓は「しょぼい」。古墳では、ない。

囲まれているから、武器は作れない。で、その辺にあった銅鐸をこわして再度銅剣へと作り変える。壊された銅鐸が樫原でよく出る。ほんとはもっとあったのだが銅剣にされたのね、ほとんどはね。

サヌ、つまり神武の系統がISのように占領地域を拡大するのは10代崇神のころからである。崇神は「ハツクニシラスノミコト」。ハツクニ=初国は元国に対する概念で、「新しく得た地域」を指す。「その勢力」の拠点への進出ですね。

崇神の時代にはいろいろ面白いことが起こる。樫原は神武の系統の支配を受けている。支配というには現実的なことだけではない。信仰の問題がある。征服者というか、その地域を新たに治めだしたものたちの神を民にも強制する。ISのように。

大神神社というのがある。山そのものが御神体であるが神は蛇だった。そのカミ=大物主神への信仰は支配者によって禁じられていた。しかし飢饉が起こり、疫病が流行、民にも不満が募る。われわれのカミへの信仰の禁止が原因であるということになりがちよね、そんなとき。

そこで、旧信仰の祭祀を司る事の出来る者を探す。河内の地に大物主神の子孫のオオタタネコを発見し、連れてきて以前のやり方の信仰を民がとり戻す。

タケハニヤスノミコトとの現樟葉での戦いもこのころ。タケハニヤスノミコトは当然「その勢力」のひと。クズハはタケハニヤスノミコトの兵が切られてウンコまみれで逃げたという、「クソ」→「クズハ」ということね。地名神話だけどね。@木津川。

「その勢力」とは銅鐸を祭祀の具としていた「饒速日命の国」である。そして銅鐸の鋳型がもっとも多く出てくる南茨木・東奈良、そこが中心である。中環沿いにあるね。

そして、ここからがPOINT。銅鐸は出雲・荒神谷遺跡でも50超出てきた。神武以前の近畿と同種のカミを祀っていたということになる。出雲といえば「大国主神」である。列島の最初の王と言ってよかろうかと思う。出雲勢力範囲は過去の「表日本=日本海側」の筑紫〜越の範囲に限られるだけでなく今の大阪・奈良から四国・中部地方までに渡っていたという可能性だってある。「国譲り」の際に、タケミカズチに負けたタケミナカタが今の長野まで逃げて「諏訪神社」の主神になったことを考えればね。

であるから銅鐸を祀る「その勢力」=饒速日命の国は出雲と深い関係にあったことが窺える。大国主神・須佐之男命・饒速日命の血縁関係も同様に。列島初のもっとも高貴な一族だったといえようか。

飛ぶが、バカ学者のみなさんが、九州王朝の存在を認めないから、そこ飛ばして「出雲と大和」関連のそんな本いっぱい出して結果人心を惑わせるというより「?」をさらに増やしてるのだけど、そこは、所謂大和政権と出雲は直接は無関係ですよ。そもそも大和政権とは「天智」「天武」のその後の時代、正確には701年からなのにね。「旧唐書」には倭国・日本国、「新唐書」には日本国のみ。こんな簡単なことがどーしてわかんないかな?

戻るが、天照大神による「反逆=国譲り」で筑紫〜出雲の支配権は奪われたけれども近畿圏は手がつけられなかった、あるいは国譲りを契機に饒速日命=ニギハヤヒが近畿へと天下った@磐船神社・ということも考えられる。国譲りはBC1世紀ごろのことである。

魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の邪馬台国(邪馬壱国)にどうしても従わない「狗奴國」とは「その勢力」のことではないかと考えている。だから卑弥呼と同時代の傍流のサヌ=神武がその情報を「持っていた」のではないか。神武の「カムヤマトイワレヒコ」という諱(ヒコ=長官)もそれを送った者は卑弥呼の次の九州王朝の男王であるかもしれない。神武たちは九州王朝と「そのカミを同じくする」ことがプライドだったのだから。

天皇家とは「一切」関係のない銅鐸。まあそのう、天皇家というのも大変タッチィな言葉ではありますが。本居宣長・松下見林・そして津田左右吉さえもそこはおかしいわけですから。

記紀に一言も出現しない「銅鐸」から「その勢力」の国の存在を一度想像してみてください。

異論・反論、anytime welcome!

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2015年03月29日

都府楼にて

春うららかな午後、「遠の朝廷(とおのみかど・と読むね)」の、大宰府政庁跡地でぼーっとしていた。桜は咲いてたね。五・六分咲きというとこかな。去年は一回空けたから2年ぶりということになる。太宰府といっても天満宮にはちっとも行かず、菅原道真くんには不義理かましまくってるんだけど、彼もまたにっくき藤原にやられたわけだが、またちょっと意味が違う。

南福岡・雑餉隈に一泊。「ザッショノクマ」と読むのね。おれ、なんだか聞いたことがあるなあ、と誰からだったかなあ、誰だったかなあ、と思っていたのだが、元ヨメでした。あースッキリした、同時にビックリした。

大宰府政庁跡地前にも家が建ってる。最高の場所ですね。特等地。

アースダイヴァーは、本当に意味があるのは太宰府・糸島半島・博多だね。でもこれは学者にはできない。タブーとクロスするからね。

中沢さんもそこ、無理ね。中沢さん、内田さん、日本を代表する知性だと思うが、それでもそのタブーには、学者だからこそ触れ得ない。内田さんも日本辺境論の中で「聖徳太子」に関してかなりいい加減なことを言っている。まあおれが突っ込めるのは、そんな些細なことぐらいしかないが、しかし、この国の「根幹」に関わることはうやむやにするしかないんだよね。

明治天皇=大室寅之祐以上のタブーだもんね。ほんとのこと判明したら右翼全員爆死みたいな。

大宰府政庁跡地のすぐとなりには御笠川があり、そこを舟で下り、千代に倭国の天子が現れる。年に一度、その王者はオトコとは限らない。まさに卑弥呼の前か後か、女王が姫を伴い、志賀島へと渡る。そこでは「君が代」が語られる。多くの語りの「第1節」として。

ちょっと話「デカすぎ」。だけど、太宰府は「遠の朝廷」と言われ、その主語はもちろん奈良の人々だが、その意味は大きいです。そこもなんかうやむやにされて、大和朝廷の西国支所みたいに言われ、それを信じてるおめでたい方多いが、真の朝廷は「太宰府」ですからね。日本の闇もまあまあ深いよね。「1300年のウソの蓄積」それはそれで重たいものだ。日本書紀にそう書いてあるじゃん、みたいな。ま、早い話がアホなんですが。




posted by 浪速のCAETANO at 21:33| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月11日

新春特別

やっと、時間が取れた。一人の時間がという意味だが。

以前なら、こういうとき伊車か仏車でフラっと出かけたものだった。一本仕事が入っていた。

しかしその前に、どうしても行っとかないといけない場があり、それは大阪府大の「i-Site」だったのだが、そこで古田先生の新春特別講演があった。で、行く。

初のナマ先生である。やや緊張する、こちらが。おそらく何のことかみなさんわかんないと思うが、別にいいの。著書は50冊ほど読んでいて、もういろんなismが身体の中には染み込んでいるが、その、ナマの声はやはり拝聴しておくべきだと思う。何と言っても御高齢であるし。

「二中歴」「神籠石」「隋書タイ国伝」の中の(婦、夫の家に入るや、必ず犬(火)を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ)の、岩波文庫は犬を火の間違いだろうと訂正しているがここは犬であろう、という話。九州における「人と犬との親和性」。ギリシア神話の(アポロンがオリンポス山へ帰っていく際の「方角」の問題から、ギリシア神話はトロヤ神話の換骨奪胎である、とここは師らしい解釈。

休憩を3度ほど挟み、熱弁されていた。行ってよかったと思う。

しかし、もっとdetailを話されるのかと思っていたら、基本中の基本、「二中歴と九州年号」「短里と長里」「アマタリシホコ」「魏使の最終目的地は女王国ではない」などの古田史学の骨子といえるようなことを繰り返し述べられていたことにすこし驚く。日本のバカ学者たちの長年の「無視」って「イタい」。先生にもイタいのだろうが学問的にもイタい。ウソを国史とし、それを盲信する、湧いてくるバカ右翼の皆様方のことを思うに不憫であるし、まあ、だますなら「最後まで騙してほしい」ってそれある意味幸せなのかもなあと複雑な気持ちになる。

最後に先生が仰っていた。

「宗教・国家は人間が作ったもの。それが人間を支配するのは本末転倒である」

と、なるとやっぱりその間で妙に安定しているかのように思える「システム」のことを考えざるを得なくなる。かなりいいシステムを創り上げる→安心→思考停止、そんなこと。時代も変わる。もっと大きなシステム変換が進む。

までも行ってよかった、オノレのために。先生、いつまでもお元気で(希望です)。



posted by 浪速のCAETANO at 05:45| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

土用の丑の日

土用の丑の日、だからね、おれは「鰻ざく」で腹一杯になりたいわけだから、もう今は飯くえないからさ。

で、どうするかですが、商品券で阪急で鰻を買ってくる。網で酒を振りつつゆっくり焼く。すると、あのフワフワが戻ってきます。今回は上半身・下半身のお代わりで。胡瓜と茗荷はあらかじめ準備しとけばいいのね。

冷凍庫で直前にキンキンに冷やした三千盛で上半身、シャルドネで下半身。

十三で買ってきた「栄養豆腐」と長崎から送ってきたかまぼこで晩餐だった。とっても幸せ。

そういえば永井が浜松の白焼きお土産にくれていた。これもシャブリなどと食えばかなり「いい」のでは。そのうち。真空パックっだったので。

本日も暑いね。暑いねというか熱いね。アッチッチ・ですよね。夏の外仕事は毎回大和川を越える。かつての奈良への重要な水路である。要人は大和川を遡って大和へ入ってた。

突然飛びますが、馬場町の難波宮跡、あれさあ、大化の改新というかその後に孝徳が遷宮したということになってるが、ウソですね。

あれは、九州王朝の出先機関というか「副都」なんですね。孝徳がいたのは「豊崎長柄難波宮」というところです。そこで「ん?」と思う。

豊崎?長柄?むっちゃご近所やん。今の豊崎神社でした。当時は湿地帯。。BAYOUみたいな。

上町台地の、日没を余裕持って眺められるロケーションとは似ても似つかぬ、地べた近くにいざるを得なかった近畿の人たち。その末裔が今の天皇家ということになる。大化の改新が645ってのも、うそ。なんにも政治的な改革はそこでは行われていないし、蘇我入鹿と言われてる人が殺されたクーデターも696である。

聖徳太子や大化の改新が消えていく一方で、最近の日本史の教科書・山川であっても倭の五王の武が雄略である・なんちゃって、冗談も顔だけにしてね・だし、邪馬台国が奈良説と学校の先生が「おれはそう思う」だって。ほんとに「冗談はよせ」である。山川の教科書をしっかり覚えることが入試に繋がるとしても、それは「通説」であって、多くを日本書紀に依拠し、その日本書紀という「正史」の成り立ちがかなりイカサマまみれであるといった事実から目を背けてはいかんのではないのかなあ。ウソにまみれて1300年。しかし1300年は「かなり」重たい。そこを教師たるもの、「うう、うう」と口ごもりながら一応こうなってるのだけど、理屈によりハマるこんな説もありますが、、ハイあとは自分で考える〜ぐらいのことは言っても良いのでは。

6〜7世紀のことで言えば、充分強大にはなってはいたが、天子はもちろん天皇さえもいない近畿は「やはり一豪族」というのが一番正鵠を射るのではないか。

カムヤマトイワレヒコ、神武のことだが、その中の「ヒコ」、これは「長官」という意味である。天皇が長官ではどうだろう。そして長官って任命「される」ものじゃないの?ここに近畿の出自が集約されています。近畿にはその時「銅鐸の国」があった。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒの造ったおそらく銅鐸=鈴を祭祀のアイテムとするほどであるから、平和的な国であったことが容易に想像できる。そこに侵入したのが神武たち。西中島南方の南方は神武たちが最初の突入に敗れて敗走した狭い水路のことである。当時は河内湖ではなく河内湾。そこだけ狭く空いてたのね。

で、銅鐸の存在は確認されてるし、教科書にも載っている。ところが正史・日本書紀には「一言も」現れない。現天皇家の祖先とはまったく異なる勢力がかなり広い範囲を治めていた、という「簡単な」証拠である。実はその銅鐸国家の中心地は茨木市である。東奈良ね。ニギハヤヒの国。

そう考えると、大阪は実は京都よりも「古い」町ということになってきます。京都なんて当時は竹藪です。太宰府が首都であるとするなら副都は上町。悪くないぞ、と思うね。奈良よりも古いといってもいい。大阪の概念、変わるね。今の大阪の概念がいびつなのでは?真の歴史を見なかったらそうなるが、もうちょっと考えてもいいのでは。



posted by 浪速のCAETANO at 18:06| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月29日

9月も終わるね

もう九月も終わる。月の区切りに何か意味があるのか・というなら、うーん・そーねー、としか言いようがないが、しかし古代からヒトはなにかしら「区切って」いたみたいよ。やっぱ時間の流れにはアクセント要るのね。何かの循環にヒトは反応するわけで。

古代の天皇の年、90歳とか平気である。それを見て、だから史書はうそだらけと思われるかもしれないが、ちょ・待って、と言いたい。うそはある。あるのだが、そこじゃないです。うそは神功皇后とか景行天皇とか。

じゃあ90歳までほんまに生きたのか?と訊かれれば、うん生きた、と答える。

年の数え方が違ったのだ。古代の倭において、年は春と秋に一つずつ取っていったのだ。それが二倍年暦です。

で天皇の年が上のようになる。中国にはもっとすごい「年」がある。900歳とか1500歳とかだ。なんじゃそれ・でしょう。

おれたちは、あまりに今のシステムを遠い過去から「あったりまえ」と思いがちだが、そんなことはないわけで。「明治」から無理に始めたものを「伝統」と勘違いしてること、あまりに多し・なのね。

さきほどのすんごい「年」とは月の満ち欠けを一歳と、満ち・欠けをそれぞれ一歳と考えることで積み重なった年齢。「十二倍年暦」「二十四倍年暦」といいます。

そんな風に、時間の流れにはどこかで区切りをつけないことにはいかんわけね。ただ、その時間を誰が支配するか・ってことがポイントでね。わかりやすいところでいうならそれが「年号」ということだけど。

大化から年号が始まったことになってるが、ハイ・うそー。大化の改新さえ事実かどうか・だ。クーデターはあった。

その7世紀、謎だらけ。激しく列島が「動いた」時期である。「日本」が出現したのも7世紀だ。日本の後ろ盾は「唐」なのだ。それは白村江の戦後の話だけど。意外な話ですけどね。

そこら辺の「紀」はもう面白いほどの「ウソ」だらけで、自前の史書がないものだから他人の「歴史をパクるパクる」。そんなものを「ベース」に国のことを考えてるとしたら、そっち方面の方々、それ問題だよん。

さて、明日から「通常の」生活が始まる。ということは、昨日までは「通常」じゃなかったわけだ。内外合わせると受験生・総勢25名。しまっていかないと。

posted by 浪速のCAETANO at 17:12| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月27日

教科書もー

中学校の歴史の教科書も新しくなり、つらい。他はいいのだ。複素数平面が入ってこようが、英単語が激しく増えようが。そんなこたあ、別に・なのだが、歴史はあかん・ツラい。

ウソを事実として教えなきゃいかんのが・だ。

これまでは中学校では入ってなかった<倭の五王>の<武>を雄略と、あ〜あ・言い切りよった。さる・め。

稲荷山古墳から出土した鉄剣に書かれていた金文字<獲加多支占(占の口の中に九が入る)>をワカタケルと読み雄略に結びつけ、関東もそして当然九州も大和王権の支配が及んでいたとする。それを中学生に信じさせるのはあかん。

支占(占の口の中に九が入る)・をケルってどうひっくりがえったら読めるのか?

嘘はもっとある。一番わかりやすいのは、聖徳太子のウソ。厩戸皇子というのはいた。

近畿王朝の遣隋使のウソ。隋には行っていない。唐です。

遣隋使は<アマタリシホコ>=九州王朝の天皇である。日出ずる国の天子。対等を謳ったのもアマタリシヒコ。その理由も簡単なのであって、倭国(九州王朝)が延々朝貢していた中国の南朝は<北狄の隋>に滅ぼされてしまったからだ。東夷であった倭国と北狄であった隋とはまさに<同等>。それである。<海東の菩薩天子=タリシホコから海西の菩薩天子=煬帝へ>それが成り立つ。すなわち仏教の伝来も538でも552でもなくもっと古い。道後温泉へ行ったのもタリシホコ。九州から道後は目と鼻の先だ。太陽の光、豊かな湯は分け隔てなく全ての人々に与えられる・と言ったのもタリシホコ。深く仏教に傾倒した王の思慮が窺える。

もっとある。近畿に多い巨大古墳。なんのため?という質問が出る。優等生の回答は<王の威厳と支配の確認>ということになる。まあ、それでいいのだが、ではその支配の及ぶ範囲とは?

西は今の岡山県ぐらいまで。そして岡山にも大仙古墳に負けない大きさの作山古墳・造山古墳がある。

実は当時の中国・半島においても、古墳のような巨大建造物作るのはバカげてるということになっていた。それを知らなかったんだね、近畿王朝は。なぜか?<付き合いがないからね>中国や半島の国国とね。

九州王朝である倭国は当時、好太王の高句麗との戦闘に明け暮れていた。倭国の領域は半島の南・かなりの部分まで及んでいた。高句麗と<直接>戦闘するほどである。新羅の史書に<倭兵がしょっちゅう国境を侵して困る>と書かれてある。

近畿王朝がそんな巨大古墳作れたのは<内向き>にやってたからなのね。その労働力になったのは、神武が侵攻してくる前にあったニギハヤヒの銅鐸国家の民だった。墓を作る・作らせるなんてことは<宗教儀礼>の変更でもあり、一番・支配者が代わったことを身に沁みて感じさせるにもってこいだしね。

どんどん脱線していくが、天照大神は九州王朝の神で、大国主命は出雲の支配者で天照大神に国譲りを強要されるわけだが、その天照大神の傍流も傍流というのが神武なわけです。その神武が九州や四国・そして吉備のパトロンたちをバックに内部に入り込んだ国が<銅鐸の国>。奈良は米どころでもあるしね。

その銅鐸の国は<優しい国>だったと思います。なぜなら、祭祀のアイテムが銅鐸=鈴だからね。九州王朝は矛と戈、神武たちは剣。

銅鐸の国の神は大神神社のいわゆる大物主神と言われてる神。イコール大国主命と言われている。神武たちはオノレの正統性を九州王朝と同じ神を祀るということに求めていた(それは<ウソ>ではない)わけで、征服した神の扱いは最初はひどかったはずである。非征服者に身に沁みてわからせるためにね。しかし崇神天皇の時代に疫病が流行り非征服者たちの不満を解消するために大神神社の神を祀り出した。そのときに<習合>させられたのが大国主命だった。神々習合。天照大神の下のNO.2というわけ。

そして、やはりどうしても見過ごせないのは<金印>だ。

漢委奴国王だね。銅印とかじゃなくて金印ですよ。金印の意味は、周辺の中でのいわゆるフランチャイズの資格を与えること・それもかなり高い資格ね。その対象がなんで倭の中の小国の奴国王なん?

もう一つ。いや二つ。与える国=漢と与えられる国は<一つずつ>書かれてあるのが常である。そして、北狄の<匈奴>に対する<委奴>である。匈奴の匈はヤンキー・それに対して委奴の委はおとなしいの意味だからね。

漢の王が委奴・つまり委=倭の王に与えた金印である。かん・いどこくおう、と読むべきでしょうね。奴とは中華思想に於いては周辺国はすべて<奴>なのね。

それが志賀島で見つかったというのも意味は簡単である。志賀島は九州王朝の所謂・ハレの祭の場だったからである。海人族としての。それに対して、根の国とは糸島半島である。王の墓だらけ。志賀島において王の船による千代海岸からの到来を愛でる歌こそが<君が代>だったりする。それが近畿王朝の末裔の王族のための・そして国民のための<国歌>としてあり、揉め事のmediumとなってることもかなりの皮肉と言うなら皮肉。しかし、ここ三重ぐらいに<ねじれ>てますからね。
posted by 浪速のCAETANO at 15:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月25日

ウソにやられない

都議選の結果を見て、<投票するとこ・ないもんなあ、、、、>だ。

市長・前知事のブームが終わるのは<めでたし>。だが、積極的に支持するものがないままに安倍ちゃん放置でいいのかっつうと<そうじゃないでしょ>、しかし・そのう、投票へのヤル気というと、<ほとんどなし>が正直なとこ。

うーん、もうっ!だなあ。

あのね、もう先端が先端ではなく、おれなどには、つまり<旧い意匠>をまとったものが先端として取り扱われるのを見るのにも倦んじゃってる者としては、なんかね<楽>なものがいいんだね。

<右翼>は楽じゃない。いつも高揚してたり、仮想敵さがしてたり、あのヘイト・スピーチ・デモの、、、、、、、ぶっころせー、の楽じゃなさ、おえ〜・である。ヨーロッパのNF(FN)/などに<学んでる>のだろうけど、<ひまか>キミらは、と言いたい。よくあんな<カッコわりいこと>できるよな。最大のカッコ悪さ、なのだと思うが、あいつらはあの後、居酒屋で<打ち上げ>などするのだろうか?おれは<してるような気>がする。さらにキモ・だ。そしてその半分くらいは互いに面識がないまま、、、、、、、ぶっころせー、なんて言ってる間に友達になったりして。おえ〜、おえ〜、である。もしそーなら。

まさにリビドーぱんぱんで体力あまってアタマだけ足りないから、そんなやつそんな世代にはそれでいいのかもしれないが、きみらが信じてる・というか信じてるふりしてるだけかもしらんが、日本という国の幻想の罪は重いな。

明治の国家神道の罪の重さ。廃仏毀釈だけじゃなく廃神毀釈も同時になされ、神社の統廃合が進み、それに抵抗したのは南方熊楠だけだったという情けなさ。今、会津の話、nhkでやってるが、<錦の御旗>もでっちあげたらよろしいがな、と言う岩倉具視がいたりする。

たちの悪い右翼は、まさに明治の日本に戻したいわけでさ。そこ<一神教>よ。砂漠の宗教と同様の信仰が、このじっとりねとねとな気候の・別の言い方をするなら放っておけば何かが<生えてくる>豊潤な土地にフィットするわけがない。

その根拠<みたい>になってることはもうええ加減なことだらけ。明治の体制から<逆算>したようなものだらけ、だ。これ、今年の変更された教科書に載ってておれは脱力したのであるが、<ワカタケルを倭の五王の武>に比定するのも<逆算>だったりする。<大化の改新>というキャッチコピーは<明治維新>という言葉の成立の根拠としてでっち上げられた。乙巳のクーデターはあったが、その後の律令制へと向かう政治改革が本当にあったのかは<?>。蘇我氏の正体も謎に満ちている。そんだけボロクソにいうって事は実は、、、、蘇我はおそらく藤原以上に高貴だったことが考えられる。さらに、これだけみなさんご存知の<銅鐸>は記紀に<一言も>出てはこない。それはこれだけの銅鐸の分布から考えて大和政権以前の広範囲の政治勢力の存在を確定するものだし、現にあったのだ。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト、の国である。サヌ(・神武)によって内部に入り込まれ崇神によって滅ぼされた・銅鐸を祭祀の具として使う国である。ナガスネヒコ、土蜘蛛の名の表すコノテーションからは、<縄文>の香りが強烈に立ち上がっている。

ここでみなさん、よく考えてみよう。祭祀の具は、<銅剣・銅矛>へと移り変わっていくことをご承知だろうか?剣も矛も<武器>である。翻って銅鐸は鈴である。カウベルみたいな。それがなぜかどんどん巨大化してくるのは知ってるでしょう。ニギハヤヒの国は、相対的に好戦的な国ではなかったことが考えられる。

津田左右吉によってその存在を否定されたいわゆる<欠史八代>。その時代はまだ弥生。その墓はだから樫原内部に収まりショボくして存在する。前方後円墳などはまだ存在しない。巨大な墓の不在を持って欠史とはおかしい。だから、存在した。ただし、崇神に至る時代においては、銅鐸の国に取り囲まれ、身動き取れない状態が続きます。武器もない。だからそこにあった銅鐸を潰す。そして剣をつくる。蛇足であるけど、その銅鐸の国の<首都>はどこだったのか?それは銅鐸の鋳型がもっとも出土する茨木市です。南茨木ね。

ん?チミは皇室の歴史の確定に貢献しようとしてるのかい?そんなお便りきました、今。

いや、明治からの逆算で成り立つ歴史は<そっちの都合>だけで正誤ないまぜになっとるからねえ、あるパートを見たら、右の方々喜ぶ・も入ってるかと思う。でもそれは些細なことよ。

今思ったけれど<遡り日本史>というnhkの番組、もう終わったんだけど、いい考えだね、遡るってのはね。結果があってその原因を探って行く。うーん、<悪くない>。そう思いました。古代はまるでダメでしたが。

明治から逆算とはまあ、日本書紀・マンセーとほぼ<同義>だと思うが、古事記のまだましさ・と比べて、<紀>の記述はパクリだらけであって、じゃ、何からのパクリ?と思うよね。

それは<日本旧記>という歴史書です。そんなん聞いた事ないし、でしょう。しかし日本書紀をよく見ると、一書に曰く、が大方ながらある箇所に<日本旧記に曰く>とある。思わず正直にポロリと、そんな感じです。

ほんと日本書紀はウソだらけ。仲哀期なんて笑うよ。卑弥呼と壹与がやったことを神功皇后の業績として無理やり捻じ込んでるしね。むちゃくちゃ。だから彼らは魏志倭人伝を読んでいたわけね。

ではそんなウソを大量にどうしてでっち上げないといかんのか?それが天皇家が<天皇ではなかった>ことを一気に払拭するためだからよん。

本日、ここまで。


みなさまに色々、ご心配おかけしたかもしれません。

店長、明日一応退院の運びとなりました。懸案事項は幾つか残ってますが。お見舞い、激励の言葉等、感謝しております。とりあえず元気になって、スリムになったあおみちゃんに会いにレオンジーニョの方へ足を運んでね。以上。御礼まで。

posted by 浪速のCAETANO at 16:44| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする