2010年02月08日

お燈祭り

 本日A美シェフが旅行中により、急遽おれがシェフである。

 だはは。

 そんな時に限って・・なことって起こるのよね。まあ・それがハプニングということなのだが。そして、そんなこと・好きなのだが。

 一昨日・昨日と熊野へ行ってきた。お燈祭りを毎年見たくて、しかし叶わず、今年しかチャンスないぞ・と思ってやっと行けた。今年からずーっとあったりして。

 R168は降雪からか、断続的な通行止めが行われているみたいだったので、「阪和〜中辺路」というコースで行こうと思った。中津からだと梅田から阪神高速に乗ると近畿道まで、それもかなり南の方まで時間セーヴできる。豊津時代はものすごく大回りしていた。

 阪和道は熊野に行く度に南へ伸びている。つい最近までは海南までだったのになあ。今は白浜までぴゅー・だ。

 昼前に出て、宿に入って、ひとっ風呂浴びて、との目論見は案の定頓挫して、出発は一時なのだったが、雪の舞う中久しぶりの普通の路ぶっ飛ばしは楽しかった。ツインスパークはカルく6000回転まで噴き上がるし、特に雪の舞う中辺路は、醍醐味でした。

 ジャスト4時間のノンストップ・ドライヴの末5時に新宮へ到着。まるで予定通りである。少しやっぱり元気になっていた。街中を流すと、寒い中白装束の老若男子が、集団でうろうろしている。しかし彼らは本日まで食事制限をし、浜で身を清めて、阿須賀神社・速玉大社・妙心寺を巡拝し神倉神社へとこれから向かうとこなのだった、時間帯としては。寒さに縮こまりながらも「やったるで」なニュアンスが伝わる。駅から神倉神社までのルートを確認してから紀伊勝浦へR42を走る。

 2/6の新宮のホテルは取れない。毎年来た人が翌年の2/6の予約をして帰るからなのだった。ということで、まあ土地勘のあるおれは勝浦の宿を取った。まあそれは、「温泉」というオマケつき・というこれも目論みもあったのだが。

 勝浦も隣の街・湯川同様「いい湯」として知られている。おれは勝浦は民宿しか泊まったことがなく、しかし、今回はお燈祭りが終わって冷えたカラダをなんとかしたいと思っていたわけで、となると、民宿が大抵、はいお風呂は10時までね・というパターンだらけなのであって、それでは困る。だから湯自慢の宿・にしたわけだった。それは「一の滝」という宿で、食事も要らないし、「風呂」「寝る」だけで2人でジャスト1万円というリーズナブルである。

 で、祭り前にひとっ風呂・というかねてからの予定は実行に移されるのだけど、あのね、一の滝のお湯は「もうっさいっこー」にいいよ。おれは「あちちあちち」ってのが苦手で、まあ「ネコ肌」と言うてますけど、断然「ぬるめ」の湯に寝るぐらい入る・というのが温泉の醍醐味である・と思っている派で、一の滝はやや温かめ・とごくぬるめ・というすばらしいコンビネーションの湯がある。このごくぬるめ・がヤバい。もちろんこっち・次そっち・またこっち・今度はそっち・いやも一回こっち・最後にそっち・ていうかこっちも・じゃもひとつそっち・・とばかの入浴は延々続くのだけど、今回のメインは「お燈祭り」であるから、またこれから新宮まで戻んなきゃいかんのだ。こうはしてられない。

 で、着替えまして、電車で行くのね。途中でワインとお惣菜というかアテというかねそんなのをスーパーで買い、絶対寒いと思うのでそんなものを口に入れながら見てやろうと言う魂胆だった。

 新宮に着いたのが7時ぐらいで、火が着くのが7;30ぐらい、30分ほど燻されて、降りてくるのが8時ぐらいということだから、なるべく神倉神社の階段近くまで行ってみる。人はどんどん増えてくる。降りてくる階段のワンブロック手前に陣取ってワインを飲みカラダをあっためつつ、灯りのついた中空を見上げる。

 その火は宮司が火打石により斎火(いみび・という)を作り、神殿を開け、大松明・かがり御供・お神酒を供えて宮司が祝詞を詠む。大松明に灯が点ったみたいだった。

 急に大きな明かりが見え、それを目指して上り子たちが歓声と言うか奇声と言うか怒号と言うかそんな声を出しながら山上へ上っていく。その声は下まで届き、間違いなくあちこちで喧嘩が頻発している様子が想像出来る。

 そのうちに火の範囲が広がり出す。上り子の松明に火が移されていってるということなのだが、そのうちすべての上り子の松明が点火されると介錯が山上の鳥居の扉が閉められる。さあ、ここからが大変である。火を手に持って満員電車のような人口密度で火と煙によって燻されるわけだから、呼吸困難と熱さとやりきれなさに約20分ほど上り子たちは苛まれることになる。

 下まで聞こえてくる声は完全にもはや「怒号」。「うおおおおおおおおお」である。

 そしてそのストレスがピークに達した頃(8時前)に扉が開けられる。で堰をきって、上り子たちが下り始めるのだが、階段はかなり危険な階段である。熊野古道のような階段である。それでも一等賞がいる。きりっとしたワカモノだった。

 そんな競争にイノチを賭けるワカモノたちもいれば、そうでない人々もいて、全員で数百人の人々が降りてくるその様子は「滝」のようにも「蛇」のようにも見え、幻想的である。しかし、降りてきた人々の白装束は煤や血や火の跡さえもあって、「あの、服燃えたんヤバかったなあ」などの会話も上り子たちの間で交わされていた。完璧に今痛めたようなびっこ引いてるワカモノもいて、壮絶なものがあるってことね。

 若い父親と小さな子供(男の子)も多く、あるいは近所のツレの若年から壮年まで、とか何かいろんな参加がある。家族や彼女に連れ添われて見物人たちの間を帰っていく。これから非常な充実感を伴って、いい酒を飲むのだろう。

 意外とあっさりしていた。すごく個人的だった。秋祭りとかではないし・かなと思った。ただ、あの20分間の凝縮と爆発は「中上さんの小説」を違和感なく連想させた。この祭りの体感は彼の文章に刻み込まれてるな、当然のことだった。

 勝浦へと帰る電車の中で隣り合ったワカモノが松明の燃えさしを持っていて話しかける。明治大の2年生で「なんで来たの」と訊けば「中上健次の・・・」という。神倉神社と熊野三社の縁起もちゃんと知っていて、感心した。熊野大学は・と訊けば「柄谷さんもう来なくなったから」とまで言っていた。「いとうせいこうじゃなあ」とは意見が合った。

 勝浦に戻り久しぶりの「いろは寿司」で打ち上げ、競歩で一の滝へ戻り、お湯の時間延長をお願いして、ざぶん・するのだった。そのまま眠ってしまいたかった。


 熊野にコヨーテはおりません。
posted by 浪速のCAETANO at 16:55| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野大権現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

笑っちゃいかんが・・そして熊野

「ひゃあ・もう・なに・・・?なに・・?」

 昨日の深夜の自宅マンション一階での出来事だった。

 みなさん、ゴミってどんな放り方しますか? おれはなるべく手首のスナップ利かせて、それはもうすでにゴミの山が出来てる時に限るのだけど、昨日の場合は深夜2時、時間的にゴミもっこり・な時間帯であるし、そんな場合はゴミ置き場に人の気配があれば別だが、そうでなけりゃボーリングのフックの要領でちょうどゴミもっこりの中心に着地するように、ストレート・あるいは山なりの「投球」をすることにしているのだけど、その場合はゴミの山なんて見たくもないし、深夜にゴミを捨てにいくこと自体がもうそれはひとつのノリを作んないとイケない話で、玄関を開けた時からタタタターと駆け足で、しかもそんな時間であるし、うちの集合住宅も老齢化は確実に進み、みなさんかなりの早寝・なわけであって、ほとんどそんな時に人に遭遇したこともなく、そういった経験上、誰にも会わず、ゴミ捨てが遂行されるという経験上・かなりの確信を持ってエレヴェーター・または階段を使って一階まで行くのだが、その際も「ノリ」が継続するわけであって、タータタータタータタータ・「ター」という感じで、手首だけで顔はゴミ置き場に入れることなく放って、ゴミ捨ての儀は終了し、階段を一段飛ばしで駆け上り、玄関を開け「終了」となるのだった。

 昨夜も、ノリはあって、というかノリノリであって、気持ちよくその「儀」は終了するはずだった。

 で、手首のスナップを、ほらノリノリだから、いつもよりきっつく利かして、ものすごいいい投球をした0.01秒後にその声が聞こえたわけ。

 「ひー・もう・あー・きゃあ」と。

 おばちゃんが中にいた。おれの会心の投球がスピンしながらおばちゃんの顔面を直撃したみたいで、おれも見えてなかったからびっくらこいて、事の次第を確認し、ただひたすら謝った。人がいるなんてさ。

 「もう・○×○×●×・・・・て思うけどっ!!!」
と、捨て台詞を残して、階段を駆け上がっていったおばちゃん・ごめんなさい。

 しかし、ほんと、ごめんなさいなのだが、もうおれ、おかしくっておかしくって、いや・いかんと思うのよ。思うんだけど、笑けて笑けて、いや・ほんと反省してるのよ。反省してんだけど、部屋戻ってからも、ずーっと笑い続けてた。いや・ほんまいかんと思っとるんですよ。でもね・・・。止まんなかったの。

 葬式とかで坊さんのお経の抑揚とかにハマって笑いこらえんのが大変な時ってあるでしょう。そんな感じ。

 しかし「カタいもんが」入ってなくてほんと良かった。柔らかい「生ゴミ」系のゴミでした。え・それもどーなのよ・って?

 いや・反省してますって。
 
 平穏な市民生活にも「落とし穴」いっぱいあるね。

 いや・ほんとに反省してますって。

 本日もまだあたたかい。少しハートにヴァイタミンが要るなと思い、今夜はバラク・オバマの就任式もあるが、熊野のことを考えてみる。

 もう20年ほど行っている。熊野に行き出してから海外旅行に行っていない。だからパスポートは切れている。

 先日おれが最も好きな路・R168を奈良県五條から和歌山県新宮まで実はなんと路線バスが走っていて、それを延々映す、そして途中下車しながら地元のヒトビトとカルく触れ合う・なんて番組がBSでやってて、そんなことをクルマ使ってできないかなあ・などカメラの瀧村くんとハナシしていたから、おっ・と思ったわけだった。

 おれがアルファでぶっ飛ばしても2時間ほどかかる。だからバスだと4時間5時間かかる路なのだが、紀伊山地を縦断しながらえっちらおっちら走り続けるバスの旅もよかろうね・と思ったものだった。

 まあ和歌山というか熊野はどう転んでも行くのに時間がかかる。オーシャンアローだっけ、あれでも4・5時間かかったはずだ。もっとも楽な路は阪和からR42を朝来までいきそこから中辺路というルートだが、阪和降りてから白浜の辺り、アホほど渋滞していて、興ざめである。それなら、路は崩壊するかも知らんが、R168の「オトコの山越え」を選びたいわけである。

 R168はフィアット・パンダでもシトロエンBXでもルノー・トゥインゴでもランチア・プリズマ・インテグラーレでもプジョー309GTiでもアルファ75V6でもサーブ900ターボ・コンヴァーチブルでももちろん今のアルファ155・ツインスパークでも走ったが、一番合ってるなと思ったのはプジョー309GTiだったかな。もちろんどのクルマだってそれなりのFUN TO DRIVEではあったのだ。プジョーのあの前足がびたっと決まったややアンダーなステアリングで力ずくでコーナーをひとつずつやっつけていく感じ、たまらない。五条までがまあまあ渋滞して、しかしそのあとはほとんどクルマはいず、星の里まで上りが続き、そして風屋ダムが見えてきたら、そこからは右に信じられないVERDEな熊野川の水を見ながらきっついコーナーをクリアしていく。谷瀬の吊り橋を越え、十津川温泉を通過して、しばらくすると今度は左に熊野川である。その頃には路は下りとなり、ここは小ちゃなクルマがいいのね。しばらく行くと一の滝、そして大斎原の元熊野本宮大社(当時は大鳥居はまだなかった)が見え、現在の熊野本宮大社へと到着する。

 R168は今だいぶ良くはなってはいるが、まだまだ一車線の箇所も多く、ご存知のように崩壊がカメラで捉えられたあの崩壊部分はいまだに工事中で旧168で迂回しないといけない。

 まあ・なんか大変なのだ。行って帰るのが。

 しかし、行っただけのことはある。すばらしい温泉とおいしい食べ物、そして何よりも熊野大権現である。

 おれは伊勢神宮が嫌いで・というか体質に合わず、なんでかなあ・と思っていた。熊野は全然大丈夫なのにな・と思っていた。であるときふと気づいたのだが奉られている「カミ」によるのだな・とわかった。

 伊勢は天皇の祖先・天照大神である。これが「合わん」

 熊野は家都美御子大神=素戔嗚大神(スサノオ)である。ナガスネヒコではないのか・とも言われている。

 征服者と非征服者と言ってもいいかと思う。もっとも本宮には天照大神も第四殿におわしますがね。家都美御子大神の本地佛は阿弥陀如来である。神仏習合である。これこそ日本人の智慧。

 だからなのだ・と勝手に思っている。おれは伊勢に行くと体調が悪くなる。伊勢神宮に行くと・ということね。

 本宮からまたまたR168を南下する。この路がまた気持ちいい。ここまでくると、熊野川は水平に流れ、素晴らしいシャッター・ポイントも数多く存在する。20分ほどのぶっ飛ばし後新宮へ着く。中上さんの故郷だ。

 神倉神社・そして熊野新宮がある。おれは一度でいいから2/6の「火祭り」を見てみたいのだが、毎年私立校入試の前日か前々日なのだ。毎年がっくり・なのだが、いつかそのうち・と思っている。

 新宮はその名とは矛盾し、実は熊野三山のなかではもっとも歴史の旧い神社である。最初はおれもわかんなかった。本宮があまりにすばらしいロケーションにあったからなのだけど。そして那智もそのご神体である巨大お○んことも言えるあの大滝の存在がまたイムパクトが強くて、なんとなく一番ジミぢゃん・なんて思っとったのだが、そうはイカのきんたま・速玉(新宮)から熊野の神社は始まったのだ。もっとほんとのことを言うと(言えよ!!)新宮にある神倉神社がその縁起の始まりなのだ。つまり街としての新宮から始まったというわけね。中上さんの墓もこの街のはずれにある。なんだか「殴られそうな」墓である。

 そこから勝浦方面へとR42をまた飛ばすわけだけど、左に今度は熊野灘を見ながら飛ばすわけだけど、勝浦のちょっと前、佐野という土地が有り、そこが神武東征の時の上陸地と言われている。古事記によると、「毒」にやられてみんな気絶・と言われている。ナガスネヒコへのリヴェンジを神武が果たすのだが、そこではナガスネヒコの弟の裏切りがあった。

 しかし、昔の日本というか日本はまだないが、当時は「だまし討ち」があったり前田のクラッカーなのであって、全然そういうとこカミたちはココロイタまないのね。倫理などはなかったみたい。マキャベリズムの極み・みたいなことでした。

 そこから那智へと上るのだが、曲がったすぐのところに補陀洛山寺がある。補陀洛渡海の補陀洛山寺だ。西方浄土を目指し、何人もの僧がわずかな食糧と水を持ち、そこから海へと帰らぬ旅に出た。その補陀洛山寺からずーっと上っていくと、途中で巨大お○んこが「ちら」「ちら」と見えてくる。

 おれはいつも思うのだけど、やっぱみんな同じようなこと思ってたんだね・と思う。中上さんも、三島由紀夫だって、そんなこと書いてた。クルマを停めて滝壺まで行くとちいちゃな細かい飛沫に全身が覆われ、オゾンやらマイナスイオンやらが充満しているのがわかる。那智大社へも上って、青岸渡寺から眺める巨大お○んこがまたまた素晴らしい。

 那智大社から少し上ると、一遍上人が熊野大権現に出会った「大門坂」もある。那智の滝はその上の二の滝も素晴らしい。しかし、その水量のものすごさは熊野の森のものすごさのほんの末端の表現なのである。

 熊野は食べ物もおいしい。酒も太平洋・がある。なんといってもサカナが旨い。カツオ・マグロはとれとれである。勝浦がいいかな。馴染みの寿司屋が2軒ある。いつもどっちかしかいけず、行かなかったほうに「ごめんちゃい」するのだが、どっちもそれなりにすばらしい。

 お湯は湯川を推す。日本最高の「お湯」である。おれはぬる目が好きだからってのもあるが。湯川から山の方に入っていったところに秘湯もある。湯川駅から臨む海水浴場と入り込んだ湾の対岸に見える太地の街の風景を見ると、若かりし日々の想い出が甦り、おれは泣いてしまう。

 その太地町もいい。くじら博物館で今度はホンモノのクジラの巨大チン○&お○んこに自信なくすのもいいが、そこから山にのぼって梶取崎と燈明崎という岬から太平洋を臨める。一般に穏やかな熊野灘だが、ここから見る海は「オトコの海」である。岩場が多いからだ。

 R42を戻って串本まで行くのもいい。串本からは今では橋が架かってしまったが、昔はほんの5分間フェリーというのがあり、「ここは串本むかいは大島、仲を取り持つ連絡船」という歌でもわかるかと思うが、近いんだけど船で・というなかなかに旅情をかき立てるものがあった。

 大島にも馴染みの民宿がある。戻って橋杭岩に驚いたり、花の磐でイザナミのお○んこの熱さに想像を膨らませてみたり、そこから大阪方面へ向かい、龍神に抜けて、別の種類の温泉につかり、至上最高の露天風呂でたばこを吸い、そこから至上最高の高野龍神スカイラインをほんとにぶっ飛ばし、高野山の奥の院で空海に会い、宿坊で一泊し、朝のお勤めをして精進料理を食べて帰って来れたらよいですなあ。



 


 
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2007年11月21日

インターヴァルの後

 2週間ほどMacが入院していて、仕方がないからお手紙書〜いた、さっきの手紙のご用事な〜に、ではなくって、その関連ではなくやっと退院しよったのだが、迷惑メールが701通来ていた。頼みたい。消すの大変やっちゅーのよ。

 TVっ子になっていたからバカ化が進んだ。寒くなったから鍋焼きうどんがすすんだ。その間ストーヴが出た。一気に初冬と化した日本列島であった。秋の風情と言われるもの・とってもいいものだが、短い。短さは貴重さと言い替えられ、今年は春のほんわかも「一瞬!!!」だったかと思うが、愛想ない。愛想ないぜ。12月は寒いと言う。それは困った・困る。寒いのは苦手だ。活動量が一気に落ちる冬眠体質かもしれない。

 熊野に行って来た。一回死んで生き返るためにである。必要な事だったのだが、うまく再生できたのかどうかよくわからない。Macは再生しやがった。おれはどーなのか・よくわからない。8vはイタ車であることをわかっちゃいたんだが、ハイオク満タン奮発してしまって、行きのR168は車内がガスくさ〜・でアセった。ガスが気化しているわけだし、タバコを吸うのが憚られ、チョーシ出なかった。しかし大雲取を歩き、湯の峰に泊まり、熊野大権現に500円奮発してきた。ほんとは千円いっときたかったのだが、まだちょいと人間小さいのだった。大社前にはコーナンが出来、憤るわけだった。火でもつけたろか・なんて気にもなる。地元のおっちゃんと喋り、川岸が蛇行により削れてきていること・R168はすべての箇所で崩落の危険を含む事・等、再認識させられるのだった。十津川付近の崩落現場は未だ迂回路の状態で、開通もなかなか先が見えず、カネに目が眩んで杉ばっかり植えた浅薄さのツケがダブルで来てる・というところである。一本杉切って3000円だってさ。なんのために・・・・・なんて思ってるのだろう・関係者。湯の峰でじいっとしていたかったし、していたのだが、やっぱり最高の場所でそれは至福の時で、後はうまく再生できたかどうか・だ。

 あと今年も40日である。ディックの描く世界を地でいく現実の中、うまく乗り越えれるかな。受験期であった・そろそろ。 

3moon001s_H13.jpg熊野・那智・速玉の御三月



 
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2006年12月08日

・・・ホリック

 さて、気分転換に最も愛すべき場・熊野のこと。

 よく「海外が切れる」という表現ありましたね。バブルの時代に。当時OLのねーさんたち、円高を背景に海外行きまくってた頃のこと。それから世界はマッチモアディンジャラスになって、そして日本はデフレなんかになっちゃって、これらはどちらも「初体験」な出来事で、さらに日本人の自信喪失なんかとも関連して、出不精になっちゃったりしたのだけど、その当時の海外が切れる・という言い方・言い得て妙であると思った。日本に刺激がないことの証拠だったからね。その後、国内のワカモノを「バカ化」させ、共同体を消去させ、人を孤立化し、そのバカに見合った文化・スポーツ・芸術・ケータイなんかを与え、それで儲かることに気づいたメディア・レコード会社・メーカー(つまり経済界)は、もう暗黙の了解で、政治とも絡み、日本のスキューイング トゥ ライト(これは世界の各民族の右傾化とも関連した「傾向」だったが) 見事に「別のバカ国家」に日本を作り替えてしまった・というわけだけど、おかげで日本全国右へ倣え状態が続き、どこへいってもあるものといえばチェーンとフランチャイズだらけで、やっと最近になってその地方ならではの個性を没にする事にやや危機感を覚えた方々が草の根的に小さな運動体となって活動してらっしゃるが、そんなことが「ビンボー臭く」見えることまでおカミの方では計算ずくなのであって、何か大きなモノに反抗する事がダサく、暴力的な情熱を持って何か既成のものを護ることの方がムネにジンと来る・なんて設定までやってくれてる・という念の入れようである。

 で、日本が変容する前に「キンタマ元気」時代を送った身としては、どーもこれ・生きにくい。
いや・まじで。まあ世の中ワカモノだけじゃなく、オトナだってそれ以上に「金のドレイ化」してやがるから、ワカモノがそうなるのもわからんではないんだが、サンプルがしょーもないのしかないんだからね。不毛なのに究極的選択を迫られる。(1)〜(3)のどれか選んでちょーだい。「えー?おれ・(4)」なんてさらにバカならかえって救われるのだが、ほら・そこは、ちっちゃくても反抗ってダサイことになっちゃってるからさ。

 そんなウンコまみれの時代に、まだまだ何度も行きたい場所がある。それが熊野である。おれの場合,「熊野が切れる」とどんどん世俗化していく。それを引き戻してくれるのが熊野なのであって、高い山と緑の熊野川とラ・メールな大洋とついついぶっ飛ばしたくなるぐりんぐりんカーヴと海・山の幸と柔らかいお湯とやさしいヒトと温かい気候と霊験あらたかな自然とエネルギーそのもののカミとその棲み家のあるトポスなのだ。
 本格的に行き出したのは20年ほど前で中上健次の「岬」読むのを10年間タメ、熊野で読み切る・なんて手が込んどったのよ。なんだかんだで30回ほど行ったかなあ。まだ後鳥羽上皇にはかなわないが後白河法皇とは競ってきたと思う。熊野本宮のありがたさは云うにおよばずだが、熊野という土地は神社だけではなく、森の中に一歩足を踏み入れた途端わかるのだが、熊野大権現がどこにでもいる・と感じるのね。不思議な場所だ。熊野古道の一部を歩いた時にもそれは感じた。古道と言うが路ではなく、それはトンネルに近いものだった。ほんとに素晴らしい空間で、過去の参拝者は熊野本宮に到達する以前にその古道を歩いている時に「エクスタシー」をすでに感じていたのだということがよくわかった。おれのボログルマたち(フィアット・シトロエン・ランチア・アルファ・プジョー・ルノー・サーブ)もよくがんばった。熊野川の緑色を横目で眺めながらぐりんぐりんカーヴを高速でクリアしていく時、熊野灘の碧を横目で眺めながらR42を流す時、生きているという実感に包まれ、その自分の第一級の喜びがどうしてみなさんの第一級の喜びではないのだろうか・とふと思った事がある。今・人がスポイルされることがこんなに簡単な時代もないと思う。おれだってスポイルされてもいい部分はもう立ち直れないぐらいスポイルされている。しかし、まだ熊野の自然(それはカミそのものなのだが)に包まれる時に感じる「至福感」があると「まだいける」と確認する。

 随分楽になったとは言えいまだに熊野にいくにはパワーが要る。それは中世の熊野詣でとちっとも変わらないと思う。後鳥羽上皇・後白河法皇も今のおれのこんな感じだったんだな・と分かる。
「熊野が切れとんねん」
 そんな場所を持つことはこの上ない幸せかもしれないと思う。こんなウンコまみれの日本の中で。
takiaki2.jpg那智の滝をよく「巨大お○んこ」と形容するが、それをカミというのはたいへんわかりやすい・と自画自賛。
ラベル:熊野
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2006年03月29日

死の場所・再生の地

 スケジュールの隙間を縫って「熊野詣」をしたい。

 いつものような晴れがましい心理状態ではなく、何かに追いかけられ、追いつめられるかのような気持ちで紀伊半島南部へ向かうのはこれまでの感覚から言えば、熊野大権現には申し訳なく、はなはだ失礼極まりない所業であるような気もする。とはいえ、このような心境から、いても立ってもいられず熊野へと向かう決断をした人々が過去にも間違いなくいたはずであるし、そういった心に傷をもつ人間に対して分け隔てなく慈悲の目を向けてくれるのが「熊野大権現」であることもまた感覚的にわかるのだ。それは事実である。

 本地垂迹説に従えば、印度におわしました「阿弥陀如来」が自らは家都美御子(けつみみこ)大神=すさのおのみこと・となり、「薬師如来」である熊野速玉(はやたま)大神=いざなぎのみこと・「千手観音菩薩」である熊野夫須美(ふすみ)大神=いざなみのみこと・を伴い「大斎原(おおゆのはら)」へと「三体月」となって舞い降り、本宮・那智・速玉の由来となるわけだけれども、熊野自体、過去より、吉野とともに「山岳修験」の重要な聖地でもあった。
3moon001s_H13.jpg「Three MOONs」
 そもそも熊野という土地は、熊野灘を流れる黒潮がもたらす暖気と水蒸気によって有数の多雨地帯であって、その水のチカラによって豊かな森が存在し・その水はいくつもの大きな滝となり岩を浸食し、多くの渓谷・奇岩を造り上げている。その深い森はどこまでも続き、一旦迷い込めば永遠にこの緑にむせかえる空気を呼吸し続けなければならないのだ・と諦めかけた頃、突然目の前には雄々しく荒い・しかし日本海のそれのようなさびしさはかけらもない大きな海が現れる。その海にはその色よりもさらに濃いみどりの熊野川からの森の栄養をたっぷり含んだ水が流れ込む。

 この森・川・海は宝物であり、熊野の人々はこの土地でこれらの宝物からの恵みによって暮らしてきた。大きな森・大きな川・そして大きな海。それらはそれ自身宇宙であり・曼荼羅であり、そのことは多様な動植物の生態系を担保し、それはまた生命とともに移動するエネルギーの流れでもある。

 熊野の人々の知性は、同時に、生きる糧をもたらしてくれるその圧倒的な「自然」に「不思議と畏れ」を見・感じていた。その先にあるもの・それは「神」なのだけれど、かつてのそして現在の熊野の人々と同じような感覚は、ぼくたちもその・特に森に一歩足を踏み入れれば、誰だってその言葉が無力に感じる思いにとらわれるだろう。印度の仏が神として熊野に降りて来たことを「当たり前」のこととして理解することができるだろう。

 中世から近代、人は・老いも若きも・やむごとなきひとびともお百姓さんも熊野を目指した。その人々が歩いた路・熊野古道は、今それを歩くものにとって、路であって路ではない何か・である。熊野大権現へ至る路であると同時に、それは熊野の生態系へと同化していく過程でもあり、果てしなく長い栄光のエア・トンネルであり、その精神においては「疲労と憧憬」という相容れぬ感情がないまぜとなり、熊野大権現へ至らずとも熊野大権現を体験する場でもあるのだ。一遍上人も熊野本宮へとは未だ至らない地点で熊野大権現と出合っている。しかし、よく考えてみると、今踏みしめている土や周りに生い茂る草、そして苔むした地面を這い回っているムシたちから無数にある杉木立・さらにはその中でひときわ大きい杉の背後で息を凝らし、ぼくたちをじっと待っているかもしれない熊にいたるまで、実はそれは熊野大権現の化身なのである。

 熊野古道を疲労の中歩くことや、R168を小さなヨーロッパ車でかっとんで熊野本宮大社へと至ることは自らに「死の予感」を感じさせる行為である。いや、ぼくたちは実際に一度死ぬのだ。雲取越の円座石(わろうだいし)や熊野川の尋常ではないその緑色は実はこの世のものではないのだ。あれが現実であるはずがないじゃないか。ぼくたちはその瞬間確かに死んでいるのだ。そして死ぬことこそが最も重要な熊野詣の必要条件なのだ。

 神武東征の最終段階・八咫烏が神武を大和へと導いたその路が熊野古道のプロトタイプではなかったのか。ぼくたちはその路を意識の上では逆にたどって本宮へと向かう。

 大斎原や本宮を体験し、湯の峰のお湯につかり、森・川・海の恵みを味わい、持参のワインや酒の酔いに負けて意識が奈落の底へ落ちていくとき、人は「熊野詣による死という現象」の最後を向かえる。そして寝ている間にその魂は身体を離れ、熊野の森を飛び回り、熊野大権現と触れ合い、朝方戻ってくる。

 朝、目が覚めても、人は自分が一度死んだことには気づかない。温泉で炊いた粥を食べ、温泉コーヒーを飲み、温泉で茹でた卵を剥き、熊野詣は終わろうとしている。家に戻って軽い疲労感の中「もやっ」とした感情が胸の辺りにあることに気づくが、人は日常に紛れてそんなことがあったことも忘れてしまう。しばらくして新しいものの考え方をしていることに気づく人がたまにいる。その中の何人かはその考え方が殻をもっていることに気づく。そしてその中の何人かはその殻をむいてみる。そこには「おまえがどのように変容しようともわたしは森・川・海・生き物とともにここに永遠に存在している」というエネルギーの体を成したメッセージが飛び出す。運のいい人はそのメッセージを読み取ることができるだろう。

 今頃、熊野の桜は満開だろう。
posted by 浪速のCAETANO at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊野大権現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする