2026年02月17日

かぐや姫

世間は、というか一般の人々は「olympiad」みたいですね。今回とか「なんの興味も」見事にだが、ない。そっち追いかけてる人とも「話」が合わん。

りくりゅう(やった?)の金メダルっていうのも今日知った。へ〜・だった。それなりの「ドラマ」があったみたいね。で、もう興味はなくなった。前ぐらいまでは「バイアスロン」とか飲みながら見てたんだけどね。ついて行けてないでしょう。いいのいいの。逆に嬉しいわ。いや少しは見てみようとも思ってんのよ。頑なではないんです。


今のおれの興味といえば、そうだなあ:

Momoco TanikawaとFemke Bol。それ以外、「?」だなあ。まあ、アホと話・合わん方がめんどくさくなくてええかな。

Japanese、チョロい。目の前に現れた「娯楽」に確実にやられる。おそらく、憲法改悪されても、緊急事態条項発令されても、もっと言うなら「戦争始まっても」まあこんな日常が続くんじゃないかな。

かつての戦時においても、一般の人が「えええっ!」って本格的に戦争を意識したのは「本土空襲」を受けて初めてだった。もう終盤も終盤、大本営に騙され続けた挙句のタイミングだったね。

であるなら、ミサイルが原発目掛けて飛んでくるか来ないかのタイミングにおいて、おれもアホなら君らもアホで、つまり、そんな悲惨な現実の蓋然性から精神的に逃れるための「束の間の愉しみ」を求めるとするなら、おれは自分の音楽にエネルギーを費やすかな。今までええ加減に・というか些事にかまけてたことをやや後悔せんでもないが努力などとは遠く離れて生きてきた自分歴史をどうこう言うてもしゃ〜ないのね。こういう風にしか「できなかった」んだから。


音楽やってて(できて)良かった・気がする。


なかなかいいコンディションでライヴをできないので「う〜ん」なのだがたまたまやけど2/14のはやっててほんと気持ちよかったな。お客もよかった。おれも朝から3コマ授業して疲れ切ってたのが「力抜けて」よかったんだろう。



今また「空飛び猫(CatWings)」に続いて詞を書いていて、仕事もややマシになったこともあり、啓蟄近づいてることもあり、寒さもひと段落しつつあるのもあり、ゆっくりと時間をとっている。その時間って「無駄が90%」ほどあって、側から見られてたらほとんど「アホ」にしか見えないだろうな。だって、10%ほどのちょっとした集中と9割の「無駄タイム」なので。人の集中力って15分ぐらいが限界じゃないすかね。人のことはわかんないのだけど。



さて、今書いてる曲、「Luna=Lua=Moon」がちょっとしたテーマなんだが、ところで「かぐや姫」のことはみんな知ってると思うのだけど、いつどこで書かれたまではみんな知らないと思う。

あれ、すごい完成度の「政治風刺物語 Plus  SF」なんですが、一部は事実なんです。


紫式部をして「まず物語の出で初めの祖なる」と言わしめた一大画期となった歴史小説。


かぐや姫は「九州王朝の内親王」。登場人物:

石作皇子・車持皇子・右大臣阿部のみむらじ・大納言大伴御行・中納言石上麻呂足

現実の人物(右・from 日本書紀):

石作皇子=右大臣丹比真人

右大臣阿部のみむらじ=大納言阿部朝臣御主人

大納言大伴御行=大納言大伴宿禰御行

中納言石上麻呂足=石上朝臣麻呂

そして車持皇子=藤原朝臣不比等


663年の白村江の戦いに敗れ凋落した九州王朝・倭国が、それに取り代わって近畿で昇竜の如く立ち上がった近畿王朝(のちの大和朝廷)と「もう妥協せずにはあかんわ」・と観念して命名した年号が実は「大化(695年)」なのであって、みなさんの知ってる大化の改新(645)はFakeなのね。そんな時期に近畿の王朝には「年号」などという概念さえありませんので。それから701の「大宝」になるのだがここには「おおっ・九州王朝の三種の神器をとうとうゲットしたぜええ・yeah!」という意味が込められてます。

飛ぶが、蘇我入鹿の「大化の改新=乙巳のクーデター」は大海人皇子(天武)の息子・高市皇子の暗殺(696=大化2年)にヒントを得た「創作」だと見ています。実は高市皇子の息子・長屋王は「長屋親王」であり、ということは高市皇子は高市天皇だったわけで、ここはさららちゃん(持統)が本当に帝位についてたのかという疑問もあり、疑わしいことだらけ。日本書紀は初めから最後まで「narrative」の可能性なのね。知っとこうね。plus明日香村にアホほど通うおれにはどうも明日香村=テーマ・パークに思えてきてしゃ〜ないのね。つまり「蘇我氏の実存」にも疑問がある・ということね。ちなみに、日本書紀の編集責任者は藤原朝臣不比等。


戻るが、その三種の神器を手渡す・という主体が実は「かぐや姫」だったのね。九州王朝・倭国の高貴な姫。そして、その嫁ぎ先(というか求婚者だね)はというと、天武の孫にあたる軽皇子(のちの文武天皇)だったのだが、ここでタイミングの悲劇が起こる、不比等の娘・宮子と親王であった軽皇子の間に首皇子(のちの聖武天皇)が生まれ。そして持統が702に崩御したことと重なり、かぐや姫の「お輿入れ」は永久に延期となる。当時の最大の実力者・それは藤原朝臣不比等。

ちょっと飛ぶが、この時(大宝律令=九州王朝のパクリ〜日本書紀の成立によりFake国史の完成)から・つまり近畿王朝の天皇制は「初めっから」藤原天皇制だったちゅうことなのね。ガチ右翼ならここマジ切れしなあかんとこ。最初から「君側の奸」がおったわけ・なので。

戻るが、で、なんと、オヤジのスケベは古今東西共通。上記・5名のオヤジたちが「かぐや姫争奪戦」を繰り広げることになった。

九州王朝・倭国のラスト・プリンセス=かぐや姫はそれでも自分の反射神経や機知でオヤジらの魔の手から、逃れ、それぞれに報いを与え、読む側の溜飲を下げることになるのだが、ではそもそも「竹取物語」とはなんだったのだろう?

それは、『竹取=竹斯(筑紫)取り物語』であり、最後、かぐや姫は月へ帰る際に帝に「不死」の薬を渡すが、帝は「あなたなしではなんの意味もない」とそれを「富士」の山で焼くところで終わる。さらに不死=富士=藤。

言っておくが日本書紀は「藤原京」は持統と不比等によって成されたと書くが、違います。天武です。九州王朝の血を引く天武が「大和朝廷」を開いた。その死後、不比等によってそれは「捻じ曲げられた」けれどね。

「藤」とは九州王朝の天皇家のセカンド・ファミリー・ネームである(1stはアマ)。天武の思いはその「藤の源」という意味の藤原京だったのだが、中臣がその名を「いただいた(取った)」わけです。

7~8世紀は「王朝交代」が多くの血を流しつつも行われたのだが、それは「九州→近畿」というのみならず「→藤原」という恐ろしい流れに落ち着くのである。当然、日本書紀はその補完の役割ね。

もちろん「かぐや姫」の出自も隠される。竹取物語は「お伽噺」ということになっている。だが、正しくは上記・のようなことだった。

紫式部ねえさんは「史書とか嘘しか書いてないし、もう私は歌だけ詠むわ」と怒っている。ねえさん、さすがである。大和言葉も「ここから」ですよ。それ以前には「nothing」なので、「悠久のやまとことば」とか嘘やしな。


posted by 浪速のCAETANO at 15:35| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月24日

こんがらがって・・・バカだらけ

令和図書の教科書・検定通ったみたいである。あ〜あ。

くそうよのくそうよによるくそうよのための教科書。そしてバナナ・な人たちがそれを入試のために丸暗記。まあそのう「地獄の一側面」かな・と。

彼らは「後醍醐」が好きみたいである。建武の新政の後醍醐であるが、後醍醐が他の近畿天皇と異なるところ、それは端的に言うなら「権威と権力」を併せ持った存在・とされているところだろうか。「元首としての天皇」が都合いいからね。

彼らは「神武」も好きである。上記の理由でしょうね。

一方で津田左右吉による「神武架空説」「神武・崇神同一人物説」も「それ」に対抗する戦後の定説にもなっている。


おれから言わせると「どっちもどっち」である。

後醍醐は「中世」の話。「異形の王権」という網野善彦の面白い本があった。ん?中沢新一やったかな。中沢さんやね。混同していた。甥っ子ね。

網野さんの中世シリーズは面白い。「石礫」の話とか、印象に残っている。まあ中世においても歴史は捏造されてきていたわけであって、その掘り起こしに尽力されたもの・と理解している。網野善彦ね。

まあそこはいい。中世。


問題はくそうよの天敵であるとされる津田左右吉でさえ「日本紀」の呪縛から逃れ得ていないことなのね。

神武は実在するし、崇神も別人として実在する。

なんかね、結果おれが言うことは「くそうよ」をsupportするかのような側面があって嫌なんだけど、fact is factであるからしょうがない。

何度も言ってるが全ては「日本紀の大きな嘘」から始まってしまった。1300年にもわたる巨大な嘘。罪深い話だった。


九州王朝の天皇(天子)は「現世的権威・権力そして非現世的権威」まで身に纏おうとしていた。非現世的権威とは宗教的権威である。仏教における「法王」として君臨していた。

前にも書いたが九州年号における世俗の年号に被って宗教的年号が併用された時期があり、それは「アマタリシホコ」「リ・コウタリノリ」の親子の時代である。

であるから北狄(倭国は東夷)である隋の煬帝に向かって「キミも仏教やってんだって?へ〜」みたいな挑発的物言いができたわけである。6世紀のことである。

これが来るべき「白村江@7C」の惨状を招くことにもなるんだけど。


くそうよの言っている理想って嘘の日本紀を3回ひねりさせたほどの曲解に基づく大日本帝国であるからね。そこ良〜っく見ましょうね。その根底には頭に変な虫棲んでるばかクソ御用学者たちが政府のass licker(いや失礼washlet)としてせっせと仕事してるからなんだが、戦後の古代学自体が(一つは反動から)歪んでることが大きなその要因にもなってしまってるのね。

奴らの「バカ度」は相当で、「日本紀に書いてあるからさ〜」とかそんな結論だから、もうバカにも「程がある」わけよね。そんなんやったらお前の存在根拠はなんやねん・という話にならんかね。最初にボタン3つほど掛け違えてるわけで、お前どんな服の着方してんねん、それで街歩いてみろや、それ変質者やろ、みたいなことだよ。ヤバいからね。それで目〜イってたりしたら即収監やで。


くそうよに「一部の理」はなくはない。なんだけど、それって2・3周回って表面だけ「整合」っぽくなってるだけで、その歴史的事実は「とんでも事実」で、てことは嘘で、ボタン3つ掛け違えて上着が駄々ズレなところをまたジーンズのボタン掛け違えてなんかズレた上着がジーンズ内に収まっちゃった・うふん、みたいなもんである。

街歩いてみろや。

もうほとんどキチ⭕️イの黒川某が「おじいちゃんの時代からCIA」みたいな、お、そこだけは正解、と似てる?似てない?どっち?

それほど「ひどい」。


論理性も勇気もないバカ学者たちが「根拠の薄〜い嘘」で地盤を固めたからくそうよたちがチョ〜シこくのよ。

九州王朝を早く認めなさい。










posted by 浪速のCAETANO at 11:16| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月18日

インカと列島縄文人

世界を旅するyoutuber多いけれど、keiさんと言うなかなかすごい女性がいて、その彼女が「Peru・マチュピチュ」遺跡に行った際に、こんなことを言っていた。

「インカ帝国」の王室は民衆の言葉をしゃべっているのではなく、そこでしゃべられていた言葉は『Japanese』だった・と。


「それ、とんでも情報じゃん」


そう思う人多いだろうね。

うん、おれも「ある事実」を知らないでいたならそう思っただろう。

でもね、それは「可能性」なんです。


「その事実」とは;


縄文人が太平洋を渡っていた・です


マジかい?と思われる人も多いだろう。昔のことって「わからないこと」多い。そして、現代人は歴史を「進化」と捉える「癖」が身についている。

過去より今の方が「進歩」している。そこに疑いを持たない人、多いだろう。

だが、果たしてそうか?

ほんまにそうか?


魏志倭人伝に記されている「黒歯国・裸国」、そこへ行くには「半年の水行」が必要だという。すごいと思うのは行っただけじゃなくて「帰ってきた人」もいる・と言うことね。でないと、その存在はわかんないからね。

その「故意か偶然か」はわかんないが(おそらく後者)魚獲りに行った際に海流に流されて、偶然とかなりの幸運に恵まれて南米へと辿り着いた。

常識人たちは、「んな・アホな」と言うに違いない。だが、その常識・とやらも、おれたちの「生きた時間」を反映したものでしかない・とはこんだけ地震が起こっている今・そしてほとんど起こらなかった1950~1995のことを振り返ってみたなら足元からガラガラ・みたいなことだよね。


疑問はわかる。水と食料ね。

食料は「魚」。太平洋のど真ん中の魚たち、ナイーヴなのよね、沿岸の彼らと違って。だって獲られたことなんてないんだから。plus勝手に跳ねたついでに飛び込んでくるのもいる。

まあそれはわかったが、もっとindispensableは「水」だろ?海水飲んだら死ぬやんけ・そう思う人もいる。それはナチュラルな疑問ね。

水は「雨水」。洋上だから雨はしょっちゅう降る。「そりゃそうかも知らんが、でもさ、延々上向いて口開けてるわけ?飲みたい時に飲めないじゃん」その通り。


縄文時代、こちらの列島は「最高に先進国だった」って知ってる?何に関して?

セラミック技術に関してよ


世界になくて当時の列島にあったもの、それは:

土器。


縄文土器です。あの岡本太郎が絶賛した縄文土器なのね。


なぜ土器が発達したか?それは「火山」の存在なんです。溶岩の噴出に伴い、土が変質することに気付いた縄文人の誰かがそれを「開発・普及」させたわけよね。素晴らしい。

くそうよも「japanすごい」を言うなら、そこ言えよ。そこは本当にすごいことなのに。バカは死ぬまでバカだからな。

縄文人漁師の必需品であったことは疑う余地はない。喉乾くもんね。


飛ぶが、それは大陸にも伝わった。中国にも・って意味よ。ちょっと怖いこと言おうか。

普通、モノが他の国から伝わる際に、そのモノの名前(発音)は当然だが伝わる。後にその地域の言葉に置き換えられるとしても・よ。plusそのモノの「周辺」の言葉も同時に伝わる・とは考えられないか?それを使う際の「動詞」であるとか。

おれたちも「外来語」をそうやって使ってる。テレビがあった時にスイッチとかチャンネルとか。

それも同時に大陸に伝わってる・と考えることに「無理」があるだろうか?50/50だと思う。

さすれば、おれたちが発音から流用することになった漢字(万葉仮名)へのfeedbackだって考えられる・というものである。

くそうよもそういうとこ研究して「japan すんごい」をさらなる高みまで押し上げていただきたいものである。


戻るが、「黒歯国・裸国」とは当時(魏志倭人伝・時)には周知の事実であったということ。大脳新皮質の調子悪い人は、それでも信じようとしないと思うが、その縄文漁師のついた先はエクアドルなんだけど、同様の土器が発達してるし、そしてこれがdefineteなんだが、縄文人しかもたない「寄生虫」と同じものが彼の地で発見されている。

10000年ほど前の話である。

さてインカ帝国はPeruの山奥。インカ帝国は15~16世紀。だいぶ年月は経っているね。

そういう技術を持った人々が「海の向こう」からやってきて、「貴種」となり、崇められ、その末裔がインカの王になった、と言うのは「かなり端折った」おれの妄想95%なのだが、possibilityではないですか?

そして王室では「保存されたjapanese」が喋られていた、と。


non-banana eaterの方限定でお訊きしてみたいがexcitingではない?それ。

インカ帝国に限らず、鉄も道具も限られた中での巨大かつ超精密な建造物の構築とか、今の常識では説明できないこと、多いのよ。たとえばモアイだったり、ピラミッド/スフィンクスとか。Peruなら髪の毛一本さえその隙間に入らない石の構築方法であるとか(それもR入ってたりする)、すごいからね。「進歩史観の限界」って割と多く見つけられるんだよね。



posted by 浪速のCAETANO at 12:24| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月22日

こんな身近に、あの軍港が

長崎は東西南を海に囲まれ、海を「含み」(大村湾=La Mer)というように、開かれている。長崎市の北部の実家からはどの方角へ進もうがあっという間に海が見える。内陸県の(例えば奈良)ように閉塞感はない。

九州新幹線が半端に開通するまでは長崎本線は旧特急かもめで有明海側を通って行き来していたなあ・と振り返る。つい最近まではそうだった。有明海にはムツゴローがいる。そして、長崎空港は大村湾内の人工島である。今回も空港までは船で往復した。


7C半ばの「白村江の戦い」。それまで続いてきた倭国の運命を決定した大戦だけどね。ここでは、その内容には触れない。もう散々書いてきてるのでね。今回はそのボロ負けする戦いへ向かう「船団」がどこから出航したのか・についてである。

一つだけ確認。「白村江の戦い」とは倭国(九州王朝)の唐・新羅に対する戦いである。

船団といっても当時の船だから「non-motor」。潮流に左右される。当時の首都は当然のことながら太宰府である。そして外交の窓口は博多沿岸。では、船はどこから出港したのか?

博多〜壱岐〜対馬〜朝鮮半島西部、と思うだろうね。最短の航路ならそうすべきだが、non-motorだからね。対馬から朝鮮半島西部までは「行けない」。対馬海流を逆行することになるからだ。当時の船にそれはキツい。だから西からぐい〜っと回り込むことになる。

「白村江の戦い」のための船団の出航は「有明海あるいは大村湾」だった。

ええっと、「大和朝廷」などといったことをいまだに信仰している頭の硬い・あるいは緩い方のためにちょっと言うとくと、大阪湾から出帆したとしたら結局、博多から北上しても海流に流され「あさって」方面へ着くことになって「わしら何してんねん?」ということになる。わかるよね。

さて、倭国軍は「大敗」し、天子は唐の捕虜になり、9年後、天子・薩夜麻は「唐の傀儡」となって戻ってくる。郭ムソウが「マッカーサー」として駐屯する。どこに?

有明海・大村湾・伊万里湾に、であった。占領軍は時に2000人を超えた。

そして九州はズタズタにされる。

馬の骨・中大兄皇子は「白村江の戦い」には協力せず、「行く行く詐欺」で、九州が潰れるのを未必の故意で見捨て、近江に都(のようなもの)を造る。

「白村江の戦い」が662。その9年後に薩夜麻が帰ってきて、その1年後に「壬申大乱(672)」が起こる。


さて、万葉集に現れる「多くの吉野の歌」柿本人麻呂のものも多い。天武の歌とされるものも多い。

この舞台は大和(奈良)ではない。吉野ヶ里の吉野、つまり肥前(佐賀県)なんですね。万葉集の「吉野」の歌を検証すれば「すぐに」わかります。山の高さだとか滝の存在だとか川のしょぼさとか、地形がその歌の高貴さとズレすぎなのね。ただしそれを九州の吉野へ持ってくると歌の素晴らしさが保存されるのね。

前にも書いたが、壬申大乱直前になぜ持統(さららちゃん=天武嫁)があんなに「頻繁に」吉野へ行ったのか?の疑問も解ける。

「淑人」がいたからよね。その淑人は唐の一大軍団を率いて9年に8度も訪れ、有明海(おそらく)岸を睥睨していたのだろう。有明海=倭国の最大の軍事拠点。

そして天智は672年1月に死ぬ。壬申大乱は同年6月に始まり7月に終わる。天武は郭ムソウの後押しを確約され、大友を破る。最後ちょっと端折ったが。




posted by 浪速のCAETANO at 20:19| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月27日

帰りは帰りで

鳥栖ICで降りて、シフトしないと死ぬ病・を治療する。しょっちゅうシフトしたら「治る」。

「人馬一体」感、増してきたね。w/ Panda 4*4だが。みなさん四駆のクルマって乗ったことある人・少ないと思います。まあおれもほとんどFFばっかりだった。クルマ取材なんかでRRの車など乗ると、全く・違ったね。例えていうなら「旧ビートル」。

後ろから「押される感」物凄い。チューンナップされてたクルマだったから余計に。前輪が「浮く」んじゃないか・なんて。

さて四駆である。Lancia Prisma Integraleと旧Pandaは「パートタイム四駆」だった。後輪溝にハマった時には役に立った。だはは・一回だけ。

フルタイム四駆のCurrent Pandaは「ちょっと楽しいぞ」と今回思った。だがハタから見ててもその楽しさはほとんど想像できないだろう。一般人の反応見てたらよくわかる。クルマに「知識・経験」がないと理解できないだろう。経験は「喜びと悲しみと出費」で構成されてるよ。

行きも帰りも「冷水峠」を通った。年寄りの冷や水・冷水を浴びせる・交尾中の犬に冷水w、なんかの冷水だけど、いい路だった。

何度か縦横と走ってる中で九州王朝内部事情というか九州王朝内マップというべきものがおれのアタマん中で構成されてきた。距離感とかそんなことも含めて。

太宰府を真ん中に置いて、西は糸島半島、南は久留米・八女、北は博多沿岸から宗像、東に行けば日田みたいなことだが。

しかし熟知するには「もっと無駄に」走らないとな。時間があれば「香椎宮」「須玖岡本遺跡」「岩戸山古墳」を訪れたかった。これは叶わず。


さて、実像として高良玉垂=仁徳で間違いない。あの逸話も高良大社からの眺望で正解。そこから倭の五王へ直結している。仁徳の父・応神が(お近くの)宇佐八幡宮に、祀られてることもこれで納得に近づく。

となれば近畿にある応神・仁徳陵って?ということになるね。あのね、「掘っても」三種の神器など、出てこないよ。無駄にでかい古墳なのだが、でかいにも意味があり、それは労役させる人数の増加に比例して・のことだった。

誰が誰を・というのは重要なことだが、(おれの中での)新説を一つ。それは;

崇神勢力が「神武勢力と饒速日勢力」を、です。ちょっと、これ面白い。まだ「練れてない」から詳細はまた来週・なのだが、C14放射性元素の解明によって、時代のずれが解消されてきていろんな訂正がなされたことにより、見えてきたことがあるのね。

今日のところは簡単に;

これまでおれも崇神は神武から連なる「樫原勢力」の中から出てきた・と考えていたのですが、どうも違う。崇神は任那からやってきた。「倭国の北限」。誰の意か・はわからない。本人の意か、あるいは九州王朝の命令か?

そしてその時代は三世紀。つまり崇神は「卑弥呼」を知っていた。ここ、ちょっと震えるほど面白い。その当時の箸墓古墳周辺の「突然の盛り上がり」なども加えると、またちょっと違った様相も見えてくる。

自分の中での疑問もあり、それは崇神の奈良侵入が神武の東征とコンセプトが酷似していること。ルートは異なれど、吉備勢力の関与であるとかね

やっぱり現地を回ると楽しい。次、いつ行けるのか、わかんないが、香椎宮・須玖岡本遺跡という「卑弥呼」がらみのサイトを回りたい。

三種の神器plus絹が出てるのは須玖岡本遺跡だけ。何を意味するかは自分で考えてね。魏志倭人伝に書いてあるよ。













posted by 浪速のCAETANO at 10:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月13日

高良玉垂(こうらたまたれ)命って?

おれは高良大社境内からの絶景を目にして仁徳の「民のかまどが・・・・・・」の逸話を想起した。


IMG_7301.JPGIMG_7300.JPG

標高をアプリで調べてみると290mと出た。

ほんと「絶景」で、向こうには背振山地。こちらに目をやると筑後川がうねっていて、その他は全て「平野」である。ここは久留米。高良大社に椿
市廃寺から2時間ほどpandaを走らせた。九州に来る前に奈良に行っていたが、奈良も「米取れそう」だったが行橋から久留米まで走ってると、いや〜筑後平野も「米」のための土地だなあ、そりゃさぞアマテラスは欲しかったろうな・と実感できるのだ。壱岐の・あるいは対馬のアマテラス一族にとって「米は黄金」だっただろう。

高良大社は久留米にあって「筑後国の一の宮」と言われている。筑後国とは「九州王朝」であるから九州王朝で最も大切な神を祀りました・ということである。

主神は高良玉垂命、副神は八幡神(応神でいいと思う)と住吉神(これもまあ武内宿禰でいいと思う)、さらに卑弥呼の宗女「壹与」と言われる神が祀られている。


ただ事ではない。

ここで、くそ正史に書かれていることをおさらいする必要がある。応神の父とされる仲哀、その妻は神功皇后、仲哀は神功皇后と武内宿禰の前で木原誠二妻の元夫ほどの情けなくも奇妙な死に方をしてしまう。紀・の編者にもそこ・思い入れないみたい。で、その
時前後して神功皇后(おきながたらしひめ)は孕ってしまう。その後、神功皇后は「ここが笑えるとこなのだが」お⭕️んこに大きめの石で「ふた」をして、新羅に攻めに行く。で、その後その蓋をとった瞬間(かどうかは知らんが・面白がって言ってる)生まれた子が応神であり・その子が仁徳。仁徳も仲哀が都に残してきた子を殺して自分が正統になる・そんな話だったと思う(間違ってたらごめんちゃい)「紀」を読んでみたらいいよ。

まあ全てが荒唐無稽。バカ学者ってこんなのを「信じてる」わけ?ちゃうやろ?それはまあ脚色入ってる・んやろうけど、うーんまあそれが正史
なんで〜、なんて「メンタル・病まん?」

おれはお前らのような御用くそ学者のメンタルの心配などしてあげないが、狂え狂え〜もっと狂え・なんて思ってますが。

でね、もう一つ荒唐無稽ついでに言うと、「おきながたらしひめ」はおそらく実在だと思うが(越のブラックスミスの出・おきながは息長と書く)、その完成形とされる神功皇后に「卑弥呼(ひみかやで・ってもうええっちゅうねん)と壹与」の二人分の実績を負わせてる。そんなん可哀想やん、お⭕️んこえっらいことになってる人の肩に倭の女王二人分なんてね。


飛んでたから戻るが、高良大社はこのようなヤバい三神と高良玉垂命を祀ってる。

でね、近畿王家が「ここまで無視する(無かったことにする)」神とはどう考えても九州王朝の「コア部」に位置する神であり、天孫降臨の事実からまあまだ近い人物だったという論理的推測ができる・と思うのね。だって高良大社は「筑後国=九州王朝の一の宮」ですよ。

くそ藤原氏の春日大社とは意味が違うのね。その区別つかないサルはバナナ食っとけばいいんだけど。

美味しい?


九州王朝も何度か「遷都」をしている。博多沿岸を北限とすると久留米が南限である。半島からの脅威に対応して南へ都を移すことは合理的。「呉」の脅威も無くなったからね。

でね、高良玉垂がどなたか・と言う話は「置いといて〜(置いとくんかい)」、そこに祀られてる副神のお二方のこと、そしてお二人に密接なお⭕️んこに大変な痛手を負った神功皇后のことを考えそして、仁徳がその直径の子孫であり、その仁徳の「竈エピソード」を合わせて考えるとその現場は「ここ・久留米の高良大社」である、と言わざるを得ない・て言うか言っちゃおう。

学者によっちゃ、応神・仁徳は「河内王朝」とも言われてるが、4世紀後半〜5世紀の存在とされてますけど、あんな、ばか学者たち、5世紀の倭の「五王の存在」と「武の上表文」に関して仁徳〜雄略を比定してる・もうどうしようもないほど頭ん中に虫のエイリアンを飼ってて脳みそ・その餌になってる可哀想な結果的に売国奴のケツを「そこちゃうから」みたいなあり得ない角度で舐めてるクズ学者たちよ、小学生に戻れ。小学生の自分なら「ちゃうで」と言えるから。

河内に大王(地方豪族)はいた可能性はある。あんなにでっかい前方後円墳も造ってるわけだから。権力がなかったとは言わない。だがそれは「天皇家」なんかじゃないのよ。神武から崇神へと繋がり、そのプライドは九州王朝と信仰を同じくする・そんな人たちはいたでしょう。だが近畿の人々は半島との関わりは「ゼロ」に限りなく近い。だって、当時の奈良近辺の人に「航海術」なんかあったと思う?海ないんやで生駒の東は。

九州王朝は半島にオリンピックほどの頻度で進出し戦闘してたわけよ。血が熱い。それは「武の上表文」にも明らかである。翻って近畿はその頃から「外交」ってのがないわけだから、コメは作って豊かにはなっていきつつある時に、やることつったら饒速日の子孫をいじめることしかないわけよ。卑弥呼の「鏡の儀式」のデモンストレーションの実施が前方後円墳の形を決定した可能性もある。棺桶を納めてる後円部ではない前方部のモッコリ部分でその儀式は行われた。

蛇足だが、古墳を造るには毎日2000人以上働かせても15年以上はかかったわけだから、いじめてる饒速日の子孫たち(銅鐸の民)を古墳の淵にある「環濠部」に住まわせ「再生産」もさせつつ、労働させ・同時に管理していたわけ。水が入ったのは「完成後」である。

ここらはかなり微妙なのである。これだけ全国に「八幡神(応神とされてるが)」が祀られていて、そして後代においても超重要な「宇佐八幡宮」の存在を考えるに「応神」と言う人は間違いなくいたしその嫁は神功皇后(おきながたらしひめ)だったのだろう。だがその・「紀における」他の天皇とされる者を遥かに凌駕する存在感は、九州王朝の誰かをパクったか、実は河内の大王がすごい権力を持ってしまったかのどちらかである。

おれは今は「前者」を取るかなあ。ここ詰めてない。言えることは「肝心なことが『九州』で起こってる」ってこと。河内・なんかカンケーある?「いや遠征してきたんですよ」っていう頓珍漢いるかもしれない。いや〜あのね、当時「遠征」ってものすごい大変なのよ。新幹線も車も馬も・ないんだから。船はあったろう。瀬戸内海を優雅に行き来・それは出来ただろう。でも仮に河内王朝・としてさ、わざわざ九州の本家の目と鼻の先で何勝手なことしてほたえてんの?

九州の血から「自由」な田舎の出の継体が九州で突然暴れ出す・のはまだ理解できる・が応神・仁徳は何者?

神功皇后の業績を「魏志倭人伝」読んでた「紀」編者が「卑弥呼・壹与」の業績・拝借しました〜みたいな確信犯もいるけど。これ・ひどい偽造だけどね。

実は応神・仁徳に関してはalmost ノーマークで先送りしていた。宇佐八幡宮が九州の首都と目と鼻の先にあること、神功皇后が卑弥呼・壹与の二人を束ねてること、それに加えて仁徳のエピソードを彷彿とさせた高良大社からの眺望(まあこれはおれのちっちゃな体験と洞察だが)から推測するなら、九州王朝の「誰か」を記紀の編者がパクった・そんな結論になるが、確定できない。

元正女帝が「勅」を三度ほど出している。歴史書・武器なんかを持ってきたら許してあげるよ〜・とこれは王朝簒奪した近畿が九州の残党に対してのもの・なのだけど。その結果、紀の「ある書に曰く」「一書に曰く」とは九州王朝の「日本旧記」「日本世記」と言う歴史書のパクリであることはもうバレている。主語を近畿の天皇もどきに置き換えただけの杜撰な歴史書になってしまっている。これがバカ学者とくそウヨのbibleであった。まあくそうよは一口齧っただけだろうけれど。

戻るが、応神そして武内宿禰より「重要」な人物が「高良大社=九州王朝の一の宮」の主神であることは分かっていただいたと思う。

じゃあ誰なのよ?ということになるが、「あて」はあるが軽々に言えない。ヒントは応神・武内宿禰より前の時代・「天孫降臨」にごく近い人物である・そこまで。

またそのうち。



posted by 浪速のCAETANO at 22:50| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月12日

椿市廃寺(ってなんやそれ?)

早朝5:30に新門司に着いたが、流石にお盆前で船外に出るのに時間がかかる。6時過ぎてたな。

ふと思い立つ。よく思い立つ。

「椿市廃寺」に寄ろう。

なんのこっちゃ?なんのために?そんな声が聞こえた気がしたが、放っとけや。

椿市廃寺は行橋市にある。初めて行く。

行橋市なんていう市も「どこ?」とおっしゃる方多かろう。

新門司から1時間半ほど。

近くまで行って迷ったが、それは「廃寺」だからなのだね。それに廃寺跡であるからね。幽霊の痕跡を探せ・みたいなね。

最後は葬式に行くために喪服で迎えの車を待つおかあさんに訊いた。

田んぼの畦道を行くんだって。家があってそこに停めた。家のおかあさんに「ちょっと一瞬止めさせて〜」と言うと「ど〜ぞど〜ぞ」と、優しいね。そこから実はクルマ道があったがもうめんどくさい、歩く。50mぐらいだった。



さらに謙遜して(不思議なぐらい)中央(奈良)となんか関係があるかも、なんて言うてるが、ドアホ、こっちが「本家」やっちゅうねん。



九州王朝は文字・仏教ともに近畿のサルらとは異なり、ずっと早い時期に「取り入れていた」のだった。それはね、金印「漢委奴国王(かん・いどあるいはいぬ国王と読みましょう)」を貰ったのに「文字」に興味を持たないままで鼻ほじってる(何百年も・・)なんてことあるか?これ1世紀のことよん。そして「倭の五王」の一番最後の武の「上表文」は5世紀のことである。あの内容を中国に臆せず送れるということは、相当「使いこなさない」と無理だからね。もちろん「仏教だって」ほぼ同時に受け入れたわけよね。そして九州王朝は6世紀には「海東の菩薩天子」とおのれのことを「隋の煬帝」に自己紹介できるほどになっていたのだ。アマタリシホコだけどね。聖徳太子とかほざくバカ学者、ハラ切りなさいよ。明日。

椿市廃寺・おれは行きたかったのだけど、どうやって、いつの機会に行けばいいのか、途方に暮れていたわけだった。

椿市廃寺を論じるときに古田先生から派生した室伏志畔氏の説がおれにはかなり魅力的に映り、彼は自分の手法を「幻視」と言っているが、彼は九州王朝を「楕円」と捉え、これは九州年号に「兄弟」なんてのがあり、また卑弥呼(ひみか・くどいか)と弟くん、そしてアマタリシホコ兄弟の「政教・分担性」のこともベースにはあるはずで、そこから太宰府本家(アマ王朝)と行橋の分家(フジ王朝)なんて突拍子のない説を唱えてるんだが、椿市廃寺が四天王寺の元寺であること(は確実)を思うとき、行橋の土地の「機能」は何かしらあり、それを最大限解釈を広げてみたなら、その節の説得力も出てくる・というものである。

ね、面白いでしょ?面白くない?

おれは面白いから一人で「イク」が。

IMG_2372.JPGIMG_2373.JPGIMG_2374.JPGIMG_2375.JPGIMG_2376.JPGIMG_2370.JPGIMG_2379.JPGIMG_2378.JPG
移設から残されたものたち・と解釈している。


寄り道に「味をしめた」。

こうなったら久留米まで行く。久留米という土地は、倭国の遷都の「南限」である。ちょっと疲れてきたので、これはまた次回。








posted by 浪速のCAETANO at 18:22| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月08日

卑弥呼と壹与について・ちょっとだけ

IMG_1309.JPGIMG_1309.JPG


釜山を訪れた際に「金冠加羅の博物館」での展示物。


鏡を使う女。

倭国大乱の後、「共立」された女王・卑弥呼(ひみか)が「こんなところにいた」とおれはもう3mほど飛び上がったのだが、それ平成から令和へと移るほとんどその瞬間だった。

かなりシブい旅行だった。もうその頃からカネはなく、そして初訪韓は絶対に「玄界灘を渡って」と決めていた。

青春18切符を使って朝大阪駅から4・5本各停or快速を乗り継いで下関まで行った。12時間ほどかかったかなあ?まあでも明るくなってから乗り、明るいうちに着いたわけだから実は8時間ぐらいだったのかもしれない。高揚感があれば「ほとんどのこと」はどうでもよくなるタイプ。

そこから「関釜フェリー」に乗るのだが、それが「玄界灘を渡って」ということなのだった。関釜フェリーも青春18切符があれば半額。だから6000円ぐらいじゃなかったかな。

8000円で外国へ。だはは。まあ当時はここまでの円安でもなく、超格安航空券も出まくっていて、もしかしたらそっちの方がお安かったりしたかもしれない。

今は昔。まだこちらの国の崩壊は「みんなに知れ渡っちゃ」いなかった。みなさん「見たいものしか見ない」からね。まだ安倍政権末期である。おれは「もうあかん・もう終わった」そう一人で叫んでいた。賛同者はごく少なかった。アベシンゾーという信仰があったからだろう。

李くんの友人のミンちゃんにアテンドしていただいて、そのmuseumに行ったのだが、当時の金冠加羅は「鉄生産」を背景に大変繁栄していたことがよくわかった。

金海(キメ)空港のある金海市、良かったな。international city。アジア各国へのhabみたいな。

「興味ある方は2019 3末〜4初のこのブログ」を見てくださいね。


とmemoriaに浸った後は、そうなのよ(どうなのよ?)、気になってることがあって、それは卑弥呼がどこからきて壹与はどこへいったか・なのだ。

ここまだ誰も手をつけていない。手がつけられない・が正しいかな。

おれはね卑弥呼は半島から「呼ばれた」という仮定をしてみたいのね。上記の写真が根拠なんて言うと「アホなん?」とか言われそうだが、「アホで悪かったな〜」とアホの手法を取ってみたい。

卑弥呼の得意とする「鏡のマジック」、その体現をあの状況で見ちゃったら、おれの内部で「物事の単純化」が進行した。

卑弥呼はその死もまたいろんな説がある「以って死す」の解釈だね。

おれは卑弥呼も壹与も九州王朝の「血筋」ではないと思っている。九州王朝にとっても「異物」ではなかったのか?長めのワンポイントリリーフであったと考えている。それは卑弥呼の出自が半島内の倭なのではないか・によるんだけどね。そして鬼道というそれまで北九州にとっても「レア」な
マジック。

伝えられる実存もまた神秘性を増す作用がある。仕えていた男女は一人づつ。一般人には顔を滅多に見せない。鬼道・というか呪術というか、鏡のマジックを披露する時のみ。1000人の女官たち。

鬼道・なるものが北九州においてポピュラーなものであったのなら、そこまでありがたがって「共立」するだろうか?各国の王たちにとってもブランニューなものであり、状況もどうしようもない(倭国『大乱』である)といった切羽詰まったものがあったわけで。

そして見ず知らずの半島の「一女子」に白羽の矢が立った。「なんかドエラいことしよるらしいで」みたいな。

九州のどこかの国の子なら卑弥呼を持つ国の支配性が相対的に上がる。それが邪馬一国(邪馬台国じゃなくて〜)だったんだよ、とツッコまれるかもしれないが、それなら一大率をずっと置いていたという「伊都国」が納得するだろうか。

おれは卑弥呼の即位のために邪馬一国の王(male)は廃されたと思ってる。

陳寿がそれを見たのは邪馬一国成立後時間が経ってからだろう。卑弥呼に関して:「その歳・長大にして」とあることからそう考えている。

どうだろうね?


壹与は卑弥呼の宗女であるから何かしらの血縁関係があり、「鬼道」にも通じていた、と見てる。そして壹与が九州王朝の天子の母・なんてことになれば美しいのだけど、どうだろう?そんな畏れ多い女王とヤレるかね?

3世紀前〜中盤の卑弥呼・後半の壹与。

4世紀になるともう倭国の情報はほとんど中国史書から途絶えてしまう。しかし、百済から「倭王旨」が七支刀を贈られたことがわかっている(369)。注意すべきことは「倭王旨」である。九州王朝の天子・です。

だが百済王からは「倭王ではなく候王へ」と記されている。まあちょいと「上から目線」ではあるが、当時強大だった百済と通じることによる倭国の「安定」が透けて見える。

そして5世紀の「倭の五王」の時代。6世紀の「磐井」の時代へと続くのだが、壹与の晩年に大乱があった記録もないし、4世紀には「男王」に戻っていることを見るに倭国は「通常運転」であったのだと考えられる。

通常運転といっても、この当時の「敵」は新羅、そして高句麗。さらに倭国は半島南部にも存在した。魏志倭人伝にいう「狗邪韓国」。任那と言ってもいい。金冠加羅らの連合国である。ここの最大の武器(いろんな意味で)は『鉄』である。時代はもう完全に青銅器→鉄器へと進みつつあった。

この当時、オリンピックほどの頻度で半島へと攻め入っていた。それは新羅の「三国史記」の「また倭が国境を超えて攻めてきやがった」という記述からもわかる。陸続きだもんね。

近畿勢力が「呑気に」非征服民を使って「古墳造り」してるのとは好対照である。九州は「血が熱かった」わけです。それがその後身を滅ぼすことへとつながるのだけど。







posted by 浪速のCAETANO at 11:09| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年05月04日

大海人って・・・・・ひょっとして

古代史って「わかってること」と「わかってないこと」があって、わかってることを頼りにわかってないことを論理的想像あるいは「論理的幻視(こんな言葉あるか?)していくのだが、だはは。

白村江〜平城遷都〜平安遷都・つまり7世紀〜8世紀に「壮大な嘘」が捏造され・記され、それが正史となってしまった不幸が1300年間、列島を覆い、それが先の戦争〜敗戦を導き、さらにもう一回、アホなことをしようとしてる・その根拠となっている・とおれは思ってます。

尤も、嘘はそれ以前の記載にも満載なのだけど。ただ「神話(説話だけど)」の中には歴史的事実を反映したものもあり、その見極めと大和朝廷(平城遷都と同時に突如現れた)のご都合との兼ね合いを見つけ出すのが難しいのね。

で、白村江である。660に百済は負けていたのだが663に倭国が皇太子の豊璋を百済へ送り返し再興を図る。そして唐・新羅連合軍と彼の地で対決する。

さて、こちらからは安曇水軍と安倍水軍が向かう。だが安倍水軍は「後方に回る」。ロジに回る。ご存知のように安曇とは在九州である。安曇氏は志賀島の「山褒め祭り」の担い手であり、つまりそこで謳われる「原・君が代」とも深い関連がある。宗像三神とも関連は深い。要は倭国(九州王朝)の水軍。一方、安倍氏は天智の水軍。そして安曇軍はボロ負けしほとんどが死に、安倍軍は無傷で帰ってくる。

安曇軍に帯同(指揮)していた九州王朝の天子・薩夜麻はなんと唐に捕えられ「捕虜」となる。一方、天智はその後すぐに(664)論功行賞人事を行なっている。

おかしくない?

天智は「新羅」と通じていたのでは?(論理的幻視)。あるいは、九州王朝の自滅を「未必の故意」で見捨てた。その計画性に関して周到なものがあったのか?あるいは成り行きだったのかははっきりしないが、「ロジに回った時点」でヤル気はないよね。他にも「吉備国風土記」には御王の船を準備したけど結局行かずじまい・という記述もある。吉備だから近畿と密接であるね。近畿が「消極的」だったことはよくわかる。

この時代は「二朝並立」時代。近畿は随分と経済力を蓄え、九州も戦争の際には「やってくんない?」かなんか命令という名の相談が必要だった。だが対外的には列島の王は「倭国の天子」である。(旧唐書にはこの時倭国・日本国両方が朝貢してくる・と記述あり。日本国のいうことが支離滅裂でどうもならんとも)。

その後九州は唐・新羅連合軍に占領される。その際に天智が「大津」に近畿の都を移す・もわからんでもない。そして泥棒猫のように初めて「天皇」を名乗った可能性がある。天子・薩夜麻は「不在」であるからね。

そこから壬申の乱(672)までもまたややこしい。決して近畿天皇家は触れられたくないところね。天子・薩夜麻が放免となって帰国する。その時はまだ「郭務悰」がいた。九州本家の大海人は郭務悰との協議を重ね、天智の子・大友(弘文)を討つ。

大海人は誰?

大海人は天子・薩夜麻か?天子・薩夜麻のその後が「どこにも」書かれていないこと、大海人がどのように郭務悰に近づいたかがどこにも書かれていないこと。大海人=天子・薩夜麻であればそこ「一気に」解決する。

おれは大海人は天子・薩夜麻の弟(大皇弟という言葉に囚われていた)だと考えていた。

天智の妻は倭姫(九州王朝の姫)、天智は自分の娘を何人も大海人に嫁がせる。太田皇女・讃良(さらら=後の持統)。九州王朝の「貴なる血筋」への懐柔と「お近づき・を求める」意図と思える。


後に(8世紀通じて)京都の泉涌寺において「天智系の天皇だけを祀り」天武系を完全排除したという事実。近畿王朝から「九州の血」を完全排除したという「事実」。その動機が最も盛り上がる時の根拠が「大海人=天子・薩夜麻」であることになる。

ねえ、これ、仮説だけど、ちょっとした目から鱗だった。

天子・薩夜麻は別人・天武として「再生」したわけよね。捕虜というのは完全なるトラウマ。面目丸潰れ。


であるなら「別人として別の国を今から始めるが、その歴史は九州王朝からいただく」などという動機もちょっとわかる。


今日はここまで。よく考えてみる。


posted by 浪速のCAETANO at 12:01| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月01日

聖徳太子part2

さて、前回は聖徳太子の虚像は九州王朝の「菩薩天子」阿毎多利思北孤の実像を盗用したものによるということを書いた。

今回は「聖徳」という言葉である。聖徳太子は「聖徳な皇太子」である。

偽書である「正史・紀」には聖徳太子は現れない。なぜ聖徳太子伝説が広まったのか、仏教やあるいは文字(中国語)がいつ伝わった、大化の改新てほんとにあったのか、九州王朝の最後は、などなど、これらの「真実」は近畿王朝の偽史の分厚さplus1300年の時間の経過によって霧がかかっている。

おれは断言するが。歴史学者じゃないから。アホの歴史学者じゃないから。


聖徳という単独の言葉、それは「紀」には現れる。「豊耳聡聖徳、東宮聖徳」。上宮之厩戸豊聡耳命のことを指すとされる。この「人物」を乱暴にも聖徳太子と決定してるんだが、乱暴すぎるのだ。

近畿王朝如きにそのような教養などなく、ほぼ自力で書かれた「記」など、稚拙で牧歌的なものである。そもそも近畿には「神武」は行ったが、そこには饒速日命の国があり、東征には「失敗し」樫原の土地に存在をかろうじて許され、そこで周囲に監視されつつ約100年を過ごしたのだ。記に記されている超古代の話、出雲や九州のことだがそこだけが倭国との「共有」可能な説話であって、それが饒速日命勢力=物部に対して誇れる唯一の歴史だったのだ。

その後、崇神の時代になると周囲を侵食し始め、それが近畿勢力のコアとなる。その際の「神」は天孫族の神。饒速日勢力の神は大国主(オオムナチ)。征服した側は信仰の強要を求める。が、そこには無理もある。崇神時代のオオムナチとオオタタネコ@大神神社のエピソードはそういうことね。

九州から来た神武の子孫たちは周囲を征服しつつ、その際に「葛葉(クズハ)←クソまみれ」などの地名説話が生まれ、征服した民を「超効率的」に支配管理するために「古墳」が作られた。古墳周りの今は多くが水溜まってるとこ、あそこに非征服民たちを住まわせ「再生産」もさせ、数十年にも渡る古墳作りに従事させたのだった。

あのね、あんなもんは天皇陵でもなんでもないから「三種の神器」なんか出てこないのよ。近畿王朝の「嘘」がバレるのを恐れて今も宮内庁は「掘っちゃダメ」と言ってるでしょう。神聖だからダメ・じゃないのね。

地方勢力にしか過ぎないので、そちらは「外交」などしていません。おれがよく巨大古墳を作った理由を「ヒマだったから」と言ってるのはそこ。九州王朝は半島で、新羅・高句麗と「血みどろの闘い」に明け暮れていたわけだから。いわゆる「任那」ってのは「倭国の一部」だったわけだし。今の釜山の「鉄」が大事だったわけ。

その「血筋(などがあるとするなら・だが)」は残念ながら「武烈〜継体」間で途切れてしまう。継体「オホド王」は福井かどこかの「超田舎モン」であって、その間、近畿(奈良)では内乱が起こっていた。その内乱で当事者たちが疲弊するのを待って奈良にやっと入れた。20年ほどかかったのね。

で、「磐井の乱」というのがある。紀によれば継体の時代。紀によれば、継体に磐井が「逆らった」らしいね。バカ言ってんじゃないよ・である。

磐井はね、九州王朝の天皇。磐井「が」天皇だったのだ。ほら、神武の子孫ならば、「本家」に逆らうなんてできない。ところがこの「クソど田舎モン」は大それたことをやっちゃったのね。それは磐井を(九州を)訪れ、その際に突然暴れて磐井を殺してしまう。これは筑紫国風土記にも記されているから間違いないだろう。

当時の九州王朝「倭国」の都は博多沿岸から筑後へと移されていた。6世紀のこと。それは新羅あるいは高句麗との戦闘の現場(半島)からの影響からであるが、より玄界灘から距離をとる場所へと移されていたわけ。その都は阿毎多利思北孤の先代・高良玉垂命の時代まで続く。前回、九州年号を示したが、その中に「定居611年」「倭京618年」とあったのを覚えているだろうか。

7世紀に入ると半島・大陸の状況は変わってきていた。隋帝国の誕生である。隋は、琉球・屋久島・に何度も攻め入っている。そして人々・宝物を連れ去っている。このことは倭国にとっては脅威だった。倭国にとっては南西諸島の九州に近いものは「自国」の一部という意識があり、煬帝に喧嘩売った阿毎多利思北孤にとってもただ事ではなかったはずである。

筑後の都とは今の「久留米市」あたり。おれもこないだ通った。要するに「有明海沿岸」である。大帝国となった隋はかつての三国時代の「呉」地域も領土としていたし、その今で言う上海あたりから南西諸島へと攻めていったのだ。とするなら、警戒すべきはそちら「南」からの船団による攻撃であるよね。有明海は安全ではない。そこで「遷都」が決まる。その決定が「定居」その実行が「倭京」なのである。これは九州の「俗・年号」、聖なる年号はずっと「法興」です。この二年号併記の根拠は「part1」を読んでくださればわかります。

居を定め、倭の都(京)へ。ん?都とは?

それは「太宰府」に決まってる。

太宰府へ「戻る」が正しいかな。その際の天子・は無論・阿毎多利思北孤である。倭京は618年。

さて「聖徳」だ。長いことかかったなあ・もう。part1で述べた九州年号と並立する「聖なる年号」に実は「聖徳」があるの。629年である。その際の「九州年号」は仁王である。「聖徳」が「法興」の流れを汲むものだっちゅうことはすぐにわかるよね。阿毎多利思北孤の崩御は622年。翌年から仁王が始まっている。

これは何を意味するのか?阿毎多利思北孤には皇太子がいた。その名を「利歌彌多弗利」と言う。阿毎多利思北孤(アマタリシホコ)・利歌彌多弗利(リ・かみとうのリ)です。読みが「う〜ん・もうっ」てなるよね。

part1で触れたが、仏教は当時の倭国・隋だけでなく半島の三国においても「どうしようもなくかっこいい」ものだった。新羅の真興王(法興王の息子・新羅にも法興王あり)がまとめた「法興王」の中に「継(徳を継ぎ聖を重ね)」という言葉がある。その四文字熟語の「主眼は聖徳」だよね。

つまり利歌彌多弗利は阿毎多利思北孤の後を継ぎ、自らも父に倣って「菩薩天子」を名乗ったということである。

おそらく厩戸という人はいたのだろう。どのくらいの徳があったかは誰も知らない。だが「法興・聖徳」という「聖なる年号」に現れるような「菩薩天子」からは程遠い(おそらく)凡人であった。伝説の聖徳太子とは架空である。二人の九州王朝の菩薩天子の事績を集約・盗用ということである。しかも、名前まで「上宮聖徳法王」とかさ、「ぶっ込みすぎ」にも程があるやろ。二人混ざっとるがな。

お分かりになっただろうか?聖徳太子の「嘘」。

でね、こう書きつつ考えてくるとね、ど〜もやっぱり「蘇我氏」の存在(というか不在)にあたっちゃうのね。聖徳太子のいわば「敵役」でしょう。で蘇我子・蝦夷・イルカ(入鹿)という3代に渡る「卑名」。入鹿には鞍作太郎なんてそれらしい名が与えられているが父ちゃん・じいちゃんにそんなんがあるとは聞いてない。

その出自だが先に述べた「磐井の(実は継体の)乱」に怒った九州王朝が「お目付け役」として近畿に派遣した「百済に由来する九州王朝の財務官僚」という説もある。

ここはちょっと「根が深く」、それは「大化の改新」もおよそ「嘘」であるとわかっている。乙巳のクーデターだけはあったとされるが蘇我氏が「不在」ならそれもなし。696年の高市皇子の暗殺を後に脚色した・そんな説もあるくらいだ。

この7世紀の「ミステリー」はなかなかキーポイントだらけで、前回今回は6世紀末〜7世紀初頭までのこと。ここから662(663説あり)の白村江までがまたまた難しい。大陸では隋が唐に変わっている。そしてその後〜701(大宝元年)の間に「権力移行」が行われる。「三種の神器」を近畿がGET・ということなのだが。その間には薩夜摩(天子)が唐の捕虜となり、カクムソウ(唐)・新羅連合軍が九州を「占領」する。そして672の壬申の乱。その後九州王朝の「副都」を難波に作る(今のNHKのとこ)。高市皇子が即位する。そして暗殺される。

おそらく、ここら辺の「紀」の記述は「ほぼ嘘」なのであって、「堀りがい」がある。まあ・次をお楽しみに。一部マニアの方限定ながら。
posted by 浪速のCAETANO at 19:47| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月29日

聖徳太子part 1

法隆寺の東院夢殿、年に2回「ご開帳」があるが、おれも数年前に当時、carlessだったから大和路快速で行った。クルマでしか行ったことなかったから斑鳩の駅からだいぶ遠かったし、行き方が変われば「別の場所」みたいな気がしたものだった。

聖徳太子がモデルとされる「救世観音(くぜかんのん)」。後頭部に杭打ちされて布でぐるぐる巻きにされていた。フェノロサと岡倉天心の「暴挙」により陽の目を見ることになるのだが、法隆寺の僧侶たちは「目三角にして」抵抗したと言う。天変地異が起こる・と。

伝説によれば太子の怨霊が・その死後、天然痘の大流行を招いた、ということになっている。

救世観音は「聖徳太子」であり、上記の怨霊を恐れた蘇我氏が・・・・・・これは梅原先生の説だったが、残念ながら間違い。大間違い。ロマンチックである、梅原先生は。だから戯曲(スーパー歌舞伎・だが)を書けるんだね。

人麻呂の運命に関しても独自のロマンチシズム。

読んだ時は感動した。だが、それはすぐに古田先生により否定上書きされることになる。梅原猛氏はハートの伴った大学者であるが、古田先生との対談を最後まで拒否した。残念な感じがする。

蘇我氏と太子一族の対立、それもまた「紀・信者」には一定の説得力があるが、どちらも(というか少なくとも片方は)ファンタジーであるから正しくない。

近畿と九州の対立だったよ・真実はね。

近畿に「勢力」があったのは事実。その勢力は7世紀の初め頃、九州の「呪縛」から名実ともに解かれ出す。その頃に「紀」にあるような蘇我氏の存在がリアルなのかどうか?そこはおれはわからない。そこがわからない。蘇我氏の存在は「きっとある」か「全くない」かのどちらか。

まあいい。「紀」においてはウソの羅列でしかも「ずっと前からこっちが天皇で・・・・」みたいな無茶を言い続けてるから、さらに「嘘も1300年」と言う大罪を内包している。罪深い。

まあいい。「真実の導くところへ行こう@古田武彦」

「隋書タイ(倭)国伝」には600年の「海東の菩薩天子より海西の菩薩天子へ」書が送られ、そこには「明け方には兄が祭務を執り行い、夜が明けると弟が政務を行う」と書かれている。それを読んだ「煬帝」は「んな・アホな」と言っている。

煬帝はムカついていて、それは東夷の小国の「酋長」如きが「ワシ(中国の天子)に向かって何を抜かすねん」と言うことなのだが、それでも「ほんまにそうなんか?」と数年後に裴世清をタイ国(倭国)に遣わす。

海東の菩薩天子、それは阿毎多利思北孤。裴世清が言うにはその王は「側室が1000人」妻の名は「キミ」。早くもここで、倭王を「聖徳太子(皇太子)」推古天皇に比定するのは無理である。推古ちゃんが「L」なら話は別だが。

そして「あまりにも決定的な」描写がその後に続く。それは都のそばに「阿蘇山あり」である。もし仮に裴世清が「近畿まで」行っていたとするなら、風光明媚で「ラ・メール」な内海・瀬戸内海の描写があったはずだよね。そんなものは1ミリもない。

九州年号というのがある。年号とは「天子」のいる国にしか許されないもので、天子は中国にしかいないわけで、そんな暴挙を犯す夷狄の王は「阿毎多利思北孤」のみ。だが、阿毎多利思北孤にも「理」はある。それは「お前らも蛮夷やんけ」だ。

隋は漢民族ではない。倭が東夷なら隋も北狄である。阿毎多利思北孤は自らを「魏」から連なる「西晋」を敬愛・崇拝し、仏法においてもその正統性を受け継ぐ者とする。だから煬帝に向かって「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く」くだけて言うなら「キミも仏教・やってんの?へ〜・ふ〜ん」だ。

くだけすぎか?にしてもその言葉の持つ「挑発」は押さえとこか。阿毎多利思北孤は明らかに煬帝と崇仏において「競っている」のである。

阿毎多利思北孤が遣隋使を送ったのが600年・607年、これは「九州年号」においては「法興10年・法興17年」。あのね、近畿などには天皇も年号もないので。

しかしこの「法興」という年号、「二中歴」に記録される「九州年号」とも異なっている。「なんで?」

この時期の年号を記する。

端政(たんじょう)589

告貴(こくき)594

願転(がんてん)601

光元(こうげん)605

定居(じょうこ)611

倭京(わきょう)618

それに対して法興元年とは591年である。上記の六年号と被る。

アホは、「うわー・ダブルの年号やん。だからそんなんどっちもうっそ」というだろう。アホはほっとくことにしよう。

さて、この時代、隋や新羅においても王が出家することがなんというか「流行った」。隋の初代王(文帝)が天子の権威とは「別」に仏教上の律師の権威を「容認」し、自らも「菩薩戒」を授戒する(585)。俗人の権威=天子とは異なる仏教における権威を求めたわけよね。その際に24000人の「恩赦」も行われている。菩薩天子の誕生です。

これは当時の「東アジア」全体での流行り・というと頭悪そうに聞こえるが、というか語弊があるが、各地で当時の最新の「カッコいい・イケてる」思想をいかに迅速に身につけるかという競争であり、俗物的権威とはまた別の宗教的権威を求めたことは、こと隋については出自が蛮夷だったことと関係あるかもしれない・とおれは見てる。東夷であり続ける倭とは事情が異なる。

阿毎多利思北孤は前述したように煬帝に喧嘩売っている・が言い過ぎなら「お前より俺の方が仏教的に偉いんじゃ・ボケ〜」と言っている。煬帝が法号を得た591年がいみじくも法興元年であるという事実は、阿毎多利思北孤が少なくとも煬帝よりは「遅くなく」菩薩天子となったことを示唆する。で、「キミも仏教・やってんの?へ〜・ふ〜ん」がより味わい深くなる。

九州王朝では阿毎多利思北孤の先代帝・高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)の逝去に伴い、阿毎多利思北孤が即位する(589)。ここで九州年号は前述の「端政(たんじょう)」となる。

589(端政元年)阿毎多利思北孤・即位、591煬帝・菩薩天子
591 (法興元年)

並べてみると阿毎多利思北孤が菩薩天子となった年こそが591 (法興元年)であったことが浮き上がってくる。九州王朝は「俗・年号」と「聖・年号」をこの時期限定で併用していたことがわかる。

そして天子が仏門に入れば「法皇」となる。すなわち「上宮法皇」・そのスペシャル年号こそが「法興(仏法を興す)」である。

なんか「大阪」に上宮高校ってあったねえ。かわいそうに。まあ何も知らずに生きていけばいい。

法興とはもう一度言うなら、俗人を統治する王(天子)とは異なる「仏教上の法皇」としての始まりを教えるスペシャルな年号だった。

おれは聖徳太子の「嘘」は全力で「潰し」にかかるのだが、それは「紀」に対して、どんな優秀な学者でさえ(本音は知らんよ・そしてどれほど知識があるかも知らんが)そこに対して「どこかで無批判」だからなのだ。「紀」が正史である・なんて「どんだけアホやねん」という感想を持っている。梅原さんでも「進んで」騙されるわけ。ファンダメンタルが「嘘」だったら、何もかも信用できなくない?そんなことはどーでもいい?

そのさらなる底には「九州王朝」を(これもまた本音は知らんよ・そしてどれほど知識があるかも知らんが)認めない頭のユルい・あるいは同時に硬い人たちが「学者」として君臨している。ユルくて学者・とか意味わからんのだが。でね、それがくそウヨの存在原理となり、アベシンゾー一派の隆盛の根拠となり、ひいてはこの30年の「右傾化と同時に経済の沈下」を招いたからなのだ。

学者の罪は重い。

でね、聖徳太子の「捏造」に関してはまだ半分。今日は聖徳太子がやったことは「どこからのパクリ」か・を中心に書いたけれど、次回は、「聖徳」という言葉は何からのパクリか・を中心に書いてみようと思ってます。








posted by 浪速のCAETANO at 07:28| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月17日

精神をちょっとだけ自由にね

キャベツを炒めたの・ミニトマト・ウインナー・目玉焼き、ヨーグルト・ザータルplusエクストラ・ヴァージン、Hatsutatsuのパンドミ、マンデリンアチェ。

ゆっくりと朝メシ。たまにはね。元地元への出勤も終え、ちょっと自分の興味を追いかけようと思っている。


AD663~710のことなのだが。白村江〜平城遷都のこと。なんかわかれば書くけど。邪馬台国(邪馬壱国ですが)がどっち?とかそのような幼稚な問題はどうでも良く(答えは決まっとる)、このおよそ50年間の嘘に塗れた「紀」の記述をひっくり返したい。少年よ大志を抱け。少年ではないから無理か。

それは皆さんも良くご存知の「大宝律令」の大宝(年号)の意味にその秘密の解法の糸口がある。大宝元年(701)ですが。「大宝」これさ、九州王朝から「三種の神器ゲットしたぜ〜、イエ〜」という喜びの年号でした。

同時にそれはlate7C~early8Cにおける「天皇制の創出=近畿大和朝廷成立」ということね。そこから「捏造」がはじまったわけ。国史の捏造。妖怪ごときの言うそれとは異なり、本格的なやつ。でそのネタは九州王朝の正史である「日本世紀」。

ただ、そういうことが出来るようになった過程が謎が多いわけよね。白村江で「唐の捕虜となった九州王朝の天子・薩夜麻」が「都督」として釈放帰国する。唐の「(完全に息のかかった)倭国大使」みたいな役割である。venueは太宰府「都督府=都府楼」。

で、そのlate7C~early8Cにはもひとつ「壬申の乱(672)」というものがある。ここがまたまたややこしい。大海人vs弘文(大友)とされているが、実は「高市皇子vs弘文」みたいである。高市皇子は大海人の息子。高市皇子の息子・長屋王が「長屋親王」であることはわかっている。つまり高市皇子は高市天皇である。長屋王も排斥されるが、高市皇子もまた暗殺される。696のことである。この出来事が「大化の改新」の捏造のプロトタイプとも言われる。乙巳のクーデターのことである・蘇我入鹿の。

蘇我氏がおれの中では最近「ぼんやり」してきました。聖徳太子がfictionで山背大兄王も当然fictionとするなら、蘇我氏三代の存在もまたそうじゃないの?そんな気になってくる。太子のための「悪役」としての蘇我氏だからね。

まあ念のために言うとくと「大化改新」は「明治維新」という言葉と共に「作り上げられた」わけで。もう〜・捏造国家かいっ・と突っ込みたくもなってくる。

「紀」on 7Cというのは「かなりの嘘」が混ざってる。まあ多くが嘘だけど。最近、明日香の街(村)がどうも「ハリボテ」に感じるのね。一つのテーマパークみたいに思えてきた。

難波宮ってあるよね・NHKの横だけど。あれ、大化の改新後、孝謙があそこへ遷都したなんて戯言が紀に記載されてるけれど、あれはね、九州王朝の近畿における「出先期間」ですよ。近畿には権力はあっても「王朝」はありません。それができたのは上記「大宝」701だから。孝謙がいたのはなんとオレんちの近く、歩いていける・今もマイナーな「豊崎神社」。当時は「湿地帯」。


瓊瓊杵尊と同様天孫族である饒速日(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)が率いていた物部氏もまた、「紀」の捏造の主体「藤原氏」により毀損された一族である。それは戦後のこちらの国の「社会的・経済的財産」とネオリベ勢力みたいなものである。

おれは蘇我氏は物部の中から抽出された誰か・のような気がしている。こう言うと「お前はアホなのか?物部は神道・蘇我は仏教で対立しとったことを知らんのか」と言われそうなのだが、うんそんなことはわかっとるんやけどね。大胆すぎるかな?

明日香の町(村)は最初行った頃は蘇我氏の匂いぷんぷんだったのだがそれがどうもFakeに思えてきたわけで、いやそのくらいのことは作れるよ・不比等ならね。

さらに、「竹取物語」。この我が国最初の小説と言われる物語がリアルな話だったこと。いや、月に行くのがリアルってわけじゃないのだけど、この姫は九州王朝の、上記述べている時代の王朝交代の際に生き合わせた姫であり、そこに「たかった」男たちの比定もすでに終わっている。なんとその中には不比等もいる。車持皇子。

なんとこの竹取物語は作者が「空海」なのではないか・という説があり、「『原』竹取物語」であるけどね。

色々、不可解なことがあり、だが真実は一つなんだよね〜。こちらの国の「堆積した嘘」を少しでも掘りたいね。



posted by 浪速のCAETANO at 03:40| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月25日

激しくバカな人々(ついでに国歌解説)

「早くお葬式しないと遺体が腐っちゃう〜」とかいうてる小学生低学年レヴェルのバカがいた。もちろんオトナだが。

オノレの頭が「腐ってる」のね。腐ったアタマではどんだけ腐ってるかわかんないね〜。不憫である。ただちょっとおもしろい。

6400人呼ぶ・とかいうてるけどさ、何かしら「危険」ではないですか?中曽根くんの時は600人だったはず。外国人・何人来んの?まあまあのVIPが来るはず。「危険」ではないの?


「国葬」とはなんですか?「国」とはなんですか?国葬儀・なんちって「ズラ」してるが。

国葬が国の儀式であることは間違いなく、であるなら「国」に「国会と国民」が含まれるのか?という質問に官僚は答えられない。

閣議で「内閣」だけで決めてしまったからね。国は内閣が代表する・ということになる。

国権の最高機関は「国会」だったはずよね。37億円の予算らしいね。

すでに「緊急事態条項時」の片鱗が状況だったんだけど、あなたどう思ってますか?事実各地の教育委員会から「半旗」をという通達が行ってる。黙祷を・という話も。官僚は否定してるけど。黙祷を強制はしないが「促す」ほどの形を言うてくるでしょう。あるいは地方自治体の決定に任せる・か?たまらんな、クソ首長連合の大阪やで。

官僚の答弁が破綻しまくりで、それは「ほとんどの国民が反対しようが閣議決定すればそれはもうしょうがない」とかここにも小学生低学年がいた。

電通に儲けさせる・のも織り込み済みなのよね。「右傾化空気醸成から宣伝・広告経由で葬儀まで」、なっかなかの多角経営である。


アベがいるような状況でアベの葬儀を国がやる・みたいなトンチンカンが通用するかー。こりゃ内閣支持率もっと下がるんじゃないかなあ。これで支持する奴らってまたまた小学生低学年が発生する。バカうよチーム、この際「自主絶滅」を望む。


バカは至る所に発生してる。極め付けのバカがおったからみんなで嘲笑(罵倒でもええが)しようと思って:


それは「君が代」の現代語訳なのだが、もうバカすぎて呆れている。


君が代は(あなたたちの時代(次世代)は)

千代に八千代に(この日本国の長い歴史を受け継ぎながら)

さざれ石の巌となりて(一人ひとり(個性)を大事にしつつ、協力し)

苔のむすまで((この国が))末永く繁栄するよう)


Jpopの黎明期に気持ち悪い応援歌みたいなんが流行ったが、近い?遠い?どっち?ここにも小学生低学年が発生していた。

おれは、言うとくが、一応この国歌(とされる歌)には「手放しの賞賛あるいは反感」のどちらも持っていません。この歌に対する姿勢は、だから「右でも左でも」ない。

もちろん、昭和初期にこの歌が国家神道(まさにカルトだが)をベースにし、その結果、統帥権の暴走を招いた原因の中の大きな因子であることには批判的であるが。旧大日本帝国の構成要因という意味です。イメージ・悪いね。

だが、その国家神道とのlinkは「全くございません」。ここ、勘違いしてる人々、100000000人以上いらっしゃる。「0」の数・慎重に数えてよね。国家神道というより「現天皇家」とのlinkさえ「な〜んにも」ない。

だって国歌の存在とは、明治になって「国歌ないと田舎もんや思われるで」が根拠である。


薩摩藩が見つけた、と言われている。

だが、この歌は「古今和歌集の賀歌の一番」に納められている。「読み人知らず・題知らず」である。大事なことなのでもう一度。

賀歌の一番なのに、読み人知らず・題知らず、です。不思議だねえ。選者は紀貫之。初の勅撰和歌集である。

紀貫之は「読み人も題も」知っていた。いや、読み人はさすがに知らんかな。

紀貫之(872~945)。白村江の戦いは662(663)。大宝律令は701。

なんのこと?となるよね。わかるわかる。

白村江の戦い当時、近畿に王朝はありません。正確に言うなら、当時の中国(唐)が認め続けていた列島の王は「九州の倭国」。近畿の「日本国」は「ワシらも国である」と主張はしていたが、唐からは「ほんまか〜?」と斜視で見られていた・が正しい。

白村江は純粋に「倭国+百済」の「唐・新羅連合軍」に対する戦い。日本国は「喜んでお手伝いさせていただきます」と言いながら兵は結局出さなかった。と言うか、戦闘には加わらなかった。と言うか、倭国の天子を唐に「売ったフシ」さえある。売られた倭国の天子=薩夜摩だけどね。

ここで言う「日本国」とは「倭国の傍流」である。神武(カムヤマトイワレヒコ・ヒコ=長官ほどの意)は実在する。しないことが国家神道を遠ざける方便として定着しているが、それは津田左右吉がアホだからである。

日本国・と名乗り出したのは七世紀で、それまでは中国の歴史書にはそれらしきものとしては東鯷国と言うものがある。その名は地政学的にも合致しそうだが、確信がない。

まあその倭国の傍流が作った国・というか集団が日本国。白村江後、九州は唐・新羅連合軍に蹂躙される。その後、日本国は4〜50年かけて倭国の「すべて」を簒奪する。「三種の神器」から「軍器」「兵器」そしてその歴史書まで。この4〜50年に関してほとんど正しいことが伝えられてないから(大化の改新とか藤原氏の名前の由来とかね)、そこでみなさん思考停止することが、明治維新の出鱈目や右翼〜くそうよまでの誤解を成立させているのだけど。今日はそこ触れません。一番面白いとこなんだけどね。

三種の神器ゲット記念が「大宝」の元号。頑張って歴史書を作ってはみたものの(古事記@712)、あまりに牧歌的というかこれじゃあ「唐に見せらんないよ〜」ということで倭国の史書からパクって(それもまあまあeasyなパクり方)とりあえず作ったのが日本紀(日本書紀)。だからあちこちで「整合性」が破綻してます。まあ地政学的な細かいとこは唐のやつにはわからんからそれでええか、なんちって。

そこからいわゆる奈良時代は始まるわけね。その流れの「だいぶ先」に古今和歌集はあります。

さて、歌集と言えばもっと前に「万葉集」というものがあった。とは言えそれも奈良時代末期(8世紀)の選。奈良時代はまだ「倭国の記憶」生々しく、多くの歌が載せられている倭国の人・柿本人麻呂は粛清され、御用歌人・大伴家持の選が重用された。九州の歌はほとんど削られている。まるでそんなところに政治勢力(つまりは文化も)などはなかったかのような態度である。ムカつくね。

万葉集はそんな訳で偏向している。

古今和歌集は出来上がったのが905年である。都も京都へ移り、近畿の天皇家も軌道に乗ってきた。「倭国・what?」なんて人も増えただろう。

であるから、存在した歌は歌として「フェア」に扱えるようになったんじゃないかな。そこで、賀歌の一番に持ってきたのがいわゆる「君が代」。賀歌だから「お祝いの歌」だよね。紀貫之から見て「これは外せん」という歌だったわけね。

さて、君が代の歌だが、前述のノーミソ腐ったサルのお花畑な訳なわけない。

まず、おれたちが知ってる「君が代」はそこで終わりではないのね。八番まである。そしてそれは「博多沿岸」がモチーフの歌である。頭に生ゴミ詰まったサルが言う「君」とはキミたち〜・とかではもちろんなくて、「王」のことである。そして、それは博多の王である。だから近畿の王朝(いわゆる今の天皇家)との関連は「何もない」のがお分かりになるかな?

博多沿岸というかその向こう側に「金印」が見つかった「志賀島」がある。そこで年に一度執り行われる「山ほめ祭」で歌われる八番の中の一番が「君が代」。

さらに「褒める歌で、祝いの歌」である。何を祝うのか?土地を祝うのよ。土地を通して、そこを治める王の治世を褒め、祝うのだ。

おれは「キミ」という言葉にちょっと反応しているんですが、その王は「Female」ではないかと考えてます。のちにでっち上げられ「聖徳太子」のプロトタイプとも言える「アマタリシホコ」の妻の名が「キミ」だった。ここまでは「事実」。


ここからは「創作」の世界。山ほめ祭りのために「太宰府」から御笠川を降って「女王」が年に一回御幸する。そのイメージにインスパイアされて書いた曲;


「太陽女王(と月の姫)」


やがて夕陽に染まる河口に現れ

光を散りばめつつ 船は出て行く


社から首伸ばして 水に足を浸けて

ハネムーナーのふりして 身体寄せ合っている


燃える空 羽ばたく鳥

凪の海に白波

こんなに待ち焦がれた

太陽女王と月の姫


暗闇に広がる 気高きものの気配

寄せる波の高まり 気持ちも嵩ぶっている


小舟がひとつ またひとつ 岸を離れて

寄り添う もうそこにある あの輝ける影


燃える空 羽ばたく鳥

凪の海に白波

こんなに待ち焦がれた

太陽女王と月の姫


あれこそ 我が君

太陽女王と月の姫

ああ 流れ星 ひとつ

太陽女王と月の姫


太陽女王と月の姫


戻るが、九州の王朝とはその系譜のどこかに「卑弥呼(ひみか)」と「壱与」がいるのである。自分の中では「壱岐」のアマテラスと卑弥呼が「太陽女王」には混ざってるけれど、まあ時代的にその二者を混淆することはあり得ないんだけど、そこは創作のフリーダム。


さて、では君が代が「何を賀しているのか?」だが、土地と言ったが;

千代に八千代に→博多の「千夜の海岸」。

さざれ石の→糸島にある「細石(さざれ石)神社」

巌となりて→巌ら(これも地名・天孫降臨があった近くの)小さな石が巨石へ・という縄文の巨石信仰にも触れている。

苔のむすまで→「苔むす姫」を祀る桜谷神社@糸島半島。


なんか気づきませんか?これさ、古代の「中之島ブルース」なのね。ご当地ソング。近畿天皇家からは光速で遠ざかっていくのわかりますか?


だ・か・ら、生ゴミが脳内で発酵〜腐敗してるようなサルが、しゃべんなボケ・カス、と言いたかったわけである。















posted by 浪速のCAETANO at 17:18| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月02日

歴史戦・だと?虚しいぜ

「歴史戦」という不吉な言葉。

今・ふとBSのNHKをつけたら「継体天皇」の話をやっていた。クソ歴史学者のテーノーが4人ほど出てて「大和朝廷史観」オンリーbaseで色々論じている。萱野も出ている。お前、クソイシンのサポーターになっちゃったの?

まあそれはいい。

こいつら笑かす。「継体天皇はヤマトの『大王(おおきみ)』になりました」・って。

『天皇』が大王(おおきみ)になりました。『?』

社長が「頑張って部長になりました」。いかにお前ら「アホ」か自覚してる?

日本紀(日本書紀)こそがその「歴史戦」の勝者だからね。不比等。九州王朝は白村江の戦いで『リアル天皇(皇太子かも)』であった薩夜摩が唐の「捕虜」になってしまったわけだし、そこで九州は、「天子」のいた九州は唐・新羅連合軍に「席巻される」わけで。

それよりも遡ること1世紀あまり、6世紀前半に「継体」が現れる。応神天皇の5代孫の孫という「何処の馬の骨」かわからん若狭のおっさんである。

ヤマトには大王はいた(他の地域同様)。ただヤマトは神武以来の「九州王朝の傍流という誇り」を持ちつつ、九州とも連絡を取りつつ、その祭祀のやり方も発展させつつ、饒速日の民を抑圧し(奴隷化し)、彼らを管理するために古墳を造り、彼らを環濠部に住まわせ、再生産もさせつつ、一元管理していた。大阪の前方後円墳はその発展する祭祀を効果的にすることと抑圧する民の絶対数の増加により巨大化していったのだ。

天皇の墓?は?近畿に天皇おらんけど。まあええが。

で、継体である。継体という名は後につけられたもの。「オホド王」という。若狭の田舎のおっさんである。ここに至り、九州王朝の「高貴な血」は完全に絶たれたことがお分かりになるだろうか?

継体と同時代・6世紀前半、九州王朝に「磐井」がいた。磐井の反乱の「磐井」である。

あのさ、九州王朝が倭国の、わかりやすいところで言うなら「漢倭奴国王」という金印を授けられた主体である。それが延々続いていたわけ。「九州年号」もあるからね。年号は中国の天子にのみ「対応」して設定されるもの。それに「逆らったのが」アマタリシホコである。聖徳太子のパーソナリティの90%以上のプロトタイプを体現する九州王朝の天子である。彼は隋の煬帝に「喧嘩」を売った。

「日出る・・・・」あの文章ね。

なぜそんなことができたか?

隋は匈奴である。漢民族ではない。隋は匈奴・倭国は倭奴。要するに「対等」なのだ。それまでの中国の王朝は「漢民族」の国。東夷・南蛮・北狄・西戎という蛮夷の民族に囲まれるというのが中国の王朝の運命なのであった。強大な力があるときならなんともないが、ちょっとでも弱るとすぐ「侵入・侵略」が行われる。北狄の民族。それを防ぐのが「万里の長城」なんだけどね。匈奴=ヤンキーの奴等。

飛んだが、戻るが、磐井はもちろん「九州の天子」ですよ。磐井の反乱と言われるが実は「継体の反乱」が正しい。

継体は、おそらく初めて「磐井天皇」に接見したのだろう。そのために九州に来た。だが田舎もんである。クソ日本書紀にさえ「継体が突然暴れ出す」と記されている。そして物部麁鹿火(この戦の参謀)に(今の)山口県から西はお前にやるから。東はワシのん・な。と言っている。

あんな、大和朝廷なんやろ?全国(特に西の方なんて)配下に納めてたんちゃうん?なんで今更、人の土地みたいに言うねん?

それって所謂、今の中国地方に支配権が及んでいなかったことね。バラしてど〜すんねん。九州王朝のもんやったってバラしてどうすんの?


これだけの事実を「大和朝廷史観」が覆い隠している・ということがお分かりになるだろうか?大元が「うそ」なら「嘘」を塗り続けなきゃあかんのよね。で、「別宇宙の出来事」のような「正史」が出来上がる。実際、こちらの国の大元は「嘘に塗れてる」んですね。あ〜あ・よね。

嘘から始まってるこちらの国の歴史がもともとあるから、まあ韓国との「歴史戦」などという「徒労」をあえてしようというのなら「勝手にど〜ぞ」なんだけど、でもこれはさ、「相手」のあることで、自分らの主張が国際的にオーソライズされるかどうかなんてわからない。

歴史的事実には「光も闇も」存在する。「歴史」であるからにはその両方を「明記」すべきだと思う。それを「ねじ曲げちゃ」だめだよ。絶対に。

そうでないと、今日みたいな、「嘘ベース:」でバカが「激論」なんて無体なことが起こる。延々起こる。それで「学者」とか笑かすな、なのね。



posted by 浪速のCAETANO at 22:15| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年09月20日

1st Visit to 吉野ヶ里

「予言」また外れそうだけどね・だはは。全然気にしてなくて、反省もしてなくって、しょうがないやつですね・おれ。別にど〜でもえ〜ねん、ldpなど。ま・でも、自説は自説。論理的予測。間違ってたら、そのどこかの論理が「インでた」ってことでしょう。

ただし、電波ジャックによる「お祭り騒ぎ」が大変めーわくしてる。単なる「目くそ・鼻くそ・耳くそ・リアルうんこ」の争いが「TV set」の中では「意味ある選択」として見せてしまう。詐欺。リテラシーのない人たち・イチコロだ。


さて、「吉野ケ里」に行ってきた。やっと行けた。佐賀県脊振山地の麓に広がる縄文〜弥生(BC5C~AD3Cまたはその後)ぐらいの遺跡を正確に復元した「甲子園球場が6つ」ほどの広さの一種のテーマ・パークである。


発見当時は「卑弥呼の国か?❗️」と一世を風靡した。卑弥呼の国ではないにせよ、卑弥呼時代の別の国・跡。

環濠・物見櫓・王たちの居住空間・甕棺墓列・周囲には一般の人々の居住空間とその墓を従え、環濠集落としては列島内では未曾有の規模のものである。できた頃(平成元年)はどえらい数の人々が訪れたみたいである。その頃は「古代史」なんて興味なかった。

その後、12・3年前からかなあ、突然古代のことが気になり出した。その前から「熊野」に行っていた。饒速日のことはうっすら知っていたが、もっともっととは思わなかった。何も考えずに「熊野体験=死んで生き返るみたいなこと」を積み重ね、後白河よりは少ないが後鳥羽よりは多い・みたいな熊野御幸の回数になっていた。

「三体月」やら「本地垂迹説」やらのことを知るようになったが、そこから「九州王朝」まではだいぶ時間かかった。その間には「松本清張」「黒岩重吾」「梅原猛」「関裕二」などが入っている。

古田先生にたどり着くまでもんのすごい「遠回り」。まあ、その遠回り自体も「楽しかった」のだからまあいい。うまく「騙されてた」。騙されていながら、「ん?」てとこがあって、疑問持つと、ちょっと調べようか・という気になる。


まあ今でも「邪馬台国」は「あちこち」にある。皆さん余計に好きなこと言ってる。それはそれでいいんでないかい・とも思うが、「真実」は一つである。だが真実もまた「相対化」されつつあり、そこは「う〜ん・もうっ」ではあるが、「邪馬台国」ならええわ。

卑弥呼(ひみか)の『邪馬壱國』はひとつしかない。吉野ヶ里では「ひみか」だった。さすがだなあ。だが吉野ヶ里はひみかの国(邪馬壱國)跡ではないのよ。そこ・確認ね。卑弥呼時代の別の国・跡。

朝から一人仕事をして、その跡九州道を飛ばして、着いたのが15:30で閉まるのが17:00・だったから駆け足だったが、超早足で回った。もう一度行かないと。

以下のようなものを見た。すでにかなりゆうめいになったものだらけ、だが。まあこれから余韻を楽しみ、ゆっくり考えてみる。


E290BA83-1F31-4ED0-854E-7248573C219D.jpg環濠。
D88E603B-8F18-437E-9212-E4A831954BF8.jpg王の居住地。
4C802F76-F93D-426B-9915-3C44E9092231.jpg物見櫓

191CFEEB-9DC9-49F7-8A3D-698FAD411D8D.jpg甕棺(みかかん)
7B6E5A63-3B7A-4E11-B87C-4CE7D374DA56.jpg首なし遺体。
7DB7B589-660C-4ED2-B765-ED57A9785D8D.jpg鏃12個が打ち込まれた遺体。
50D0B5B9-CCFE-4222-BFAB-A582FF527BEA.jpg「ひみか」で統一。
CF5A1FD6-4EBF-40ED-8CA2-C3A02C2D7846.jpg巴型銅器の鋳型。釜山でも同じのを見た。
t7CE0CCB9-3CD3-44CD-A45B-4590C55FBB36.jpg竪穴式住居。
A926FEE4-523B-490E-B8AC-A0783071D80E.jpg物見櫓から別の物見櫓を見る。
538D7F13-32AA-416B-B9FA-742DC7ADE3CA.jpg広場。向こうには竪穴式住居。
DE357DD6-CF11-4897-8D12-F9BA8F2A09C8.jpg巫女の神がかり。
posted by 浪速のCAETANO at 19:05| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月14日

あるレイヤーには

蘇我氏の匂いがプンプンしていた飛鳥だが、予告通り、そのヴェールを一枚一枚剥いでいっている。

まだ途上ではあるが。

飛鳥とは、壬申の乱(672)〜平城京遷都(710)までの40年足らずの『都』だが、その間に、その後のこちらの国の「共同幻想」は決められてしまった。「幻想」だ。ありもしない事件がでっち上げられ、ありもしない人物が捏造され、今となっては「蘇我氏」の存在まで「眉唾かも?」である。


今行くと、長閑な田園風景が広がっている。おそらく七世紀からさほど変わってないかのようにも思えるほどの長閑さ・だ。アホが見たら「なんやクソど田舎じゃん」と言うだろう。アホには知識も知能も欠如しているから、そう見える。おれには「ちょっとしたアミューズメントパーク」に思えます。何が「 Amusement」かって人によるよね。

奇しくもこないだ泊まった豪邸の民宿は明治まで代々「天武・持統陵」のお世話をするウチだった。天武も持統もそこにいた。ただ持統(うのさらら)は正妻
とされているが「中宮」ですね。正妻は大田皇女である可能性が高い。持統が天智の娘であることはそれでいい。だが天武の正妻ではない。もうあまりにも当たり前すぎて、敢えて言うのも「片腹痛い」が天武は天智の「弟」とかではありません。血の繋がりはなく、天武の方が年上です。めんどくさ。

天武の死後(684)、持統は「大津皇子」を謀反の廉で、逮捕する。大田皇女の娘・それは大津皇子の姉、大来皇女だが、「初代」伊勢斎宮である。

平城京遷都は『結果』である。結果って何?全てカタがついた・ってことね。全てが「変質」させられ、九州王朝から大和王朝への「簒奪」も成し遂げられ、それを裏付けるかのような「偽史」の編集の目処も立ち、天皇の外戚の藤原氏に全ての権限を集中させ、といった「裏の作業」が行われた時代がその40年足らずの間であって、その現場が「飛鳥」である・と言うことなのね。

だからここが「謎だらけ」なのはどうしようもないね。

突然現れて消えていったかの印象を受ける「蘇我氏」・突然現れたのは同様の中臣氏はいつの間にか「『』『』氏」と成り上がって行く。そして忘れてはいけないのがもう一つのメジャー豪族「物部氏」なんだけど。


前述の大田皇女の息子に娘、すべて「大」の文字入ってる。大・とは何なんでしょう?また近いうちになら行こうと思ってるのだけど今度は明日香から北上して「多神社」を訪れてみたい。

「春日大社」ってありますね。藤原氏の「神道」の社なんだけど、その春日信仰というのが奈良にはそれ以前からあって、それはもちろんクソ藤原氏とは縁もゆかりもないものなんだけど、それもまた100万年前から「おれらのもんやで〜」といった顔をして取り込んだ。

戻るが「大」という文字、これは由来は「出雲」なんです。列島最初の「権力発生」の地。「国譲り」などということがありました。譲ったわけではないのね。そこで譲らざるを得なかった人々が奈良へきていた。そしてそれは「大・多・意宇」の人々。

奈良と言えば「非・藤原」の神宮があるでしょ?そう「石上神宮」。物部の社である。「石上の人」と言われていた人々がいて、「悪い石上」と「ええ石上」がいた。いわゆる「部落」のことなのだが、「穢れ仕事」をする人々に「神事」担当の人々のことなのだが、おれはご幼少すぎて・そして時代もあって覚えちゃいないがお袋はよく言っていた。「橋のない川 by 住井すえ氏」にもそういうことは書いてある。

ええ石上・とは物部なんだね。悪い方もね。

当然の話なのだが、奈良に天皇はいません。天皇は「九州に」いた。当たり前の話。白村江の戦い後、近江朝の天智・弘文を天武は「物部」の力によって倒したのね(壬申の乱)。なぜ天武の業績が「乱」なのかって不思議に思わない?逆賊みたいな扱い。「磐井の乱」もそうだけど。


天皇に「姓」があったって知ってる?九州王朝の中盤からは「アマ」後半からは「藤」。当然、天武は「藤」の人です。

そしてなぜ、中臣つまり「なかつおみ」がいきなり「藤原」になるわけ?

ところで「原」にどんな意味がある?

『中心』てことなんだけどね。

藤原氏は「恐ろしい」。性悪さでは維新の100万倍ぐらい。何を意味するかというとね、天皇家の「姓」を『奪った』ということなのね。紫の藤の花、綺麗ですよね。だがその「蔓」はあらゆるものに纏わりつく。


蘇我氏のヴェールを一つ一つ剥がして言ってる最中ですが、以上のようなことがわかってきたよ。しかしまだまだ、「謎」は多い。


次は、じゃあ物部氏はその後どうなったのか?そして「竹取物語」の真実について書こうと思う。

posted by 浪速のCAETANO at 14:02| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月24日

蘇我氏のヴェールを一枚づつ

おれの目もまた「曇ってる」・おそらく。

数年前に数度集中的に訪れたのだが、飛鳥自体はピンでボードに「留め置いてた」・そんな事だった。日本書紀・おそるべし。


おれもただただ「入鹿の首塚」「甘樫丘」「石舞台古墳(という名)」「飛鳥寺」という『表面』にやられてただけなのかもしれない。それは脚色by藤原氏なのよね。

蘇我氏の名誉回復はレイヤーの最浅層なんじゃないかな。

あるいは「蘇我氏自体」もまた「聖徳太子」同様・あるいは聖徳太子のために「作成」されたものかもね。なるほど、だから誤解と曲解とヤマト王権の幻想がこんがらがった後に「聖徳太子は蘇我入鹿である」@関裕二・なんて説も出てくるわけか。案外外れてないのかもしれない。どちらも「架空」であるとするなら。

関くんは根本は間違ってるけど(九州王朝がわかってないから)まあ良くある事だが向こう側でこんにちは・はあり得る。いや、大和のことに関してはベースに「天皇」がないだけで(あるだけで)いちいちそこへ戻るから話はさらにこんがらがるわけで、そこへ戻らずに「飛鳥だけ」のことなら一聴の価値はあるのかも・そうも思える。その大元には、梅原先生のあまりにもロマンチックな曲解があったのだけど。

古田先生は「飛鳥」に関しては多くを語らずして亡くなってしまった。

そっちは卑弥呼@近畿説とかを「本気」で信じてるパターナリスト歴史学者が群れをなしてるから鬱陶しい。

王・意宇・多・大という名は半島系ではなく、大陸・江南からのもので、九州だけではなく、近畿においても半島系vs大陸・江南系の対立はあり、そこから半島系の中でも新羅・伽耶系vs百済系の対立が内包され、天武vs天智の、それまでの・そしてそこから一世紀以上の間、天智系による天武系の排斥が続くのだ
が、白村江以降平城京までという約半世紀に何があったのかということはほんと・知りたい。

飛鳥の「蘇我氏のヴェール」を剥いだ後には「王・意宇・多・大」そんな姓が散りばめられているのね。

飛鳥の時代とは「まるで現代の」公文書改竄・破棄、そんな時代のことなのだ。その50年の悪行(実際は10年ほどだろう)による偽史の正史化により、その後1300年に及ぶ「わけわからん国」が出来上がる。

前述の対立の図式は南北朝を通り越して薩長同盟にまで影響を及ぼす。薩摩が「九州王朝の正統」が逃れた地であることはよく知られた事実だが、その後の「隼人の『乱』」(720)、宮廷行事における隼人による「犬の遠吠え」、君が代の発見@薩摩、西郷の別名・「菊池」など。で、最終的には「長州」による西郷の排斥。

そんな対立の「目」はいちいち古代まで遡ることもできるのね。今の政治・芸能の半島系による支配なんて、そこから考えるならまあ当然かな・という気もしてくる。ただ、半島の「どっち?」。そこポイント。

王・意宇・多・大の文字が示すように「飛鳥と出雲」の繋がりもまた、近畿=(おそらく)狗奴國の由来とも、そして葛城山系を越えた地域に点在する古墳の存在とも呼応しつつ、興味は尽きなかったわけである。

今度は「鎌足の地」を、今まで避けていたのだけど、訪れてみたいかな。多武峰・談山神社。蘇我氏の宿敵/不比等の父であるね。



posted by 浪速のCAETANO at 10:31| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月22日

朱鳥

一般的な話なら、卑弥呼が奈良にいたor九州だった、など超初級の邪馬台国(邪馬一國)論とかが興味の対象などになってるような体たらくなんだけど、そんなものは自明のことで、そんなことよりも最大のポイントっていうのは白村江から大宝までの38年間なのだ。
今と同じような「公文書の改竄・廃棄」が行われたのね。

朱鳥という年号がある。(あけみどり)と読む。その元年の記述@クソ日本書紀であるが「この年、犬と蛇が相交んだのがあったが、しばらくして両方とも死んだ」とある。

犬ってなに?蛇って誰?犬・蛇を対象化しているのは誰?

日本書紀であるから、その主体は「藤原氏」である。

藤原って氏はどこから来たの?

天皇家に姓がないって本当なの?

朱鳥の変。大津皇子が謀反の罪で捕まえられ速攻翌日に処刑された事件だが、大津皇子の母は太田皇女。

大という文字、「大」、賀字であるね。

天武(大海人)の嫁はたくさんいるけれど、そしてその多くが天智の娘とされてるけど、さて真実は?


大は王でもあり多でもあり意宇でもある。物部と言ってもいい。

奈良の大神神社の御神体は「蛇」。

大国主の八岐大蛇退治の伝説。

海蛇。出雲八雲のトーテムは、蛇。

九州王朝のトーテムは、犬。

信仰を破壊すること。それはその一族の根絶やしを意味する。

隼人の「犬の遠吠え」、これ宮中行事の一つであるが、えげつないことをさせるものだ。


そろそろ新大阪に着く。

posted by 浪速のCAETANO at 23:25| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月14日

セメント屋のオヤジ・妄言す

1)一つの国で


2)一つの場所で


3)一つの言葉で


4)一つの民族


5)一つの天皇



低脳の知ったか。レヴェル低すぎて、笑える。ボンボンのじじいってこんなもん。

全部嘘だから。

唯一そうかなあと思えるかもしれないのは3)だが、これは現代人には「そんな気がする」だけのこと。英語が他言語からの「外来語」を多数受け入れているのと同様、日本語もまた大陸・半島からの「最後の受け皿」となった列島の弧であった結果でもあるからね。倭人は中華帝国から「字」を習った。そしてその字に言葉を「充てた」。というか一部「逆輸入」も含め、その言葉は構成された・が正しい。その倭人という言い方もそれより以前・がなかったかのような誤解があるから正しく言うなら、nativeと言える縄文人(A)(そのルーツは、ミクロネシア〜メラネシア〜半島〜大陸のロシア側のツングース系まで様々)を征服した中国江南系の人々(B)による銅鐸文化を、さらに征服した海人族(C)の中の(C)を指す。

中華帝国への朝貢の結果「倭人」と呼ばれたわけで。東夷の倭人。倭奴。

3)に関してはそう単純ではない。世界で最も早く「土器」は発達した地域はどこか?

それは、この列島である。ここ意外に軽視されてる。火山の存在って大きい。時代は下っても「阿蘇山あり(魏志倭人伝)」だし。土器の時代はまさにグッと遡ること縄文の頃。当然その土器は大陸へも「輸出」されることになる。最先端技術である・当時の。最新技術が入ってくるということは、その周辺の概念・もっというならモノの名前・言葉もまた入ってくるということ。甲骨文字から発展中のの中華帝国にそのモノ・概念が入って行くことは、当時の列島でのものも呼称・概念もまた入り、「漢字」を充てがわれたことを想像させる。言葉に関していうなら、先ほど言った「逆輸入」というのはそう言った可能性のことなのね。

なんかほんとケーハクに「一つの言葉」なんてやめていただきたい・セメント屋のおっさん。

1)2)4)5)に至っては「冗談はひょっとこ顔だけにしろ」である。


おれはそのうちばかうよ(一般人・政治家問わず)の誰かが『日本紀1300年』を騒ぎ出さないかと「ヒヤヒヤ」してる。嘘の・だがしかし、その重みである。

日本紀の嘘はみなさん・なんとなくそうかなあ?とは思ってはいるかもしれないが、「正確にここが」と言える人はほとんどいない。そう思う。いちばんのバカは歴史学者なのだが、大抵の他の学者におかれましても、「ややこしいことにはタッチせんとこ」これが本音。それが通れば、1)2)5)はセメント屋が正しいことになってしまうよね。タチの悪い「通説」なのだが。もう・どうしましょう?

1)2)5)はまとめて、否定できるものである。


ごく簡単に。

1)旧唐書には「倭国」と「日本国」は別々に書かれている。新唐書からは「倭国」は消えて日本国のみの記載。その間に「白村江の戦い」があった。年代でいうなら663〜701。この間に歴史は継ぎ足され、簒奪され、換骨奪胎され、ウソがまかり通ることになった。

2)倭国の都は「太宰府」。近畿の「豪族」からは『遠の朝廷』と憧れられた土地だったね。奈良よりも数百年早く「条坊制」が取り入れられた倭国の都。倭国には数百年早く「律令制」があり、倭国には数百年早く「仏教」が伝来しており、倭国の女王は3世紀の段階に「文字」が読め・書けた。先進性。

5)1)と同時期に行われた改竄に加えて、継体で近畿の豪族の大王の系譜は「途切れている」。南北朝でも。明治でも。


嘘ばっかり言うんじゃねえ。











posted by 浪速のCAETANO at 11:16| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月20日

新記録の日・古代に逃げる

「現代」がもう嫌で嫌でたまらないから、7世紀の話を。

662年に「倭・百済」連合軍が「唐・新羅」連合軍に、白村江でコテンパンにやられ、倭国の「天子・薩夜麻」が唐の捕虜となる前代未聞の出来事が起こる。

あのね、前提としてその時に近畿に「天皇」などは一切存在してませんので。「大王(おおきみ)」は居りました。近畿地方の豪族ね。当時は中国の「冊封体制」の中に列島は包含されており、その中国(唐以前)の歴史書には『倭国』しか出てこない。中国に認められている王朝とは「倭国」のことであり、それは金印を授かった「委奴國」であり、「邪馬壱國(やまいちこく)」であり、その都は延々九州に存在していたわけです。倭国・とは九州王朝のことである。正統の王朝ね。ここ・前提。証拠はいっぱいある。ここでは書かないけれど。もう散々書いた。九州には「元号」さえもありました。それも『6世紀』から。

そのような「栄光の」九州王朝が、天子は捕虜になるわ。唐から「カクムソウ(太平洋戦争時のマッカーサー)」がやって来るわ、九州自体が「蹂躙・簒奪」の嵐に見舞われるわ。もうガタガタになってしまう。その時、無傷でいられた近畿(一緒にやるよっつっといて静観した)が列島の王者の地位を奪う。7世紀後半のことである。

その際に「でっち上げられた国史」が「日本書紀」です。「地理的にも年代的にも」矛盾(嘘)だらけ。『紀』の編纂が終わったのが720年。
それに先立ち、本格的に列島の王者を目指した近畿は天武の命により「国史」の編纂を開始する。で、最初に編まれたのが「古事記(以下・記)」で、681年に始まり、その編纂が終わるのは712年。

平城京遷都・覚えてますか?710年です。この時期に近畿は「王朝の体裁」を整えようと必死だったのわかるかなあ。

さて、ではグタグタのガタガタになった九州王朝はどうなっていたのか?

一部中枢は薩摩へと逃げる。そして、やはり九州王朝への忠誠を誓うものは列島全土に逃走する。抗戦する者もいる。元明天皇(在位707~715)の時代に「お触れ」が三度出ている。「山とかに逃げてる九州王朝の人〜、今『軍器・兵器』持って降伏したら許してあげるよ〜」というものね。大方はここで降伏・出頭したわけです。で、薩摩に逃げた九州王朝の残党もまた「隼人の乱(720)」で制圧される。

はい、先ほど、『記』の編纂の話をしました。近畿はここで列島の主になる・ということで「初めて」国史を編纂することになったわけです。ところが、その内容がどうにも『ショボイ』。それは今、我々が「記」を読む際に感じる『素朴さ』に通じるものである。もちろん「神話的」なパートに関しては、九州と「系譜を同じくする(した)」という前提だから国生みや「出雲や筑紫(大国主の国譲りや邇邇藝の天孫降臨等)」の神話で被ってる部分はあるし、もちろん「神武」は九州・糸島の出である(だから鯨の歌や、撃ちてしやまんといった糸島半島の歌があるんだけど)。

で、ここが大事なとこなんだけど、まず、「記」には神武が東侵の際に行ったエゲツないことが武勇伝として記されている。そしてその東侵は「成功」していないこと、橿原の地で銅鐸の民に包囲されながら「開花」の時代まではその勢力範囲を広げることができなかったこと(欠史八代の時代・ここ津田左右吉の大間違いなのだけど。存在してます)が仄めかされ、そして、特筆すべきは「近畿の天皇」とされる人物の記述が「むちゃ・ワイドショー的」なのね。「下世話なこと」大変多いです。新・列島王者としてはかなり「その品格」にかける。

さらにもっと大事なことは、その系譜が「明らかに」途絶えているという事実である。それは6世紀初めの「武烈〜継体」の血の「明らかな断絶」なのね。

ここ、詳しく行っとこか。「記」において(読んだらわかるよ)武烈という天皇はもう悪逆非道の天皇として描かれている。

「妊婦の腹裂いて喜んだ」「人を高い木に登らせて矢を射って楽しんだ」「池に人を泳がせ狭い出口のところで上から剣で刺して嬉しがった」

ひどいですね。で「記」はこう続ける。こんな困ったちゃんで子どもいないから、「若狭」にいた「応神天皇の『6代』孫」を擁立した・と。

おいおい、待てよ。そういうの「血が繋がってる」とは言わんでしょ。「人類皆兄弟」かよ。笹川先生かよ。

早い話「馬の骨」である。「どイナカもん」でいいと思うよ。

で、その「オホド王(=継体ね)」は奈良に入るまでなんと『20年』かかってるのね。何を意味するか?

奈良において、しっちゃかめっちゃかな内戦が起こっていたわけよ。幾つ勢力があったかは記には書いてないが、そのお互いがというか色々が疲弊したところを(20年待って)やっと入れて制圧したわけだよ。で、そこの大王となった。

こやつは「田舎もん」だから、それまでの九州の系譜からも自由で(な〜にが万世一系だよ・バーカ・バーカ)、どえらいことをやっちゃう。

ちょっと飛ぶけど・戻るからね。

山川の教科書に載ってる「磐井の乱」ってありますね。磐井は通説でいうなら逆に「反逆者」であることにされてるが、みなさんお利口さんだと思う。もうお分かりだろうと思うが、磐井こそ「倭国の天子」な訳です。で、その倭国の天子を「斬っちゃった」。イナカモンってや〜ね。身の程知らずにもほどがあるってことなのだけど。それは九州王朝とは血が繋がってないからこその蛮行であるのね。

しかし、この愚行は九州を「ほんと」に怒らせてしまい、近畿は九州から「攻められる」ことになる。ここ、「記紀」には書かれてません。あったりまえ・か。ひどい目に遭う。さらにはその後、お目付役まで送られる。それが、記紀に「突然」登場する『蘇我氏』である。九州王朝の財務官僚です。

磐井の乱(実は継体の乱)が528年、中大兄とアナザー馬の骨・鎌足による乙巳のクーデターが645年。そこから100年以上にわたり、近畿は九州の監視下におかれる。645は近畿の「ルサンチマン」ゆえ・ってことね。

戻ります。ちょっと怖いことがある。ということは継体以前は九州とも・ということは「邇邇芸」ともまあ理論上「天照」とも血の繋がりがあった「いわゆる近畿天皇家」はここにおいて「馬の骨の子孫」となったということなのだよ。「万世一系?バーカ」であるにとどまらず、現代の皇室にも繋がる話よね。こっから先は「怖すぎ」ね。虎之介くんの話をいうならさらに「どっひゃ〜」だからもうやめときますけど。


大きく飛んでいるから大きく戻るんだけど、記紀の話。

「記」がそんなワイドショーネタみたいな品に欠ける話やnaive話しか載ってなけりゃ、列島の新王者としては、これは唐にも見せなきゃあかんし、「うーん・困った」と近畿は思ってたのね。だから30年もかけて編纂したのだけど「封印」せざるを得なかった。そんな時、元明の時であるが、九州王朝の逃げてる人が諦めて投降してきたわけよ。軍器・兵器だけじゃなく、そこには「書物」があった。そして、当然九州は「文字」に関しても近畿のクソど田舎と比べ、一日の長があった。何と言っても。卑弥呼(ヒミカ・よん)が文字を読めたのだ。3世紀に既に。

その書物の中には「歴史書」があった。そして歴史官僚までもいた。近畿の歴史書編纂担当者は「小躍りして」喜んだに違いない。で、九州王朝の歴史官僚の「横について」『記』の固有名詞を「歴史書」の主語に替え、『紀』用に付け替えるという「偽書」の編纂をさせた。逆らって斬られた誇り高い歴史官僚もいただろうね。しかし、そのうちの何人かの協力があったからこそ、「紀」は完成した。


しかし、今でも「目の曇った」人・いっぱいいるし、「バイブル化」してしまってさわれない人も多かろうと思うが、上記のような成り立ちを知る者にとっては「ツッコミどころ満載」の『お笑い偽史』なのね。「なんで、神功皇后が卑弥呼と壱与の二人分の役割になってんの?」とか、例えば。1300年・騙され続けてますよ・(おれも含めた)あなたたち。


で、今日のテーマはこれからなんだけど、それは「同族間の権力委譲という『曖昧さ』を最大限利用しつつ、のちに『万世一系』の天皇制というコンセプトが生まれていく」そしてそのための「新しい神」を作り出す必要・ということなのだ。

ズバリ結論を言うなら「伊勢神宮」と「アマテラス」のセットはこの時・生まれた。by whom?

「持統と不比等」によって。もっと色々いそうな気がするが。

九州王朝の「神」は誰だったのか?九州時代から「アマテラス」が主神であったとするなら九州にその神社はあるか?

答えは『non』。これは何を意味するか?九州王朝の主神はアマテラスではなかった・と言うことである。

伊勢神宮を「創り出す」ことで、近畿天皇家は「アマテラス」の存在で九州王朝の実権のみならず、その信仰までも「覆い隠して」しまった・と言うことね。

天武が死んで20年後に近畿王朝初めての「大嘗祭」が執り行われる。事実であるなら690年のこと。持統が行った、とされている。701には近畿にやっと「大宝律令」ができる。九州に遅れること200年。身に余る「権力」を手に入れて、こわごわ「九州の天子」を模倣する近畿の人々の姿をおれは幻視する。尤も、九州王朝の大皇弟・天武の息子の高市(天皇、なぜかと言うとその息子長屋王は長屋『親王』であるから)が当事者であるなら、十分堂に入っていたかもしれない。ここらの実権の委譲期の『紀』の記述は『全く』信用ならない。そして紀も持統で終わっているのである。

伊勢神宮はアマテラスとともに、近畿王家が「創り出した」もっと言うと「万世一系」の嘘の根拠として「捏造」した「fake shrine」とも言える。それは「紀」の嘘と対をなす。

外宮には豊受大神(ごはんの神)・内宮にアマテラス。どちらも女神。不自然だね。












posted by 浪速のCAETANO at 13:37| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月05日

銅鐸の民と古墳(その1)

最初は、英検とG-tecぐらいだったのが知らん間に6〜7社に増えてたもんね。

新たに加わった検定テストには議員がついてるのよと田崎史郎が言っていた。このオヤジ、時々正直に「吐く」。あとでpmに怒られそうだけど。でも、ほんとのこと言いよった。

benesseは「岡山」の福武書店だったのだが、おれも問題集でお世話になってた・かつて。それがbenesseになった頃から、あっち側行っちゃったのね。行ったらもう帰ってこれんからね。

岡山かあ。岡山朝日の同級生いたな。何かしら・県民性、ある/あった。「おえりゃあせんのう」という伝説的ギャグはまあ好きだったな。長門勇先生だったね。

かつての吉備であるね。大和と親和性あったね。古墳も大山古墳クラスのが2つある。造山古墳に作山古墳(どちらもつくりやま古墳と読みます)。

古墳のある地域と「被差別部落の存在」には連関があるよ。意味もなく馬鹿でかい古墳を作ることには「意味がない」という意味がある。

天皇の墓・などと寝言言ってる地元民いらっしゃるが、寝言は寝ていえ、なのだけど、なんでかと言うと、まず「天皇おらん」からね。何で宮内庁が「掘らせないか」よく訊いて見たらいいのでは。「何も出てこないから」が答です。あのね、天皇の墓なら「三種の神器」必ず、一緒に埋葬されてるのでは?

だから、掘ってみてよ。掘ったらわかるよ。

大王(おおきみ)の墓の可能性はある。だが「地方豪族」は「三種の神器」など持ち得ない。当然の話である。しかし、墓を作る・が目的ではないのね。古墳を作った目的は;


「古墳を作ること」


何やそれ?


そのように思われた方だらけだと思うが、そうなのだからしょうがない。


古墳を作らせた勢力は「天孫系」。九州王朝から別れてやってきた。「神武の子孫」でいい。では古墳築造をさせられた人々とは;


銅鐸の民です。銅鐸一族の有名人、挙げてみようか:

『スサノオ』『オオクニヌシ』『ニギハヤヒ』『タケハニヤス』

彼らは大陸系の(半島系ではなく)人々。中国史書(漢書地理志)には『東鯷国』と記されている。卑弥呼(ヒミカです)と仲の悪かった「卑弥狗呼」の「狗奴國」とも言われる。今銅鐸が発掘される地域を「治めていた」。彼らの前の列島には、いわゆる「縄文人」がいた。その人たちを征服した銅鐸の民、その銅鐸の民を征服した(このことは記紀に記述がある。崇神時代の四道将軍)のが天孫族(神武の子孫)。前記のタケハニヤスは近畿王家の遠い親戚みたいに記紀には記されているが、銅鐸の民の、今で言う京阪沿線沿いの大王(おおきみ)の一人である。木津川での戦いにおいて、無茶苦茶にやられて、川がタケハニヤス側の兵士がズタズタに切り裂かれて「ウンコまみれ」になったことからウンコ→クソ→クズハ→樟葉・との「地名説話」もあったりする。

そういう、橿原から出て周囲を征服した天孫族に被征服民たちはどうされたんでしょうね?

古代における・人権などというような概念の一切ない・アジアのしかも極東での支配/被支配の姿を思うとき、おれたちは現在のおれたちの置かれている社会的環境を「全てごあさん」にしないといけない。そこにあるのは100%の権力を持った支配者と0%の権力を持つ「奴隷」だけである。

では奴隷たちをどう「飼え」ばいい?

殺してしまえば元も子もないんだけど、しっかり食料与えて元気はつらつ・では、いつ寝首を掻かれるかわかんない。

そこで始められた事業・というのが「土木工事」。体力・気力ともに消耗させつつ、でも死なせてはいけない。奴隷の「再生産」も大事。

一方で、支配とは現実的なことだけではない。「神」もまた天孫族のそれを信じさせる必要性がある。卑弥呼でよく知られる「鏡の儀式」はより高いところで行われる方がより効果的である。前方後円墳の方墳部分の盛り上がりはまさしくその場所のことなのだけど、最初はその儀式のためのものだった。
561E17FB-82DF-4770-BA7C-E0E248F17F4A.jpg

古墳構築は奴隷たちを男女問わず連れてきて、主に労働は男のものだったが、女たちもその周囲に住まわせ、土木作業に酷使し、一元管理するための非常に効率的なシステムだったのね。さっきも言ったが「再生産」も必要だったのね。だから男女ともに「そこ」にいた。では「そこ」ってどこ?

古墳周辺の今では水が溜まってる「環濠部分」です。環濠部分からは「生活土器」がいっぱい出てくるよ。銅鐸の民は「現場」に住まわさせられていたのね。

何とまあ「cleverな天孫族」。

記紀に見える、崇神時代の「民がアマテラスを拒否して大汝持=大物主=オオクニヌシじゃないと」と反乱を起こし、「オオタタネコ」を探しに行って大汝持を祀ったならば収まった、という説話は、奴隷制度初期の混乱とその収拾を表してるよね。


古墳が「無駄に大きく」なってくるというのは、天孫族の支配地域が増える=奴隷の数が増える・ということを意味する。後半には政権の中枢からは遠い「河内平野」へ移ってくるわけですが、そこに政権も移ってきたというわけではない。ただし、意味もないものを作るわけだから、相手にとって意味のある場所が効果的よね。かつて神武が長髄彦に敗れた河内そしてそこは銅鐸の国の中心部、摂津にも隣接しているのだった。

しかし南大阪の特段に著しい「部落」の問題の根源はそこにある・とおれは思ってる。そう考えると心が揺れますね。

さらに古墳で盛り上がっているのも別に構わんが、率直に言って、アホちゃう・とおれは思う。そんなものを造る意図・そしてそんなものを造るのに費やされた人的資源と支配の様相を考えるに。まあここ・現代からの逆照射なんですけどね。

彼らはあの「窪んだ現場」に住んでたのね。



posted by 浪速のCAETANO at 01:59| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月28日

ドサクサ紛れにウソをいう

バカが聞き捨てならぬことを言ってた。

「大阪は4世紀に仁徳天皇によって都に制定された」

バカだから不勉強なのは、しゃーないな。だが、世界に向けてウソ言うたらあかんですよ。

「へ〜そうなんだ〜」とか思ったひと!それは真っ赤な 「うっそ」よん。

古墳が世界遺産になったけど、ふーん、だったなあ、おれは。

デカけりゃエラいのか?

確かにデカいですね。伊丹空港に帰ってくるとき、おれもした見るのは楽しみ。造形も美しいと思うよ。前方後円墳ね。あちこちに点在する古墳の(あれが墓とするなら)権力者のものであることは間違いない。それも近畿の(河内の)権力者であることは間違いない。だが、、それが「列島の最高権力者」であったかと言うなら「non」である。

だが、被埋葬者と埋葬者たちはその「信仰」を「真の権力者」と同じくしていた。そして、そのことは彼らの「誇り」であった。

あの前方後円墳の方墳部分、そこでは「鏡のマジック」が行われていた。それはこのようなもの:

1C3E7964-8A32-49F7-B7E7-75023310AE18.jpg


これは卑弥呼(ヒミカです)の得意とするところ。

上のphotoはかつての倭国の一部・狗邪韓国(金冠伽耶=現在の金海市)の歴史博物館にあるもの。この鏡の儀式こそが、近畿の権力者たちが、饒速日(ニギハヤヒ)の国の被征服民に対して進行の強要のために行ったものである。

その建造に当たることを強要されたのも被征服民たちなのね。身に染みてわからんかい、ということね。

じゃあ、なんでそんな巨大な古墳が作れたのか?

ハイ、答言うよ〜。

「ヒマだったから」です。

だはは。だけど、これ真面目な話なんですけどね。

列島の真の王者は「倭国」「倭奴国」と言われた時期もある。サルのおっさんが「倭の奴の、、、、」なんて寝言を言うとったし、それがもはや「通説化」してるけどね。非常にレヴェルの低い通説です。金印の意味もな〜んもわかっとらん。金印などという100年に一度もないようなまさにゴールデンな出来事。それは与える側と授かる側は1 : 1。なんでまた漢のような大国が、例えば「大阪の中津のキミに」なんて書くかよ。国ひとつから国ひとつに与えられるものなのね。

倭奴、とは「ワンワード」ですのでそこんとこ、よろしく。匈奴に対する概念。「いい子ちゃんの奴」ね。匈奴は三原じゅんこ、ね。


宮内庁のホンネを言ったげようか。「発掘されたら仁徳陵で『ない』ことがバレる」ていうか「そもそも天皇陵でないこともバレる」「その辺のおっさんの墓っちゅうのがバレる」です。

ヒマだったから。

列島の真の王者はものすごく忙しかったのね、当時。高句麗との「半島での」血みどろの闘いのね。

先ほどもちょっと触れたが、半島にも「倭」があったのだ。これ、現在のnationalismの風味づけ、いらんからね。近代とは次元の異なること。倭国の成り立ちにも関係がある。玄界灘周りの海洋国家。都は博多。「大阪」が都になったことは「一度」もありません。白村江後の非常に微妙な時期(7世紀後半〜末)に今のNHK大阪の難波宮は倭国(九州王朝)の副都になったことはある。これは大化の改新(これもウソで本当は中大兄と鎌足による蘇我氏へのテロ)後、孝徳が難波に遷都したと言われるサイトのことね。作り話も、もうちょっとウマく作らないとね。

近畿は米よく採れた。経済力は九州に匹敵していた。ただし、磐井の反乱と通説では言われている、実は継体の反乱後、九州王朝からキツーいお灸を据えられ、超優秀な百済出身の財務官僚・蘇我氏をお目付役に派遣されていた。九州には「律令」がすでに5世紀にはあった。すごい先進性である。もちろん仏教も。近畿なんて701年(大宝律令)である。2〜300年遅れてる。

中国の史書には、「旧唐書」以前は「倭国のみ」、「旧唐書」には「倭国」「日本(ヒノモト)」の併記、そして「新唐書」には「日本のみ」。入れ替わったことがお分かりになるだろうか。「併呑」だけどね。

「白村江」がターニングポイントなのね。

白村江の相手は唐・新羅連合軍だったね。

本日は以上。

posted by 浪速のCAETANO at 22:13| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月19日

アマテラス

ちょっと厄介なことになってきたなあ。
アマテラスが現天皇家の祖先であることを、NHKが言った。それに対して「そんな『架空の』人物を、『神話内の』人物を天皇家と実質上結びつけた」と反応・反論する人たちがいる。

国家神道の忌むべき歴史的記憶。それに対して天皇家と伊勢の神の権威をスライドさせておのれの権威を高めようとする勢力。そして来年は日本紀完成1300年。

大変厄介なことになって来たと思う。だが、冷静になろうじゃないの。


(1)アマテラスは実在する。

(2)現天皇家はアマテラスの子孫ではない。

ここはおれはイデオロギーの話をしているのではないからね。悪しからず。イデオロギーなど、どうでもいい。上記が真実です。ただし(1)と(2)の間が大層、複雑かつ欺瞞に溢れているのね。

本日は以上。詳しくはまた。
posted by 浪速のCAETANO at 20:20| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月13日

アマタリシホコに会いにいく

録音かなあ、と思ってたんだけど、急に思い立って法隆寺へ向かう。
夢殿の御開帳の時期で「救世観音」がナマで見れる。今かなあ。

救世観音像、わかりますか?

聖徳太子と言われたひとを模して等身大で作られたと言われる。

発見されたのは、明治である。

フェノロサが何としても見たい見たい、とゴネました。

法隆寺の僧侶たちは命がけでそれを阻止しました。「絶対開けたらあかん」というのが代々いい継がれてきたことだったのね。だから、必死で守ろうとした。だが、フェノロサの粘り勝ち。

それは布でぐるぐる巻きされ、まさに「封印」されていた。その布を解いて現れたのが、その救世観音像だったのだが、人で言えば、後頭部にぶっとい釘が打ち込まれていた。

誰が、一体、そんなことを?

近畿天皇家だよね。法隆寺は行橋の「椿市廃寺」を移設したと言われている。今に繋がる天皇家がそれを行なったわけで、となると、後頭部ぐさっ、も、ぐるぐる巻きで封印もおそらく8世紀入ってからのことでしょうね。

よっぽど、あからさまにさせたくなかった、ということ。

そりゃそうよね。近畿天皇家の気持ちになればそれはよくわかる。せっかく、作った古事記を廃案にして、九州王朝の歴史書が手に入り、それをパクって、日本書紀を作成し、唐からも「ま、よかろう」と承認されひと安心。だが、「生き証人」はゴロゴロいて、九州王朝の残党も薩摩に逃げてあわよくば、なんて心配もあり、「隼人の乱」が起こるか起こらないか、そんな時間帯である。

そんな時に、本家の九州の王朝の、最重要人物を模した黄金の像が、「ちわ〜」では、ドヒャー、やんなぁ。

救世観音像、ナマで見るのは初めてだ。

夢殿のなかは暗く、網に顔をくっつけてど真ん中で顰蹙買うぐらい見つめ続ける。

阿毎多利思北孤。隋の煬帝に喧嘩売ってはいないけど「ん?なんて?」と思わせ、裴世清を遣わして確かめさせた。

その時の話は、随所タイ国伝に詳しく書かれてある。

側室たちが500人ほどいた、とか、ね。裴世清はタリシホコと会って話をしてるのだ。バカ歴史学者のみなさまは、それを推古(女子)であるとか、厩戸であるとか言っている。厩戸は王ではないしね。

まず、近畿まで来てないしね。一言も書かれてない。もし近畿まで来てたなら、風光明媚な瀬戸内海の穏やかな海路に言及しててもいいはずなのにね。


さて、ちょっと足を延ばす。JR奈良から歩く。京終の、ミリアムまで。

ふみこさんが働いてる喫茶店ね。ふみこさんは北林純の奥さん。

ミリアムさんが店主ってことね。

お客が気持ちいい方ばかりで、ふみこさん居心地良さそうだった。

ライヴが出来ればよいね。





posted by 浪速のCAETANO at 17:24| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月07日

玄界灘を渡って(第2部)

国と国の関係がさほど良くない時ほど、行ってみたいと思ったというのがある。
玄界灘を超えていく意味、まあ勝手にどうぞ、なのだが、うん、勝手にするよ、ということでもある。

金官伽耶は狗邪韓国、つまり、倭国の一部である。倭国を現在の列島の政権の前身と見るのはちょっと違うのね。倭国とは壱岐・対馬を中心に海を仲立ちにした海洋国家群である。

魏志倭人伝の時代ならその中心は邪馬壱国。魏志倭人伝の側から見るなら伊都国が以前の中心だったところ、一大率を置かれている。何を意味するか、といいますと、そこに一大国(壱岐)の軍隊が駐留している、ということなのだ。その支配は女王国によるものである。

BB0EA658-E9AE-4B94-BD51-B6CE93EB06B8.jpg

この絵を見ていただきたい。もちょっとアップにしようか。。

EA33AFCF-B7DF-4FF0-9D5D-2F8A7D9C1982.jpg

卑弥呼そのものである。少なくともおれにはそう思える。「鏡」を手にしている。このマジック、卑弥呼の得意とするところ。

金官伽耶のmuseum にあったものである。

半島は、特に南部は倭国を構成する国の一つ(あるいは複数)だった。

おれは任那日本府というのはね、そのイデオロギーが気に入らない。その経営主体は近畿という文脈になるところが気に入らない。あり得ないから。

だが、半島内にも「倭」があり、そして新羅の史書にあるように「しょっちゅう(倭が)国境を侵犯してきやがる」という描写のあること、これがその証明と言っていいかと思う。

そして驚くことに、新羅の中枢に倭人がいる。第4代脱解王は倭人である。下関付近にあったたばな国から流れ着いた人である。そして瓢公という策士というか政治家、これもまた倭人である。なんでそんなことが?と思われるかもしれない。だが、辰韓(のちの新羅)時代ーーーいわゆる三韓時代だが、ここには倭人は「混じっていた」と思われる。でないと、新羅王に倭人が、ということはあまりに突拍子もなくないかな?

そして、もひとつ「踏み込む」ならば、新羅人と倭人はまあまあ「仲良かった」と言えるのだ。

まあ、だからそのう、近さはそれ故に憎しみに変化することもあるよね。よくある話。

古代から遠く離れて、ではあるが、三韓時代には倭人が辰韓、弁韓には数多くいた。そしてもっとその区別も曖昧だった、ということが考えられる。混ざってた。犬の喧嘩みたいなことだったと想像できる。

その後、国ができ、高句麗・新羅vs百済・倭の死闘が始まるのだが、こちらから向こう、向こうからこちら、と「上陸」し合ってのせめぎ合いがあった。こちらから常に「侵略」していたというわけでもない。犬の喧嘩の延長だからね。

みなさん、古代をもっと知ればいいのに。「ヘイト」の愚かさにきっと気づく。

おれも今回行って楽しいこと不愉快なこと色々あった。まあ、それしかし、普通じゃね?地面近くで生活している人、本当にloveでしたよ。地面から離れるに従ってムカつくのもおるが、そこはそれこそpm一味の犠牲者という気がせんでもないのね。そこは判断するにもう少し経験が必要。

でもさ、上の写真、金官伽耶=狗邪韓国に女王国の女王の「得意技」が展示されてることはこれまたおれの想像に油を注いでくれたよねえ。

ゾクッとしたよね。勝手に。個人的にだけどさ。

posted by 浪速のCAETANO at 01:41| 大阪 | Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月05日

挑発

イチローが福本と同じような理由ならええな、と思うのだ。
「その辺で立ちションでけへんようになる」だった。

JOCのバカ親父のバカ息子が、「聖徳太子が元号使ってたやんか」

それに対して、「その時代は元号ありませ〜ん」と、批判。

なんというか、二回捩れてるからさ。

初めの皇室系のアホには、日本書紀を「焚書」することを勧める。

後のアホにも、あ、やっぱり日本書紀の「焚書」。


諸悪の根源、日本書紀。

こちらの国の人たちには真実はso far awayである。嫌な感じは、来年が「偽書完成1300年間」てこと。pm一味は必ず、それを言い出す。

偽書。一番わかりやすいのは卑弥呼と壱与が神功皇后になっちゃってることである。当然、古事記にはその記載はない。当時の列島の人物で最大の有名人、それは卑弥呼と壱与だった。その2人が史書に載ってないのはマズい。で神功皇后(おそらく実在、オキナガタラシヒメ)にその2名の役割を担わせたんだけどもその結果、年代的にはちょっとムリね、な結果になってしまってる。

いや、だからその有名人を史書に登場させないことには唐が信用してくれない。許してくれない。ほんの今出来た国の「正統性」に関わる「それこそ一大事」だったのね。

卑弥呼と壱与の遺跡がよくわかんないのも実はそれが原因なんです。もっと言うなら神功皇后絡みの遺跡、だからとっても多いのだけど、それらの「どれか」が卑弥呼の墓です。

おれは香椎宮だと思ってる。この辺、ちょいマニアックだからみなさんついて来れんかもしらんが、「親魏倭王」の金印もその近辺で見つかるはず。

邪馬台国近畿説とか、はははは、サル!で終了である。

まあ、そんなんはおいといて~。

神功皇后の「三韓征伐」.ナショナリスト喜びそうだけど、もちろん嘘で、真実は高句麗・新羅連合軍vs百済・倭連合軍の血みどろの戦い。

卑弥呼は2〜3世紀、壱与は3世紀後半の人であるし、前述の血みどろの戦いは4世紀末〜5世紀、時代はズレすぎ。半島絡みの事だったから唐は「見逃して」くれたのね。

ちょっとナショナリストを挑発。

日本書紀の黒幕は、実は「唐」ですので。アタマに来た?

もっといっぱいあるよ。今日は辞めとくが。

日本紀(日本書紀のことね、間違いじゃないのよ)自体の偽書の証拠のメインパートは「まずそこ」だからね。

最後に、元号は「ありました」。聖徳太子は、大したことない「そんなひと」はいましたが、その人たちの周囲には、元号なんて、考えも及ばない、そんな環境でした。

日本紀の成り立ちに疑問も持たず、センター試験の正答を競うようなそんなレヴェルで発言するの、恥ずかしいね、とってもね。






posted by 浪速のCAETANO at 15:51| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月03日

お万葉集、突然の注目

突然の「万葉集」focusだった。
なんでもかんでも「受け入れる」人たち。ほんとに「支配が簡単」。

なんでもかんでも「乗っかっとこう」かな。批評という言葉はこちらの国の人々の辞書には存在しない、かのようである。

各方面からの歌が散りばめられている。

「嘘」です。

万葉集は日本書紀と構造が似てる。

共通点は九州の作品の作者名を奈良の人物としてるところ。そして、したがって全国の〜など言われながらも、九州の歌がほぼない。何よりも、7世紀後半の最大の出来事「白村江」の歌がない。縁起でもないからか。そうかもしれない。だけど、載ってる歌が詠まれた時代は、史上最大の「権力移行」の時代。

柿本人麻呂。

なぜ、日本書紀に彼の名がないのだろう?

彼の詠んだ「吉野」、なぜ奈良の吉野の風景と「違いすぎる」のだろう?

柿本人麻呂が一番わかりやすいのだが、彼は「九州の歌人」。


太宰府もまたfocusされている。そこ、ちょっと歓迎している。

今は天満宮ばかりが注目されてるけど、じゃあ天神て誰?何?道真じゃないよ。じゃあ、誰?

天神の天て「アマ」とも読めるけど、すっと頭をよぎるのはアマテラスのアマだと思うけど、じゃあアマテラスのことなの?

そんな疑問が少年少女のアタマに浮かぶことを期待する。

そしてもうちょっと進んで「政庁跡(都府楼跡)」「紫宸殿」という地名や政庁跡を囲む山城跡の存在。

紫宸殿の意味とは?太宰府の太宰の意味とは?

なんでなの?そんな疑問、歓迎してる。

奈良の人々に憧れをもって「遠の朝庭(とおのみかど)」と呼ばれていた太宰府。

浮かれるのはいいんだけど、浮かれの根拠をちょいと考えてみるのもいいかも。いい機会だけどね。




posted by 浪速のCAETANO at 10:02| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月01日

玄界灘を渡って(第1部)

長崎時代に「玄界灘」は、そこ、にあり、大阪とは異なり、周りに在日の方はほとんどいらっしゃらなかったけれど、この先にあるものは朴槿恵の父親が支配する国と、そのも一つ先には、金日成の北朝鮮があった。
聞こえてくる報道は金大中の誘拐拉致、朴大統領の暗殺未遂、そして今思えば、日本の青年たちの失踪は金正日の仕業というのがまだ確定していなかった頃。そして光州事件。子ども心に、戦慄が何筋も走ったものだった。

大学生の頃、帰省の際に立ち寄った博多の大濠公園、季節は春、坂を登ると鮮やかな衣装に身を包んだ集団が歌い踊りしていた。在日の皆さんの花見だった。

おれはまだピンときてなかったのだ。朝鮮の人たちと「出会って」なかった。西の端で育った者の幸運/不運だ。

それから40年。韓国は民主化を達成し、北朝鮮は「西側」への歩み寄りを始めている。ここはまだ予断を許さないが。というかdtの再選がなければ元に戻る可能性もある。

京城(ソウル)に行くのはなんか躊躇われた。今では友人も何人かいる。大抵はfromソウルだが、北の人もいる。済州市の人もいる。許永中の育った長屋は今のおれのお買い物途中にある。おれは壱岐にも行ったし、五島列島にも行った。対馬はまだ未踏の地だが妹の彼氏が対馬の子だった。そして何よりも九州王朝のことをかなり知ってしまった。

最近は父親の病気と死亡、それに伴ってお袋が1人になってしまったから、時間を見つけで実家へは行っていた。親父が生きてる頃は、九州へと向かう際には、博多、志賀島(金印の)、糸島半島、太宰府などを回ったりもした。玄界灘を挟んでこっちと向こう。こちらの国の、本格的な王権と交易の存在したエリアである。

なんと言っても、アマテラス一族が釜山の鉄を背景にオオクニヌシに「国譲り」を迫ったのは「海洋部族」としての機動性と半島南部が非常に豊かだったことが深く関係している。彼らに、しかし、ただ一つなかったもの、それは「米」なのであって、それが他地域に先駆けて存在した「板付の縄文水田」を我が物にしようと思うことは不思議ではない。

そこからさきの白村江の戦までが九州王朝の「すべて」と言っていい。その間には、卑弥呼が壹与が磐井が讃・珍・斉・興・武の倭の五王がアマタリシホコが薩夜麻が、こちらの偽史には載らず、載っても別人か、ありもしない役割を与えられ、偽りの近畿の王朝に奉仕させられることに甘んじている、が現状だったりする。

もうおれの中では機は熟すぐらい熟していたのだけど、ヒマがなかった。でも今年は新年度始まるまでになかなか時間ができた。ちょっと仕事に膿んでたし、まあ仕事は仕事。モルモッツの録音と自分の音源作りもちょっとおやすみ。

関釜フェリーには憧れがあって、今ならLCC使えばあっという間なのだが、おれは「旅とは過程だよ」という信条を持つ変わり者なのであってその過程が長いほど好ましく、着いて仕舞えばその盛り上がりは6割ほどにトーンダウンしてしまうという困ったヤツだった。

だからおよそ25時間かかる大阪〜釜山というプランを立てた。

で、25時間かけてプラン通り遂行した。

上陸すると荷物を釜山駅のホテルに預けて、金海(キメ)市へと向かう。初日はアテンドしてくれる方がいて、こちらの大学で東洋文学史を教えているミンさんがバス停近くで待っていてくれた。

金冠伽耶のmuseumへと向かう。古墳の隣にmuseumがあり、古墳に登ればカササギがいた、吉兆のカササギ。白黒のうーちゃん柄というかtico柄というか、なかなかそういう柄の刷り込みがおれにはあるのだろうが、可愛い。カラスはほとんど見かけないという。

釜山の鉄、と言ったが、正しくは「金冠伽耶の鉄」なのだった。中国史書には金冠伽耶の鉄を新羅も百済も濊も倭もさらには中国でさえ(楽浪・帯方)、「みんな集って己のものにしようとする」とある。BC2世紀〜AD3世紀のことである。この場合の倭、とはアマテラス一族と言っちゃっていいと思う。

ミンさんには「三国遺事」が〜とか言っても「通じる」のが嬉しい。

金冠伽耶は最後には新羅に征服されるのだがその建国の父とされているのが「首露王」。そしてそれから国が盛り上がり(魏志倭人伝に記されている狗邪韓国=金冠伽耶を中心とする伽耶連合とも言われる。ここしかし、おれはまだよく調べていない)、そこから衰退期、新羅に征服されるまでの王の墓=古墳群がこの「大成洞古墳群」だった。

ちょっと飛ぶが、狗邪韓国は倭を構成する国と陳寿(魏志倭人伝の著者)は言っている。BCとADを跨ぐ頃、海洋国家連合という倭の一員であった可能性はあるが、それを大和朝廷の半島経営にまで「発展」させるのは「夜郎自大」だ。その時「在った」のは連合国家としての倭、そして金冠伽耶(狗邪韓国としとく)、大和朝廷が「出来る」のは680〜701年の遥か未来である。ええ加減なこと言うたらあかんわ。

BA29D51B-5744-4A2E-9117-C282DFE77110.jpg

任那日本府とかええ加減にしなあかんね。「日の本」という言葉さえ使われ出したかどうか、なタイミングでもある。

金冠伽耶(金官伽耶と言われているがおれは前者の方が好みでそのまま行く)は当時の「貨幣」とも言える鉄生産により、かなり豊かだったことが伺えた。1ECA3049-C2A5-4369-B46E-5193D2C03296.jpg

あまりにも「美しすぎない」だろうか。漢の時代とはローマ帝国の時代であり、「シルクロード」である。

29CBC070-5409-4720-BD1D-EE8E406DD497.jpg

副葬品の絢爛度は交易のなせるわざとも言え、そこには金冠伽耶も財力があったから、と言えると思う。


金海市は「global city」だ。とにかく、色んな顔が居る。いないのはEU圏とアフリカ人ラテン系ぐらい。いやglobal cityと言ったんはややケーハクでした。「Eurasian City」がもっとも正確だと思う。ロシア系のべっぴんも多かったことで、思わず「ガイジンニュアンス」がおれの中で勝ってたみたい。失礼。

9FB7D6C0-397C-42CA-9457-B6C95381E004.jpg

このdestinationが物語るね。

しかしこの猥雑な坩堝感、たまらんね。トルクメニスタン料理とかなかなか食えんよ。ヤバさも充分漂ってる。金海市も「再開発」の真っ最中で、だが、おそらく帰国してからも残るのはメインストリートから入った路地のあの汚い店の肉まんとかだろう。間違いなく。消えゆくものって汚くとも「美しい」のね。


港というのはいいね。下関港も釜山港も。ありきたりだが、「トラワヨ プサンハンヘ〜」なんて、柄にもなくチョーヨンピルが憑依してたりする。しかし、あの、韓国おばちゃんらの公共のものを「ごく自然に」おのれのモンみたいに使うの、才能やな。感心する。

韓国女性の「顔」というのもあるね。そしてフェリーにて朝起きてロビーへ行くなら、夜とは違ってもうTBSはやってなくってTV画面は二つとも韓国の画面になっていた。金正恩が出ていた。このように頻繁に彼のことは流れるのだろうな。今、日韓の関係はかなり悪い、とされる。よりにもよってそんな時に初半島上陸するおれもおれだが、だが釜山は大都会。大都会だが地面近くのものもいーっぱい。そこは日韓関係など、「それがどーした!」といった庶民のエネルギーはフラフラしない。敢えて釜山でしょ(京城じゃなく)などおのれに言い聞かせてる。それは大阪が大都会という意味と近いと思う。

またまた飛ぶが、共産党の宮本たけしくんが離党して無所属で衆議院の補選(なのかな?)に立候補するという。センチメントを変える、という意味では「すごいこと」やったな。可能性!

まあ実は年号の話から遠ざかりたいという気持ちもあった。まあ人類は「逃げる」がデフォルトであるし。

今日の昼頃には発表される。敢えて非国民、でもいいのね。「悪く変わる」だけではなく、センチメントなどはどこでどう流れが変わるかわからない。

他人事のように、玄界灘の向こうから見ている。



posted by 浪速のCAETANO at 07:05| 大阪 | Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月03日

元号ね

やっぱ、メディアだね。1番のネックは。
小川くんのフィリバスター、おれは全部聴いたが、news 9では「川柳読み続け」と「水を飲む」そこだけをフィーチャーしていた。

フィリバスター要員。その本意は全うしたけど。そんな扱いだった。

素晴らしい演説だったよ。見てみたらいいのに。youtube にある。え?時間がないって?うん、そうだね。「考えさせない・考えるきっかけを与えない・『考える時間を与えない』」。ペース「握られて」るね。

政治家は「言葉」、先ずありき。

まあboやhcの例もあって、そこだけに特化して、あとお腹の中真っ黒、というタイプもいる。

pm/LDP supportersは鈍感。


さて年号のこと。

pmの苗字の最初、名前の最初が次の年号に入る、うわ、ゲー吐きそう。もうワシはこれから西暦一辺倒で行くしな。そんな意見も、容認論とともにまあまあ溢れている。

おれが思うのは「安ナンチャラ」ではなく「ナンチャラ安」ではないかと思ってる。アタマのそれはなんぼなんでもあからさま過ぎると思ってる。まあどっちにしてもおれは今や、西暦だけでいいと思う。平成まででもういいんじゃないの?おれの中では。そんな感じ。そうはいっても年号は続いていくだろうけどね。元々は中国由来。これはみなさん、ご存知か。「天子」の存在する国しかそれはやっちゃダメ。周囲の蛮族は設定しちゃダメ、ということになっていた。

それを覆したのが「倭国」だったね。独自の元号を設ける。これ、白村江の戦いへの遠因でもある。ある時から(「隋」だけど)、倭国は中国の王朝に以前ほどの敬意を払わなくなった。聖徳太子とされる人の「あの手紙」にわかりやすい。

通説では年号は「大化」からということになってる。「当然・ウソ」だけど。大化が存在しなかったというわけではなく、around 645なんてことじゃなくaround 690 。当然大化の「改新」とか無いから。何遍も言うてるが大化改新は明治維新のカウンターパートね。

白村江から(662)大宝律令(701)までは倭国が近畿豪族に「乗っ取られる」過程なのであって、その際に古事記が編纂され(712)、だが倭国の史書が手に入り出すことに伴って、新たな史書の「捏造」が始まり(日本書紀だが)その完成(720)を待って古事記が「封印」される。

飛ぶがこの720年というのがおれは気味が悪く、なぜかというと来年が2020だからなのだよね。just 1300年。日本書紀編纂700年記念ナンチャラとかがありそうでね。間の悪いことにオリンピアードの年。うーん、また来年心配しようか。

戻るが、あのさ、古事記&日本書紀とみなさんペアで認識されてると思うが古事記は「封印」されたんだからね。事実上存在してなかったわけです。古事記は「発見」されたのね。

おさらいしておくと「古事記に無くて、日本書紀に存在する記述」は「すべて倭国の史書からの盗用」です。倭国の史書とは「日本旧記」「日本世記」です。

8世紀の初頭の女帝のひとり、元正の時に、倭国の残党に「兵器、史書、要するに大事なものを持って来たら赦すよ〜」という御触れが3度出ている。「三種の神器」は「大宝」の時代に略奪したと思える。だって「大宝」だしね。その後も倭国の残党は例えば薩摩へ逃げたりして抵抗を続けていたと見える。その後に起こる「隼人の乱(720)」は倭国の残党狩り(それも最終的な)だね。

ところで薩摩の地名が薩夜摩(サチヤマ)からきてると思ってるのはおれだけかな?白村江の際に唐側に「捕らえられた倭国の天子」ですが。

日本書紀に続く「続日本紀」で聖武が「白鳳から朱雀までのことはようわからんのよね〜」と言っている。この白鳳と朱雀がどこか他所の国の、つまり【聖武の与り知らない国の元号】であること、間違いないね。そして白鳳・朱雀なんてのは新参の駆け出し近畿王朝の年号には「ない」。

行くよ〜、近畿の年号。大化(645)、白雉(650)、朱鳥(654)、大宝(701)と来る。

例によってバカ学者は朱鳥は白雉が「変化した」ものとか低脳なことを言っている、まあ低能だからバカ学者なのだが。苦しいね〜。

聖武(天皇)が言及している元号が存在しないことを見ても、それ以前(例えば大宝以前)、近畿の人々は権力者ではなかったってわかります?

これさ、有名な「郡評論争」とか見たら一発でわかる。興味ある方は調べてみてください。

だから、「大宝」より前って、でっち上げということね。今の皇室につながる「元号」とは「そんなもの」である。「そんな程度のもの」といってもおれはいい。まあ立場いろいろあろうかとは思うが。

元号は象徴的に「時間」を支配するもの。おれたちにとっては「昭和」が長すぎた。思うに敗戦で「変更」するべきだったかもね。1天皇1元号ではない。長すぎる昭和が過分な意味を与えてしまったという気がしてる。

で、戦後は天皇が「象徴」なのであって、実質は内閣の指導の下でしか天皇は行動できないとするなら、まだ内閣が控えめな時代ならいざ知らず、それを「ないがしろ」にする内閣(それも分かりやすく)であったなら実際の天皇のあるべきstatusにはpmが実質上つくことになりはしないかな?キモいおばはんが「国母」と言ったり、夫の方は天皇を茶化したり、それって戦前・戦中と相似というより、もっとタチが悪いと思うが。

これってヒロくんがどんな天皇になるか、それはこれからの彼と雅子ちゃん次第だけど、完全に年上のpmには「御しやすし」と思われている気配もあり。内奏てなんなん?内奏ではないが、まだ即位前だからさ。となると、その後のおとーとくんを経てその次ね、そこまでいった暁には、天皇(?)ということに成り果ててしまってないだろうか?象徴としての精神的支柱という意味で言うなら、それに代わるものってのが現実的には、そっちも(?)だけどね。

まあそのぅ、みなさん、元号をもう「当たり前」の正当かつ正統なものというのが大前提だと思うのだけど、その始まりにおいて「ウソまみれ」だよ〜、いやマヂで。そこ、どーすんの〜?目瞑んの〜?そんなんでいいの〜?

そんなproblem submission.

posted by 浪速のCAETANO at 09:18| 大阪 ☔| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月07日

ばかNHKが

あ〜あ、NHK、しょーがないな。
あんまり期待せずに録画していたものを見たが。「銅鐸」だが。

まだ、纏向が卑弥呼の、とか言うてる。

ヤマト王権とかを決定事項にしてるから目が曇る。

九州王朝を見ないふりするから、また目が曇る。

銅鐸を祭祀の具としたのはニギハヤヒ(饒速日命)の国である。

魏志倭人伝に載ってる倭国とは九州王朝である。こらあ、関大の森岡、ええ加減なこと言うな。銅鐸生産を止めたのは卑弥呼であるとか、ほんま、アホちゃうか。纏向はヤマトトトヒモモソヒメ、いたのはね。早口言葉の練習にもなんで。もう、なんか、そんなみんなが期待してること言って、何かのおこぼれもらおうと思ってるのが見え見え。それ、お前の「夢」やろ。それでも学者か。学者が夢を語るなっちゅーねん、どあほ。

銅鐸の国が滅ぼされたのはいわゆる神武の後の欠史9代と言われる大王の後の崇神の時。古事記に載る、親戚みたいな血縁ありそうな豪族を滅ぼしたり、その頃の地名説話に「敵(銅鐸側)を切り刻んでウンコまみれになった」ことからウンコまみれ→クソまみれ→クズハなんて。

まあしかし、いつまでも卑弥呼(ヒミカですが)は神秘的なオンナということで、いろんなとこで特別出演させられるんだろうな。

番組でも言ってたが、祭祀の具が銅鐸から鏡に変わった、と、それは支配する側が変わったからしょうがないのね。鏡を使った、ある種の魔法は、そこ卑弥呼の得意とするところ。近畿圏の前方後円墳はその九州王朝の儀式を再現するためにあのカタチを編み出したわけよね。そこ、ちょっとオリジナリティ。だが、言うとくが、近畿から半島、大陸へは当時は行けなかったからね。航海術を持った部族は近畿には皆無。

そこは海人(アマ)族の独占市場。海人族=九州王朝なのね。みんな知ってるよね。

NHK、ホンマなんとかせえよ。文化関係とドキュメント以外に見るもんないのに。それもあかんなら、お金集めんの、辞めなさい。
posted by 浪速のCAETANO at 11:05| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月18日

元号ねえ

次の年号は?と朝、やっていた。
「安」の文字が頻出していた。キモいわ。安全安心治安安寧安泰安定、安の文字は大抵良い意味だけどね。だが、誰もがある男の顔が目に浮かぼう、というものである。

イニシャルから言えば『A』は充分okだしね。

憂鬱だ。

元号=時間の支配。

メカニズムとしては「ヤツら」が支配することになるからね。

元号、その成り立ち、日本国(近畿)が倭国(九州)を併呑した際に、そのシステムをパクったわけだけども、現在に繋がる元号は「大宝」、つまり701年が最初である。前にも書いたが、そのココロは九州王朝の「三種の神器、奪っちゃったぜ、yeah! 」だ。

その直前、つまり7世紀最終盤はいろんな「書くに書けんこと」が起こっている。これは後の事だが「長屋王」は「長屋親王」であるという文献。親王っちゅうことはパパは天皇。パパってだれ?それは高市皇子である。高市皇子のパパってだれ?それは大海人である。大海人って、だれ?それは天武だよ。

じゃあ、高市皇子じゃなくて高市天皇じゃん。

大海人の血を断絶したかったわけねー。高貴な倭国の大弟皇(この言葉は紀に一名、つまり大海人にのみ使われる)であるから。最近、秋篠宮にも使われてるが。

その高市皇子の暗殺が696年。おれは持統の即位はなかったと思うよ。そこは高市皇子が天皇についていた、というのが見立て。そして暗殺される。大海人の直系。この高貴な血は中大兄・藤原の「チーム馬の骨」には目障り極まりないからね。

高市皇子を持統に「置き換える」ことにどんな意味があるか?讃良(さらら)ちゃんは天智(つまり中大兄皇子)の娘であるからね。そこで史書上、大海人の血は薄まるわけね。天智がオノレのムスメを何人も天武に嫁がせてる。高貴な血ゆえである。天武が天智の弟とか思ってる方多いと思うが天武の方が「senior 」であるからね。わかりやすい「紀のウソ」。

そうそう「壬申の乱」の大海人の敵、大友皇子もまた「弘文天皇」として即位している。だからそこら辺の九州からパクった近畿の「天皇制」は天智、弘文、天武、高市、文武、元明、元正、そして聖武と続くはずである。私見ながら。最初っからウソで固めてるのね。不比等のヤツめ〜。

TV(主にNHK)でサルの歴史学者が白村江の戦いで「天智はこう考えて、、、、」などよく言ってる。で、よくわからない、という結論になってる。わかるわけがないのだ。天智は白村江の戦いなど「やっていない」からね。

倭国の要請で、兵は集めたが参加せず、ひょっとして唐・新羅と内通していた可能性すらある。一番、ましな想像では、倭国に加勢しない、見てるだけ。一番ひどい想像では、倭国の天子(薩夜藦)を売った。

さほど的外れでない証拠は、その後、天智は「論功行賞人事」を行なっている。白村江では「大敗」したのに、である。悪くすると歴史上最初の「売国の人」である。見事に現代に連なる。

論功行賞、とは心の声で言うなら「やったー、お前らもよくやった」である。

それがおれの一番悪い想像の根拠なんだけどね。倭国潰し、とその権威をクソど田舎もんが、これから手に入れるベースができた、ということね。

近畿は当時、カネはあった。遥か昔に饒速日の銅鐸の国を亡ぼし、その射程は吉備、出雲ほどまで及んでいたと思われる。まあ出雲は微妙だけど。なんといっても「銅剣(九州の祭祀具)」と「銅鐸(近畿の、以前の国の祭祀具」の両方が大量に出てくる土地であるからね。

まあその後、九州を唐・新羅連合軍に(まるで戦後の占領軍のように)占領され、カクムソウによって(マッカーサーのように)支配された。唐は近畿のようなクソど田舎までは来なかった。くる必要がないからね。一豪族ね、単なる。ついでに言うなら、持統が天武の蜂起前に行っていた「吉野」とは奈良の桜の名所ではないのね。「吉野ヶ里」の吉野である。なんで、田舎のまたさらに田舎へしょっちゅう行く必要があるかな?歴史は批評の目をもって見てみようね。なぜ吉野ヶ里へ行くか?重要人物はそこにいるからである。それって誰?それはカクムソウ。知ってる?大海人の蜂起のタイミング。カクムソウが帰った「直後」だからね。「九州の王朝はズタズタであるが、新しい王朝を近畿に、九州直系の高貴な血のおれが作るけどい〜い?」これを、ある時は夫婦で、ある時は持統が大海人の書簡を持って、カクムソウに会いに行った。これしかないでしょ!

なぜ、こんな「シンプル」が分からない?

いまだに大化の改新とか信じてるおめでたい方々いるみたいだけど。あれは明治維新という言葉の正当性のために捏造された架空の改革。そこでは蘇我氏を滅ぼすクーデターが「チーム馬の骨」によって行われただけでした。

蘇我氏=九州から監視役として派遣された財務官僚(百済出身)ね。なぜ監視の必要性があったのか?それは遡ること6世紀の「磐井の乱」が実は「継体の乱」だったことに原因がある。磐井って人はエライのよ。6世紀初頭に「律令制」を導入していたぐらいで。倭国の先進度がよくわかる事実である。この辺からはサルがもう虫レヴェルのことしか言うてないからもう見るに聞くに堪えん事ばかり。

ではまた来週、ごきげんよう。
posted by 浪速のCAETANO at 14:12| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月24日

年号を

スンダ海峡の津波、不可解だね。人工地震ではないのか?地震波は記録されてなさそうだが。
なんか今年は「絶望に慣れろ」そんな言葉が悪意の側からも、そうでないどこかからもピピピピと来る、そんな一年だった。to me.

上等だ。

あんさ、明日(もっと言うなら10年でも20年でもいいけどね)生きてく(食ってく)カネが十分ある、とかが絶望から自分が遠いという根拠になってる、とか、オマエはどんだけアホやねん、で話終わるからさ、そんなことじゃないのね。そんな人100000000人ほどいるのかな、いやそんなおらん、50000000人ほどかな、cabinet supporting rateからの類推ですが。

いや、それも大事だけど、それだけが大事ではない、というそんな簡単なことがわからないのが50000000人いることがいつまでもフランスにはなれないってことなのだろうね。一生無理。

フランスはマクロンではないけどね、当たり前ながら。いまだに中国=習近平。北朝鮮=金正恩。そんな認識でカッカしてるバカ散見するけど、アタマ悪すぎて相手にするのしんどいからさ。、、、人とか集団で見ちゃダメとかいう「あったりまえ」のことを口ではそうじゃないなどいうが実際何もわかっとらん原人未満の方多すぎてね。1人2人知ってるではあかんのよ。ある程度の「量」要ります。

フランスで言うなら、我らがpmとやってることは変わらない。どちらかといえばmilderだと言えよう。国民性。近代における。あの黄色のベスト運動は、だがあっちこっちに飛び火してる。なんとEUないだけじゃなく「イスラエル」にまで!フランス、一説によると軍の将軍たちがマクロンに中指立てている、といった話まで伝わってきてる。分かりやすい、お金持ちの味方。こちらはもっと露骨なんだけどね。視界を閉じて内へ向かう、そんな生来の性質に助けられてるねpm。だから「自殺」が多いのね。これ、ある種の「癖=へき」だけど、それ、農耕民族だからなんだろうか?よくわからない。
印象ですが、九州王朝の頃はもっと人の行動、熱かった気がしている。正月のブラタモリで太宰府行くみたいだから、見てみたらいいのに、と思ってる。天満宮は天神を祀り(菅原くんではなくね)、政庁跡のあの広大を画面でも見てみたらいいと思う。「遠の朝廷(とおのみかど)」跡です。

日本書紀が作られた時、みんな九州王朝の存在は知っていた。ウソを「ホントってことにしようね」というコンセンサスの中に、「偽史を正史とする、みんなでそう思えば怖くないウイルス」を紛れ込ませてしまった。元明や元正などは「その物語」にこころ踊ったことだろう。天武の高貴な血と天智の馬の骨な血のミクスチュアな彼女らは、一瞬にして「高貴な血の末裔ってことに」なったわけだから。

ヨーロッパの国々ならば、お互いしょっちゅう喧嘩してるわけだからいろんな真偽混じった各地の歴史に対して「ウソ言うな」とツッコミ合いができ、「妥当な線」へと落ち着く。ところがこの極東ときたら、マークが甘いのをいいことに、海があることをいいことに、偽史を正史とし成り立たせ、それを1300年維持してしまった。こちらの国のなあなあ度って、そうやってウソ(の歴史)をみんなで「守っていこうね」みたいなコンセンサスに根付くのでは、と、これは私見。そもそも近畿の王朝が最初から間違えてるわけだから。国の正史(根幹の一つ)が「捩れてる」からね。

おれは、歴史学者(だいたいサルですが、百田とかは問題外)を信用するかどうか、はその基準はある一点を見たらわかるのね。それは聖徳太子(とされる人物)が何故に隋の煬帝に「ケンカ売ったか? 」ということ。これに正しく答えられたら、信用してあげてもいい。

あの有名な「日出ずる処の【天子】日没する処の天子に、、、、、恙きや」なんだけど。これはほとんどの人は「中国帝国の王に【生意気】こいた」で終わってる。生意気でもなんでもない。論理的に彼(、、とされてる人)は正しいのね。これちょっと考えたらわかること。

ヒントは仏教伝来の時代がこれまたウソであることと、隋がwhere did they from?です。

その送った書の中に「夜が明けぬうちにお兄ちゃんは祀りごとをし、夜が明けると弟くんが政りごとをする」とも書かれている。煬帝は「意味不明」とそれに答えている。

九州年号の中には「兄弟」というのもある。面白いね。卑弥呼(ヒミカだけどね)と弟くんに関して同様のことが「魏志倭人伝」に記されていたね。

ちなみに大化というのは645ではなく695なので。大化改新は明治維新後に捏造された。【郡評制】の矛盾とか見てみたら誰にでもすぐわかるよん。


さてもうすぐ、「次の」年号ということになるが、近畿王朝がやっとこさ8世紀になって「大宝」なんちって「初めて」年号を制定した。その意味とは;

九州王朝から「三種の神器」を無事「奪うことができました」だろうとおれは考えてるよ。

以下は「二中歴」にある九州年号一覧であるよ。


開始年
(西暦)
元号名読み干支天皇年代
517継体けいたい丁酉継体11年
522善化(善記)ぜんこ壬寅継体16年
526正和しょうわ丙午継体20年
531殷倒(教到)えんとう(きょうとう)辛亥継体25年
536僧聴そうちょう丙辰宣化 1年
541同要(明要)ずうよう(みょうよう)辛酉欽明 2年
552貴楽きらく壬申欽明13年
554結清(法清)けちしょう(ほうしょう)甲戌欽明15年
558兄弟きょうだい戊寅欽明19年
559蔵和(蔵知)ぞうわ(ぞうち)己卯欽明20年
564師安(師要)しあん(しよう)甲申欽明25年
565和僧(知僧)わそわ(ちそわ)乙酉欽明26年
570金光こんこう庚寅欽明31年
576賢接(賢稱)けんしょう丙申敏達 5年
581鏡當(鏡常)きょうとう(きょうじょう)辛丑敏達10年
585勝照しょうしょう乙巳敏達14年
589端政(端改)たんしょう(たんかい)己酉崇峻 2年
594従貴(告貴)甲寅推古 2年
601煩転(願転)辛酉推古 9年
605光元乙丑推古13年
611定居辛未推古19年
618倭京戊寅推古26年
623仁王癸未推古31年
629聖徳(聖聴)しょうとく己丑舒明 1年
635僧要乙未舒明 7年
640命長庚子舒明12年
647常色丁未孝徳 3年
652白雉はくち壬子孝徳 8年
661白鳳はくほう辛酉齊明 7年
684朱雀すざく甲申天武12年
686朱鳥しゅちょう・あかみとり丙戌天武14年
695大化たいか乙未持統 9年
704大長甲辰文武 8年


まあいろいろ想像してちょーだい。

posted by 浪速のCAETANO at 11:26| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月16日

四隅突出型墳を求めて

まあ、なんかのイヴェント、だいたい雨。
今回もまた。

「四隅突出型墳」を見に行く。登ってみる。これが今回のmain objective だった。

だが昨日は雨。もうやる気なくなって、hotelでフテ寝していた。「うーん、もうっ!」とか思いつつ。まあだがSandy Denny聴きながら本を読めた。まあそれだけでもよしとする。何からも拘束されていない時間だった。

6:30に起きて朝メシを食って、早めの出発。米子から淀江というとこへJRで。そこには【麦木晩田遺跡】があり、そこに巨大な四隅突出型墳がある。「むぎばんだ」と読むね。

駅を出ると、そこは久し振りの見事な「クソど田舎」。嬉しくなるほどのど田舎で、むぎばんだまではタクシーで5分、バスで5分、徒歩で40分とある。だがバスは冬季休業とある。タクシーの存在はその気配さえない。しょうがなく歩くのだが、雨が降ってきた。だが帽子はあるし、コートは軍使用。なんちゅうことはない。

ひと、いない。クルマ、ほとんどいない。

40分歩けば、米子白鳳高校の裏山が「むぎばんだ」だった。高校の先生がいたから確認した。で、山路を登るのだが、昨日からの雨で、落ち葉が大変滑る。で、結局、よくわからない。落ち葉で滑るから断念した。出雲の方の「よすみ」に行こうと思う。

2EA6705D-C25A-4C64-82D8-361636615B1D.jpg
(よくわからない)「むぎばんだ」。

また歩いて、戻ろうとするが、温泉が二つあった。雨が雪というか霰というか、変わってきてちょっと冷えるから風呂もええな、と思いやってるかtelしてみるがどちらも10時からだった。その時9:30。このあたりの人の生活開始はちょい遅い。いやこれで普通かも。おれが早起きしすぎたのだ。

で、尿意を覚えたが、見事に周りは「立ちション」したくなるほどのクソど田舎だった。で、敢行する。久しぶりの青空放尿だった。雨空だったが。こないだ、駒川中野の南港通りで放尿してるおっさんおったが、それ、あかんやろ、と思ったとこだった。ゴジュッポヒャッポだろうか?

淀江駅で30分ほど待って、米子まで戻り、出雲行きの「二両編成の特急」に乗る。50分ほど。松江からは車掌による宍道湖解説、出雲寸前では大社解説。宍道湖はしかし、三年ぶりだが、素晴らしい。あの夕陽を思い出してたら、やっぱりあの夕陽はかなり有名みたい。

出雲からは大津町へ向かう。弥生の森博物館の周辺に「よすみ」が密集している。ただ、気が変わって、大社に先に行こうと思う。大社横の博物館、こないだ行くの忘れてた。荒神谷遺跡から出た、銅剣、銅鐸が集中しているのは知ってた。

参道から大社をスルーして出雲そばと熱燗で小腹を満たし、museum へ。

EFD30EA7-44FB-4CE8-8361-6C8988C8B9E4.jpg96163CEC-B50F-4436-BB75-C3ABEDDF6FBB.jpg
F18D2598-A41D-4996-9172-02A9BACD8736.jpgF66C2EB2-005B-409F-8D86-554B308EFE98.jpg465AC673-0C45-4E8E-A9A8-CA89B1993CCE.jpg
E9887C9F-9BA7-4E2F-AF45-4512FE3E1932.jpg9605D9BF-4109-42B1-B39A-0259037A71A8.jpg
9C9A6052-5A6B-4FCC-9291-C46CE00689F8.jpg
(荒神谷遺跡からの銅剣、銅鐸、三角縁神獣鏡、など)


出雲大社の、清涼で大らかな空気の元でタバコ吸ってから「弥生の森museum」へ、向かう。

大津町から歩くこと30分。よう歩くな今回。その駅周辺もタクシーの気配は、ない。

学芸員みたいな、かおるちゃんみたいな、おっちゃんが付いてきていろいろ話し相手になってくれる。「ぜひ、外の「四隅たち」をどうぞ、」と言ってくれる。もちろん、そのためにきたのよ。

60A25434-F26D-46E3-AAC0-D78C3E174FB1.jpg

右手の盛り上がってる部分が特徴。これが四隅にある。

27EFA3D2-6CD4-4360-B6E0-5031BB9ADE91.jpg

全景はこういう形。

026A3E2B-AFF2-4E10-A6A3-3DEED8568A83.jpg

四隅部を上から。滑り台として遊びたい。

いや。来てよかった。お満喫した。おれたちが古墳といえば「前方後円墳、円墳、方墳、前方後方墳」だけだと思っていたところに、ヒトデのような「四隅突出型墳」を発見して心が浮いてしまったのだった。それも場所は出雲というから、いつか、と思っていつつも、なかなか行けなかったのね。

今、大変、お満足である。


posted by 浪速のCAETANO at 15:11| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月04日

あおによし

現天皇家(近畿の王朝)の「公的歴史書」である日本書紀には【大嘗祭】のこと、何度出てきてるか知ってる?
秋篠宮の爆弾発言。非常に正当なことだと思って聞いていたけど、世間は娘婿候補の家の借金の方がより興味、みたいだが、えーっと、おのれのアタマで分かることしか反応しないではあかんのではないか/ないの?

そこは広義には「女性/女系」の問題と絡むけど。そのことではなく、大嘗祭。

新嘗祭はannual base 、だが大嘗祭は天皇の代替わりの際に。それはいいんだけどね、じゃあその伝統はいつから?

最近、非常に稚拙で浅薄な低脳読者むけの歴史書(みたいな感じのもの)を、wikiのコピぺそのまま使ったりして(だはは、バカ)出したつるっぱげいたけど、それが堤未果ちゃんの本ぐらい売れているのを知って椅子から転げ落ちたが、変な手首のつき方して、痛いやんか、どうしてくれんねん。

BC660年、くくくく。アホにもほどがある。まあでも「信じるものは救われる」という格言もあったりするが、でも今みたいな物理的・精神的環境崩壊してる場合「、、、、、、は騙される」あるいは「、、、、、、はポイされる」とかをちょっと心配してあげてる。でもまあ信じてるものに裏切られてそこで寿命が尽きるのなら同情は無用か。

逸れるが、そのつるっぱげ、pmと親和性高い。アタマの質的・量的レヴェルに非常に近似的なものがある。お仲間、ね。共に盛り上がって、共に盛り下がってちょーだい。

Pre-warの世界、好きなんだねえ。おのれが上にいること前提ってのが前提になってるのが不思議。御都合主義極まりない。

さて、で、最初のquizの答えはというと;

「一回だけ」

どなたか、椅子からズルっとなっておれ同様手首痛めてくれてたら、うれしい。

ご存知のように、日本書紀は持統期で終わっている。書き終えられたのは720年。今から1298年前のこと。2年後、嫌な予感がする。2020だけど。

その持統期に一回だけやった、と記されている。持統は天武の嫁である。さららちゃんね。実はこんな描写がある。

十二月の壬午の朔丙戌に、大嘗(おおにへ)に侍(つかへ)(まつ)れる中臣(なかとみ)・忌部(いむべ)及び神官の人等、并て播磨、丹波、二つの国の郡司、亦、以下の人夫等に、悉(ことごとく)に禄(ろく)賜ふ。因りて郡司等に、各爵一級を賜ふ」。

 つまり大嘗祭に参加した人たちにご褒美をやったという記事がある。これが明確に『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初なんですね。明確に出てくるのは天武天皇。ところが天武天皇のところには明確とはいっても、大嘗祭をやったという記事がない。大嘗祭に参加した人に褒美をやったという記事だけである。変ですよね。
 大嘗祭をやらないのに参加した人に褒美をやるってことはあり得ないんです。これは非常に「?」つきなんです。「?」がつかないのが持統で、
「十一月の戊辰に、大嘗(おおにへ)す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞を読む」。

そんな超大事な儀式を天武のところで「やった」とは書かずに(しかも初のこと)流すって、ね。

新しい儀式だったってことね。「彼ら」にとってはね。もっと言うなら、どこか由緒正しい人々の「真似」をしてみた、ということ。

彼ら、が誰で、由緒、、、、が誰でというのはよくここで言ってる。聡明なみなさまはお分かりだと思うから、そこを踏まえて先へ進むが、明治からww2までの「記憶」しかない現代人の、その中にはpre-warにノスタルジアな人々も一定数いる中で、大嘗祭が「やんのは当たり前」という論調で話は進んでいくみたいだけれど、その「正統性」も含めてよーっく考えるいい機会のためのボールを秋篠宮が投げたような気がする。彼のアタマの中には、これは現皇室のコンセンサスだと思うが、やはり自分たちの政治性を(非政治的であらねばならないことも含めて)狡猾に利用しようとする勢力(ことあるごとに天皇陛下ばんざーい!」を狙ってる人達いるし、それは最近もあった)に対する牽制というよりも反論という気がするのね。

本日言えることはその大嘗祭とは「現皇室」の発明でもなんでもなく、それは由緒正しい勢力からのパクリであって、その由緒正しい勢力の神はアマテラスではなく「天神」であったということ。天神様の天神。今は菅原道真がいてなんかようわからんと思うが、違う。北野天満宮、大阪天満宮、太宰府、すべて元は天神を祀る神社である。

太宰府は「遠の朝廷」。近畿のど田舎もんは憧れを込めてそう呼んでいた。

「あおによし 奈良の都は 咲く花の 薫うがごとく 今盛りなり」

この歌はどこで詠まれたか?@奈良、で疑いようがないと思う方1億人以上いらっしゃると思うが、間違い。@九州です。

えええ、、、という声が聞こえてきそうだが続きは「また来週」。書く気になれば。

posted by 浪速のCAETANO at 12:43| 大阪 ☀| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

官僚たちの抵抗

今回の公文書改竄は「日本書紀」のことを想起させる。

多くの方には「は?」だろうけれど。

白村江の戦いに惨敗し、時の天子・サチヤマが唐の捕虜となり、唐・新羅連合軍に「占領」された九州王朝(倭国)の大皇弟であった大海人(天武)が、倭国には応援を約束しておきながらそれは見送り、消耗すること一切なく、どさくさに紛れて九州から遠く安全な近江に都を作った天智〜弘文(大友皇子と言われているが即位してる)ラインに対する、正統の側からの皇位の奪還が「壬申の乱672」なのであって、天武として即位した後に、倭国とは「異なる政権」であることの(唐向けの)証明として近畿王朝の「歴史」を編纂を命じたものが「古事記」でもあり「日本書紀」でもあるのだけど、古事記の場合には九州王朝の傍流であった近畿の大王の歴史の中で共通の神話・説話(出雲〜九州王朝のそれら)プラス近畿独自の「牧歌的歴史」の混淆したものであったのだが「封印」される。古事記は「たまたま」発見されたものである。しかもそれは江戸時代のこと。それに古事記は712にできたもの。割と時間かかっていない。

通説では天武は天智の弟ということになってるが、当然それはウソで、天武のほうが「年上」。天武は九州の天子の血を引く、超高貴な出。だからか、天智は天武に自分の娘を2人嫁がせている。太田皇女と讚良(持統)である。で、それにひきかえ天智といえば、、、、、。九州から派遣された百済系の財務官僚・蘇我氏による律令制移行への反乱がいわゆる645の大化の改新(単なるクーデター)なのであって、それは言葉の使い方間違ってて、そもそも大化の改新とは《明治維新》という言葉の成立のために「明治政府によって」創り出された言葉であることはよいこのみんなは知っとかなあかん。今の言葉で言うなら「抵抗勢力」だったわけ。中大兄皇子も藤原鎌足もね。藤原は「馬の骨」なのよ。645のことだから昔からその言葉はあり、事実もあり、なんて理解が100000000人ほどだと思うけどさ、何遍でもいうけど。

さて、古事記が封印された理由は明らかで、天武の近畿王朝になってから二代目か三代目の元明の時(天武の嫁の持統の即位は?だから)、武器・書物を持って日本中を逃げ回る九州王朝のかなり位の高い人々に対して「今、降伏したら許してあげるよ〜」という御触れを3度に渡って出している。元明は「奈良遷都」を敢行した天皇(詳しく言うと天武・持統の子である草壁皇子(病死)のヨメ)である。遷都は710。そこで手に入ったものは武器の他に九州王朝の「見事な歴史書」があったのね。そこには「煌びやかな」九州王朝の、その部分は近畿の豪族の一部も共有していた、アマテラスの命を受け、壱岐から天孫降臨(@博多)した後の短い間の歴史だけではなく、近畿の王朝が知りもしなかった九州王朝の栄光の歴史がつぶさに書かれた正史の書があった。その書物名を「日本旧記」「日本世記」という。

そこには歴代中国王朝も知らない歴史が描かれていた。で、それを「拝借」という方針が決まった。古事記では「不十分」ということになった。で封印。だけど、近畿には次の歴史書のための大した書き手はいないわけ。では誰が書けと命じられたか。

九州の歴史・文字官僚しかそんなことはできない。でね、意に反してそういうことをやらされる。わかりやすいところで言うなら景行天皇の九州征伐の話。それは九州王朝の初期の英雄の九州全土の討伐の「主語の書き換え」だし、もちょっとわかりやすいのは神功皇后(応神の母)だが、彼女が行ったことは「卑弥呼(ヒミカ、ね)」と「倭与」の二人がやったことが振り当てられている。時代がだからむちゃくちゃ。さらにちょっと「豪傑過ぎる」のね。お○んこに岩を当てて、応神産むのを「我慢」し、新羅征伐を敢行した、とかさ。つまり「魏志倭人伝」を盗用してるんだけど、それを読んでたのは近畿の人間か九州の官僚か、となればおそらくクソど田舎の近畿にはそんな「インテリ」おらんやろ。ということになる。

そのとき初めて知って、強要したであろうことは察しがつくよね。

で、辛かったと思うよ。九州王朝の栄光の歴史を全部パクられるわけだからね。

古事記になくて日本書紀にある事柄「すべてウソ」である、でいい。

しかし、ギリギリの「抵抗」が見受けられるのね。日本書紀には「不思議な書きよう、が頻出する。「一書に曰く」という文言なのだが、要するに原典を明らかにしていない。そりゃそうよね。それは九州王朝の史書なのだから。そこが主語の置き換え、差し替えの部分なのだけど、かなり多い。そんな中、ほんの僅かな箇所で人目を盗むかのように「日本旧記に曰く」とある。「やったね、九州の!」

そこに彼らの意地がみえる。日本書紀の完成は720年である。今からちょうど1300年前。「日本書紀1300周年」なんてことを言うようなヤツがいたら一切信用しないほうがいいよ、そいつのこと。

今回の近財の「元の文書」での官僚たちの、まあ「責任を負いたくないとか保身」の意味もあるだろうけれど、物事の推移を「できるだけ正しく」「ありのままに」残そうという意味では相似だなあ、と思ったのね。

正しくないことが進行する上での「とりあえずの抵抗」。その、とりあえずに、整合性が欠いていても、欠いていればこそ、後々、真実が暴露される可能性を残す、ということね。「小さいが爆弾」。

新日本国の正史は天武の当初の思惑とは異なり(死んじゃったからね)、持統に取り入った藤原不比等が「藤原氏」のための(それは信仰・禊・祓という形而上学的なるものも込みの)正史と成ってしまった。九州王朝の匂いはできる限り封印された。それは8世紀の日本を見てみたらよくわかる。天武の子・高市天皇が高市皇子であったり、長屋親王が長屋王であったり。わかりやすいね。天武的なもの(まあ血だが)をいかに薄めるか、に全精力を投入したことがよくわかるのね。右翼の原点、こんなにお粗末なものなんですが。


セメント屋の人G20には欠席するらしいから、そこで辞任だろうね。もう一つ上まで行くにはどうしたらいいんだろう?みんな、「誰が」はわかってるのにね。支持率の急激な低下かな、まずは。






posted by 浪速のCAETANO at 15:40| 大阪 | Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月03日

宗像・沖津島

宗像三神。辺津宮・中津宮・沖津宮。沖津宮は(沖ノ島)である。宗像三神はアマテラスの娘たちとも言われている。

NHKで沖ノ島の特集をやっていて、玄界灘にある沖ノ島が、中津宮もそうだが、壱岐・対馬の海の民であったアマテラスの一族の聖地であったこと。わかりやすい。NHKはアホなので無理矢理ヤマト政権と結びつけようと、バカ学者・バカ神職にヤマト政権のヨイショをさせていたけれど、「6世紀にヤマト朝廷と【九州の豪族たちが】だって」だはは、バカか。

さらには磐井を「豪族」だと云いよった。磐井の石人とは「法廷を模したものである」。ここ何を意味するかわかっていない。磐井は「倭国の天子」である。そしてそれは「律令が倭国に存在していた」ことの証拠でもある。倭国の「群を抜いた先進性」の証左だ。

またここでも「磐井の反乱」なんちゃって。ど田舎の豪族(ヤマト)の内乱に乗じて若狭らへんから「出てきた」オホド王という極め付けのイナカモンが、おのれが掌握した近畿の誇りでもあった「その神を同一とする」九州王朝への「反乱」を起こした。それが真実。それまでの近畿の大王とは異なり、血の繋がりも、九州王朝との宗教的共有もないクソど田舎もんのオホド王(いわゆる継体)だからこそできた狼藉である。

歴史学者とはほほ全員バカであるが、特に古代のことをやってるヤツらはもうホントに酷い。藤原の陰謀にそんなにコロッと引っかかるそのナイーヴってなんなのだろう?そのバカの根拠を知りたい。およそ、それは「日本書紀に書いてるから」なのだけど。

宗像氏は、本来アマテラスの海人=天(アマ族)の下に連なる同業の民であると思う。その歴史はオオクニヌシの時代にまで遡るはずである。オオクニヌシの1の子分が海人=天(アマ族)のなのだから。

宗像中津宮に「奉助天孫」とある。こんなに分かりやすい言葉はないな。宗像氏は、アマ族と等しくオオクニヌシの元で海上交通を担当していたはずである。ただし、その立場はアマ族の下だった。天孫降臨(これは史実ね)の際に、瓊瓊杵命が糸島半島の「クシフル岳」に上陸し、硬軟とりまぜ、北九州の街を征服した後、あるいはその最中、天孫族(=アマ族)の宝物の管理と天孫族の安泰を祈願する、そういう祭祀を担当したのだろう。天孫族の宝物はもちろん沖津島にあるわけである。

近畿の豪族たちは7世紀半ば過ぎまでは沖津島に対して「指一本」触れることは出来なかったにちがいないのだ。









posted by 浪速のCAETANO at 21:03| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

8世紀の、、

桓武の時代になると、というのは称徳とデカ○ンと言われる道鏡の時代の次だ。間に光仁というちびっこ天皇を挟むが。称徳は孝謙の重祚(再び皇位につくこと)である。

称徳=孝謙(女帝)は天武系である。何のことか「は?」だと思うから、ちょっと言うとくけど、672年の壬申の乱以来、天智系と天武系の闘争があった。天武は言われているように天智の弟などではない。血の繋がりはなく、こと「血」という意味では、天武の血は高貴極まりない。九州王朝の天子の(おそらく)弟だからだ。最近の、真子ちゃん・佳子ちゃんのパパのことを大皇弟と呼ぶか、なんて話あったよね。天武は書紀においてそう記述されている。そういう呼び名は後にも先にも天武ただ一人なのね。

天武が倒した大友皇子、天智の息子だが実は「弘文天皇」として即位していた。だから「壬申の乱」とはクーデターなのね。そして皇位乗っ取りである。ただし、最も高貴な者による皇位乗っ取り(奪還と言ってもいい)だった。

太平洋戦争ほどに倭国は「白村江の戦い」に於いて、唐・新羅連合軍に負け、壬申の乱の一ヶ月前までは九州にカクムソウがいた。これマッカーサーがいた、と同値ね。唐・新羅連合軍のヘッドである。その時、九州は完全に蹂躙される。唐に9年間捕虜となっていた九州王朝の天子(ということは列島における天子)薩夜摩が帰国した後、九州から距離をおいた近江にしょぼい政権もどきを建てたのが天智/藤原組なのね。藤原は鎌足の藤原です。

それを大皇弟の天武が奪還した。これが壬申の乱ね。そして天武はこれまでとは別の国として(日本として)新たな公式の史書の編纂を命じるが、その完成を見ることなく亡くなってしまう。

権威は失墜してしまった九州王朝だが、その誇り高い残党は薩摩へ逃れる。ほどなくいわゆる隼人の乱(720)でヤマトに制圧されるが。

今ふと思ったが薩摩って薩夜摩に由来するのでは?当然のことながら天子・薩夜摩の消息など「どこにも」書かれてはいない。

その年は奇しくも日本紀の完成の年だけどね。奇しくも。飛ぶが、君が代の歌詞が薩摩藩に存在したというのも頷けるのね。その「君」は今の系譜の「君」ではないし。おれはだから君が代、おっきな声で歌えるよー。ハシシタとか言ったかなあ、前のmayor、あんな口だけ達者なバカの口パクチェックなど、真の歴史を知ろうとする者には「何ともない」のね。嘘の歴史から早く一人でも多く「解放」されればいいのにな、と切に思う。

で、天武が死んだあと、藤原チームの藤原のための天皇創作がはじまる。とは言え、天武の血は、8世紀においてはそうそう途切れない。ヨメの讃良(サララちゃん・キラキラか!)、持統だが、その即位はおれはよくわからない。藤原氏の「私邸」が「宮」だったぐらいだから。だが、彼女は死ぬ前に息子の草壁皇子のヨメであった元明を即位させる。そこには藤原不比等の意向がもちろんあった。不比等は記紀の編纂に関して、先ず古事記を作らせるが、そのうちに九州王朝の全国に逃げていた(反抗もしつつ)者たちからの九州王朝の史書が手に入りだす。そこで古事記は「封印」され、日本紀の編纂にかかる。記紀における「差」が生じるのはそういうわけで、記になくて紀にあるものは、それらはすべて九州王朝王朝の歴史書「日本旧記」「日本世記」からの「盗用」である。だから、おめでたくも日本紀を「信じてる」みなさまに一言申し上げたいが、「神功皇后」が時期のズレという史書ではありえんことなのだが、「ヒミカとイヨ」の一人二役を演じさせてる、そんな中学生が見てもわかるようなウソを仕込んじゃあかんのね。日本紀を根拠にモノをぬかす思考停止の人たち、不憫である。フィクションを根拠にフィクションを生きる道を選ぶのは「ご自由に」だけど。

戻るが、8世紀の皇位継承は如何に天武の血を消すか、ということ最大の努力が払われた時期であって、血というのは消しても消しても消えないのね。持統が天智の娘で天武のヨメというのは有名な話だが、その子孫だから、藤原の血を入れても(有名なところでは光明子)、それでもまだ天武の血は残っていく。その天武の血はことごとく藤原に楯突くという「性癖」があって、聖武と光明子、先の孝謙=称徳というように藤原側から見たら反乱分子となる。藤原がもともと天智とつるんでいたのは事実で、そして蘇我一族(645)and/or高市皇子(高市天皇・天武の子)(696)の暗殺の首謀者であるから、藤原としては藤原のための天皇制を作り上げることに命をかけるのだが、恵美押勝も孝謙に退けられ、その前には四兄弟がすべて天然痘で死ぬ、など、なにかの「ばちが当たった」としか思えんようなことが起こりつづける。

京都に泉涌寺(せんにゅうじ)という寺がある。そこには歴代天皇が祀られているが、「天武系」は全て廃されている。藤原にとっていかに天武が「うっとおしい」存在であったかがよくわかるよね。藤原のような馬の骨にとっては過去とは言え、光り輝く九州王朝の天子の血は恐れ多くも、しかし何としても葬り去らねばならなかったのね。

で、やっと本日の本題までやってきた。天皇皇后両陛下の高麗神社への参拝ね。桓武の母が百済の(もうその時は滅亡しているが)武寧王の子孫である。武寧王は6世紀初頭の人。倭国では倭王は磐井の時代かな。あのね、磐井の反乱とか言って山川のバカ教科書が継体への反乱として書いているが、事実はまるで逆でしてですね、時の「天子・磐井」にイナカモンで奈良の豪族の政変に乗じて豪族たちの大王となった継体(オホド王)があまりのイナカモンゆえに九州の尊大さもよくわからずに、さらに大友氏にそそのかされ、九州にお手伝いに来てた時にちょっと暴れてみたらちょっとだけ上手くいき磐井を殺し、屯倉を一つだけいただいた、というのが「真相」ですね。ただし奈良の豪族はその何十倍もの代償をその後支払うことになるのね。その土人らは野蛮やから監視がいるし、その前にはちょっとコテンパンにいわしとかなあかん、というプランが実行されるのである。九州王朝によって。その後の「お目付役」が蘇我一族なのね。その後の奈良の天皇と言われる大王だけどね。イナカモンである継体の血をひいています。あ〜あ、だね。

また飛んだが、戻るが、その武寧王の子孫が桓武の母だったわけね。で、半島には親しみを感じると今上天皇は仰るわけね。それがまあ見事に都知事のおばさんの関東大震災の際のあのデマによる虐殺を一緒くたにしちゃったタイミングの直後という見事さ。

8世紀を通じて天武の血をやっとこさシャットアウトして天智系のちびっこ光仁を立て、その後が桓武なわけで。

真実は真実として、今上天皇そして美智子皇后はほんとに素晴らしい。あの方たちがいなかったら、例えば大統領制だったらとかいう意味だが、ゾッとする。真実は真実として。








posted by 浪速のCAETANO at 11:46| 大阪 ☁| Comment(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月02日

出雲と銅鐸の国

この国のブラック度がウソみたいに爽やか。最高の気候。

数年後には、こんな爽やかな日に誰かが逮捕されたりすることになるが、梅雨時に逮捕されるよりマシ?そうでもない?どっち?

どかーんとお休みの方もいらっしゃるだろうが、one of the workin' poorとしては昨日も今日も仕事だな。構わんのだけど。みなさんが働いてるときに、混んでない場所で羽根伸ばす以外に興味はないからだ。数時間でも仕事するとあとの酒が旨いよ。

最近、全くもってビールの味がわからなくなった。もうなんでもいい。発泡酒でも、だったら何?である。酒やワインにはまだ少々うるさいが、ビールはもうどうでもいい。エビスとその他ぐらいしか分からないことにした、というのが正確。ひたすらキリンにそれもラガーにこだわっていた頃が懐かしい。

さて、そろそろ騎士団長殺しを読もうかな。ほとぼり冷めるまでは手をつけたくなかった。拒否してるわけではないんだが、みなさんがそれに注目してる間は、読むこともそれについて語ることも息苦しくなる。精神的サイバー空間(そんなものがあるのか?)が混み合っている。混んでるのが嫌いなのだ、前述のように。

バカラックかスラップハッピーを薄ーく掛けつつ読もう。濃いコーヒーとともに。公園読みもいいかもしれない。河川敷読みも捨てがたい。となると、自主弁か、酒もいるやん、となって話が大きくなってきた。ちがうちがう。そこ、大満足の読書会はちょっと違うのね、こちらの村上さんの場合は。あちらの村上さんの過去の作品などは、最近読み返しているが、酒呑みながらでもイケる。エネルギーの所在地の問題だろうと思ってる。

飛ぶが、この国のバカ右翼がというと語弊があるけど、要は鈴木邦男氏や「ワシ」とかはおれはバカ右翼には入れてなくて、そうじゃないバカ右翼のことだけど、結局「九州王朝」を知らないことが最初からボタンの位置がイッコずれてるのね。これが2個ズレてたらわかりやすいんだけど、イッコってのが微妙なんですね。まだウソをキワキワ吐き続けられるズレ方。ヤマトに於いて日本書紀を「書かされた」九州の文字官僚の諦観と矜持のモザイクが、その微妙なラインの根拠なのだが、まあそれでも読む人が読めば「景行」や「神功」のウソはすぐに分かる。「大化」年号のウソも、郡評の真実も、それらはすべて700年前後に「王朝の交代」があったことを如実に物語る。もちろん邪馬壱国(邪馬台国ではなくね)の場所など一目瞭然なのだけど、いまだに、その手のデタラメ本が新刊で出たりしてる。

ある程度、わかってるんだけど、まだ自分の中で確定していない箇所がある。それは出雲と饒速日命の国との関係である。

出雲は壱岐のアマテル一族に国譲りを強要され(要は攻められ)日本海側の支配権
を失った。アマテル一族とは天孫降臨の一族ね。そして彼らは糸島半島に「上陸(降臨)」するわけだが、それを宮崎の高千穂とか言うてる人もたくさんいるが、「なんのために?」というに留めておこう。

神話は真実を民衆に対して説話化したものである。タケミカヅチとタケミナカタの「相撲というか力比べ」など分かりやすいよね。アマテルvsオオクニヌシのそれぞれの鉄砲玉の闘いだし。

そこで出雲は敗れ、アマテル一族が博多にやってくるわけだが、オオクニヌシとは非常に近いスサノオはアマテルの「困った弟」ということにされる。九州が出雲を飲み込んだことのメタファーが説話となる。

九州の王朝は(所謂中国文献に倭奴国・倭国と記されているが)、壱岐・対馬からはほど近い釜山の鉄を背景にした「武力の国」。であるから祭祀の具は「銅矛・銅戈」である。神武たちは「銅剣」。それに対して饒速日命の国(首都は茨木市東奈良)の祭祀の具は「銅鐸」。この銅鐸、たくさん発見されてるけど(淡路島とかでも)、古事記・日本書紀には「一言たりとも」記述がない。何を意味するか?所謂今の(というか近畿の)天皇家(とされる一族)とは「な〜んも」関係がない、ということだ。

だから、この饒速日命の国は、確かに縄文の終わりから弥生時代にかけて「存在」したのだが「誰か」によって滅ぼされてしまう。その誰か、というのがアマテル一族の中にいるのだが決して主流にはなれない傍流の所謂神武たちである。神武たちがおのれの意思で近畿まで行ったのか、あるいは九州の意図で来たのかに関しては決め手がない。ただ「カムヤマトイワレヒコ」の「ヒコ」とは長官の意であるから、ここに倭国の「指令」を感じることはできる。どちらにせよ、神武以下の大王(天皇ではないので)たちが倭国と「その神話を共有する」ことを誇りに思っていたことは確か。津田左右吉が「いないよ」と言った所謂欠史八代の大王、いるんだけど、神武たちは結局、近畿を支配するところまではいかず、橿原の狭い地域を「与えられて」そこで暮らすことになった。橿原では「壊された銅鐸」が数多く出土する。神武たちは「武器」もなかったのね。そして実は「包囲」もされていた。饒速日命の国に。で銅鐸を壊して銅剣を作ってた。

その銅鐸、出雲でも大量に出土している。おれがわからないのはそこ。同時に出雲では銅剣も大量に出土している。出雲には神武たちの祭祀の具と饒速日命の国の祭祀の具が「共存」しているということになる。しかし何故滅んだ国の(その時点では滅んでなかったのかもしれないが)銅鐸?というわけなのだ。

饒速日命は「Another 天孫族」とも言われている。JR東西線(学園都市線)の大阪産大よりもちょっと先、磐船神社に降臨したと言われている。

饒速日命の国が「のちの天皇家」に侵略され始めるのは10代崇神の時代からである。崇神は「ハツクニシラスノミコト」と言われ、初国とは元国に対する概念で、要するに「新たな土地」という意味ね。名は体を表す。この時代は出雲がアマテル一族に征服されてから300年ほど後である。饒速日命の国と出雲は距離的に言うとまあまあ近い。

饒速日命はオオクニヌシの一族であるとも言われる。崇神時代に疫病が流行った際に、神武たちの信仰を押し付けたことが遠因とされ、大神神社のカミをオオムナチ(オオクニヌシ)にしたこと(つまり非征服民たちのかつての信仰)など、それを裏付けるかのような記述もある。支配とは実質的なことだけではなく信仰もコミであるから、崇神以降、アマテル信仰を民に強要したということは想像できる。その反動が上記の出来事か、と思われる。

実は応神・仁徳の墓といわれる巨大古墳もその一環である。河内王朝など存在しない。河内の豪族がいただけ、の話であるただ、おそらく、神武〜崇神の系列であろうことは言える。ただし、それは「王朝」ではない。少なくとも対外的に「承認された王朝」では、という意味である。祭祀の、つまり信仰の強要のためには饒速日命の国の民に強制労働させてアマテル信仰を「身に染みさせる」必要があった。その結果が巨大古墳である。ただし、天皇陵などとは程遠い。天皇など近畿にはいない。掘ってみれば分かる。なぜ、ムダにデカイかに関して言えば「ヒマ」だったからである。敵もいない。その当時、倭国は高句麗の好太王との血みどろの闘いに明け暮れていたのだ。古墳をそんなにでかくしないことがすでに当時の「流行」であったにもかかわらず、そんなにデカイのを作ること自体が田舎者の証拠でもある。対外的に孤立した当時の近畿の様子が窺い知れる。

さて、同じ祭祀の具が存在することは饒速日命の国と出雲には何らかの、というかかなり強い繋がりがあった、と見るべきだ。それはやはり、饒速日命がオオクニヌシの一族、あるいはもっと近い血縁の人物だったという推理も成り立つだろう。つまり饒速日命は出雲からやってきた、という説。エキサイティングである。

高貴さで言えば出雲系列がもっとも高貴なのである。カミに最も早い時期に近づいた一族。カミはヒト、その後神人、そしてカミへ。

バカ学者たちはその当時、近畿に天皇家があったと「盲信」しているから出雲も変なものになってしまうのだ。ここには王権はなかったのだから。700年以降なら話は別だよ。

卑弥呼(ヒミカです)の時代の、魏志倭人伝にある宿敵である「狗奴國」とは饒速日命の国ではないかと思う。出雲の生き残りが難を逃れ近畿で立てた国が狗奴國ではないかという妄想。神武と卑弥呼はほぼ同時代。卑弥呼の命を受け、近畿へ向かった、なんて妄想も。

妄想ついでに、出雲は倭国に対し、面従背反で饒速日命の国と祭祀の具を共有していた、なんて。

村上さんよりこっちの方が楽しくなってきた、そんな連休の谷間。












posted by 浪速のCAETANO at 13:41| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

ニアリィ猛暑日やんか

蝉がじーじー激しく鳴いている。「やらして〜!」だが、やれるかな?やらしてあげて、蝉女子、とお願いしときたい。外野の無責任発言。

ぼんやり梅雨明けし、本日外出たら、なんじゃこれ、な暑さたっだ。エポック・メイクな何かがあるんじゃないんだな。政治の様相と似てるね。なんとなく生きてたら、戦時だった、みたいなことね。実際、おれの周りの人に死に方は戦争中みたいだが。その頻度において。

明日から、夏期講習的なものがあっちとこっちで始まるゆえ、暑い〜、とそれだけに対する感想で済ませられるのは本日最後かな。ま、いいんだけど。初動は「うーん、もうっ!!」だが、すぐ慣れる。何にでも慣れる。順応の動物、その名はhuman being。

改憲にも戦時にも慣れてしまうんだと思う。治安維持法にも。slaveryにも慣れる。もう慣れてる、が正しいか?おとなしい。近畿王朝の伝統。謀略には長けてるんだけどね、その代わり。

クソど田舎だった近畿が九州王朝を併呑したのは7C末〜8C初頭。そこから1世紀経って長岡〜京都と遷都して九州からパクった律令も機能しだし、今の京都に繋がる「日本的洗練」が始まった。まあ、それも最初のTEXTは九州の洗練ですよね。クソど田舎もんにはノウハウなどないのでね。

白鳳文化というのがある。主に飛鳥時代のそれを指す。そのご奈良に遷都してからの1世紀は、天平文化と学校では習う。不思議なことに時代のより古い白鳳のほうが天平よりずっと洗練されている。白鳳の例えばお寺、大官大寺にせよ法隆寺にせよ、ひょっとしたら法興寺でさえ、九州から移設されたものだからね。法隆寺の元寺は椿市廃寺ですが、今の行橋市にある。ぐるぐる巻きにされて日本が戦争負けなかったら、フェノロサ来なかったらいまだにきっとぐるぐる巻きの、夢殿から出てきた「救世三尊像」。木綿でいく重にもぐるぐる巻きにされ、延髄らへんには刃が刺さっていた。何かを、当時の権力が「封印」したかったわけね。

聖徳太子とか、そんな間抜けなことは言わんでいいです。聖徳に比定というかそのネタになった人物の像です。姓ははアマ。

白鳳の方が洗練されているのは言うまでもなくそれまで栄華を誇った九州王朝のものだから。

その洗練の蓄積はその後100〜200年分はあったはずなのね。とするなら、平安京における栄華と洗練も実は九州倭国の文化的遺産がその根本にあるのは明白だね。

磐井の乱の磐井は倭国の「天子」であるが、その墓(古墳ですが)には裁判を描いた石像が配置されていた。九州の律令が「遅くとも」500年代に存在したことの動かぬ証拠である。近畿なんてそれをパクって大宝律令がやっとこさ701年だからね。いかに土人だったかの分かりやすい判例ね。

柿本人麻呂も九州人である。万葉仮名も九州でできた。万葉集には九州の歌が驚くほど少ない。なぜでしょう?

古今和歌集の「賀歌の第1番目」に紀貫之がいわゆる「君が代」を選んでいるのはなぜ?詠み人知らず、題知らず、となってる。なぜ?あれを国歌というなら言えばいいけど、そもそも「文脈」がまったく異なるのね。あの「君」はその「君」ですらなく、この「君」なんてとんでもないのね。おれは歌えるね。なんの問題もなく。真実を知れば知るほど、薄っぺらい右だと自称する人たち、それを歌えば歌うほど「不敬罪」であるという逆説度が深まる。愉快愉快。

詠み人も題も紀貫之は本当はわかってた。詠み人は今じゃ知るよしもないが、タイトルは志賀島で行われる「海ほめ祭りの第一連」です。安曇氏を歌ったという説もある。おれは違うと思うが。その対象は、普段は太宰府にいるのね。御笠川を年に一回下ってきます。そして志賀島へ。おれの「太陽女王」だね。女帝だった可能性、ある。「きみ」が女王を表す例が多々あるので。

日本書紀のウソは分かるにしても「何処が嘘」がわかってないと、なんの意味もないねん。








posted by 浪速のCAETANO at 16:55| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月30日

聖徳は消えてるけど

夕暮れの空からの光線が、ビルに跳ね返って、ビルが赤みを帯びていい感じだ。「一見」平和に思える。天気はやっと回復みたいね。

期末テスト。中坊に因数分解教えながら、JKに飛鳥〜奈良の「専門分野」を。歴史の裏話。なんで、天智が自分の娘を何人も天武に嫁がせたのか、とか。なんで天武がその称号がそこにしかでてこない「大皇弟」なのか、とか。簡単なとこでは白村江の戦いでボロ負けしたはずの「日本国」が直後になんで論功行賞をおこなえるのか、とか。余裕のあるJKだから、お勉強とは別の話として面白がってる。おれもちょびっとだけ調子乗って、さらにディープな話を。

高校の日本史の先生、若干気の毒である。理屈に合わないことだらけで、澄んだ目をしたキュートなJK(まだ存在していたとするなら)からたとえば上記の質問をされたらどう答えるだろうか?興味深い。

天武は大海人皇子と言う。この大海人(アマ)が大変大きなキーワードなのね。天皇は「名字がない」ことになってる。平成天皇はアキヒトくん、「希望します」の昭和天皇はヒロヒトくんである。

リアル天皇家には名字有り。

天=海人=アマです。

天武は、だから、大変高貴な出、であるということがわかる。どこの人かは想像してみて。

京都の某神社。

天武系天皇を排除して天智系天皇だけを祀っている。天武系を外さなければならない「理由」あったんだね。その「血」はその後の「天皇家」にとって忌々しいものだった。天武の息子、長屋王(正しくは長屋親王)も藤原に排除される。親王というのは皇太子ね。おとーちゃんは高市皇子。つまり高市天皇。じゃないってことになってるけど。都合悪いね。藤原には。そしてその「高貴な血」はどうしても許せないのね。

8世紀は女帝の時代。持統にはじまり元明、元正、そして称徳(孝謙)と文武、聖武を挟んで四人いる。この「事後処理」の100年間、なんの後処理かというと「白村江」の後処理なんだけどね、ここ興味深い。藤原氏の世というには、その目論見の割に彼らも何度もピンチを迎える。四兄弟が次々に天然痘で死んだり、恵美押勝が称徳に敗れたり。

広嗣がなぜ「太宰府」で挙兵したのか、とか。日本書紀の記述だけでは因果関係が全然わからないことだらけである。

京都に遷都してからですね。「今」との繋がりはそこからはだいぶ見えてくる。貴族化も進む。しかし、そこまではドタバタである。8世紀末までは。どう転んだかわからない。

もうさすがに聖徳太子は「出てこない」みたい。ただ、厩戸皇子がその役割を担ってるって。バカですね。息子の山背兄皇子一族の、蘇我入鹿による惨殺。九州の皇族の実話の言い換えだね。父の用明も架空です。

この時代、6世紀末から7世紀にこちらに天皇はいないです。残念ながら。だれが近畿を仕切ってたかというと蘇我氏ね。蘇我氏って突然登場するよねどこかから送り込まれた監視人だからね。ただ、それがこちらの人々にとってはカチンとくるわけよね。で乙已のクーデターで蘇我氏を全滅させる。憎さ100倍。蘇我氏を悪党化する。馬子、蝦夷、入鹿という仮名のおかげで本名さえわからない。入鹿のみ蘇我鞍作太郎とかろうじてそれらしき名がわかる程度だ。

しかし、聖徳太子の「創出」はなかなかすごい。隋書倭国伝により、ウソはチョンバレながら、なかなか良くできてる。まるでその後の(含む今)お人好しの日本人の心性にぴったりなストーリーである。架空の人物を創出しておいて、その子の一族もすべて絶滅させる。だからその血を引いた子孫はどこ探しても、いない。完全犯罪。

憲法改悪されたら聖徳太子復活するのではないかな。












posted by 浪速のCAETANO at 20:53| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

須玖岡本遺跡より

春日市の須玖岡本遺跡から巨大な甕棺が見つかった、と。

そこまではいい。それを奴国の王のものかも、と。王とは言ってないか、有力者ね。

またそこからかー。

奴国はそんなに大きい国ではない。魏志倭人伝には陳寿が邪馬壱国(邪馬台国ではなく)へ至る際の通り道の国。

バカジジイが志賀島で出た金印の「漢倭奴国王」を「漢の倭の奴の国王」と読んだこと(イデオロギーも入ってる)が間違いの元です。もう何度も言うてるから、分かってるよね。

金印授受とは最高の栄誉で(銀印・銅印・鉄印もある)、それを与えるのって何百年に一回のこと。銀・銅・鉄と下るにつれて通常は頻度は上がっていく。

もう一回「おさらい」とをしておくと、「漢倭奴国王」は「漢より倭奴国王へ」と読むのが正しい。与えるもの、与えられるものは一つと一つであるのね。「漢よりいど国王へ」あるいは「漢よりいぬ国王へ」と読みましょう。

いど、いぬって何なん?

奴の読みが「ど」あるいは「ぬ」、倭の読みは「い」です。倭の意味は「おとなしい」、奴の意味は「上から目線での家来」ね。

倭奴に対して「匈奴」という概念あり。秦の始皇帝がそのための万里の長城を築いたと、ウラジオストクら辺から今のモンゴル辺りにいた遊牧民のことね。匈=ヤンキーですね。そいつらに比べて「なんと従順な」という意味が倭という字には込められている。

時代は下るが「旧唐書」に「倭国は古の倭奴国なり」とある。「世世、中国と通ず」ともある。そしてもうひとつ併記して「日本国は倭国の別種なり。…日本は旧小国。倭国の地を併せたり」とある。白村江の戦いで倭国は大打撃を受け滅びつつあり、それに代わる「別王朝・日本」の立ち上げの頃のことが記録されている。次の史書である「新唐書」には倭国の記述はなく、日本国のみである。

ちょっと戻りましょう。

だから奴国がバカ歴史学者の中ではすんごい国ということになってるけど、そんなことはなく、まったくなく、邪馬壱国の下での小国に過ぎなかったのね。当然倭国の中心ではない。倭国の中心は言うまでもなく「邪馬壱国」である。それを補佐するのが「伊都国」。そして宿敵が「狗奴国」。

さて今回の須玖岡本遺跡であるよね。吉武高木遺跡とともに「三種の神器(宝物)」が出ています。「鏡・矛・玉」。それが「権力の証」。簡単な話だ。同時代の遺跡からこんなものは出てません。さらに言うなら絶対出ないよね。三種の神器ではないがいろんなものが出雲からは出るけどね。出雲は博多沿岸に中心が移る前の中心。これもまた当然のことだった。オオクニヌシね。

須玖岡本遺跡からはとても貴重な他からは出ていないものが出ている。なんだと思う?

それは中国製の「絹」。日本製の絹は九州のあちこちで出てるけどね。中国製は須玖岡本遺跡だけ!さあ、ここで魏志倭人伝に書かれていた、魏帝から卑弥呼へと贈られたものを思い出してみよう。鏡に絹だったよね。もうひとつの金印「親魏倭王」もね。須玖岡本遺跡は一時期卑弥呼の墓ではないかと言われたこともあった。

今回の発見はBC150年頃の銅剣と青銅製の柄飾り「はとうしょく」だという。

その時期はいわゆる「天孫降臨」の50〜100年後の時期に当たる。天孫降臨は神話ではなく、壱岐(天国・アマ国)にいたアマテラスの「海人(アマ)族」が釜山の鉄(鉄器)を背景に「天下り」出雲のオオクニヌシから実権を奪った歴史的事実だが、その天下りの地も、そんなクソど田舎の宮崎の日向であるはずもなく、もちろん博多である。チクシの日向(ヒムカ)のクシフル岳。板付の縄文水田が欲しかったんだね。オオクニヌシ方も頑張って戦ったんだが、やっぱり鉄の威力には降参。タケミカヅチvsタケミナカタなんかに象徴的に描かれてる。アメノウズメvsサルタヒコとか。この場合vsはちょっとちゃうけどね。武力のみならず「いろんな」手法で、と読める。

で、今回の「三種の神器」も「中国製の絹」も出てる須玖岡本遺跡で巨大な甕棺(かめかん、ではなく「みかかん」と読んでね)が出た、誰の?

間違いなく、天孫降臨一族の誰かでしょうね。まだ古墳時代ではないから墓の大小でその人物の高貴さは計れない。

ちょっと飛ぶが、大阪周辺の古墳ね、あれ天皇の墓ではないよ。まず、当時、近畿には「王権」はないです。王権の定義とは日本の場合にはその時々の中国の天子に「認められて」初めて、金印とかを例えばもらえるわけよ。天皇という言葉も当時は、ない。天皇は天子とは異なり、唯一無二のものではないのね。地皇という言葉(地位)さえあるぐらいで。

近畿圏には「地方豪族」はいたよ。いたし、それが閉鎖的な中で「王権的」に振る舞ったということは考えられる。しかし、それを王朝とは言わん。仁徳陵、応神陵、「と言われてる」にだけでなんの証拠もない。発掘させろ、と言っても「ダメ」。なんでダメなん?

なぜか?天皇陵じゃないからでしょう。

じゃ、なぜあんなでかい墓を作れたんや?と人は言うだろう。それは「ヒマ」だったから。

「なんやとー!」ちゅう声が聞こえた気がしたけどね。

広開土王って知ってますか?好太王とも言う高句麗王だが、その碑文に、倭国が何度も攻めてきやがって、それをやっつけてやったぜワッハッハ、と書かれてる。当時の新羅の史書にも「倭のボケらがしょっちゅう「越境」して攻めてきやがる」とある。ここにはまあ、予想されたことだが驚くことが書いてある。倭は朝鮮半島にも「あった」のね。越境だもんね。地続きということ。秀吉が半島を攻めた時のような「出張戦争」ではなく、ちゃんと土地があって地続きのお隣さんにちょっかい出してた、と書いてある。新羅の立場で被害を受けたことを嘘書く意味もわからない。これは事実ね。同様に、日本も新羅に占領は別の地域だけど2度ある。一度は白村江後の唐による九州占領の「後釜」として。

倭国がそんなことをしてる時に近畿は海外との戦争もなし、平和だったということね。銅鐸の国の民を使って作らせたわけよね。信仰の強要と言う意味もあっただろう。

だから例えばあのでっかい古墳が誰かの墓なのは間違いなかろうとして、それが応神・仁徳と言われる人のものであったとしても、その人たちは「王」ではない。いや「王」でいいかな。王っていっぱいおるから。日本国が存在し始めるのが672の壬申の乱から710の平城遷都の間だから、例えば河内王朝なんて言葉はそれ自身、論理矛盾なのね。おれはそうおもうよ。このことは何よりも「九州に王朝あり」を認めないという最初のボタンの掛け違えからくるものであって、そんな最初が間違えてたら、その後何を言っても「残念」なことになる。スポットでいい事言ってる方もいっぱいるんだけどね。余計に残念。

日本書紀の「どこが」パクリでどこが改竄でどこが付け足しか、そこを古事記との見比べでチェックしないとね。古事記になくて日本書紀にあるもの、これはウソか九州王朝の史記「日本世記」あるいは「日本旧記」のパクリです。

先ほどの応神は本当に近畿へ行ったのか、父の仲哀のわけのわからん死に方、母とされる神功皇后への「卑弥呼と壱与」の笑っちゃう投影、神功皇后のスーパーウーマン振り、武内宿禰の超長寿そしてなによりも「宇佐八幡宮」の存在。あの道鏡が孝謙女帝により天皇にされそうになり、打倒藤原氏をもう少しで成し遂げれた際に、宇佐八幡宮の神託で覆される。そんなビッグな神社が大分にある。ここ不思議に思うんだよね。応神という人が大きい存在なのはわかる。そこで再度近畿を(神武に続いて)侵略したのかもしれないが、そして地方豪族として都を河内に置いたのかもしれないが、だからと言って河内王朝はない。ある権力の存在は認める。九州の権威を傘に近畿を治めていたのかもしれない。ただ、その系列が後の近畿天皇家に繋がってくるのかに関してもまだ、おれはわからない。明らかな断絶がその後にある。

須玖岡本遺跡の巨大な甕棺、アマ族の誰かというのは間違いないよ。













posted by 浪速のCAETANO at 13:22| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月16日

本当の「巨星」が…

10.14というから一昨日か、古田先生が亡くなった。新聞に載っていた。

今年の正月、府大のi-siteに講演を聴きに行った。最初で最後の生・古田武彦先生、あそこで云われた「イヌ」の話が気になった。「火を跨ぐ→犬を跨ぐ」ではないか、と云われていたな。

委奴=イヌとも読めますね。読みと感じの対応、貴字・卑字それぞれあって、しかし「い」にも「イ」と「ヰ」の違い、いま日本語は母音が5つってことになってるが、字の違いは発音の違いであるわけで「ア行」の「イ」と「ワ行」の「ゐ」は(ヤ行かな?)違うんだからね。

呼、という字、例えば、読みは「こ」ではなく「か」であると云われていたな。卑弥呼に対して卑弥狗呼という狗奴國の男王は「ヒミクコ」、そして卑弥呼は「ヒミカ」。日甕である、とね。甕棺(カメカン)は甕棺(ミカカン)であるからね。男性最終母音「O」、女性最終母音「A」なんてちょっと「震える」よな。そして卑弥呼の「甕依姫」の比定。

資料を「まっすぐ」に読むことからくるもどかしさの中から真実を発見されてきた。

もうおれたちは「戻れない」。戻れないんです。

もう邪馬台国ともおれは言えません。邪馬壱国or邪馬一国、そしてその読みは「ヤマヰ国」。もうおれは日本史、山川の教科書笑い過ぎて読めんもんね。

しかし、とおれは思うのだ。

みなさん、壮大は壮大なんだけど、ちょっと考えたら「ウソ」までは確信もてんかもしれないが、「?」なことはいっぱいあるはずよね。日本書紀のことですが、そこほとんどの日本人「新興宗教」入ってるから目曇りすぎなのである。そこ、根本、間違ってる人間がどんなに偉そうなこと言おうともおれには「なーんにも」響かんのね。歴史学者は大家と言われてる学者からペーペーまで、全員バカだし。その他の分野でもこれは「絵踏み」だと思う。

誰もいないんじゃないかなあ。おれは知らない。誰かおせ〜て。

某作家が安保法案に賛成を表明したまあ与党議員に対しては「あなた方はその法案に「ほんとにええぞ!」と思ってるならあなたは論理的に破綻している、「ほんまはよくないけど、立場上しゃーないやん」と思ってるなら倫理的な破綻である」という趣旨のことを書いてたが、ねえ学者のみなさん、あなたは一体「どっち?」と訊いて回りたい。安保法案じゃなくて日本書紀のことだけどね。

「論理的」な方は「倫理破綻」なしかないと思うけどね。guilty感じてる、とおれはフんでる。怖いよね。だから古田先生は果てしなくすごいのね。

日本書紀によって「その存在を消された王朝」があった。

それは蘇我氏を貶めたような抹殺のレヴェルではない。

架空の聖徳太子の栄光のモデルになった天子がいる。

それはフェノロサが法隆寺で見つけた後頭部に釘を打たれミイラのようにぐるぐる巻きにされた「救世観音像」のモデルである。

倭王・武は雄略ではあり得ない。

その上表文でもわかるように「文字使用」がすでにあった。そして仏教はかなり早い時期に(552とか538とかじゃなくね)入ってきていた。

石上神宮に今保管されている「七支刀」は百済王から九州の天皇に贈られたもの。

神功皇后は卑弥呼と委与の功績をパクっている。

ホンモノの天皇家の故郷は壱岐・対馬。

瓊瓊杵命が天下ったところ、それは糸島半島。「まっすぐ北に韓国に行ける」。宮崎なんて大ウソ。

神武はいたし、神武は博多から出発した。

吉備の勢力とともに河内湾に侵入した。今の淀屋橋辺りを舟を牽いて渡った。

長髄彦に敗れ当時の上町半島の先端から逃げた。現在の「西中島南方」である。

当時、摂津には「アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒ」の治める「銅鐸の国」があった。

大坂は、だから京都はもちろん、奈良よりも古く「発展」していた。

その中心地は今の茨木市東奈良である。

それがおそらく「狗奴國」である。

今近畿、岡山にある古墳、なぜあんなばかでかい墓を作れたかというとt半島・大陸からは相手にされていず、戦闘もなく、平和で余裕があったからなのね。

当時の流行からは、かなり、遅れてる。イモ。一地方内部での権力誇示。

邪馬壱国は博多。今都会は当時も都会。

近畿では「矛・戈」は出ていない。だから近畿邪馬台国は「あり得ない」。バカたちがゆってるだけ。なんとなく政治的=倫理破綻です。

福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は津軽の和田ちゃんのパクリ。

関東にも大王はいた。そのシンボルはやっぱり富士山。

九州のシンボルはもちろん阿蘇。「阿蘇山有り」。

中国の歴史書に「瀬戸内海・大和」なーんにも出てこない。行ってない。行く必要もない。単なる一豪族だから。

白村江の戦い。ここが「最重要ポイント」。

そして661…720この間にすべてのウソが正史となった。

そのウソはあらゆるところでバレかけている。例えば「郡と評」のこと。倫理破綻の典型。

天武・持統の「吉野」、桜の吉野ではない。吉野ヶ里の吉野。なぜ、そんなとこへ行ったのか?カクムソウがいたからに決まってんじゃん。

カクムソウ=マッカーサー。

大和には「格」がなかった。文化もない。だから新王朝とは言えなかった。それで九州王朝の連続という形をとった。

いろんな「フリ」をした。古事記をみてもわかるように神武以前の神代ではなく神武以降の天皇譚のなんと「素朴」でいたいけなことか。

古事記になく日本書紀に記述があるもの、これらはすべて九州王朝の史書からのパクリである。

その史書のひとつが「日本旧記」である。

また、銅鐸のこと、記紀には「一言」も出てこない。元、近畿中国地方には銅鐸を祭祀の具とする国の存在の紛れも無い証拠である。

そこら辺、バカ歴史学者、はっきり言わない(言えない)。

津田左右吉は間違っている。江戸の本居宣長や松下見林なんてうんこもうんこ、だが。

九州王朝以前は大国主の出雲王朝があった。アマテラスはその一の子分。

そしてクーデター。米を求めて瓊瓊杵命が降臨。まあ攻めていったということですが。金属武器を背景にね。釜山でとれた。

猿田彦は出雲王朝の人間。博多を治めていた。

新羅の王族に倭人がいる。

大和は白村江当時、新羅・唐と密かに結んでいた。


もう切りがなくなってどうしようもないが、この列島の過去に起こった出来事をランダムに挙げると(ほんの一部ですが)こんなことになる。

山川の教科書には書いてないことだらけ。これが真実なんだよね。元々「狂ってる国」なんだね。でもおれはそこ、正気でいたい。

これらすべて、古田先生に教えていただいた。

やり残されたことまだいっぱいあったはずですで、無念だと思います。

ニール・ヤングと同じくらい尊敬していた。あとは誰も尊敬などしてないが。人材不足。どーでもいいが。

心よりの御冥福を祈り、何かしら自分もその遺志の欠片を自分なりに発展させたいと思ってる。

お疲れ様でございました。





posted by 浪速のCAETANO at 11:22| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

白村江の「真実」

九州王朝が唐と国交断絶した時に近畿は遣唐使を通じて唐と連絡を欠かさなかった。

隋書タイ国伝には「その後、絶つ」とある。w/九州王朝。タイ国とは「大倭国」だろう。

当時、九州王朝と規模・財政上見劣りしなくなっていた近畿は二又を掛けていた。


w/九州とw/唐へだ。国家の君主と敵の両方。

当然、九州は近畿に準備を依頼する。近畿も「準備」はする。吉備国風土記には、準備はしたが行かなかった、とある。倭国はTOTAL1000隻で白村江の決戦へと向かった。その内400隻焼かれ、乗組員は殺され、沈んだ。600隻(残りの)は何をしていたのだろう。

その400隻には上野野君雅子が前軍の将軍として居た。言わずと知れた「関東の王」である。では薩夜麻は?

薩夜麻は残りの600隻の船のどこかにいた。これらは「無傷」である。戦う気などさらさらない。中大兄と鎌足もいた。そして彼らは「唐と通じていた」。薩夜麻らは「中大兄と鎌足」に捕らえられ、唐の捕虜になった。

薩夜麻=九州王朝の天子。あのさ、近畿には大王(おおきみ)はいても天皇はいませんので。その当時まではね。

おそらく実質上の近畿の「天皇」は天智からです。斉明もうそ。斉明は九州王朝の「誰か」のこと。そして天武は2人いた。大海人ともうひとり。クソ日本書紀はそれを一人のように書いているだけ。

近畿は白村江で、九州王朝の天子plus関東の王までも「処理」できたということになる。近畿はこの千載一遇のチャンスを見事にモノにしたわけだね。金だけはあった「イナカモン」が栄光の九州王朝を外敵を使って倒す、一挙両得とも云える。そこまでは上手くやった。

しかし「イナカモン」で、歴史書もちゃんと書けない「ほぼ文盲」の輩であったわけだから、その後が困るね。

近畿は九州王朝の「格」が欲しかった。その後、九州はカクムソウによって占領・収奪の嵐に遭う。だが九州王朝の格=天子の存在は否定できなかった。いまだ、あくまでも近畿は「一豪族」。唐もそう見ていた。

中国を見てみたら、よくわかるんだけど、王朝は何度も交代している。禅譲というのは「稀」であり、その際前の王朝をボロカスに貶して、オノレの正当性を謳い上げる。中大兄も、というか天武もそうすれば良かったのだ。でもしなかった。なぜか?

「格」が本当に必要だったのだ。それは九州王朝と異なり、断絶があったからだ。武烈と継体の間。もはや九州王朝の血は近畿においては途絶えていた。継体など、ホンモノの田舎のおっさんである。そこで完全に「入れ替わった」。その子孫が中大兄たちである。神武から崇神のあいだの「九州王朝の傍流」のプライドももはや無根拠だった。

継体は「大問題」だと思う。そこ、リアルタイムで九州年号(初の)に「継体」が出現する。磐井の時代。これは時間を支配する天子(中国の)への明らかな挑戦であり、白村江の遠因だ。天皇の諱は後代に付けられるのであって継体はその当時は「おほど王」である。そこも後にパクったなと思うのが常識だろうね。

そして天武の命による古事記作成後、九州王朝の「日本旧記」等の史書を奪い、九州から人も連れてきて書かせたのだろう、日本書紀が完成する。しかしね、いろんなところでその「小さな抵抗」が窺える。誇り高き、九州王朝の歴史官僚の矜持が垣間見える。「一書」に、が多発しているのだが一箇所だけ「日本旧記」と、ある。これこそが九州王朝の「史書」である。

さて、白村江の話だった。近畿は唐・新羅と通じ、栄光の九州王朝の滅亡とそして列島の実権と王位を奪った。その後ろ盾は驚くことに、通説では「敵」である「唐」だったというお話。

あまりに「何もない」「何の誇るべきもの」もないイナカモンが王となったが故に、その歴史を「デッチ上げ」なければならなかった。

その際に天武ヨメの持統と藤原不比等の「大嘗祭」と「アマテラス」も「伊勢神宮」も同時にでっち上げられた。小さなものが身分不相応な「大きすぎる物語」を身に纏ったことが、特に「この100年の不幸」の原因だと思っている。その事はまたこの次に。


posted by 浪速のCAETANO at 22:49| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月28日

名月から過去を思う

キタバヤシジュンのPASS AWAYからライヴ三連ちゃん、それが終わったらドロボー、その後すぐ店長anniversarioと目まぐるしすぎてアップアップだった。久しぶりに昨日は12時前のonto the bedだった。何百年ぶりか・ぐらいの。

昨夜の月は神々しかったね。堂々ともしてた。スペシャル・ゴールデン・デラックスな月を愛でつつ、辛口本醸造ぬる燗、といきたかったのだが、前述の疲労蓄積により断念。

今日こそは、と思うが夕方から雲が、小雨が、そんな噂もあって少し心配してる。

今日は十六夜・いざよいですね。今夜がスーパームーンという話もある。明日は十七夜・立ち待ち月。月の「公転軌道のダイナミズム」がよく表わされてるね。徐々に月の出が遅くなるのね。横に寝そべって待ちが立ち待ちになる。気持ちは昨日と変わらないのに出の時間だけは確実に遅れるわけで(48分/day)、平安の女房たちの「う〜ん、もうっ!」というこころの叫びが聞こえてくるようではないの、ねえ。

鞍馬で中秋節を迎えたことがある。もう空気はひんやりしていて熱燗を飲んでた。森の中でもない、人の営みのある・上の方に灯りがそんなにないところ、だから理想的だった。

その夏の初めにはまたまた鞍馬でだが「蛍」の乱舞をみた。目で追っていった先に「普通の満月」があった。それもまた「夢の中」そんな気がしたものだった。

ハポン独自のSENTIMIENTOとでも言おうか。

不思議な気持ちになるのだが、8世紀初頭に権力が九州から近畿に移って200年の間に「日本的洗練」の大方の部分が、もちろん貴族の間だけでだが完成している。歴史書さえも満足に書けなかった近畿の土人の力だけではこんなことはあり得ない。そこは栄華を極めた九州王朝の文化人のチカラが大きかったに違いなく、しかし、その彼らはその出自をうやむやにされ、近畿の貴族の末端に位置付けられるなどしてその業績は抹殺されていると思う。

飛鳥の「白鳳文化」の仏像その他の芸術品が、その後の奈良の「天平文化」のそれらより「洗練」されている件。

それらはすべて九州から「持ってきた」ものだったからね。法隆寺さえ、持ってきたわけで。もちろん救世観音像(聖徳太子と言われる)がおれのblogを読んでるよいこのみなさんはそれが「アマタリシホコ」であることは分かってるわよね。

後頭部に五寸釘を打たれ、包帯でぐるぐる巻きにされ、決して「開けてはならない」と代々言い継がれ、それが戦争に負け、フェノロサにその反対を押し切られてその包帯から解放されたわ救世観音像である。

倭王・武の上表文にもはっきりわかるように九州王朝では文字と仏教は早くから浸透していた。もちろん一般に、ではなく中枢の人々に限られる、が。文字官僚と言われる人々が存在したことは間違いなく、それは帰化人であったはずである。クソ日本書紀は仏教伝来は6世紀と間の抜けたことを言っておるが、九州王朝には遅くとも3世紀には入ってました。だから仏教芸術に於いても「年季」がちゃうのよ。

もっと言うなら「卑弥呼(ヒミカと読んでね)」は文字が読めた。すごいね!

先進国だったのね。土人の近畿とはエライ違いである。チカラはつけてきてるがダッサ、そんな感じ。

あのですね、邪馬壱国(ヤマイ国またはヤマイチ国と読んでね)大和説、や邪馬壱国東遷説の人たち、ちょっとアタマ悪すぎた。

近畿では「矛」でてないでしょ?それで大和説・チーンだった。

隋書タイ国伝に「阿蘇山あり」。これで東遷説もチーンでしたね。

源氏物語さえも九州の話であるとするならさあ、京都って何なの?となる。京都のフィクション、すこし興味あるね。おれだけでしょうが。
posted by 浪速のCAETANO at 11:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月26日

天神って

コーヒーを買いに天六へ。

なんか人が多いな。浴衣姿、カップル多いなと思ってたら、そうか「天神祭」だった。

商店街は大騒ぎだった。祭は当事者が一番楽しそうである。おれはスエヒロでA定食を食ってビール飲んで、コーヒー買ってその場を離れる。

ところで「天神て誰?」

当事者たち、知ってるのだろうか?

天=アマ=海人=阿毎。

隋書タイ国伝にある、隋の煬帝に生意気なお手紙を送った「タイ国の天子」の姓が「アマ」である。日出ずる処の天子……というやつね。

生意気には「根拠」あり。倭国が延々朝貢をしていたのはその時は「南朝」。倭国というか倭人の朝貢は実は「周」の時代まで遡る。中国の唯一無二の「天子」の冊封体制に喜びをもって参加していたのだが、今やその国は風前の灯火。代わって、蛮夷の(ということはオノレと同列の)王がその立場を奪い取った。であるとするなら、立場は「対等」である。その矜持が自らを「海東の菩薩天子」と言わしめた。

隋はあっという間に「唐」でに取って代わられ、「タイ国」のプライドは維持されることになる。白村江の戦いまではあと60年ほど。

タイ国は倭国であり倭奴国(いどorいぬ国)と読みましょう。倭奴は匈奴に対する中国側から見た呼び方。匈=ヤンキー、倭=おとなしい、です。

邪馬壱国(邪馬台国ではなく、やまいちこくと読みましょう)が博多にあった、とは自明であるが、依然として「近畿説」とか言ってるバカ学者が群れをなしてひと山なんぼで存在するけど、じゃあ言うが近畿から「矛」が出てるか?近畿から「三種の神器」が出てるか?倭人伝にある三種の神器とは「鏡・刀・玉」であるからね。ちなみにだが近畿で出てる三角縁神獣鏡は「国産」だからね、残念でした〜。もひとつ言うなら、「中国製の絹・錦」が出てますか・@近畿。考古学って決定的よん。

三種の神器が出てるのは「王家の谷=糸島半島」しかないのね。

ほら書紀が卑弥呼(ヒミカと読みましょう)と委与のやったことを神功皇后に当ててるでしょう。神功皇后が実在かどうか、ここはおれは確信はもてないけれど、おそらくいたはいた、だが、応神の母としてね、「三韓征伐」だとか、その際お○️んこに岩を当てて応神が産まれるのを我慢した、とかはちょっとあり得んなと思う。息長帯比売命。書紀の筆者が倭人伝を読んでたって証拠だけど。

だから近畿説はたとえば卑弥呼を「ヤマトトトヒモモソヒメ」に当てたりしてる。箸墓古墳を卑弥呼の墓だとかいい加減なこと言ってるけど、じゃあ卑弥呼の墓=家の字から上の点を取った字、は何処だ?ということになるよね。もう一つ言うなら卑弥呼がもらった「金印」は何処?そうなるね当然。

神功皇后が祀られてる神社、これが臭いと思います。神功皇后は九州にいろんなエピソードを残してる。夫の仲哀の突然死や住吉大神になった武内宿禰と出来てたんちゃうか、応神はその時の、、、みたいな。そんなエピソードが残る神社、たとえば香椎宮とかね。

話は例によって拡散してるけれど、卑弥呼の祖先、邇邇芸(ニニギ)、そしてアマテラス、彼らは壱岐の人たちだけどその「アマ族」の神が「天神」。大国主の出雲から支配権を奪い、板付縄文水田を手にした海上交通を司る、大国主の「一の子分」であったアマテラスの一族の信仰していた神こそが「天神」なのであった。

蝉が鳴き出したね。夏本番。

posted by 浪速のCAETANO at 10:08| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

休みでしあわせ

店は休みだし、教え仕事もない。これが「real holidays-yesterday & today」。

本を読んだり、音楽を聴いたり、ギターを弾いたり、昼酒したり、昼寝したり、このlazinessこそが休日の証。もう思い切りダラける。積極的寝たきり生活とも言う。

しかしいろいろ発見があって、楽しい。目三角からは程遠いときに発見はあるみたい。

内閣支持率下がってきてる。もっと加速度ついてもいいぐらいだが。さてここから9月までに回復があるかというと「ない」に一票。参議院の審議、すればするほど姑息な、とももはや言えない「チョンバレのうそ」だらけの答弁を巻き散らすだけだろうから。

しかし、与党が苦し紛れの解散総選挙を打ってきたらどーする?今のままじゃ、前回ほどではないにせよ、結局自民党、勝つよ。他の選択肢があまりに貧弱ゆえね。民主党はダメだと思う。半分は第二自民。維新もどうだろう?市長サイドは極右。じゃあ共産?要は、選挙行ってくださいよーとは言われるが、入れるに値せんような候補者しかいない、これが現状なわけでさ。

沖縄方式しかないと思う。野党も次回、UNITEしなければもう永遠に変わらない。ほんと「戦後」にしか変わらない。

ほんとは憲法学者たちが新たな政党作っていただきたいけどね。今の日本がいつのどんな国に似てるかというなら100年前のドイツでしょうね。民主主義のレールの上に現れた独裁で合ってる。選挙で勝ったから「何してもOK」これ、そんなぶっちゃけ市長が言い出したと思うが、そのマナーに意外といつまでも「そらそや」と言っていた大阪のひとびとのどーしよーもなさはたかじんにはついていってもしんぼうにはどうかなあ、みたいなことで、すこしはマシになってる・なってない、どっち?

でも安心できないのは、今アメリカの最高裁長官が来てて、安保法案の採決を見届けるまではずっと居ることになってる。もう一つ。2016のアメリカの軍事予算の中に日本の「集団的自衛権」の分がすでにデフォルトとなっている、つまりその分「少なめ」のに予算を計上している、そんな事実があること。

支持率を30%まで下げたい。そのときは不支持が6割超えるからダブルスコア。そうなるとレイムダック化し、自民内での安倍下ろしの機会となる。もう安倍ちゃんは「逃げまくりたい」とは思うが、あのわけのわからない答弁をTVですることを避けられないとするなら、野党の皆さんは是非、党利党略に走らずに唯一民主主義がそこに存在する「沖縄方式」で早めの準備されることを勧める。小沢くんにもう一度出番ないかなあと思ってる。亀井ちゃん・鈴木君も。物事はイメージ先行って「ロクなことない」てことには未だシールズの諸君も気づいてないからね。日本人はどっちに転ぶにしても「MOOD」。太郎ちゃんや小沢くんに対する「汚れ視」の根拠が実は非常に薄弱であるってことに気づかないのなら、完全に「片手落ち」ですよ、そこ。メディアがほんとはケツ拭かんといかんのだけどね。「小沢と太郎ちゃんだけはダメ」だと宗主国に「言われてる」は重々わかってるけど。そこがひっくり返らないと植民地のまま。もうほとんど「DREAM」に近いけどね。

さて、突然だけど「天武」は二人いた。

草壁皇子のパパと高市皇子のパパ。

カクムソウとはマッカーサーであって、日本列島は実は二度「占領」されてるのね。前述の2名によって。そして今の馬場町の「難波宮」は孝徳がいたんじゃなくて、九州王朝の「副都」。来るべき唐との決戦に備え、651年、難波の地にもうひとつの行政の場を設けた。孝徳は笑えるがうちの店のちょっと東の豊崎神社(当時は湿地帯)にいた。豊崎長柄宮。地名もバッチリです。天下立評、つまり、律令の基盤の評制の詔が出されたのも@難波宮by伊勢王。伊勢王は薩夜麻のパパね。

ちょっと飛ぶけど、天武のヨメの讚良(イコール持統天皇)がしょっちゅう行ってた吉野、とは奈良の吉野ではないから。あんなとこいつも行くとこじゃない。吉野ヶ里の吉野ね、有明海に面した「軍港」があった。そして、史実の天武(壬申の乱の)がいった吉野もまたその地であり、では誰に会いに行ったのか?それは(1)カクムソウ(2)薩夜麻のどちらかであるのは間違いなくそこで壬申の乱の大義名分を得たわけよね。
そして長良王は長良親王であることから、高市皇子は高市天皇である。その高市天皇は696年に暗殺される。その模様の「書き換え」が蘇我入鹿暗殺となるわけで。そこから先は九州系の血を如何に廃絶するかという不比等始め藤原氏との抗争になる。長屋王の失脚をみてもわかるように結局、天武系の血は天智系に上塗りされていく。天武は二人いるというのはその言ってる天武は大海人皇子ではない天武、つまり薩夜麻、高市天皇のパパ、九州の天子の血、という意味ね。聖武にはもう九州の血は流れとらんからね。

源氏物語さえも九州の話。京都や奈良の「古都」としての伝統・価値、「アーティフィシャル」だったらどーする?



posted by 浪速のCAETANO at 11:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月24日

銅鐸のことから

銅鐸が発見されたという@淡路島。
騒いだり喜んだりしているが、またすぐ忘れるくせに。

あのですね、銅鐸の仕組み、使用法の想像、そんなことへの解説、まあやってもいいが、では「銅鐸とは一体どなたたちのもの?」

洟たらさないの、そこで。

銅鐸は近畿・中国・四国で発見されている。多いところでは兵庫(淡路島はその40%ほど)、島根、そして近畿全般。

銅鐸はこれだけ発見されていながら、その「誰のもの」かを論じることができないために、歴史的にいつも宙ぶらりんということになってる。みなさん、手に余るというのがよくわかる。

イデオロギーとしてのではなくリアリズムとしての万世一系を信じている方なんていないと思うが(どーなんだろ、ほんとのとこ)、それによれば神武はBC660年ぐらいの人ということになる。だったら銅鐸はその時代にバッチリじゃん。

しかし、残念ながら「古事記」「日本書紀」に「銅鐸」は「ただの一言」さえ出てこない。

何を意味するか?近畿の天皇家とは「無関係」。そういうこと。

吉備の勢力を伴って、というか、に守られて近畿に攻め入った「サヌ」は九州王朝の傍流で、九州王朝と「神」を同じくし、それを誇りに樫原の地に100年ほど「その勢力」に囲まれて過ごしていた。時は未だ「弥生」終盤。であるから彼らの9代までの墓は「しょぼい」。古墳では、ない。

囲まれているから、武器は作れない。で、その辺にあった銅鐸をこわして再度銅剣へと作り変える。壊された銅鐸が樫原でよく出る。ほんとはもっとあったのだが銅剣にされたのね、ほとんどはね。

サヌ、つまり神武の系統がISのように占領地域を拡大するのは10代崇神のころからである。崇神は「ハツクニシラスノミコト」。ハツクニ=初国は元国に対する概念で、「新しく得た地域」を指す。「その勢力」の拠点への進出ですね。

崇神の時代にはいろいろ面白いことが起こる。樫原は神武の系統の支配を受けている。支配というには現実的なことだけではない。信仰の問題がある。征服者というか、その地域を新たに治めだしたものたちの神を民にも強制する。ISのように。

大神神社というのがある。山そのものが御神体であるが神は蛇だった。そのカミ=大物主神への信仰は支配者によって禁じられていた。しかし飢饉が起こり、疫病が流行、民にも不満が募る。われわれのカミへの信仰の禁止が原因であるということになりがちよね、そんなとき。

そこで、旧信仰の祭祀を司る事の出来る者を探す。河内の地に大物主神の子孫のオオタタネコを発見し、連れてきて以前のやり方の信仰を民がとり戻す。

タケハニヤスノミコトとの現樟葉での戦いもこのころ。タケハニヤスノミコトは当然「その勢力」のひと。クズハはタケハニヤスノミコトの兵が切られてウンコまみれで逃げたという、「クソ」→「クズハ」ということね。地名神話だけどね。@木津川。

「その勢力」とは銅鐸を祭祀の具としていた「饒速日命の国」である。そして銅鐸の鋳型がもっとも多く出てくる南茨木・東奈良、そこが中心である。中環沿いにあるね。

そして、ここからがPOINT。銅鐸は出雲・荒神谷遺跡でも50超出てきた。神武以前の近畿と同種のカミを祀っていたということになる。出雲といえば「大国主神」である。列島の最初の王と言ってよかろうかと思う。出雲勢力範囲は過去の「表日本=日本海側」の筑紫〜越の範囲に限られるだけでなく今の大阪・奈良から四国・中部地方までに渡っていたという可能性だってある。「国譲り」の際に、タケミカズチに負けたタケミナカタが今の長野まで逃げて「諏訪神社」の主神になったことを考えればね。

であるから銅鐸を祀る「その勢力」=饒速日命の国は出雲と深い関係にあったことが窺える。大国主神・須佐之男命・饒速日命の血縁関係も同様に。列島初のもっとも高貴な一族だったといえようか。

飛ぶが、バカ学者のみなさんが、九州王朝の存在を認めないから、そこ飛ばして「出雲と大和」関連のそんな本いっぱい出して結果人心を惑わせるというより「?」をさらに増やしてるのだけど、そこは、所謂大和政権と出雲は直接は無関係ですよ。そもそも大和政権とは「天智」「天武」のその後の時代、正確には701年からなのにね。「旧唐書」には倭国・日本国、「新唐書」には日本国のみ。こんな簡単なことがどーしてわかんないかな?

戻るが、天照大神による「反逆=国譲り」で筑紫〜出雲の支配権は奪われたけれども近畿圏は手がつけられなかった、あるいは国譲りを契機に饒速日命=ニギハヤヒが近畿へと天下った@磐船神社・ということも考えられる。国譲りはBC1世紀ごろのことである。

魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の邪馬台国(邪馬壱国)にどうしても従わない「狗奴國」とは「その勢力」のことではないかと考えている。だから卑弥呼と同時代の傍流のサヌ=神武がその情報を「持っていた」のではないか。神武の「カムヤマトイワレヒコ」という諱(ヒコ=長官)もそれを送った者は卑弥呼の次の九州王朝の男王であるかもしれない。神武たちは九州王朝と「そのカミを同じくする」ことがプライドだったのだから。

天皇家とは「一切」関係のない銅鐸。まあそのう、天皇家というのも大変タッチィな言葉ではありますが。本居宣長・松下見林・そして津田左右吉さえもそこはおかしいわけですから。

記紀に一言も出現しない「銅鐸」から「その勢力」の国の存在を一度想像してみてください。

異論・反論、anytime welcome!

posted by 浪速のCAETANO at 12:19| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月29日

都府楼にて

春うららかな午後、「遠の朝廷(とおのみかど・と読むね)」の、大宰府政庁跡地でぼーっとしていた。桜は咲いてたね。五・六分咲きというとこかな。去年は一回空けたから2年ぶりということになる。太宰府といっても天満宮にはちっとも行かず、菅原道真くんには不義理かましまくってるんだけど、彼もまたにっくき藤原にやられたわけだが、またちょっと意味が違う。

南福岡・雑餉隈に一泊。「ザッショノクマ」と読むのね。おれ、なんだか聞いたことがあるなあ、と誰からだったかなあ、誰だったかなあ、と思っていたのだが、元ヨメでした。あースッキリした、同時にビックリした。

大宰府政庁跡地前にも家が建ってる。最高の場所ですね。特等地。

アースダイヴァーは、本当に意味があるのは太宰府・糸島半島・博多だね。でもこれは学者にはできない。タブーとクロスするからね。

中沢さんもそこ、無理ね。中沢さん、内田さん、日本を代表する知性だと思うが、それでもそのタブーには、学者だからこそ触れ得ない。内田さんも日本辺境論の中で「聖徳太子」に関してかなりいい加減なことを言っている。まあおれが突っ込めるのは、そんな些細なことぐらいしかないが、しかし、この国の「根幹」に関わることはうやむやにするしかないんだよね。

明治天皇=大室寅之祐以上のタブーだもんね。ほんとのこと判明したら右翼全員爆死みたいな。

大宰府政庁跡地のすぐとなりには御笠川があり、そこを舟で下り、千代に倭国の天子が現れる。年に一度、その王者はオトコとは限らない。まさに卑弥呼の前か後か、女王が姫を伴い、志賀島へと渡る。そこでは「君が代」が語られる。多くの語りの「第1節」として。

ちょっと話「デカすぎ」。だけど、太宰府は「遠の朝廷」と言われ、その主語はもちろん奈良の人々だが、その意味は大きいです。そこもなんかうやむやにされて、大和朝廷の西国支所みたいに言われ、それを信じてるおめでたい方多いが、真の朝廷は「太宰府」ですからね。日本の闇もまあまあ深いよね。「1300年のウソの蓄積」それはそれで重たいものだ。日本書紀にそう書いてあるじゃん、みたいな。ま、早い話がアホなんですが。




posted by 浪速のCAETANO at 21:33| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月11日

新春特別

やっと、時間が取れた。一人の時間がという意味だが。

以前なら、こういうとき伊車か仏車でフラっと出かけたものだった。一本仕事が入っていた。

しかしその前に、どうしても行っとかないといけない場があり、それは大阪府大の「i-Site」だったのだが、そこで古田先生の新春特別講演があった。で、行く。

初のナマ先生である。やや緊張する、こちらが。おそらく何のことかみなさんわかんないと思うが、別にいいの。著書は50冊ほど読んでいて、もういろんなismが身体の中には染み込んでいるが、その、ナマの声はやはり拝聴しておくべきだと思う。何と言っても御高齢であるし。

「二中歴」「神籠石」「隋書タイ国伝」の中の(婦、夫の家に入るや、必ず犬(火)を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ)の、岩波文庫は犬を火の間違いだろうと訂正しているがここは犬であろう、という話。九州における「人と犬との親和性」。ギリシア神話の(アポロンがオリンポス山へ帰っていく際の「方角」の問題から、ギリシア神話はトロヤ神話の換骨奪胎である、とここは師らしい解釈。

休憩を3度ほど挟み、熱弁されていた。行ってよかったと思う。

しかし、もっとdetailを話されるのかと思っていたら、基本中の基本、「二中歴と九州年号」「短里と長里」「アマタリシホコ」「魏使の最終目的地は女王国ではない」などの古田史学の骨子といえるようなことを繰り返し述べられていたことにすこし驚く。日本のバカ学者たちの長年の「無視」って「イタい」。先生にもイタいのだろうが学問的にもイタい。ウソを国史とし、それを盲信する、湧いてくるバカ右翼の皆様方のことを思うに不憫であるし、まあ、だますなら「最後まで騙してほしい」ってそれある意味幸せなのかもなあと複雑な気持ちになる。

最後に先生が仰っていた。

「宗教・国家は人間が作ったもの。それが人間を支配するのは本末転倒である」

と、なるとやっぱりその間で妙に安定しているかのように思える「システム」のことを考えざるを得なくなる。かなりいいシステムを創り上げる→安心→思考停止、そんなこと。時代も変わる。もっと大きなシステム変換が進む。

までも行ってよかった、オノレのために。先生、いつまでもお元気で(希望です)。



posted by 浪速のCAETANO at 05:45| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

土用の丑の日

土用の丑の日、だからね、おれは「鰻ざく」で腹一杯になりたいわけだから、もう今は飯くえないからさ。

で、どうするかですが、商品券で阪急で鰻を買ってくる。網で酒を振りつつゆっくり焼く。すると、あのフワフワが戻ってきます。今回は上半身・下半身のお代わりで。胡瓜と茗荷はあらかじめ準備しとけばいいのね。

冷凍庫で直前にキンキンに冷やした三千盛で上半身、シャルドネで下半身。

十三で買ってきた「栄養豆腐」と長崎から送ってきたかまぼこで晩餐だった。とっても幸せ。

そういえば永井が浜松の白焼きお土産にくれていた。これもシャブリなどと食えばかなり「いい」のでは。そのうち。真空パックっだったので。

本日も暑いね。暑いねというか熱いね。アッチッチ・ですよね。夏の外仕事は毎回大和川を越える。かつての奈良への重要な水路である。要人は大和川を遡って大和へ入ってた。

突然飛びますが、馬場町の難波宮跡、あれさあ、大化の改新というかその後に孝徳が遷宮したということになってるが、ウソですね。

あれは、九州王朝の出先機関というか「副都」なんですね。孝徳がいたのは「豊崎長柄難波宮」というところです。そこで「ん?」と思う。

豊崎?長柄?むっちゃご近所やん。今の豊崎神社でした。当時は湿地帯。。BAYOUみたいな。

上町台地の、日没を余裕持って眺められるロケーションとは似ても似つかぬ、地べた近くにいざるを得なかった近畿の人たち。その末裔が今の天皇家ということになる。大化の改新が645ってのも、うそ。なんにも政治的な改革はそこでは行われていないし、蘇我入鹿と言われてる人が殺されたクーデターも696である。

聖徳太子や大化の改新が消えていく一方で、最近の日本史の教科書・山川であっても倭の五王の武が雄略である・なんちゃって、冗談も顔だけにしてね・だし、邪馬台国が奈良説と学校の先生が「おれはそう思う」だって。ほんとに「冗談はよせ」である。山川の教科書をしっかり覚えることが入試に繋がるとしても、それは「通説」であって、多くを日本書紀に依拠し、その日本書紀という「正史」の成り立ちがかなりイカサマまみれであるといった事実から目を背けてはいかんのではないのかなあ。ウソにまみれて1300年。しかし1300年は「かなり」重たい。そこを教師たるもの、「うう、うう」と口ごもりながら一応こうなってるのだけど、理屈によりハマるこんな説もありますが、、ハイあとは自分で考える〜ぐらいのことは言っても良いのでは。

6〜7世紀のことで言えば、充分強大にはなってはいたが、天子はもちろん天皇さえもいない近畿は「やはり一豪族」というのが一番正鵠を射るのではないか。

カムヤマトイワレヒコ、神武のことだが、その中の「ヒコ」、これは「長官」という意味である。天皇が長官ではどうだろう。そして長官って任命「される」ものじゃないの?ここに近畿の出自が集約されています。近畿にはその時「銅鐸の国」があった。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒの造ったおそらく銅鐸=鈴を祭祀のアイテムとするほどであるから、平和的な国であったことが容易に想像できる。そこに侵入したのが神武たち。西中島南方の南方は神武たちが最初の突入に敗れて敗走した狭い水路のことである。当時は河内湖ではなく河内湾。そこだけ狭く空いてたのね。

で、銅鐸の存在は確認されてるし、教科書にも載っている。ところが正史・日本書紀には「一言も」現れない。現天皇家の祖先とはまったく異なる勢力がかなり広い範囲を治めていた、という「簡単な」証拠である。実はその銅鐸国家の中心地は茨木市である。東奈良ね。ニギハヤヒの国。

そう考えると、大阪は実は京都よりも「古い」町ということになってきます。京都なんて当時は竹藪です。太宰府が首都であるとするなら副都は上町。悪くないぞ、と思うね。奈良よりも古いといってもいい。大阪の概念、変わるね。今の大阪の概念がいびつなのでは?真の歴史を見なかったらそうなるが、もうちょっと考えてもいいのでは。



posted by 浪速のCAETANO at 18:06| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月29日

9月も終わるね

もう九月も終わる。月の区切りに何か意味があるのか・というなら、うーん・そーねー、としか言いようがないが、しかし古代からヒトはなにかしら「区切って」いたみたいよ。やっぱ時間の流れにはアクセント要るのね。何かの循環にヒトは反応するわけで。

古代の天皇の年、90歳とか平気である。それを見て、だから史書はうそだらけと思われるかもしれないが、ちょ・待って、と言いたい。うそはある。あるのだが、そこじゃないです。うそは神功皇后とか景行天皇とか。

じゃあ90歳までほんまに生きたのか?と訊かれれば、うん生きた、と答える。

年の数え方が違ったのだ。古代の倭において、年は春と秋に一つずつ取っていったのだ。それが二倍年暦です。

で天皇の年が上のようになる。中国にはもっとすごい「年」がある。900歳とか1500歳とかだ。なんじゃそれ・でしょう。

おれたちは、あまりに今のシステムを遠い過去から「あったりまえ」と思いがちだが、そんなことはないわけで。「明治」から無理に始めたものを「伝統」と勘違いしてること、あまりに多し・なのね。

さきほどのすんごい「年」とは月の満ち欠けを一歳と、満ち・欠けをそれぞれ一歳と考えることで積み重なった年齢。「十二倍年暦」「二十四倍年暦」といいます。

そんな風に、時間の流れにはどこかで区切りをつけないことにはいかんわけね。ただ、その時間を誰が支配するか・ってことがポイントでね。わかりやすいところでいうならそれが「年号」ということだけど。

大化から年号が始まったことになってるが、ハイ・うそー。大化の改新さえ事実かどうか・だ。クーデターはあった。

その7世紀、謎だらけ。激しく列島が「動いた」時期である。「日本」が出現したのも7世紀だ。日本の後ろ盾は「唐」なのだ。それは白村江の戦後の話だけど。意外な話ですけどね。

そこら辺の「紀」はもう面白いほどの「ウソ」だらけで、自前の史書がないものだから他人の「歴史をパクるパクる」。そんなものを「ベース」に国のことを考えてるとしたら、そっち方面の方々、それ問題だよん。

さて、明日から「通常の」生活が始まる。ということは、昨日までは「通常」じゃなかったわけだ。内外合わせると受験生・総勢25名。しまっていかないと。

posted by 浪速のCAETANO at 17:12| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月27日

教科書もー

中学校の歴史の教科書も新しくなり、つらい。他はいいのだ。複素数平面が入ってこようが、英単語が激しく増えようが。そんなこたあ、別に・なのだが、歴史はあかん・ツラい。

ウソを事実として教えなきゃいかんのが・だ。

これまでは中学校では入ってなかった<倭の五王>の<武>を雄略と、あ〜あ・言い切りよった。さる・め。

稲荷山古墳から出土した鉄剣に書かれていた金文字<獲加多支占(占の口の中に九が入る)>をワカタケルと読み雄略に結びつけ、関東もそして当然九州も大和王権の支配が及んでいたとする。それを中学生に信じさせるのはあかん。

支占(占の口の中に九が入る)・をケルってどうひっくりがえったら読めるのか?

嘘はもっとある。一番わかりやすいのは、聖徳太子のウソ。厩戸皇子というのはいた。

近畿王朝の遣隋使のウソ。隋には行っていない。唐です。

遣隋使は<アマタリシホコ>=九州王朝の天皇である。日出ずる国の天子。対等を謳ったのもアマタリシヒコ。その理由も簡単なのであって、倭国(九州王朝)が延々朝貢していた中国の南朝は<北狄の隋>に滅ぼされてしまったからだ。東夷であった倭国と北狄であった隋とはまさに<同等>。それである。<海東の菩薩天子=タリシホコから海西の菩薩天子=煬帝へ>それが成り立つ。すなわち仏教の伝来も538でも552でもなくもっと古い。道後温泉へ行ったのもタリシホコ。九州から道後は目と鼻の先だ。太陽の光、豊かな湯は分け隔てなく全ての人々に与えられる・と言ったのもタリシホコ。深く仏教に傾倒した王の思慮が窺える。

もっとある。近畿に多い巨大古墳。なんのため?という質問が出る。優等生の回答は<王の威厳と支配の確認>ということになる。まあ、それでいいのだが、ではその支配の及ぶ範囲とは?

西は今の岡山県ぐらいまで。そして岡山にも大仙古墳に負けない大きさの作山古墳・造山古墳がある。

実は当時の中国・半島においても、古墳のような巨大建造物作るのはバカげてるということになっていた。それを知らなかったんだね、近畿王朝は。なぜか?<付き合いがないからね>中国や半島の国国とね。

九州王朝である倭国は当時、好太王の高句麗との戦闘に明け暮れていた。倭国の領域は半島の南・かなりの部分まで及んでいた。高句麗と<直接>戦闘するほどである。新羅の史書に<倭兵がしょっちゅう国境を侵して困る>と書かれてある。

近畿王朝がそんな巨大古墳作れたのは<内向き>にやってたからなのね。その労働力になったのは、神武が侵攻してくる前にあったニギハヤヒの銅鐸国家の民だった。墓を作る・作らせるなんてことは<宗教儀礼>の変更でもあり、一番・支配者が代わったことを身に沁みて感じさせるにもってこいだしね。

どんどん脱線していくが、天照大神は九州王朝の神で、大国主命は出雲の支配者で天照大神に国譲りを強要されるわけだが、その天照大神の傍流も傍流というのが神武なわけです。その神武が九州や四国・そして吉備のパトロンたちをバックに内部に入り込んだ国が<銅鐸の国>。奈良は米どころでもあるしね。

その銅鐸の国は<優しい国>だったと思います。なぜなら、祭祀のアイテムが銅鐸=鈴だからね。九州王朝は矛と戈、神武たちは剣。

銅鐸の国の神は大神神社のいわゆる大物主神と言われてる神。イコール大国主命と言われている。神武たちはオノレの正統性を九州王朝と同じ神を祀るということに求めていた(それは<ウソ>ではない)わけで、征服した神の扱いは最初はひどかったはずである。非征服者に身に沁みてわからせるためにね。しかし崇神天皇の時代に疫病が流行り非征服者たちの不満を解消するために大神神社の神を祀り出した。そのときに<習合>させられたのが大国主命だった。神々習合。天照大神の下のNO.2というわけ。

そして、やはりどうしても見過ごせないのは<金印>だ。

漢委奴国王だね。銅印とかじゃなくて金印ですよ。金印の意味は、周辺の中でのいわゆるフランチャイズの資格を与えること・それもかなり高い資格ね。その対象がなんで倭の中の小国の奴国王なん?

もう一つ。いや二つ。与える国=漢と与えられる国は<一つずつ>書かれてあるのが常である。そして、北狄の<匈奴>に対する<委奴>である。匈奴の匈はヤンキー・それに対して委奴の委はおとなしいの意味だからね。

漢の王が委奴・つまり委=倭の王に与えた金印である。かん・いどこくおう、と読むべきでしょうね。奴とは中華思想に於いては周辺国はすべて<奴>なのね。

それが志賀島で見つかったというのも意味は簡単である。志賀島は九州王朝の所謂・ハレの祭の場だったからである。海人族としての。それに対して、根の国とは糸島半島である。王の墓だらけ。志賀島において王の船による千代海岸からの到来を愛でる歌こそが<君が代>だったりする。それが近畿王朝の末裔の王族のための・そして国民のための<国歌>としてあり、揉め事のmediumとなってることもかなりの皮肉と言うなら皮肉。しかし、ここ三重ぐらいに<ねじれ>てますからね。
posted by 浪速のCAETANO at 15:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月25日

ウソにやられない

都議選の結果を見て、<投票するとこ・ないもんなあ、、、、>だ。

市長・前知事のブームが終わるのは<めでたし>。だが、積極的に支持するものがないままに安倍ちゃん放置でいいのかっつうと<そうじゃないでしょ>、しかし・そのう、投票へのヤル気というと、<ほとんどなし>が正直なとこ。

うーん、もうっ!だなあ。

あのね、もう先端が先端ではなく、おれなどには、つまり<旧い意匠>をまとったものが先端として取り扱われるのを見るのにも倦んじゃってる者としては、なんかね<楽>なものがいいんだね。

<右翼>は楽じゃない。いつも高揚してたり、仮想敵さがしてたり、あのヘイト・スピーチ・デモの、、、、、、、ぶっころせー、の楽じゃなさ、おえ〜・である。ヨーロッパのNF(FN)/などに<学んでる>のだろうけど、<ひまか>キミらは、と言いたい。よくあんな<カッコわりいこと>できるよな。最大のカッコ悪さ、なのだと思うが、あいつらはあの後、居酒屋で<打ち上げ>などするのだろうか?おれは<してるような気>がする。さらにキモ・だ。そしてその半分くらいは互いに面識がないまま、、、、、、、ぶっころせー、なんて言ってる間に友達になったりして。おえ〜、おえ〜、である。もしそーなら。

まさにリビドーぱんぱんで体力あまってアタマだけ足りないから、そんなやつそんな世代にはそれでいいのかもしれないが、きみらが信じてる・というか信じてるふりしてるだけかもしらんが、日本という国の幻想の罪は重いな。

明治の国家神道の罪の重さ。廃仏毀釈だけじゃなく廃神毀釈も同時になされ、神社の統廃合が進み、それに抵抗したのは南方熊楠だけだったという情けなさ。今、会津の話、nhkでやってるが、<錦の御旗>もでっちあげたらよろしいがな、と言う岩倉具視がいたりする。

たちの悪い右翼は、まさに明治の日本に戻したいわけでさ。そこ<一神教>よ。砂漠の宗教と同様の信仰が、このじっとりねとねとな気候の・別の言い方をするなら放っておけば何かが<生えてくる>豊潤な土地にフィットするわけがない。

その根拠<みたい>になってることはもうええ加減なことだらけ。明治の体制から<逆算>したようなものだらけ、だ。これ、今年の変更された教科書に載ってておれは脱力したのであるが、<ワカタケルを倭の五王の武>に比定するのも<逆算>だったりする。<大化の改新>というキャッチコピーは<明治維新>という言葉の成立の根拠としてでっち上げられた。乙巳のクーデターはあったが、その後の律令制へと向かう政治改革が本当にあったのかは<?>。蘇我氏の正体も謎に満ちている。そんだけボロクソにいうって事は実は、、、、蘇我はおそらく藤原以上に高貴だったことが考えられる。さらに、これだけみなさんご存知の<銅鐸>は記紀に<一言も>出てはこない。それはこれだけの銅鐸の分布から考えて大和政権以前の広範囲の政治勢力の存在を確定するものだし、現にあったのだ。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト、の国である。サヌ(・神武)によって内部に入り込まれ崇神によって滅ぼされた・銅鐸を祭祀の具として使う国である。ナガスネヒコ、土蜘蛛の名の表すコノテーションからは、<縄文>の香りが強烈に立ち上がっている。

ここでみなさん、よく考えてみよう。祭祀の具は、<銅剣・銅矛>へと移り変わっていくことをご承知だろうか?剣も矛も<武器>である。翻って銅鐸は鈴である。カウベルみたいな。それがなぜかどんどん巨大化してくるのは知ってるでしょう。ニギハヤヒの国は、相対的に好戦的な国ではなかったことが考えられる。

津田左右吉によってその存在を否定されたいわゆる<欠史八代>。その時代はまだ弥生。その墓はだから樫原内部に収まりショボくして存在する。前方後円墳などはまだ存在しない。巨大な墓の不在を持って欠史とはおかしい。だから、存在した。ただし、崇神に至る時代においては、銅鐸の国に取り囲まれ、身動き取れない状態が続きます。武器もない。だからそこにあった銅鐸を潰す。そして剣をつくる。蛇足であるけど、その銅鐸の国の<首都>はどこだったのか?それは銅鐸の鋳型がもっとも出土する茨木市です。南茨木ね。

ん?チミは皇室の歴史の確定に貢献しようとしてるのかい?そんなお便りきました、今。

いや、明治からの逆算で成り立つ歴史は<そっちの都合>だけで正誤ないまぜになっとるからねえ、あるパートを見たら、右の方々喜ぶ・も入ってるかと思う。でもそれは些細なことよ。

今思ったけれど<遡り日本史>というnhkの番組、もう終わったんだけど、いい考えだね、遡るってのはね。結果があってその原因を探って行く。うーん、<悪くない>。そう思いました。古代はまるでダメでしたが。

明治から逆算とはまあ、日本書紀・マンセーとほぼ<同義>だと思うが、古事記のまだましさ・と比べて、<紀>の記述はパクリだらけであって、じゃ、何からのパクリ?と思うよね。

それは<日本旧記>という歴史書です。そんなん聞いた事ないし、でしょう。しかし日本書紀をよく見ると、一書に曰く、が大方ながらある箇所に<日本旧記に曰く>とある。思わず正直にポロリと、そんな感じです。

ほんと日本書紀はウソだらけ。仲哀期なんて笑うよ。卑弥呼と壹与がやったことを神功皇后の業績として無理やり捻じ込んでるしね。むちゃくちゃ。だから彼らは魏志倭人伝を読んでいたわけね。

ではそんなウソを大量にどうしてでっち上げないといかんのか?それが天皇家が<天皇ではなかった>ことを一気に払拭するためだからよん。

本日、ここまで。


みなさまに色々、ご心配おかけしたかもしれません。

店長、明日一応退院の運びとなりました。懸案事項は幾つか残ってますが。お見舞い、激励の言葉等、感謝しております。とりあえず元気になって、スリムになったあおみちゃんに会いにレオンジーニョの方へ足を運んでね。以上。御礼まで。

posted by 浪速のCAETANO at 16:44| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 古代史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする