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こんがらがって・・・バカだらけ
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聖徳太子part2
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激しくバカな人々(ついでに国歌解説)
2022年02月02日
歴史戦・だと?虚しいぜ
2021年09月20日
1st Visit to 吉野ヶ里
2020年11月14日
あるレイヤーには
まだ途上ではあるが。
飛鳥とは、壬申の乱(672)〜平城京遷都(710)までの40年足らずの『都』だが、その間に、その後のこちらの国の「共同幻想」は決められてしまった。「幻想」だ。ありもしない事件がでっち上げられ、ありもしない人物が捏造され、今となっては「蘇我氏」の存在まで「眉唾かも?」である。
今行くと、長閑な田園風景が広がっている。おそらく七世紀からさほど変わってないかのようにも思えるほどの長閑さ・だ。アホが見たら「なんやクソど田舎じゃん」と言うだろう。アホには知識も知能も欠如しているから、そう見える。おれには「ちょっとしたアミューズメントパーク」に思えます。何が「 Amusement」かって人によるよね。
奇しくもこないだ泊まった豪邸の民宿は明治まで代々「天武・持統陵」のお世話をするウチだった。天武も持統もそこにいた。ただ持統(うのさらら)は正妻
とされているが「中宮」ですね。正妻は大田皇女である可能性が高い。持統が天智の娘であることはそれでいい。だが天武の正妻ではない。もうあまりにも当たり前すぎて、敢えて言うのも「片腹痛い」が天武は天智の「弟」とかではありません。血の繋がりはなく、天武の方が年上です。めんどくさ。
天武の死後(684)、持統は「大津皇子」を謀反の廉で、逮捕する。大田皇女の娘・それは大津皇子の姉、大来皇女だが、「初代」伊勢斎宮である。
平城京遷都は『結果』である。結果って何?全てカタがついた・ってことね。全てが「変質」させられ、九州王朝から大和王朝への「簒奪」も成し遂げられ、それを裏付けるかのような「偽史」の編集の目処も立ち、天皇の外戚の藤原氏に全ての権限を集中させ、といった「裏の作業」が行われた時代がその40年足らずの間であって、その現場が「飛鳥」である・と言うことなのね。
だからここが「謎だらけ」なのはどうしようもないね。
突然現れて消えていったかの印象を受ける「蘇我氏」・突然現れたのは同様の中臣氏はいつの間にか「『藤』『原』氏」と成り上がって行く。そして忘れてはいけないのがもう一つのメジャー豪族「物部氏」なんだけど。
前述の大田皇女の息子に娘、すべて「大」の文字入ってる。大・とは何なんでしょう?また近いうちになら行こうと思ってるのだけど今度は明日香から北上して「多神社」を訪れてみたい。
「春日大社」ってありますね。藤原氏の「神道」の社なんだけど、その春日信仰というのが奈良にはそれ以前からあって、それはもちろんクソ藤原氏とは縁もゆかりもないものなんだけど、それもまた100万年前から「おれらのもんやで〜」といった顔をして取り込んだ。
戻るが「大」という文字、これは由来は「出雲」なんです。列島最初の「権力発生」の地。「国譲り」などということがありました。譲ったわけではないのね。そこで譲らざるを得なかった人々が奈良へきていた。そしてそれは「大・多・意宇」の人々。
奈良と言えば「非・藤原」の神宮があるでしょ?そう「石上神宮」。物部の社である。「石上の人」と言われていた人々がいて、「悪い石上」と「ええ石上」がいた。いわゆる「部落」のことなのだが、「穢れ仕事」をする人々に「神事」担当の人々のことなのだが、おれはご幼少すぎて・そして時代もあって覚えちゃいないがお袋はよく言っていた。「橋のない川 by 住井すえ氏」にもそういうことは書いてある。
ええ石上・とは物部なんだね。悪い方もね。
当然の話なのだが、奈良に天皇はいません。天皇は「九州に」いた。当たり前の話。白村江の戦い後、近江朝の天智・弘文を天武は「物部」の力によって倒したのね(壬申の乱)。なぜ天武の業績が「乱」なのかって不思議に思わない?逆賊みたいな扱い。「磐井の乱」もそうだけど。
天皇に「姓」があったって知ってる?九州王朝の中盤からは「アマ」後半からは「藤」。当然、天武は「藤」の人です。
そしてなぜ、中臣つまり「なかつおみ」がいきなり「藤原」になるわけ?
ところで「原」にどんな意味がある?
『中心』てことなんだけどね。
藤原氏は「恐ろしい」。性悪さでは維新の100万倍ぐらい。何を意味するかというとね、天皇家の「姓」を『奪った』ということなのね。紫の藤の花、綺麗ですよね。だがその「蔓」はあらゆるものに纏わりつく。
蘇我氏のヴェールを一つ一つ剥がして言ってる最中ですが、以上のようなことがわかってきたよ。しかしまだまだ、「謎」は多い。
次は、じゃあ物部氏はその後どうなったのか?そして「竹取物語」の真実について書こうと思う。
2020年10月24日
蘇我氏のヴェールを一枚づつ
数年前に数度集中的に訪れたのだが、飛鳥自体はピンでボードに「留め置いてた」・そんな事だった。日本書紀・おそるべし。
おれもただただ「入鹿の首塚」「甘樫丘」「石舞台古墳(という名)」「飛鳥寺」という『表面』にやられてただけなのかもしれない。それは脚色by藤原氏なのよね。
蘇我氏の名誉回復はレイヤーの最浅層なんじゃないかな。
あるいは「蘇我氏自体」もまた「聖徳太子」同様・あるいは聖徳太子のために「作成」されたものかもね。なるほど、だから誤解と曲解とヤマト王権の幻想がこんがらがった後に「聖徳太子は蘇我入鹿である」@関裕二・なんて説も出てくるわけか。案外外れてないのかもしれない。どちらも「架空」であるとするなら。
関くんは根本は間違ってるけど(九州王朝がわかってないから)まあ良くある事だが向こう側でこんにちは・はあり得る。いや、大和のことに関してはベースに「天皇」がないだけで(あるだけで)いちいちそこへ戻るから話はさらにこんがらがるわけで、そこへ戻らずに「飛鳥だけ」のことなら一聴の価値はあるのかも・そうも思える。その大元には、梅原先生のあまりにもロマンチックな曲解があったのだけど。
古田先生は「飛鳥」に関しては多くを語らずして亡くなってしまった。
そっちは卑弥呼@近畿説とかを「本気」で信じてるパターナリスト歴史学者が群れをなしてるから鬱陶しい。
王・意宇・多・大という名は半島系ではなく、大陸・江南からのもので、九州だけではなく、近畿においても半島系vs大陸・江南系の対立はあり、そこから半島系の中でも新羅・伽耶系vs百済系の対立が内包され、天武vs天智の、それまでの・そしてそこから一世紀以上の間、天智系による天武系の排斥が続くのだ
が、白村江以降平城京までという約半世紀に何があったのかということはほんと・知りたい。
飛鳥の「蘇我氏のヴェール」を剥いだ後には「王・意宇・多・大」そんな姓が散りばめられているのね。
飛鳥の時代とは「まるで現代の」公文書改竄・破棄、そんな時代のことなのだ。その50年の悪行(実際は10年ほどだろう)による偽史の正史化により、その後1300年に及ぶ「わけわからん国」が出来上がる。
前述の対立の図式は南北朝を通り越して薩長同盟にまで影響を及ぼす。薩摩が「九州王朝の正統」が逃れた地であることはよく知られた事実だが、その後の「隼人の『乱』」(720)、宮廷行事における隼人による「犬の遠吠え」、君が代の発見@薩摩、西郷の別名・「菊池」など。で、最終的には「長州」による西郷の排斥。
そんな対立の「目」はいちいち古代まで遡ることもできるのね。今の政治・芸能の半島系による支配なんて、そこから考えるならまあ当然かな・という気もしてくる。ただ、半島の「どっち?」。そこポイント。
王・意宇・多・大の文字が示すように「飛鳥と出雲」の繋がりもまた、近畿=(おそらく)狗奴國の由来とも、そして葛城山系を越えた地域に点在する古墳の存在とも呼応しつつ、興味は尽きなかったわけである。
今度は「鎌足の地」を、今まで避けていたのだけど、訪れてみたいかな。多武峰・談山神社。蘇我氏の宿敵/不比等の父であるね。
2020年10月22日
朱鳥
2020年01月14日
セメント屋のオヤジ・妄言す
低脳の知ったか。レヴェル低すぎて、笑える。ボンボンのじじいってこんなもん。
全部嘘だから。
唯一そうかなあと思えるかもしれないのは3)だが、これは現代人には「そんな気がする」だけのこと。英語が他言語からの「外来語」を多数受け入れているのと同様、日本語もまた大陸・半島からの「最後の受け皿」となった列島の弧であった結果でもあるからね。倭人は中華帝国から「字」を習った。そしてその字に言葉を「充てた」。というか一部「逆輸入」も含め、その言葉は構成された・が正しい。その倭人という言い方もそれより以前・がなかったかのような誤解があるから正しく言うなら、nativeと言える縄文人(A)(そのルーツは、ミクロネシア〜メラネシア〜半島〜大陸のロシア側のツングース系まで様々)を征服した中国江南系の人々(B)による銅鐸文化を、さらに征服した海人族(C)の中の(C)を指す。
中華帝国への朝貢の結果「倭人」と呼ばれたわけで。東夷の倭人。倭奴。
3)に関してはそう単純ではない。世界で最も早く「土器」は発達した地域はどこか?
それは、この列島である。ここ意外に軽視されてる。火山の存在って大きい。時代は下っても「阿蘇山あり(魏志倭人伝)」だし。土器の時代はまさにグッと遡ること縄文の頃。当然その土器は大陸へも「輸出」されることになる。最先端技術である・当時の。最新技術が入ってくるということは、その周辺の概念・もっというならモノの名前・言葉もまた入ってくるということ。甲骨文字から発展中のの中華帝国にそのモノ・概念が入って行くことは、当時の列島でのものも呼称・概念もまた入り、「漢字」を充てがわれたことを想像させる。言葉に関していうなら、先ほど言った「逆輸入」というのはそう言った可能性のことなのね。
なんかほんとケーハクに「一つの言葉」なんてやめていただきたい・セメント屋のおっさん。
1)2)4)5)に至っては「冗談はひょっとこ顔だけにしろ」である。
おれはそのうちばかうよ(一般人・政治家問わず)の誰かが『日本紀1300年』を騒ぎ出さないかと「ヒヤヒヤ」してる。嘘の・だがしかし、その重みである。
日本紀の嘘はみなさん・なんとなくそうかなあ?とは思ってはいるかもしれないが、「正確にここが」と言える人はほとんどいない。そう思う。いちばんのバカは歴史学者なのだが、大抵の他の学者におかれましても、「ややこしいことにはタッチせんとこ」これが本音。それが通れば、1)2)5)はセメント屋が正しいことになってしまうよね。タチの悪い「通説」なのだが。もう・どうしましょう?
1)2)5)はまとめて、否定できるものである。
ごく簡単に。
1)旧唐書には「倭国」と「日本国」は別々に書かれている。新唐書からは「倭国」は消えて日本国のみの記載。その間に「白村江の戦い」があった。年代でいうなら663〜701。この間に歴史は継ぎ足され、簒奪され、換骨奪胎され、ウソがまかり通ることになった。
2)倭国の都は「太宰府」。近畿の「豪族」からは『遠の朝廷』と憧れられた土地だったね。奈良よりも数百年早く「条坊制」が取り入れられた倭国の都。倭国には数百年早く「律令制」があり、倭国には数百年早く「仏教」が伝来しており、倭国の女王は3世紀の段階に「文字」が読め・書けた。先進性。
5)1)と同時期に行われた改竄に加えて、継体で近畿の豪族の大王の系譜は「途切れている」。南北朝でも。明治でも。
嘘ばっかり言うんじゃねえ。
2019年11月20日
新記録の日・古代に逃げる
662年に「倭・百済」連合軍が「唐・新羅」連合軍に、白村江でコテンパンにやられ、倭国の「天子・薩夜麻」が唐の捕虜となる前代未聞の出来事が起こる。
あのね、前提としてその時に近畿に「天皇」などは一切存在してませんので。「大王(おおきみ)」は居りました。近畿地方の豪族ね。当時は中国の「冊封体制」の中に列島は包含されており、その中国(唐以前)の歴史書には『倭国』しか出てこない。中国に認められている王朝とは「倭国」のことであり、それは金印を授かった「委奴國」であり、「邪馬壱國(やまいちこく)」であり、その都は延々九州に存在していたわけです。倭国・とは九州王朝のことである。正統の王朝ね。ここ・前提。証拠はいっぱいある。ここでは書かないけれど。もう散々書いた。九州には「元号」さえもありました。それも『6世紀』から。
そのような「栄光の」九州王朝が、天子は捕虜になるわ。唐から「カクムソウ(太平洋戦争時のマッカーサー)」がやって来るわ、九州自体が「蹂躙・簒奪」の嵐に見舞われるわ。もうガタガタになってしまう。その時、無傷でいられた近畿(一緒にやるよっつっといて静観した)が列島の王者の地位を奪う。7世紀後半のことである。
その際に「でっち上げられた国史」が「日本書紀」です。「地理的にも年代的にも」矛盾(嘘)だらけ。『紀』の編纂が終わったのが720年。
平城京遷都・覚えてますか?710年です。この時期に近畿は「王朝の体裁」を整えようと必死だったのわかるかなあ。
さて、ではグタグタのガタガタになった九州王朝はどうなっていたのか?
一部中枢は薩摩へと逃げる。そして、やはり九州王朝への忠誠を誓うものは列島全土に逃走する。抗戦する者もいる。元明天皇(在位707~715)の時代に「お触れ」が三度出ている。「山とかに逃げてる九州王朝の人〜、今『軍器・兵器』持って降伏したら許してあげるよ〜」というものね。大方はここで降伏・出頭したわけです。で、薩摩に逃げた九州王朝の残党もまた「隼人の乱(720)」で制圧される。
はい、先ほど、『記』の編纂の話をしました。近畿はここで列島の主になる・ということで「初めて」国史を編纂することになったわけです。ところが、その内容がどうにも『ショボイ』。それは今、我々が「記」を読む際に感じる『素朴さ』に通じるものである。もちろん「神話的」なパートに関しては、九州と「系譜を同じくする(した)」という前提だから国生みや「出雲や筑紫(大国主の国譲りや邇邇藝の天孫降臨等)」の神話で被ってる部分はあるし、もちろん「神武」は九州・糸島の出である(だから鯨の歌や、撃ちてしやまんといった糸島半島の歌があるんだけど)。
で、ここが大事なとこなんだけど、まず、「記」には神武が東侵の際に行ったエゲツないことが武勇伝として記されている。そしてその東侵は「成功」していないこと、橿原の地で銅鐸の民に包囲されながら「開花」の時代まではその勢力範囲を広げることができなかったこと(欠史八代の時代・ここ津田左右吉の大間違いなのだけど。存在してます)が仄めかされ、そして、特筆すべきは「近畿の天皇」とされる人物の記述が「むちゃ・ワイドショー的」なのね。「下世話なこと」大変多いです。新・列島王者としてはかなり「その品格」にかける。
さらにもっと大事なことは、その系譜が「明らかに」途絶えているという事実である。それは6世紀初めの「武烈〜継体」の血の「明らかな断絶」なのね。
ここ、詳しく行っとこか。「記」において(読んだらわかるよ)武烈という天皇はもう悪逆非道の天皇として描かれている。
「妊婦の腹裂いて喜んだ」「人を高い木に登らせて矢を射って楽しんだ」「池に人を泳がせ狭い出口のところで上から剣で刺して嬉しがった」
ひどいですね。で「記」はこう続ける。こんな困ったちゃんで子どもいないから、「若狭」にいた「応神天皇の『6代』孫」を擁立した・と。
おいおい、待てよ。そういうの「血が繋がってる」とは言わんでしょ。「人類皆兄弟」かよ。笹川先生かよ。
早い話「馬の骨」である。「どイナカもん」でいいと思うよ。
で、その「オホド王(=継体ね)」は奈良に入るまでなんと『20年』かかってるのね。何を意味するか?
奈良において、しっちゃかめっちゃかな内戦が起こっていたわけよ。幾つ勢力があったかは記には書いてないが、そのお互いがというか色々が疲弊したところを(20年待って)やっと入れて制圧したわけだよ。で、そこの大王となった。
こやつは「田舎もん」だから、それまでの九州の系譜からも自由で(な〜にが万世一系だよ・バーカ・バーカ)、どえらいことをやっちゃう。
ちょっと飛ぶけど・戻るからね。
山川の教科書に載ってる「磐井の乱」ってありますね。磐井は通説でいうなら逆に「反逆者」であることにされてるが、みなさんお利口さんだと思う。もうお分かりだろうと思うが、磐井こそ「倭国の天子」な訳です。で、その倭国の天子を「斬っちゃった」。イナカモンってや〜ね。身の程知らずにもほどがあるってことなのだけど。それは九州王朝とは血が繋がってないからこその蛮行であるのね。
しかし、この愚行は九州を「ほんと」に怒らせてしまい、近畿は九州から「攻められる」ことになる。ここ、「記紀」には書かれてません。あったりまえ・か。ひどい目に遭う。さらにはその後、お目付役まで送られる。それが、記紀に「突然」登場する『蘇我氏』である。九州王朝の財務官僚です。
磐井の乱(実は継体の乱)が528年、中大兄とアナザー馬の骨・鎌足による乙巳のクーデターが645年。そこから100年以上にわたり、近畿は九州の監視下におかれる。645は近畿の「ルサンチマン」ゆえ・ってことね。
戻ります。ちょっと怖いことがある。ということは継体以前は九州とも・ということは「邇邇芸」ともまあ理論上「天照」とも血の繋がりがあった「いわゆる近畿天皇家」はここにおいて「馬の骨の子孫」となったということなのだよ。「万世一系?バーカ」であるにとどまらず、現代の皇室にも繋がる話よね。こっから先は「怖すぎ」ね。虎之介くんの話をいうならさらに「どっひゃ〜」だからもうやめときますけど。
大きく飛んでいるから大きく戻るんだけど、記紀の話。
「記」がそんなワイドショーネタみたいな品に欠ける話やnaive話しか載ってなけりゃ、列島の新王者としては、これは唐にも見せなきゃあかんし、「うーん・困った」と近畿は思ってたのね。だから30年もかけて編纂したのだけど「封印」せざるを得なかった。そんな時、元明の時であるが、九州王朝の逃げてる人が諦めて投降してきたわけよ。軍器・兵器だけじゃなく、そこには「書物」があった。そして、当然九州は「文字」に関しても近畿のクソど田舎と比べ、一日の長があった。何と言っても。卑弥呼(ヒミカ・よん)が文字を読めたのだ。3世紀に既に。
その書物の中には「歴史書」があった。そして歴史官僚までもいた。近畿の歴史書編纂担当者は「小躍りして」喜んだに違いない。で、九州王朝の歴史官僚の「横について」『記』の固有名詞を「歴史書」の主語に替え、『紀』用に付け替えるという「偽書」の編纂をさせた。逆らって斬られた誇り高い歴史官僚もいただろうね。しかし、そのうちの何人かの協力があったからこそ、「紀」は完成した。
しかし、今でも「目の曇った」人・いっぱいいるし、「バイブル化」してしまってさわれない人も多かろうと思うが、上記のような成り立ちを知る者にとっては「ツッコミどころ満載」の『お笑い偽史』なのね。「なんで、神功皇后が卑弥呼と壱与の二人分の役割になってんの?」とか、例えば。1300年・騙され続けてますよ・(おれも含めた)あなたたち。
で、今日のテーマはこれからなんだけど、それは「同族間の権力委譲という『曖昧さ』を最大限利用しつつ、のちに『万世一系』の天皇制というコンセプトが生まれていく」そしてそのための「新しい神」を作り出す必要・ということなのだ。
ズバリ結論を言うなら「伊勢神宮」と「アマテラス」のセットはこの時・生まれた。by whom?
「持統と不比等」によって。もっと色々いそうな気がするが。
九州王朝の「神」は誰だったのか?九州時代から「アマテラス」が主神であったとするなら九州にその神社はあるか?
答えは『non』。これは何を意味するか?九州王朝の主神はアマテラスではなかった・と言うことである。
伊勢神宮を「創り出す」ことで、近畿天皇家は「アマテラス」の存在で九州王朝の実権のみならず、その信仰までも「覆い隠して」しまった・と言うことね。
天武が死んで20年後に近畿王朝初めての「大嘗祭」が執り行われる。事実であるなら690年のこと。持統が行った、とされている。701には近畿にやっと「大宝律令」ができる。九州に遅れること200年。身に余る「権力」を手に入れて、こわごわ「九州の天子」を模倣する近畿の人々の姿をおれは幻視する。尤も、九州王朝の大皇弟・天武の息子の高市(天皇、なぜかと言うとその息子長屋王は長屋『親王』であるから)が当事者であるなら、十分堂に入っていたかもしれない。ここらの実権の委譲期の『紀』の記述は『全く』信用ならない。そして紀も持統で終わっているのである。
伊勢神宮はアマテラスとともに、近畿王家が「創り出した」もっと言うと「万世一系」の嘘の根拠として「捏造」した「fake shrine」とも言える。それは「紀」の嘘と対をなす。
外宮には豊受大神(ごはんの神)・内宮にアマテラス。どちらも女神。不自然だね。
2019年11月05日
銅鐸の民と古墳(その1)
新たに加わった検定テストには議員がついてるのよと田崎史郎が言っていた。このオヤジ、時々正直に「吐く」。あとでpmに怒られそうだけど。でも、ほんとのこと言いよった。
benesseは「岡山」の福武書店だったのだが、おれも問題集でお世話になってた・かつて。それがbenesseになった頃から、あっち側行っちゃったのね。行ったらもう帰ってこれんからね。
岡山かあ。岡山朝日の同級生いたな。何かしら・県民性、ある/あった。「おえりゃあせんのう」という伝説的ギャグはまあ好きだったな。長門勇先生だったね。
かつての吉備であるね。大和と親和性あったね。古墳も大山古墳クラスのが2つある。造山古墳に作山古墳(どちらもつくりやま古墳と読みます)。
古墳のある地域と「被差別部落の存在」には連関があるよ。意味もなく馬鹿でかい古墳を作ることには「意味がない」という意味がある。
天皇の墓・などと寝言言ってる地元民いらっしゃるが、寝言は寝ていえ、なのだけど、なんでかと言うと、まず「天皇おらん」からね。何で宮内庁が「掘らせないか」よく訊いて見たらいいのでは。「何も出てこないから」が答です。あのね、天皇の墓なら「三種の神器」必ず、一緒に埋葬されてるのでは?
だから、掘ってみてよ。掘ったらわかるよ。
大王(おおきみ)の墓の可能性はある。だが「地方豪族」は「三種の神器」など持ち得ない。当然の話である。しかし、墓を作る・が目的ではないのね。古墳を作った目的は;
「古墳を作ること」
何やそれ?
そのように思われた方だらけだと思うが、そうなのだからしょうがない。
古墳を作らせた勢力は「天孫系」。九州王朝から別れてやってきた。「神武の子孫」でいい。では古墳築造をさせられた人々とは;
銅鐸の民です。銅鐸一族の有名人、挙げてみようか:
『スサノオ』『オオクニヌシ』『ニギハヤヒ』『タケハニヤス』
彼らは大陸系の(半島系ではなく)人々。中国史書(漢書地理志)には『東鯷国』と記されている。卑弥呼(ヒミカです)と仲の悪かった「卑弥狗呼」の「狗奴國」とも言われる。今銅鐸が発掘される地域を「治めていた」。彼らの前の列島には、いわゆる「縄文人」がいた。その人たちを征服した銅鐸の民、その銅鐸の民を征服した(このことは記紀に記述がある。崇神時代の四道将軍)のが天孫族(神武の子孫)。前記のタケハニヤスは近畿王家の遠い親戚みたいに記紀には記されているが、銅鐸の民の、今で言う京阪沿線沿いの大王(おおきみ)の一人である。木津川での戦いにおいて、無茶苦茶にやられて、川がタケハニヤス側の兵士がズタズタに切り裂かれて「ウンコまみれ」になったことからウンコ→クソ→クズハ→樟葉・との「地名説話」もあったりする。
そういう、橿原から出て周囲を征服した天孫族に被征服民たちはどうされたんでしょうね?
古代における・人権などというような概念の一切ない・アジアのしかも極東での支配/被支配の姿を思うとき、おれたちは現在のおれたちの置かれている社会的環境を「全てごあさん」にしないといけない。そこにあるのは100%の権力を持った支配者と0%の権力を持つ「奴隷」だけである。
では奴隷たちをどう「飼え」ばいい?
殺してしまえば元も子もないんだけど、しっかり食料与えて元気はつらつ・では、いつ寝首を掻かれるかわかんない。
そこで始められた事業・というのが「土木工事」。体力・気力ともに消耗させつつ、でも死なせてはいけない。奴隷の「再生産」も大事。
一方で、支配とは現実的なことだけではない。「神」もまた天孫族のそれを信じさせる必要性がある。卑弥呼でよく知られる「鏡の儀式」はより高いところで行われる方がより効果的である。前方後円墳の方墳部分の盛り上がりはまさしくその場所のことなのだけど、最初はその儀式のためのものだった。
古墳構築は奴隷たちを男女問わず連れてきて、主に労働は男のものだったが、女たちもその周囲に住まわせ、土木作業に酷使し、一元管理するための非常に効率的なシステムだったのね。さっきも言ったが「再生産」も必要だったのね。だから男女ともに「そこ」にいた。では「そこ」ってどこ?
古墳周辺の今では水が溜まってる「環濠部分」です。環濠部分からは「生活土器」がいっぱい出てくるよ。銅鐸の民は「現場」に住まわさせられていたのね。
何とまあ「cleverな天孫族」。
記紀に見える、崇神時代の「民がアマテラスを拒否して大汝持=大物主=オオクニヌシじゃないと」と反乱を起こし、「オオタタネコ」を探しに行って大汝持を祀ったならば収まった、という説話は、奴隷制度初期の混乱とその収拾を表してるよね。
古墳が「無駄に大きく」なってくるというのは、天孫族の支配地域が増える=奴隷の数が増える・ということを意味する。後半には政権の中枢からは遠い「河内平野」へ移ってくるわけですが、そこに政権も移ってきたというわけではない。ただし、意味もないものを作るわけだから、相手にとって意味のある場所が効果的よね。かつて神武が長髄彦に敗れた河内そしてそこは銅鐸の国の中心部、摂津にも隣接しているのだった。
しかし南大阪の特段に著しい「部落」の問題の根源はそこにある・とおれは思ってる。そう考えると心が揺れますね。
さらに古墳で盛り上がっているのも別に構わんが、率直に言って、アホちゃう・とおれは思う。そんなものを造る意図・そしてそんなものを造るのに費やされた人的資源と支配の様相を考えるに。まあここ・現代からの逆照射なんですけどね。
彼らはあの「窪んだ現場」に住んでたのね。
2019年06月28日
ドサクサ紛れにウソをいう
2019年04月19日
アマテラス
2019年04月13日
アマタリシホコに会いにいく
2019年04月07日
玄界灘を渡って(第2部)
2019年04月05日
挑発
2019年04月03日
お万葉集、突然の注目
2019年04月01日
玄界灘を渡って(第1部)
2019年03月03日
元号ね
2019年02月07日
ばかNHKが
2019年01月18日
元号ねえ
2018年12月24日
年号を
フランスで言うなら、我らがpmとやってることは変わらない。どちらかといえばmilderだと言えよう。国民性。近代における。あの黄色のベスト運動は、だがあっちこっちに飛び火してる。なんとEUないだけじゃなく「イスラエル」にまで!フランス、一説によると軍の将軍たちがマクロンに中指立てている、といった話まで伝わってきてる。分かりやすい、お金持ちの味方。こちらはもっと露骨なんだけどね。視界を閉じて内へ向かう、そんな生来の性質に助けられてるねpm。だから「自殺」が多いのね。これ、ある種の「癖=へき」だけど、それ、農耕民族だからなんだろうか?よくわからない。
まあいろいろ想像してちょーだい。
2018年12月16日
四隅突出型墳を求めて
2018年12月04日
あおによし
つまり大嘗祭に参加した人たちにご褒美をやったという記事がある。これが明確に『日本書紀』に「大嘗」という言葉が出てくる最初なんですね。明確に出てくるのは天武天皇。ところが天武天皇のところには明確とはいっても、大嘗祭をやったという記事がない。大嘗祭に参加した人に褒美をやったという記事だけである。変ですよね。
大嘗祭をやらないのに参加した人に褒美をやるってことはあり得ないんです。これは非常に「?」つきなんです。「?」がつかないのが持統で、
「十一月の戊辰に、大嘗(おおにへ)す。神祇伯中臣朝臣大嶋、天神寿詞を読む」。
そんな超大事な儀式を天武のところで「やった」とは書かずに(しかも初のこと)流すって、ね。
新しい儀式だったってことね。「彼ら」にとってはね。もっと言うなら、どこか由緒正しい人々の「真似」をしてみた、ということ。
彼ら、が誰で、由緒、、、、が誰でというのはよくここで言ってる。聡明なみなさまはお分かりだと思うから、そこを踏まえて先へ進むが、明治からww2までの「記憶」しかない現代人の、その中にはpre-warにノスタルジアな人々も一定数いる中で、大嘗祭が「やんのは当たり前」という論調で話は進んでいくみたいだけれど、その「正統性」も含めてよーっく考えるいい機会のためのボールを秋篠宮が投げたような気がする。彼のアタマの中には、これは現皇室のコンセンサスだと思うが、やはり自分たちの政治性を(非政治的であらねばならないことも含めて)狡猾に利用しようとする勢力(ことあるごとに天皇陛下ばんざーい!」を狙ってる人達いるし、それは最近もあった)に対する牽制というよりも反論という気がするのね。
本日言えることはその大嘗祭とは「現皇室」の発明でもなんでもなく、それは由緒正しい勢力からのパクリであって、その由緒正しい勢力の神はアマテラスではなく「天神」であったということ。天神様の天神。今は菅原道真がいてなんかようわからんと思うが、違う。北野天満宮、大阪天満宮、太宰府、すべて元は天神を祀る神社である。
太宰府は「遠の朝廷」。近畿のど田舎もんは憧れを込めてそう呼んでいた。
「あおによし 奈良の都は 咲く花の 薫うがごとく 今盛りなり」
この歌はどこで詠まれたか?@奈良、で疑いようがないと思う方1億人以上いらっしゃると思うが、間違い。@九州です。
えええ、、、という声が聞こえてきそうだが続きは「また来週」。書く気になれば。
2018年03月13日
官僚たちの抵抗
2017年11月03日
宗像・沖津島
2017年09月21日
8世紀の、、
2017年05月02日
出雲と銅鐸の国
2016年07月20日
ニアリィ猛暑日やんか
2016年06月30日
聖徳は消えてるけど
2016年06月19日
須玖岡本遺跡より
2015年10月16日
本当の「巨星」が…
2015年10月07日
白村江の「真実」
2015年09月28日
名月から過去を思う
2015年07月26日
天神って
蝉が鳴き出したね。夏本番。
2015年07月20日
休みでしあわせ
ちょっと飛ぶけど、天武のヨメの讚良(イコール持統天皇)がしょっちゅう行ってた吉野、とは奈良の吉野ではないから。あんなとこいつも行くとこじゃない。吉野ヶ里の吉野ね、有明海に面した「軍港」があった。そして、史実の天武(壬申の乱の)がいった吉野もまたその地であり、では誰に会いに行ったのか?それは(1)カクムソウ(2)薩夜麻のどちらかであるのは間違いなくそこで壬申の乱の大義名分を得たわけよね。
2015年05月24日
銅鐸のことから
2015年03月29日
都府楼にて
2015年01月11日
新春特別
2014年07月30日
土用の丑の日
で、どうするかですが、商品券で阪急で鰻を買ってくる。網で酒を振りつつゆっくり焼く。すると、あのフワフワが戻ってきます。今回は上半身・下半身のお代わりで。胡瓜と茗荷はあらかじめ準備しとけばいいのね。
冷凍庫で直前にキンキンに冷やした三千盛で上半身、シャルドネで下半身。
十三で買ってきた「栄養豆腐」と長崎から送ってきたかまぼこで晩餐だった。とっても幸せ。
そういえば永井が浜松の白焼きお土産にくれていた。これもシャブリなどと食えばかなり「いい」のでは。そのうち。真空パックっだったので。
本日も暑いね。暑いねというか熱いね。アッチッチ・ですよね。夏の外仕事は毎回大和川を越える。かつての奈良への重要な水路である。要人は大和川を遡って大和へ入ってた。
突然飛びますが、馬場町の難波宮跡、あれさあ、大化の改新というかその後に孝徳が遷宮したということになってるが、ウソですね。
あれは、九州王朝の出先機関というか「副都」なんですね。孝徳がいたのは「豊崎長柄難波宮」というところです。そこで「ん?」と思う。
豊崎?長柄?むっちゃご近所やん。今の豊崎神社でした。当時は湿地帯。。BAYOUみたいな。
上町台地の、日没を余裕持って眺められるロケーションとは似ても似つかぬ、地べた近くにいざるを得なかった近畿の人たち。その末裔が今の天皇家ということになる。大化の改新が645ってのも、うそ。なんにも政治的な改革はそこでは行われていないし、蘇我入鹿と言われてる人が殺されたクーデターも696である。
聖徳太子や大化の改新が消えていく一方で、最近の日本史の教科書・山川であっても倭の五王の武が雄略である・なんちゃって、冗談も顔だけにしてね・だし、邪馬台国が奈良説と学校の先生が「おれはそう思う」だって。ほんとに「冗談はよせ」である。山川の教科書をしっかり覚えることが入試に繋がるとしても、それは「通説」であって、多くを日本書紀に依拠し、その日本書紀という「正史」の成り立ちがかなりイカサマまみれであるといった事実から目を背けてはいかんのではないのかなあ。ウソにまみれて1300年。しかし1300年は「かなり」重たい。そこを教師たるもの、「うう、うう」と口ごもりながら一応こうなってるのだけど、理屈によりハマるこんな説もありますが、、ハイあとは自分で考える〜ぐらいのことは言っても良いのでは。
6〜7世紀のことで言えば、充分強大にはなってはいたが、天子はもちろん天皇さえもいない近畿は「やはり一豪族」というのが一番正鵠を射るのではないか。
カムヤマトイワレヒコ、神武のことだが、その中の「ヒコ」、これは「長官」という意味である。天皇が長官ではどうだろう。そして長官って任命「される」ものじゃないの?ここに近畿の出自が集約されています。近畿にはその時「銅鐸の国」があった。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒの造ったおそらく銅鐸=鈴を祭祀のアイテムとするほどであるから、平和的な国であったことが容易に想像できる。そこに侵入したのが神武たち。西中島南方の南方は神武たちが最初の突入に敗れて敗走した狭い水路のことである。当時は河内湖ではなく河内湾。そこだけ狭く空いてたのね。
で、銅鐸の存在は確認されてるし、教科書にも載っている。ところが正史・日本書紀には「一言も」現れない。現天皇家の祖先とはまったく異なる勢力がかなり広い範囲を治めていた、という「簡単な」証拠である。実はその銅鐸国家の中心地は茨木市である。東奈良ね。ニギハヤヒの国。
そう考えると、大阪は実は京都よりも「古い」町ということになってきます。京都なんて当時は竹藪です。太宰府が首都であるとするなら副都は上町。悪くないぞ、と思うね。奈良よりも古いといってもいい。大阪の概念、変わるね。今の大阪の概念がいびつなのでは?真の歴史を見なかったらそうなるが、もうちょっと考えてもいいのでは。
2013年09月29日
9月も終わるね
古代の天皇の年、90歳とか平気である。それを見て、だから史書はうそだらけと思われるかもしれないが、ちょ・待って、と言いたい。うそはある。あるのだが、そこじゃないです。うそは神功皇后とか景行天皇とか。
じゃあ90歳までほんまに生きたのか?と訊かれれば、うん生きた、と答える。
年の数え方が違ったのだ。古代の倭において、年は春と秋に一つずつ取っていったのだ。それが二倍年暦です。
で天皇の年が上のようになる。中国にはもっとすごい「年」がある。900歳とか1500歳とかだ。なんじゃそれ・でしょう。
おれたちは、あまりに今のシステムを遠い過去から「あったりまえ」と思いがちだが、そんなことはないわけで。「明治」から無理に始めたものを「伝統」と勘違いしてること、あまりに多し・なのね。
さきほどのすんごい「年」とは月の満ち欠けを一歳と、満ち・欠けをそれぞれ一歳と考えることで積み重なった年齢。「十二倍年暦」「二十四倍年暦」といいます。
そんな風に、時間の流れにはどこかで区切りをつけないことにはいかんわけね。ただ、その時間を誰が支配するか・ってことがポイントでね。わかりやすいところでいうならそれが「年号」ということだけど。
大化から年号が始まったことになってるが、ハイ・うそー。大化の改新さえ事実かどうか・だ。クーデターはあった。
その7世紀、謎だらけ。激しく列島が「動いた」時期である。「日本」が出現したのも7世紀だ。日本の後ろ盾は「唐」なのだ。それは白村江の戦後の話だけど。意外な話ですけどね。
そこら辺の「紀」はもう面白いほどの「ウソ」だらけで、自前の史書がないものだから他人の「歴史をパクるパクる」。そんなものを「ベース」に国のことを考えてるとしたら、そっち方面の方々、それ問題だよん。
さて、明日から「通常の」生活が始まる。ということは、昨日までは「通常」じゃなかったわけだ。内外合わせると受験生・総勢25名。しまっていかないと。
2013年07月27日
教科書もー
ウソを事実として教えなきゃいかんのが・だ。
これまでは中学校では入ってなかった<倭の五王>の<武>を雄略と、あ〜あ・言い切りよった。さる・め。
稲荷山古墳から出土した鉄剣に書かれていた金文字<獲加多支占(占の口の中に九が入る)>をワカタケルと読み雄略に結びつけ、関東もそして当然九州も大和王権の支配が及んでいたとする。それを中学生に信じさせるのはあかん。
支占(占の口の中に九が入る)・をケルってどうひっくりがえったら読めるのか?
嘘はもっとある。一番わかりやすいのは、聖徳太子のウソ。厩戸皇子というのはいた。
近畿王朝の遣隋使のウソ。隋には行っていない。唐です。
遣隋使は<アマタリシホコ>=九州王朝の天皇である。日出ずる国の天子。対等を謳ったのもアマタリシヒコ。その理由も簡単なのであって、倭国(九州王朝)が延々朝貢していた中国の南朝は<北狄の隋>に滅ぼされてしまったからだ。東夷であった倭国と北狄であった隋とはまさに<同等>。それである。<海東の菩薩天子=タリシホコから海西の菩薩天子=煬帝へ>それが成り立つ。すなわち仏教の伝来も538でも552でもなくもっと古い。道後温泉へ行ったのもタリシホコ。九州から道後は目と鼻の先だ。太陽の光、豊かな湯は分け隔てなく全ての人々に与えられる・と言ったのもタリシホコ。深く仏教に傾倒した王の思慮が窺える。
もっとある。近畿に多い巨大古墳。なんのため?という質問が出る。優等生の回答は<王の威厳と支配の確認>ということになる。まあ、それでいいのだが、ではその支配の及ぶ範囲とは?
西は今の岡山県ぐらいまで。そして岡山にも大仙古墳に負けない大きさの作山古墳・造山古墳がある。
実は当時の中国・半島においても、古墳のような巨大建造物作るのはバカげてるということになっていた。それを知らなかったんだね、近畿王朝は。なぜか?<付き合いがないからね>中国や半島の国国とね。
九州王朝である倭国は当時、好太王の高句麗との戦闘に明け暮れていた。倭国の領域は半島の南・かなりの部分まで及んでいた。高句麗と<直接>戦闘するほどである。新羅の史書に<倭兵がしょっちゅう国境を侵して困る>と書かれてある。
近畿王朝がそんな巨大古墳作れたのは<内向き>にやってたからなのね。その労働力になったのは、神武が侵攻してくる前にあったニギハヤヒの銅鐸国家の民だった。墓を作る・作らせるなんてことは<宗教儀礼>の変更でもあり、一番・支配者が代わったことを身に沁みて感じさせるにもってこいだしね。
どんどん脱線していくが、天照大神は九州王朝の神で、大国主命は出雲の支配者で天照大神に国譲りを強要されるわけだが、その天照大神の傍流も傍流というのが神武なわけです。その神武が九州や四国・そして吉備のパトロンたちをバックに内部に入り込んだ国が<銅鐸の国>。奈良は米どころでもあるしね。
その銅鐸の国は<優しい国>だったと思います。なぜなら、祭祀のアイテムが銅鐸=鈴だからね。九州王朝は矛と戈、神武たちは剣。
銅鐸の国の神は大神神社のいわゆる大物主神と言われてる神。イコール大国主命と言われている。神武たちはオノレの正統性を九州王朝と同じ神を祀るということに求めていた(それは<ウソ>ではない)わけで、征服した神の扱いは最初はひどかったはずである。非征服者に身に沁みてわからせるためにね。しかし崇神天皇の時代に疫病が流行り非征服者たちの不満を解消するために大神神社の神を祀り出した。そのときに<習合>させられたのが大国主命だった。神々習合。天照大神の下のNO.2というわけ。
そして、やはりどうしても見過ごせないのは<金印>だ。
漢委奴国王だね。銅印とかじゃなくて金印ですよ。金印の意味は、周辺の中でのいわゆるフランチャイズの資格を与えること・それもかなり高い資格ね。その対象がなんで倭の中の小国の奴国王なん?
もう一つ。いや二つ。与える国=漢と与えられる国は<一つずつ>書かれてあるのが常である。そして、北狄の<匈奴>に対する<委奴>である。匈奴の匈はヤンキー・それに対して委奴の委はおとなしいの意味だからね。
漢の王が委奴・つまり委=倭の王に与えた金印である。かん・いどこくおう、と読むべきでしょうね。奴とは中華思想に於いては周辺国はすべて<奴>なのね。
それが志賀島で見つかったというのも意味は簡単である。志賀島は九州王朝の所謂・ハレの祭の場だったからである。海人族としての。それに対して、根の国とは糸島半島である。王の墓だらけ。志賀島において王の船による千代海岸からの到来を愛でる歌こそが<君が代>だったりする。それが近畿王朝の末裔の王族のための・そして国民のための<国歌>としてあり、揉め事のmediumとなってることもかなりの皮肉と言うなら皮肉。しかし、ここ三重ぐらいに<ねじれ>てますからね。
2013年06月25日
ウソにやられない
市長・前知事のブームが終わるのは<めでたし>。だが、積極的に支持するものがないままに安倍ちゃん放置でいいのかっつうと<そうじゃないでしょ>、しかし・そのう、投票へのヤル気というと、<ほとんどなし>が正直なとこ。
うーん、もうっ!だなあ。
あのね、もう先端が先端ではなく、おれなどには、つまり<旧い意匠>をまとったものが先端として取り扱われるのを見るのにも倦んじゃってる者としては、なんかね<楽>なものがいいんだね。
<右翼>は楽じゃない。いつも高揚してたり、仮想敵さがしてたり、あのヘイト・スピーチ・デモの、、、、、、、ぶっころせー、の楽じゃなさ、おえ〜・である。ヨーロッパのNF(FN)/などに<学んでる>のだろうけど、<ひまか>キミらは、と言いたい。よくあんな<カッコわりいこと>できるよな。最大のカッコ悪さ、なのだと思うが、あいつらはあの後、居酒屋で<打ち上げ>などするのだろうか?おれは<してるような気>がする。さらにキモ・だ。そしてその半分くらいは互いに面識がないまま、、、、、、、ぶっころせー、なんて言ってる間に友達になったりして。おえ〜、おえ〜、である。もしそーなら。
まさにリビドーぱんぱんで体力あまってアタマだけ足りないから、そんなやつそんな世代にはそれでいいのかもしれないが、きみらが信じてる・というか信じてるふりしてるだけかもしらんが、日本という国の幻想の罪は重いな。
明治の国家神道の罪の重さ。廃仏毀釈だけじゃなく廃神毀釈も同時になされ、神社の統廃合が進み、それに抵抗したのは南方熊楠だけだったという情けなさ。今、会津の話、nhkでやってるが、<錦の御旗>もでっちあげたらよろしいがな、と言う岩倉具視がいたりする。
たちの悪い右翼は、まさに明治の日本に戻したいわけでさ。そこ<一神教>よ。砂漠の宗教と同様の信仰が、このじっとりねとねとな気候の・別の言い方をするなら放っておけば何かが<生えてくる>豊潤な土地にフィットするわけがない。
その根拠<みたい>になってることはもうええ加減なことだらけ。明治の体制から<逆算>したようなものだらけ、だ。これ、今年の変更された教科書に載ってておれは脱力したのであるが、<ワカタケルを倭の五王の武>に比定するのも<逆算>だったりする。<大化の改新>というキャッチコピーは<明治維新>という言葉の成立の根拠としてでっち上げられた。乙巳のクーデターはあったが、その後の律令制へと向かう政治改革が本当にあったのかは<?>。蘇我氏の正体も謎に満ちている。そんだけボロクソにいうって事は実は、、、、蘇我はおそらく藤原以上に高貴だったことが考えられる。さらに、これだけみなさんご存知の<銅鐸>は記紀に<一言も>出てはこない。それはこれだけの銅鐸の分布から考えて大和政権以前の広範囲の政治勢力の存在を確定するものだし、現にあったのだ。アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト、の国である。サヌ(・神武)によって内部に入り込まれ崇神によって滅ぼされた・銅鐸を祭祀の具として使う国である。ナガスネヒコ、土蜘蛛の名の表すコノテーションからは、<縄文>の香りが強烈に立ち上がっている。
ここでみなさん、よく考えてみよう。祭祀の具は、<銅剣・銅矛>へと移り変わっていくことをご承知だろうか?剣も矛も<武器>である。翻って銅鐸は鈴である。カウベルみたいな。それがなぜかどんどん巨大化してくるのは知ってるでしょう。ニギハヤヒの国は、相対的に好戦的な国ではなかったことが考えられる。
津田左右吉によってその存在を否定されたいわゆる<欠史八代>。その時代はまだ弥生。その墓はだから樫原内部に収まりショボくして存在する。前方後円墳などはまだ存在しない。巨大な墓の不在を持って欠史とはおかしい。だから、存在した。ただし、崇神に至る時代においては、銅鐸の国に取り囲まれ、身動き取れない状態が続きます。武器もない。だからそこにあった銅鐸を潰す。そして剣をつくる。蛇足であるけど、その銅鐸の国の<首都>はどこだったのか?それは銅鐸の鋳型がもっとも出土する茨木市です。南茨木ね。
ん?チミは皇室の歴史の確定に貢献しようとしてるのかい?そんなお便りきました、今。
いや、明治からの逆算で成り立つ歴史は<そっちの都合>だけで正誤ないまぜになっとるからねえ、あるパートを見たら、右の方々喜ぶ・も入ってるかと思う。でもそれは些細なことよ。
今思ったけれど<遡り日本史>というnhkの番組、もう終わったんだけど、いい考えだね、遡るってのはね。結果があってその原因を探って行く。うーん、<悪くない>。そう思いました。古代はまるでダメでしたが。
明治から逆算とはまあ、日本書紀・マンセーとほぼ<同義>だと思うが、古事記のまだましさ・と比べて、<紀>の記述はパクリだらけであって、じゃ、何からのパクリ?と思うよね。
それは<日本旧記>という歴史書です。そんなん聞いた事ないし、でしょう。しかし日本書紀をよく見ると、一書に曰く、が大方ながらある箇所に<日本旧記に曰く>とある。思わず正直にポロリと、そんな感じです。
ほんと日本書紀はウソだらけ。仲哀期なんて笑うよ。卑弥呼と壹与がやったことを神功皇后の業績として無理やり捻じ込んでるしね。むちゃくちゃ。だから彼らは魏志倭人伝を読んでいたわけね。
ではそんなウソを大量にどうしてでっち上げないといかんのか?それが天皇家が<天皇ではなかった>ことを一気に払拭するためだからよん。
本日、ここまで。
みなさまに色々、ご心配おかけしたかもしれません。
店長、明日一応退院の運びとなりました。懸案事項は幾つか残ってますが。お見舞い、激励の言葉等、感謝しております。とりあえず元気になって、スリムになったあおみちゃんに会いにレオンジーニョの方へ足を運んでね。以上。御礼まで。









